第023話 増えた頁
儀の翌日。目覚めて最初に浮かんだのは、広間の光ではなく、自分の口から出た一言だった。
——わたしの家の検めは、まだ終わっていない。
言った本人が、まだそれを果たしていない。昨夜のうちに書き上げた一枚を油紙に包み、懐へ入れて、外へ出た。
文書院へ続く道も、朝の光も、いつもと変わらない。変わったのは、こちらの立場のほうだ。
通りには、いつもどおりの物売りの声。昨日、広間で交わされた言葉を、この道を歩く誰も知らない。知らせるための儀ではなかった。
監査院の窓口に、書き上げた一枚を差し出す。指先が、まだ少し冷たい。
「爵位返上の申し出書にございます。ドレーヌ伯爵家、当主アニエスの名で」
受け取ったのは、審問長ファブリスだった。書面に目を通し、日付を確かめ、封を検める。長い沈黙のあと、顔を上げた。
「……承った。ドレーヌ、陛下の御裁可は、明日になろう。親裁の申し出は、日をまたぐのが定めだ」
「承知いたしました」
ファブリスが書面を脇へ寄せ、手元の綴りを一つ繰った。
「もう一件、伝えておく。そなたの名で書かれた、あの検めの署名だ。書いた手は、昨日のうちに職を解かれ、監査院の預かりとなった。文書院の次席、リュカだ。次席の席は、明日には別の名で埋まる」
驚きは、来なかった。煤の一行から名前へ届いた夜から、あの人を様づけで呼び続けている。呼び方を変えれば、こちらの物差しのほうが揺れる。
「工房の注文帳も、古い保管室の貸出簿も、修復室に監査の名で強いられた写しも、人の名のない場所で動いた手は、みな同じであった。——そなたに立った照会は、これで閉じる」
「……長らく、お手数をおかけいたしました」
「もう一件、ある。ソレル家の申立てだ。原簿との突き合わせは、そちらで進めるのだな」
「はい。今日じゅうに、済ませてまいります」
一礼して、窓口を離れる。三十四日前、この同じ建物で名を告げ、疑われる側として奥へ通された。裁定を自分から求めて出すのは、初めてだ。
伯爵の名を、自分の代で終わらせる。継ぐ相手のいない家を、継がせないまま閉じる決断を、相談できる相手はいなかった。それでも、迷いはなかった。名だけが遺されて、罪が遺されないことのほうが、ずっと恐ろしい。
文書院へ戻ると、若い書記が、包みを抱えて廊下で待っていた。
「監査院より、これを。……もう、御用済みとのことです」
差し出されたのは、見覚えのある帳面だった。表紙の革が、掌の形に沈んでいる。審問の日に自ら差し出した家の検め帳面が、ひと月あまり他人の手を渡り歩いて、腕に戻ってくる。
礼を言って包みを受け取り、長い廊下の先、いつもの扉を押した。
書庫の奥、いつもの卓に、ジョスランがいた。棚の割り当てを繰る手を止めて、こちらを見る。
「帳面が、返ってきました。……院からは、もう用がない物だと言われて」
「読むのか、今から」
「ジョスラン。……最後の職務の前に、自分の家くらいは、自分の手で検めておきたいので」
「手伝おう。それくらいは、俺にもできる」
「……座って、見ているだけで結構です」
ジョスランが、素直に隣の椅子を引いた。
卓に置くと、革の匂いが立った。椅子に腰を下ろし、頁を繰る。日付、綴り番号、確認の印——祖父の代からの、見慣れた家の字が並んでいる。
燭台の下、一枚ずつ、光にかざす。虫の道は、束のどこでも同じ向きに、上下の頁へそのまま続いている。入口が広く、奥へ進むほど細くなる、あの跡だ。子どもの時分、母が同じことをする姿を、幾度も見てきた。
母は、頁を繰るとき、年から引かなかった。先に綴り番号を読んで、そこから日付へ戻っていく。家の癖だと、そのときは思っていた。
三十枚ほど繰ったところで、指が止まった。
一枚だけ、光を通しても、穴が見えない。
隣の頁、その隣の頁——上下、寸分違わず続いていた道が、この一枚のところだけ、途切れている。
ジョスランが、手元を覗き込む。
「どうした」
「虫は、この一葉を食べておりません。——同じ帳面で、三十年を過ごした紙ではありません」
