第024話 赦せるのは、人だけです
儀からふた晩を数えた朝、回廊は空いていた。一昨日、この石畳は人で埋まっていた。場所は、同じだ。違うのは、こちらの足の運びだけだ。
一昨日は、奉呈役として呼ばれた。今日は、裁かれる家の当主として、みずから出頭する。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。四十二日前、人けのない馬車寄せで聞いたのと、同じ音だ。
あのときは、切り捨てられて立っていた。今日は、自分の家を自分で閉じるために立っている。立ち方は、ここまで変わるものらしい。
大扉の脇で、ジョスランと目が合った。招かれた身ではない。だが、誰も咎めなかった。三年、記録の外にいた男が、一度この敷居を越えている。二度目に拒む理由は、どこにもない。
「行ってくる」
「知っている。……行ってこい」
「終わったら」
「——ここに、いる」
短いやり取りだけで、扉が開いた。振り返らずに、一歩を踏み出す。背中に注がれる視線だけで、十分だった。
広間へ続く廊下を、独りで歩く。あのときも、独りだった。差し伸べる手などないと思っていた。今日は、扉の外で待っている人がいる。
広間は、一昨日と同じ高い窓、同じ長机だった。ただ、卓の上には、もう証書の束はない。あるのは、真新しい一巻の書状だけだ。
国王レオポルドが、玉座から見下ろしていた。まず一度、こちらへ目を向ける。それだけで、広間の空気が静まった。
「陛下。ドレーヌ伯爵、参上いたしました」
一礼して、定めの位置に立つ。当主の列は、順が一つ繰り上がっていた。席が一つ消えたことは、誰の目にも留まらない。
監査院の列に、ファブリスの姿があった。彼が進み出て、書状を両手で捧げ持つ。
「王命により、これより四点、申し渡す」
声が、隅々まで届いた。
「一つ。ヴァルドー家の所領・爵位は、綴りから外れた文書に基づくものと認め、記録なしとして整理する。罰するのではない。もとより、その席に、誰もいなかったと定めるのみである」
覚えのある文言だった。一昨日、この広間で自分が思ったことと、そう遠くない。今日は、それが王命という形を得ている。
当主の姿は、もうどこにもない。列の先頭で、停職のままのセルジュが、ひとり目を伏せていた。
家の名が綴りから外れれば、その名で得た監査官の席も残らない。どの名簿にも、もうその席は載らない。次席の席も、同じ日に空いた。そちらは、席のほうが残る。入れ替わるのは、座る名だけだ。
セルジュが背負うものは、これから先も変わらないのだろう。
「二つ。ドレーヌ伯爵家、当主アニエスより申し出のあった爵位返上を、これを受理する。以後、ドレーヌの家名は、爵位を離れた記録官の家として存続する」
膝が、かすかに震えた。それでも、崩れはしなかった。
祖父から母へ、母から自分へ。三代、書かされてきた家が、今この一言で、爵位という重みだけを下ろす。罪までは、下ろせない。
それでいい。下ろさないものがあるから、この清算には意味がある。
「三つ。複数世代にわたる復元事業の記録を、あらためて検証する新しい部署を置く。名を、検証院とする。初代の任には——」
ファブリスの声が、一拍、間を置いた。
「アニエス・ドレーヌを充てる」
広間の目が、こちらに集まる。頭を下げる前に、一度だけ、遠く戸口のジョスランを見た。動かない目が、こちらを見返していた。
「四つ。ソレル家復元の追認。……これは、すでに昨日、文書院の名で受理済みにつき、王命はこれを追認するのみとする」
四十年、門前に並び続けた老女の顔が浮かんだ。今日この場にはいない。その受理は、もう昨日のうちに済んでいる。
利き手を傷めた老修復官も、来月には元の卓へ戻るという。
ファブリスが、書状を巻き戻す。
国王が、口を開いた。
「——よかろう。以上、王命とする」
短い一言だけで、玉座を立たれた。広間に、深い礼が広がる。
ファブリスが、卓の脇から小さな箱を運んでくる。蓋を開けると、見慣れない意匠の胸章が収まっていた。
「検証院の証にございます。記録官の胸章は、こちらでお預かりいたします」
