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婚約破棄も濡れ衣も、もう結構です。——ただし宰相閣下、貴家が伯爵位を賜ったと書かれたその一枚は、いつ漉かれた紙でしょうか  作者: 御茄子之与一


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番外編01 あなたの名の隣に、俺の名を書かせてくれ

インクが乾くまで、この一行を見ていた。


紙の上に、名が二つ並んでいる。片方は、見慣れた払いの型だ。


二年、記録の列の中で追ってきた字だった。


もう片方が、俺の名だ。


二日前まで、生まれて二十四年、どこにも書かれたことのなかった字だ。


頁の縁に置いた指の、すぐ隣にアニエスの指があった。爪の先に、まだ墨が残っている。


窓の光が、卓の端まで下りてきていた。


書庫の空気が、少しずつ冷えていく。この部屋の日の落ち方なら、よく知っている。三年、ここで数えてきた。


それでも今日は、別の部屋にいるようだった。


「……乾きました。もう、触れても滲みません」


アニエスが、そっと指を引いた。


頷く代わりに、別の言葉が先に出た。


「読んでくれ」


「読む、とは」


「その行を。……声に出して」


アニエスが、目を上げる。理由を訊かない目だった。


記録から自分の名が読まれるのを、俺は一度も聞いたことがない。


門の外で、他人の家名が読み上げられるのを聞いただけだ。一昨日の広間でも、俺の名は書かれただけだった。読まれては、いない。


アニエスが頁を両手で持ち上げ、息を一つ入れた。


「検める者、ジョスラン」


高い声ではなかった。それでも、書庫の隅まで届いた。


自分の名が、こんな音をしているとは知らなかった。


目を閉じる。まぶたの裏には、何も浮かばない。


音だけが、そこに残った。


「……もう一度」


「検める者、ジョスラン」


二度目のほうが、少しだけ柔らかい。


名というのは、呼ばれるためにあるのだと、初めて知った。書かれるためではない。


顔を上げると、アニエスが笑っていた。声を立てない笑い方だ。


四十一日のあいだに、幾度か見た顔だった。


「……何度でも、読みます」


「毎朝か」


「はい。よろしければ、毎朝」


要らない、と言うべきだった。言わなかった。



三年、この部屋で自分を探した。


生まれた記載も、母が職を下がった記載も、どこにもない。無いものを探し続けていたことになる。


代わりに見つけたのは、検めの署名の列だった。


どの綴りにも、末尾に二つの名が並んでいる。書いた者と、検めた者。


同じ型の払いが、何十年も途切れずに続いていた。


ドレーヌ、と読める字だ。はじめは角の立った、力の強い手。次に、細くて、震えを隠しきれない手。


二年前、その列に新しい払いが混ざった。


角がなく、震えもない。跳ねの深さだけが、前の二つと寸分違わなかった。


俺は、名前より先に、その払いを覚えた。


読み続ければ、家名と手は、いずれ結びつく。俺を消した筆がどの家のものかは、会う前に見当がついていた。


見当がついたうえで、あの人に頼んだ。そこだけは、いまでも卑怯だったと思っている。


四十一日前の朝、石段を下りてくる足音を聞いた。


降ろされた者の足取りではなかった。


一段ずつ、踏み面を確かめて下りる音だ。棚の陰から見ていた。見ているだけにしておけばよかった。


気づいたときには、頼んでいた。俺がいたことを書いてくれ、と。名乗りもせずに。


——書ける手が、そこにしかなかったからだ。


惹かれたのは、そのあとだ。


同じ日の仕事のさなか、丁付けの数が合わないというだけで、あの人は手を止めた。一葉足りません、と。誰も困らない一枚のために、眉を寄せていた。


——この人なら、無いものを、無いと書く。


そう思ったときには、もう遅い。


用があって声をかけ、それから、戻れなくなった。順が、逆だった。



日が落ちた。


アニエスが立って、燭台に火を入れる。手つきに迷いがない。


この四十日ほどで、書庫の油の在り処まで覚えてしまったらしい。


「今日は、これで帰ります。……明日から、棚の割り当てを決めなければなりませんので」


道具箱の留め金が、小さく鳴った。


その音を聞いた瞬間に、腕のほうが勝手に動いた。袖ではなく、手首を掴んでいた。


「……ジョスラン」


「——悪い」


指を離す。離してから、離したくなかったのだと気づいた。


「まだ、残っている。話が」


アニエスが、道具箱を卓へ戻した。


椅子を引いて、座り直す。待つ構えだった。


何から言えばいいのか分からず、古いものから順に並べた。


「今日まで黙っていたことを言う。……机の隅の油壺も、レンズも、俺だ」


「存じておりました。……ずいぶん、前から」


「門の外で荷を運べば、油の一壺くらいは回してくれる者がいた。名乗らずに置いた。……礼を言われたら、そこで終わる気がした」


持っていたのは、名前の要らない手だけだった。


だから、名前を出さずに置けるものだけを置いた。油と、レンズと、検分の夜に燭台を掲げる腕と。


見返りを求めなかったわけではない。求めていいものが、思いつかなかっただけだ。


「儀の日は、門の外にいた。石畳に腰を下ろして、影が伸びるのを数えていた。……三年、俺がこの国の外側でやってきたことと、同じだ。違ったのは、待つ相手がいたことだけだった」


