第9話 錆びた鎖の音
赤錆の縦穴は、町の西外れにあった。
赤い土の崖に、裂け目のような入口が開いている。坑道に似ていたが、奥から返る風は地下の冷たさではなかった。鉄が濡れて腐ったような匂い。古い血を水で薄めたような匂い。壁には赤錆の筋が何本も走り、そこだけ皮膚が裂けたように見えた。
入口の前には、吊り具と滑車が並んでいた。
錆びた鎖。古い鉤。荷を巻く太い布。封を塗られた壺。作業員の名を書く木札。どれも人が扱う道具の顔をしているのに、赤い土に置かれているだけで、口を閉じた生き物のように見えた。
マルヤ・センドは入口の外で足を止めた。
灯口の相談所として付き添ってきただけで、赤錆の足場へ上がる権限はない。ノラ・ヴェイルも、その隣から中を見た。救助要請は出ていない。ここで勝手に足場へ入れば、赤錆側に追い出す口実を渡すだけだ。
ヨルが足元で鼻を鳴らした。入口の板ではなく、赤錆の奥から流れてくる匂いを嗅いでいる。耳は伏せていない。けれど、尾は低かった。
「嫌な匂い?」
マルヤが聞いた。ヨルは答えない。鼻先だけを、赤い土の方へ向けた。
入口からでも、最初の作業場は見えた。縦穴はすぐ内側から落ち込み、壁に沿って木の足場が組まれている。吊り荷は入口近くの足場を通って、奥の滑車へ送られていた。底は見えない。鎖の音だけが、下からいくつも返ってくる。
かしゃり。ぎしり。かしゃり。荷を吊る音にしては、少し湿っていた。
若者たちは、入口脇で番号を呼ばれていた。カヤもその列にいた。
カヤは強い顔を保っていたが、赤錆の奥から鎖が鳴るたび、足元がほんの少しだけ迷った。入口脇で、男が怒鳴っていた。
「遅れるな。今日は三便上げる。上で止まれば下が詰まる。下で止まれば上が詰まる。荷は落とすな。割ったら本人負担だ」
四十前後の男だった。肩は厚く、声も太い。
ダリク。
赤錆の搬出監督だと、マルヤが小さく教えた。
ダリクの目は、若者たちの顔に長く止まらなかった。吊り荷の傾き、札の番号、縄の張り、帳面の空欄。見るものは多い。けれど、カヤの指が白くなるところまでは、見ていなかった。
「荷を見る人ね」
ノラが言うと、マルヤは赤錆の入口を見たまま答えた。
「事故の後なら、人も見るわ。いつも先に見てくれれば、相談所は少し暇になるんだけど」
足場の外側にはサイラスもいて、番号を呼ばれる若者と、入口で見ているマルヤとノラを順に見ていた。視線が合うと、穏やかに笑った。
「入口で見ているだけなら、誰も困りませんよ。安全な搬出補助だと説明している仕事ですから」
ノラは答えなかった。マルヤだけが、その言い方を覚えるように少し目を細めた。ダリクが札を見て、顎をしゃくる。
「カヤ。二番の吊り荷へ回れ。傾いたら肩で押さえろ。腕だけで支えるな」
カヤは短くうなずいて返事をしたが、声は足場の音に飲まれた。
吊り荷は小さくなかった。赤黒い石片か、封を塗られた壺か。厚い布で包まれていて中は見えない。大人でも両手で支える重さだ。カヤは隣の少年と一緒に、足場の端で布を押さえた。
下から男の声が上がる。
「二番、送れ!」
上で鎖が引かれた。かしゃり。ぎしり。かしゃり。
吊り荷が少しずつ動く。壁に沿って持ち上がり、足場の縁をかすめる。カヤは肩で布を押さえた。隣の少年は縄を握っているが、力が足りない。荷の重みが二人の方へ傾いた。
「そこ、遅い!」
ダリクの怒声が足場を打った。
「傾けるな。割ったら、お前らの分じゃ払えないぞ」
カヤの指は、吊り荷と一緒に自分の逃げ道まで押さえ込むように白くなっていた。その手元を見たノラには、荷を守ろうとしているのではなく、ここで手を離した後の暮らしを恐れているのだと分かった。
「本人負担」という声が飛ぶたび、カヤの指は荷から離れかけ、また押し戻された。そのたびに踵が足場の端へ寄り、逃げられる幅まで自分で潰していく。
潰れた踵の跡には、赤茶けた粉が一粒ずつ残った。入口まで続いていた粉だ。上着の内側で灯口の相談札が胸へ当たるたび、浅い印の溝にも同じ色が増えていく。
カヤは気づいていない。裂けた親指だけを、吊り荷の布へ押しつけていた。
ヨルが足元で低く鳴った。
「クル……」