一昨日、外套の上から着けてきた記録官の胸章を外す。四十二日前は、外せと言い渡されて外した。今日は、自分の手で外している。
新しい胸章を、襟へ留めた。記録官のものより、いくらか軽い。背負うものの重さとは、関係がなかった。
礼が解けたところで、ファブリスが、もう一言だけ付け足した。
「検証院の初代として、何か申し述べることはあるか」
想定していた問いだった。息を、一つ入れる。
燭台の灯りだけで文字を追う夜を、母は目がほとんど利かなくなるまで手放さなかった。あの晩年の手元を、自分はただ横で見ていた。
「はい。——検分は、必ず二段構えといたします。物そのものの観察と、誰でも確かめられる第二の記録と。片方だけでは、正本にいたしません」
広間が、静かに耳を傾けている。
「そして、複数の目で見ます。わたし一人の目に、頼ることはいたしません」
一拍、置いた。
「わたしの目は、いつまで保つか分かりません。ですから、わたしの目が要らない手順を作ります」
声にしてみると、思っていたより静かな一言だった。それでも、確かに口にできた。
「一人の目を、当てにする仕組みは終わりにいたします。読める者が一人しかいないから、六十二年、誰にも気づかれなかったのです」
「では、後進は。弟子は、取るのか」
ファブリスの問いに、迷わず答える。
「育てます。読み方を、家の内だけに閉じません。誰でも学べば、いずれ読めるようになります。……弟子は、家の外から、誰でも」
列の中で、院長が小さくうなずいた。その目に、かすかな安堵が浮かんでいた。
退出する列の途中で、その院長が、こちらへ歩み寄ってきた。
「検証院の名は、そなたが決めたのか」
「はい。……検める、という言葉から取りました。他には、思いつきませんでした」
「悪くない」
短い言葉だったが、確かな響きがあった。
「検めは、誰が担う。書く者と検める者を、また二つの家で分けるのか」
「対の検めを、そのまま使います。二名の記録官が、互いに検める。……六十二年、その規則が嘘のほうを支えてきました。規則は変えません。変えるのは、使う者のほうです」
院長が、わずかに目を細めた。
「部屋は、書庫を使わせていただきます。慣れておりますので」
「好きにするといい」
院長は、それだけ言うと、背を向けて広間を出ていった。
戸口で待っていたジョスランが、先に足を踏み出した。半歩だけ、こちらより前を歩く。
御前を退いたあと、文書院の修復室へ寄った。卓の上に、道具箱から出した母の帳面を置く。
削られた行の下から、五倍子で発色させた文字を読んだのは、十日あまり前になる。読み終えたまま、綴じは解いたままにしていた。最後の仕上げを、今日、済ませたかった。
母の声そのものは、もうろくに覚えていない。ただ、隣で幾度も言われた言葉だけは、今も鮮明だった。
「一字の狂いも、後の誰かを苦しめます」
その厳しさの奥に何があったのか、今なら分かる。
糊刷毛を手に取る。頁を揃え、順に重ねていく。指先は、もう震えていなかった。誰にも急かされない、静かな午後だった。
一枚、また一枚。母だけの字が並んでいる。境界の裁定に使われた、あの一枚と同じ文言。母がみずから削って隠した行を、今はただ読み返すだけでいい。もう、何を証すための頁でもない。
裏切ったのだと、恨む気にはもうなれない。隠しながら、書き遺した手だった。遺した時点で、この手は、まだ何かを信じていた。
綴じ糸を通す。指は、止まらずに動いていた。
「筆は、人を指しません。指すのは、いつも物のほうです。——けれど、物は赦しません。赦せるのは、人だけです」
言ってしまうと、胸の奥のこわばりが、少しだけ緩んだ。
母は、加担した人だった。同時に、書き続けることで抗った人でもあった。物は、そのどちらも同じ重さで記録するだけだ。赦すのは、記録の役目ではない。
最後の一結びをして、帳面を閉じる。表紙の革に、指の跡が残った。この帳面は、もう誰の罪の証拠でもない。ただの、母の遺した帳面に戻った。
書庫へ戻ると、棚の配置が変わっていた。埃をかぶっていた古い綴りの列が、半分ほど運び出されている。