アニエスの手が、膝の上で止まった。


「……存じませんでした。門の外に、いらしたとは」


「言うつもりもなかった。だが、扉が開いたとき、俺は自分の足で敷居を越えた。……越えられたのは、中で誰かが、俺の名を書いたからだ」


あの一歩の重さを、俺はたぶん、死ぬまで覚えている。


「もう一つある。三日前の昼のことだ。……宰相の紙を、光にかざした、あの日の」


「あの時、あなたは、偽の紙でも俺を残そうとした。俺は、要らないと言った。……あれは、本当だ」


言葉を選んだ。選んでも、うまくはならない。


「だが、言わなかったことが一つある。あの紙に俺の名が入っていたとしても、俺はこの部屋を出ていかなかった」


アニエスの目が、揺れた。


「嘘の上に立ったあなたを、俺は責められない。責めるどころか、そのまま隣にいた。……そっちのほうが、俺は怖い」


三年、記録の外にいた。


外にいるほうが、まだ楽だった。誰の隣にもいないことにできる。


「アニエスは、これから何十年もあの卓に向かうんだろう。……その隣に、俺以外の誰かが座るところを、俺は考えたくない」


一息に言った。言い終えてから、自分の声が低くなっていたと気づく。


「……いや。考えたくない、では足りないな。座らせるつもりが、ない」


言い過ぎた、とは思わなかった。


「重いか」


「……いいえ。重くは、ありません。ただ、驚いております」


アニエスが、首を横に振る。その動きで、火が少し揺れた。


「何にだ」


「あなたが、順を追って話してくださったことに。……いつも、行いのほうが先でしたから」


言われて、返す言葉がなかった。


だから、いちばん短いものを渡した。


「アニエス」


「好きだ」


アニエスの肩が、はっきりと動いた。


「四十一日前の朝、石段を下りてくる音を聞いた時ではない。……あの日、丁付けが合わないと言って、手が止まった。あの時から、もう戻れなくなっていた」


アニエスは、しばらく何も言わなかった。


燭台の火を見ている。逃げているのではないと、目の動かなさで分かった。


この人は、受け取る時ほど手続きが丁寧になる。


「……いま、しまっております」


「しまう」


「はい。落とさない場所へ」



「返事は、急がなくていい」


「……いいえ。申し上げます」


アニエスが、椅子から立った。卓を回って、こちらへ来る。


「わたしも、同じです」


短かった。この人らしい短さだった。


「……それだけか」


「はい。……あなたの言い方を、真似てみました」


「似ていたか」


「いいえ。……あなたのほうが、ずっと短くて、ずっと重うございます」


重い、と言われて悪い気がしないのは、生まれて初めてだった。


笑いそうになるのを、こらえた。


こらえきれずに、息だけが漏れる。


卓の隅に、白いままの頁が一枚だけ残っている。検証院の、二枚目だ。


そちらへ、手を伸ばした。


「今日まで、俺が言ってきたのは、書いてくれ、の一つだけだった。……今度は、俺が書く」


アニエスが、瞬きをした。


「何を、ですか」


「婚姻の記載だ」


火の音だけが、しばらく続いた。


「二人の名を、一つの行に並べるのだと聞いた。家名のない者がどう書かれるのかは、知らない。……院長どのに訊けば、書式は出てくるだろう」