ノラが視線を下げると、ヨルはカヤではなく吊り荷の影を見ていた。吊り荷が足場の縁に当たった。ごつん、と鈍い音がした。
その瞬間、布の影から錆びた鎖が一本、すっと垂れた。
ただの古い鎖に見えた。吊り具の余りが揺れただけにも見える。誰も気にしない。作業員の目は荷の傾きと縄の張りを追っていた。
鎖の先だけが、足場の粉を嗅ぐように左右へ振れた。カヤの踵の跡を一つ拾い、次を拾い、胸元の木札へ向く。札の印が上着越しに赤く浮いた。
ノラは目を細めた。鎖の輪の内側に、小さな歯が並んでいた。金属ではない。濡れた口の中に似ている。
「カヤ、手を開け」
カヤが顔を上げた。
「え?」
「荷じゃない。手首を狙ってる」
「離したら落ちる!」
ダリクが怒鳴った。
「落とすな。破損は本人負担だぞ!」
その声で、カヤはさらに荷を押さえた。爪の際の赤い筋が、吊り荷へ向かって伸びる。錆鎖がその筋へ食いついた。
風で垂れたのではない。獲物を選ぶように、輪の内側を開いた。カヤの手首へ滑り、細い袖口の上から巻きつく。カヤの顔が歪んだ。
声が出るより先に、血が出た。鎖に巻かれているのではない。噛まれている。
「カヤ!」
マルヤが入口側で身を乗り出した。だが、足場には上がれない。灯口の者が反射的に腕を出して止めた。
カヤは荷を放しかけた。吊り荷が大きく傾く。隣の少年が慌てて縄を握り直したが、支えきれない。ダリクが振り向く。
「足場に乗るな!」
ノラはもう動いていた。
「もう荷じゃない。怪我人だ」
足場へ飛び移る。板が嫌な音を立てた。赤い粉が靴の下で跳ねる。
錆鎖はカヤの手首を締めながら、荷の影へ戻ろうとしていた。手首ごと引き込むつもりだ。カヤは歯を食いしばっている。泣かない。叫びもしない。ただ、離したら終わるものを、まだ押さえようとしている。
「荷は見なくていい。こっちを見て」
ノラはカヤの腕を引っ張らなかった。無理に引けば、手首が壊れる。働く手も、縫う手も、明日何かを持つ手も、ここで使えなくなる。ノラは短剣を抜き、錆鎖の輪へ刃を入れた。
刃が滑った。
金属の手応えではない。濡れた歯肉を押すような、嫌な弾力が返ってくる。鎖の輪がぎゅっと狭まり、カヤの袖が赤く染まった。カヤが息を詰める。
「動かないで」
「動いてない。動いたら、荷が」
「荷はあと」
「あとにしたら、私のせいになる」
ノラは低く言った。
「壊して困る荷なら、あんたが責任を持て。弁償も落下の危険も、この子に押しつけるな」
ダリクが顔をしかめた。
「現場の手順を乱すな」
「その手順で、この子の手首が食われてる」
ノラは錆鎖の根元を探した。
ヨルが足場の下を低く走った。噛みつかない。爪も立てない。吊り荷の影へ入り、鎖が出ている場所の真下で尾を止める。
「クルッ」
そこだった。
吊り荷を巻く布の裏。錆びた金具に見えるものが、赤い土の粉をかぶって張りついている。歯のかたまりのようなこぶだった。小さな輪がいくつも重なり、鎖の根元を口の奥で抱えている。
短剣では間に合わない。けれど黒い熱が見えれば、足場の者もサイラスも気づく。ノラは刃をしまい、拳を布の陰へ差し入れた。力は皮膚の下、指の骨の内側だけへ沈める。嫌な力がきしみ、肩の古傷が引きつった。使いたくない。それでも今は刃より早い。
ノラは拳を落とした。
錆びた歯のこぶに当たる。乾いた殻を殴ったような音がした。割れない。逆に、錆鎖がカヤの手首へ深く噛んだ。
カヤの膝が折れかける。ノラは左手でカヤの肘を支えた。
「あと一回、我慢して」
ノラは拳を打ち込む角度を変えた。錆の歯がカヤの皮膚を引き、カヤの肩が跳ねる。
「ごめん。痛いよ」
「……もう、痛い」
「知ってる。だから、これで外す」
「さっきも外れなかった」
責める声ではなかった。怖くて、ノラの「できる」を信じ切れない声だった。
ノラは一度目に拳を落とした場所と、刃が滑った跡を見た。自分の拳でつけたへこみから目をそらさず、親指で歯の根元を示した。
「うん。殴る場所を外した。今度は歯の根元へ入れる」
「また外したら」
「その時は拳を開いて、両手で鎖を開く。手首は引かない」
カヤは震える息を吐いた。
「じゃあ今度は、当てて」
ノラは二度目を入れた。拳の奥で、押し込めた熱が跳ねる。錆びた歯のこぶが砕けた。