降格の初日、この扉を押したときは、ただの物置にしか見えなかった。棚の陰に、人影がひとつ潜んでいたことも、まだ知らなかった。
ジョスランが、空いた棚の前に立っていた。
「院長どのに、言われた。ここの整理係のまま、新しい部署の——書役見習いにする、と」
「書役、ですか」
「字は書ける。……教わったからな」
軽口のような口ぶりだったが、目は、まっすぐこちらを見ていた。
「給金は」
「出る、と聞いた。三年ぶりに」
「では、油壺は、もうご自分で買えますね」
ジョスランが、初めて声を出して笑った。低く、短い笑いだった。何年も、聞いたことのない音だ。
疑いは、とうに解けている。それきり訊けずにいた問いが、口から出た。
「四十一日前、わたしを選んだのは、ドレーヌの娘だったからですか」
「違う。名を紙に残せる手が、ここにしかなかった。家のことは、その前から知っていた。知っていて、頼んだ。……二年黙っていたのは、ドレーヌの娘を庇うためじゃない。アニエスが困るのが、嫌だっただけだ」
返す言葉が、出てこなかった。
「……これからは、どこに住むのですか。書庫での寝泊まりは」
「終わりにする。さすがに、三年は長すぎた。……給金が出るなら、部屋くらいは借りられるだろう」
「では、どちらに」
「まだ、決めていない。……この近くが、いいとは思うが」
「近くが、いいです」
繰り返すと、彼が、小さく笑った。二度目の笑いだった。
「これから、ここで何を」
「棚の整理と、古い綴りの読み下し。それから——」
言葉を切って、こちらを見る。
「アニエスの下で、字を教わる。まだ、直したいところがあるらしいので」
「直したいところ、と言われましても」
「払いが、甘い。母上に、似てきている」
「……からかっているのですか」
「いや。褒めている」
軽口には聞こえない、まっすぐな声だった。悪い気はしなかった。
卓に、まだ何も書かれていない帳面が一冊、置かれている。検証院の、最初の一冊だ。
「ジョスラン」
名を呼ぶと、彼が、こちらへ向き直った。
名も席も持たないまま、この人は三年、ここにいた。名は、一昨日返した。返しきれていないものが、まだ一つある。
この先ずっと、隣に座って筆を執るための席だ。今日、ようやく渡せる形になった。
「あなたに、頼みがあります」
四十一日前、この部屋で最初に聞いた言葉と、同じ形をしている。今度は、こちらから差し出す番だった。
「頼み、とは」
「——わたしの隣で、検めてください。この先の、全部を」
ジョスランは、すぐには答えなかった。ただ、卓の帳面へ目を落とし、それから、こちらへ戻す。
「……ああ。書いてくれ。俺は、検める」
短い返事だった。それでも、この人らしい約束の仕方だと分かった。
隣に座る。筆を執る手が、かすかに冷たい。この卓で筆を執りはじめたころと、同じ冷たさだった。あのころと違うのは、隣にいる人が、もう見知らぬ相手ではないことだ。
「家名がない。……それで、俺の名は、書けるのか」
「はい。母君の名の下に生まれた、とすでに記されています。それだけで、じゅうぶんです」
「じゅうぶん、か。……まず、何と書く」
「院の名から。……検証院、第一葉」
ジョスランが、卓の隅で新しい墨を挽き、そっと寄せてくる。
墨を含ませ、筆先を整える。
「王暦四一二年、秋——」
日付を書き終え、筆を、次の行へ進める。
自分の名を書く。続けて、隣に手を添えたジョスランの名を、同じ行に並べて書いた。二日前、この国の記録にはじめて生まれたばかりの名だった。
払いの角度も、跳ねの深さも、母から教わった型のままだ。この一行だけは、誰の代わりでもない、自分の意志で書いた文字だった。
四十二日前、紙一枚に人生を狂わされた。今日、紙一枚に、人生を選び直した。
インクが乾くまで、二人でその頁を見つめていた。窓の外では、秋の陽が傾きはじめていた。
頁の縁に置いた指に、ジョスランの指が触れた。三年、名乗らずに与え続けた人の手は、もう何も隠していない。
検証院、第一葉。
——王暦四一二年、秋。記す者、アニエス・ドレーヌ。検める者、ジョスラン。