「……つまり、後から挟まれた頁ということか」
「はい。三十年、同じ棚の同じ場所にあったなら、虫は他の頁と同じだけ、この頁も食べているはずです」
指先で、頁の縁をたどる。他の頁より、心持ち白い。長年、光にも虫にも晒されていない紙の白さだ。
「欠けた頁を探すのが、普通のなさりようです。破って、隠す。鑑定は、いつも欠けを探します」
ジョスランが、黙って続きを待つ。
「わたしが探しているのは、欠けた頁ではありません。増えた頁です」
日付と綴り番号が、几帳面に並んでいる。ただの検めの記録にしか見えない。けれど、母がしていたとおり、綴り番号から引き直すと、行の意味が変わった。
三八〇年代の日付が、いくつも。三九〇年代が、いくつも。そして四〇八年——母が筆を置いた年の、日付のない一行。
余白の隅に、年のない一行が、もうひとつあった。「ソレル家、返上の一葉——綴り番号」とだけ。
書いたのは、この家ではない。それでも母は、自分たちより前に書かれた一枚の在り処まで確かめて、記していた。見つけてしまえば、記さずにはいられない。
祖父と、母。二代にわたって、家が「筆」として書かされてきたものの、目録だった。偽らされた文書の一枚一枚を、書いた本人が、自分の手で数えていた。
字の形が、途中で変わっている。前半は、角ばった、力の強い字。後半は、細く、震えを隠しきれていない字。
書き継がれた年月は、二十七年。けれど、この一葉が帳面に挟まれたのは、母の手が止まるより、少し前だ。二代のあいだ、この紙は帳面の外にあった。だから虫が、まだ道をつけていない。
「これは……」
声が続かない。
隣で、ジョスランが身を乗り出した。
「読めるのか、その字は」
「読めます。……読めるように、書いてあります」
長く監査院の手にありながら、誰にも見抜かれなかったのは、そのためだ。家の順で引き直せなければ、ただの誠実な帳面にしか見えない。読める者にしか、読めない。
「なぜ、こんな物を」
「隠すためでは、なかったのだと思います」
「名は、載っているのか」
「わたしの名は、ありません。ここに載っているのは、書かされた本人の名だけです」
母は、目がほとんど見えなくなってからも、この帳面にだけは、書き続けていた。記録してしまう手は、最後には、罪までも記録から逃がさなかった。
宛先のない記録を、母は、いつか繰るはずの娘への宛先に変えていた。
母を、恨む気にはなれなかった。書かされた側と、書かされながら数え続けた側が、同じ手の中にあった。それが、この家に生まれるということだった。
帳面を、両手で閉じる。指先が、少し震えていた。
「これを、全部、出します」
「——全部、出すのか」
「家の罪の全部を、家の手で数えなければ、意味がありません。……差し出すことでしか、償えないこともあります」
ジョスランは、それ以上、何も言わなかった。ただ、包みの結び方を、こちらより先に確かめてくれた。
帳面を監査院へ預け直し、文書院へ戻ると、日が高くなっていた。あと何度、この門を記録官としてくぐれるのか。今日の分の務めは、まだ残っている。
院長オーブリーが、廊下で待っていた。
「支度は済んだか、ドレーヌ」
「はい。監査院への引き渡しも、済ませてまいりました」
「では、始める。長らく待たせた」
案内されたのは、作業室だった。長机に、分厚い一冊が広げられている。封蔵庫から出された原簿だ。
かつて宰相を相手に啖呵を切った、あの同じ部屋だった。あのときは自分の家のために、今日は他家のために、この床に立つ。
戸口に、マルグリットが立っていた。四十年、門の外で申立てを続けてきた老女が、今日は部屋の中にいる。傍らには、ジョスランもいた。
院長が、開かれた頁に指を置いた。
「原簿は、昨日のうちに院の名で検めてある。記されている年は、王暦三五六年。だが、この一葉の紙は、そこから二十年ほど下る。——後から継ぎ足された一葉だ」
家の帳面が指していた綴り番号を、頁の端の数字と突き合わせる。同じ番号だった。母が書き留めた在り処は、四年を越えて、この一枚に届いていた。