赤い粉が散り、鎖の輪が一瞬だけ緩む。ノラはその隙にカヤの手首を抜いた。引っ張るのではなく、骨の向きに合わせて逃がす。カヤの手首が外れた。
同時に、吊り荷が大きく傾いた。ノラは荷には手を出さなかった。カヤの体を足場の内側へ押し込む。隣の少年が悲鳴を飲み込み、縄を握ったまま後ろへ下がりかける。
ダリクが反射的に手を伸ばした。
「押さえろ!」
自分で叫び、自分で吊り荷の布をつかむ。作業員が二人、慌てて支えに入った。荷は足場の縁で止まった。布の端から赤黒い粉が落ち、縦穴の底へ消えた。
しばらく、誰も動かなかった。錆鎖の残りが足場の上でのたうつ。切られた蛇のように跳ね、隣の少年の足へ伸びた。
「足を引いて!」
マルヤが入口側から声を飛ばした。
「荷じゃなくて、自分の体を戻しなさい!」
少年は転びかけながらも、足場の内側へ逃げた。ヨルが錆鎖の前に立った。小さな体で、それでも退かない。鼻に皺を寄せ、低い声を出す。
錆鎖が最後に鳴った。
「契約」
人の声ではなかった。鉄を擦るような音が、かろうじて言葉の形をしているだけだった。ノラは短剣を抜き直した。
「細い字を読ませる前に、この歯を見せろ」
刃を落とす。
錆鎖は赤い粉を散らし、足場の上でほどけた。
縦穴の中では、まだ別の鎖が揺れている。下から作業員の声も上がっていた。赤錆は止まっていない。一つ切っただけで、穴が黙るわけではない。
カヤは自分の手首を見ていた。歯形が残っている。傷は浅くない。指は動いたが、親指の爪の下に入った赤い筋だけは消えていない。ほどけた鎖の残りが跳ねるたび、同じ間で筋も脈打った。
「曲げて」
ノラは布を出した。カヤは言われた通り、指を曲げた。痛みに顔をしかめる。それでも、動いた。
「残る?」
「指は動いてる。腕は残る」
「でも、こんなに痛いんじゃ……針、持てますか」
「今はまだ持たないで。先に血を止める」
ノラは白魔法を細く流した。傷口の血が少しずつ弱まる。完全には治さない。ここで力を使い切るわけにはいかないし、深い歯形をなかったことにはできない。
マルヤが足場の外から手を伸ばした。
「カヤ、こっちへ。今日は戻らない」
カヤはその手を取らず、赤錆の奥を見た。上着の内側から灯口の木札を出す。浅かった印の溝が、赤い粉でいっぱいになっていた。
足場に残る錆鎖の切れ端が、一斉に札へ頭を向ける。
カヤは息を呑み、札を遠くへ放った。
木札は吊り荷の布へ当たり、縁を滑って縦穴へ落ちる。赤い筋が空中に尾を引いた。足場の切れ端が何本も跳ね、札を追って隙間へ消えた。
下から、木が一度だけ割れる音がした。
「何してるの!」
マルヤの声が飛ぶ。
「相談所へ連れていく気だったでしょう」
「その札を宿へ見せたんでしょう。日暮れまで待たせる約束は」
「見せました。これで、もう見せられない」
カヤは包帯を巻かれた手首を抱えた。投げた指の震えが止まらない。
「あれがついてくるなら、宿にも相談所にも持っていけない」
「私に返せばよかったのよ」
「マルヤさんのところへついていくじゃないですか」
言い返したあと、カヤは親指を隠した。爪の下の赤い筋は札と一緒に落ちず、まだ残っている。
ノラが布を巻く手を止めた。
「札だけじゃない」
カヤは聞こえないふりをした。
「今日の賃がなくなったら、宿へ戻れません」
「先に宿へ行く」
「この腕で?」
「その腕を見せる。赤錆で噛まれたのに日暮れまで働けと言うなら、宿の主人には私の前で言ってもらう」
マルヤがもう一度手を伸ばす。カヤは一歩下がった。赤い足跡も、一歩ぶん下がった。
「追い出されたら」
「灯口の机の下が空いてる。寝床とは呼ばない。帳簿を落としたら顔に当たる。でも屋根はある」
「そこ、他の人も来ますか」
「来るわ。相談所だから」
「じゃあ嫌です」
「施しに見えるなら、袋を三枚縫って。親指を使わない縫い方を私がする。宿代には足りないけど、ただでは置かない」
「三枚縫ってる間、あれが机の下へ来たら?」
マルヤは答えを持っていなかった。
「ほら」
カヤは手首の布を歯で引き、きつく締めた。
「机の下も、今は行かない。宿にも戻らない。印が消えるまで、ここにいます」
「ここが一番近いのよ」
「だから、他の人の寝床からは遠い」