「ジョスラン」


「アニエス。……あなたの名の隣に、俺の名を書かせてくれ。……字が下手だと言うなら、明日から直す」


返事は、すぐには来なかった。


代わりに、こちらの手を取られた。


四十一日前、この卓の上で触れ合いかけて、先に引かれた手だ。指が、俺の指の背をたどる。墨の跡を確かめるのと、同じ触り方だった。


「……その行は、二人で書きましょう。記す者が一人では、正本になりません。……検める者が、要ります」


思わず笑った。この人は、いつでも規則の側から情を渡してくる。


「では、記すのはアニエスで、俺が検める」


「いいえ。……今度は、あなたが記してください。わたしが、検めます」


「甘い払いは、通さないんだろう」


「はい。何度でも、書き直していただきます。……何十年でも」


その年数の数え方に、胸の奥をつかまれた。


この人は、先の長さを、期待でなく手続きの分量で口にする。だから、嘘にならない。


こわばっていたものが、ほどけた。


腕を伸ばして、引き寄せる。抵抗は、なかった。


外套の肩が、思っていたよりずっと薄い。この体で四十二日、あの広間まで歩いたのか。


「……ジョスラン」


「もう少しだけ、このままでいい」


髪から、墨と薬の匂いがした。三年、この部屋で嗅ぎ続けた匂いだ。


顔を離して、目を見る。逃げなかった。


近づいても、まだ逃げなかった。


唇が触れた。ひどく短い。それでも、書庫の冷たさが、一瞬で分からなくなった。


離れたあと、アニエスがうつむく。耳が、赤い。


肩に置いた手を、離さずにおいた。離せば、今日という日が記録の中へ引っ込んでしまう気がした。


「……もう一度、いいか」


「……手順が、ございます」


「手順」


「はい。……婚姻の記載には、先に届け出が要ります。順が、逆でございます」


「なら、書き直せ」


「書き直せません。……日付は、あとから直せませんので」


言い終えてから、自分の言葉に気づいたらしい。


アニエスが、口元を押さえた。俺も、たぶん笑っていた。



卓の上の第一葉は、もうすっかり乾いている。


三年、この部屋で自分の名を探していた。見つからないものを探すのは、退屈ではなかった。


待っていたのだと、いまなら分かる。


窓の外は、暗い。秋の夜は長い。燭台の油を、今日は切り詰めなくていい。


「昨日、ばあさまが申立ての束を、床へ置いた。あの音が、まだ耳に残っている」


「四十年ぶんの、重さでしたから。……家名を戻す手続きは、検証院の、初めの仕事にいたします。ノエルさんの手も、来月には戻るそうです」


その先を、この人はもう当たり前のように数えている。


「明日は、何刻からですか」


「……字の稽古だろう。決めてくれ」


「では、朝いちばんに。……払いから、まいります」


その言いようが可笑しくて、また笑った。三年ぶんの笑いを、今日で使い切ってしまいそうだ。


「その前に、名を読んでくれ。……毎朝だと言ったのは、アニエスのほうだ」


「はい。……毎朝、いちばん先に」


明日から、俺は自分の名を書く稽古をする。


書けるようになって、いちばん最初に書くものは、もう決まっている。


——アニエス・ドレーヌの、隣。


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