頁の際を、指でなぞる。
「もとの一葉に何が書かれていたかは、消えております。ですが、消される前、ここに何も書かれていなかったはずはございません」
院長が、間を置かずに重ねる。
「ソレル家が、爵位を返上したという記録は、なかった。もとより、返上そのものが、なかった」
一同の目が、マルグリットへ向いた。老女が、抱えた申立ての束を、両手できつく握り直す。
「四十年、同じ文言を書き続けてまいりました。……もう、諳んじております」
声が、かすかに掠れていた。
院長が、筆を執った。継ぎ足された一葉の隣、原簿の余白へ、一行を書き入れる。書き終えると、頁を両手で持ち上げ、声を張った。
「ソレル家。灰の年ののちも、家は絶えていなかった、とここに読み上げる。——本日をもって、申立てを受理する。以後に残るのは、家名と所領を戻す手続きだけだ」
マルグリットの唇が、震えた。
「……あった、と。あった、と書いてくださった」
背筋を伸ばしたまま、老女は泣かなかった。ただ、抱えてきた申立ての束を、静かに床へ下ろす。四十年、手放したことのなかった重みだった。
隣に立つジョスランが、束の落ちる音に、そっと目を伏せる。
「おまえさまも……よく、付き合うてくれました」
「——四十年、変わらずに来たのは、ばあさまのほうだ」
老女が、小さく笑った。出会ってから一度も、見たことのない笑い方だった。
部屋の隅に、人の気配があった。ノエルだ。利き手に、木の添え木を当てている。
「アニエスさま……間に合いました」
「ノエルさん、その手は」
「もう、大丈夫にございます。……来月には、修復室へ戻れるそうです」
「……ようございました。ほんとうに、ようございました」
言葉は、それしか出てこなかった。あの夜から、ずっと気にかけてきた手だった。
監査院は、あの晩を事故として処理した。確かめる物は、一つも残らなかった。物のない場所で、物を言わない。それだけは、最後まで守った。
「アニエスさまこそ、お忙しかったでしょう。……無理を、なさいませんように」
ノエルが頭を下げて、部屋の隅へ戻っていく。修復室の卓に、また向かい合う日がある。それだけで、胸のつかえが軽くなった。
作業室を出る道すがら、書記の一人が、ぽつりと言うのが聞こえた。
「ヴァルドー邸の門から、紋章を外す職人が入ったそうです」
誰も、それ以上は口にしなかった。歓声も、ざわめきも起こらない。廊下を吹き抜ける風だけが、少しだけ軽い。
同じ日に、片方の家は紋章を外され、もう片方の家は自ら爵位を差し出す。それでも、明日を待つ気持ちは、まるで違っていた。
まだ高い日差しの中を、ジョスランと並んで歩く。昨日の広間の張り詰めた空気が、噓のようだった。並木は、もうあらかた葉を落としている。
「今日は、疲れたか。……帳面の中身は、監査院へ、全部渡したのか」
「少し。でも、今日の分は片づきました。隠す気は、初めからありません」
「明日は、どうなる」
「わたしの家の話です。……それだけは、誰にも代わってもらえません」
ジョスランが、隣で足を止めた。
「——怖いか」
「怖くは、ありません。ただ……」
言葉を探していると、ジョスランが静かに引き取った。
「知りたいだけだろう。全部、書かれるとおりに」
「……はい。そうです」
「なら、待てばいい。俺も、待つ」
頷く。それだけで、十分だった。歩き出すと、影が二つ、同じ長さで石畳に伸びていた。四十一日前、この道の影は、一つしかなかった。
日差しが、いくらか傾いてきた。今日という一日に残ったのは、増えた頁一つと、取り戻された名一つ。明日が何を運んでくるかは、まだ分からない。
文書院の門を出たところで、監査院の使いに呼び止められた。
「ドレーヌ様。お待ちを」
使いが一礼して、書状を差し出す。
「陛下より、正式な通達にございます」
受け取り、封を検める。差出の印は、真新しい。使いが、顔を上げずに続けた。
「裁定は、明日下ります。——ドレーヌ伯爵として、御前へ出るように、と」