正しい判断をした顔ではなかった。追い出される時刻が近づくのを知りながら、ほかに置き場所のない体を赤錆の入口へ置こうとしている。
マルヤはカヤの腕をつかもうとした。カヤが強く振ると歯形が開き、巻いた布へ血がにじむ。
「触らないで」
「その傷で意地を張ると、縫い物どころじゃなくなる」
「三枚は縫います。あとで。今は行かない」
約束というより、退かないために投げつけた言葉だった。マルヤの手は宙に残る。
ノラはカヤの足元へ視線を落とした。赤い粒はもう踵だけではない。血の垂れた場所にも集まり、縦穴へ向かう筋を作っている。
マルヤは灯口の者へ顔を向ける。
「灰鷹に走って。灯りと担架、あと長い縄を持てるだけ」
「作業中止を出すんですか」
「私には出せない。だから、出せる人間を呼んで」
灯口の男が走った。ダリクは吊り荷の横で、赤い粉のついた手を見ていた。怒鳴ろうとして、カヤの手首を見た。赤い輪を見て、すぐに目をそらす。
「……止めたら、上が黙ってない。今日の分が飛べば、俺が詰められる」
マルヤはダリクを見た。
「だから先に、この子の手首を締めたの」
「俺だけの話じゃない」
「分かってる」
ノラはカヤを入口側へ歩かせた。
「でも今、怒鳴ったのはあんただ」
ダリクはカヤの手首をもう一度見た。壊した荷の数ならすぐに数えられる顔が、自分の声で締めた手首の方では少し遅れた。ダリクは返せなかった。
サイラスは外側で帳面を閉じていた。音は小さい。けれど、赤錆の入口では妙にはっきり聞こえた。
「今日の作業は、一度止めた方がよさそうですね」
「今さらか」
ノラが言うと、サイラスは答えなかった。手袋をはめた指で、帳面の角についた赤い粉を払う。粉は床へ落ち、すぐに足場の隙間へ消えた。ダリクが作業員へ怒鳴った。
「下の班を戻せ! 荷は置け。壺も今は数えるな、人から上げろ!」
自分がついさっきまで言っていたことと逆の命令だった。作業員が戸惑うと、ダリクは吊り荷から手を放し、もう一度怒鳴った。
「聞こえなかったか! 戻った奴と怪我人を先に見ろ。壊れたものは俺があとで書く!」
上の足場から下へ合図が送られた。鎖が何本も鳴り、やがて下班の者たちが上がってくる。
最初の男は片方の袖が裂けていた。次の女は靴をなくし、裸足に布を巻いている。三人目と四人目は互いの肩を借りて上がった。
ダリクは割当札へ目を落とす前に、足場の奥を見た。いつも封壺へ顎を載せるように抱え、叱られるたび首だけをすくめる小柄な少年がいない。
「リトは」
縄を握った作業員の顔がこわばった。
「まだ下です。封壺を持ったまま……置けって言っても、監督に怒られるって」
「俺が怒鳴ったからか」
誰も答えなかった。答えないことが、そのまま答えだった。
戻らない一人の名が出た途端、足場から作業のざわめきが消え、カヤも縦穴へ振り向いた。
「リトって、下の班にいた子……」
ノラがカヤを庇う位置へ出ると、縦穴の底から、かしゃり、と鎖が鳴った。荷の重みに引かれた音ではなく、呼ばれた誰かが返事をするまで待つ音だった。
「リト」
上で誰かが呼んだのではない。近くの作業員たちは、誰も口を開いていなかった。ダリクも、サイラスも、マルヤも黙っている。もう一度、底が鳴る。
「リト。聞こえているなら、返事をしなさい」
声はダリクの太さを真似ていた。けれど、本物のダリクは目の前で口を閉じている。
カヤが包帯のない手で、吊り具の呼び筒を伏せた。筒口が床へ当たり、鈍い音を立てる。
「その声、もう使わせないで」
ダリクはカヤを見たあと、縦穴へ張り出していた仕事鐘の吊り紐をつかんだ。班を急かすたび、その紐を引いて鐘を揺らしていた。
一息に引きちぎる。
鐘が足場へ落ち、錆びた縁を鳴らした。
「下にいる奴へ、俺の声で命令するな」
底の声が笑うように鎖を鳴らした。
ノラは縦穴を見た。
「返事をするな」
ヨルは声を出さず、ノラの袖をくわえる。引っぱるのではなく、落とすなと言うように布を噛んだ。
カヤはまだ足場の近くにいた。その足元のずっと下で、赤錆は、今度は命令ではない声を探していた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




