第8話 空いた釘の前で
「剥がせば済むなら、私が先に剥がしている」
女の声だった。
ノラ・ヴェイルは、赤錆の札へ伸ばしかけていた手を止めた。
掲示板の前には、朝から人が集まっている。灰喉の札はもうない。釘の周りだけ、板の色が四角く新しくなっていた。そこに紙があったことを、木目だけがまだ覚えている。
その横に、新しい札が掛かっていた。
赤錆の縦穴。
三日契約。
日払い。
未経験可。
搬出補助。
太い字は、朝の光の中でよく目立った。
下には申込用の木箱が置かれている。箱の底には赤茶けた粉が少し落ちていた。ただの土にも見える。けれど、ヨルは鼻を近づけた途端、顔を背けた。
ノラは横を見た。
女は四十前後に見えた。髪を後ろで束ね、腰には擦れた革表紙の帳簿を下げている。袖は肘まできちんと折られ、靴には乾いた泥がついていた。机の前だけに座っている足ではない。
「あなたがノラ・ヴェイルね」
「名札は出してない」
「肩を縫った若い女。小さい魔物を連れて、灰喉の札の前で人を止めていた。灰鷹の若い隊員が、そう話していたわ」
ヨルが女を見上げた。
女はしゃがまなかった。怖がりもしなかった。ただ、ヨルが飾りではないと分かっている距離で、一度だけ視線を落とした。
「マルヤ・センド。灯口の相談所をやっている」
「これを貼る仕事?」
「違うわ。貼られた紙の前で、足を止めさせる仕事」
マルヤは掲示板の別の札を指で示した。
北堤の土嚢積み。河岸の杭場。工房の下働き。半日払いの荷出し。
どれも楽ではない。けれど、赤錆ほど簡単な顔で人を飲み込まない。
「仕事は探す。でも、今日の銭に届かないことがある。そこを赤錆みたいな札が拾っていく」
「だから、赤錆を残すの」
ノラの声が低くなる。
マルヤは怒らなかった。
「残したいと言っていないわ」
「なら剥がせばいい」
「そのあと、ここにいた人がどこへ行くかまで見るのが、私の仕事よ。剥がした手だけきれいにしても、人は別の穴へ行く」
ノラは赤錆の木箱を見た。
若者が一人、木片を手に取る。別の男が北堤の札を見て、日払いの額だけを指でなぞる。読んではいる。けれど、必要なところまで見えている目ではなかった。
マルヤは男に声をかけた。
「北堤は腰をやる。昨日熱があったなら、今日はやめなさい」
「赤錆なら、三日で済むって聞いた」
「三日で済む仕事は、三日で体を壊すこともある」
男は顔をしかめ、人垣の奥へ戻った。
マルヤは追わなかった。帳簿を閉じ、次に赤錆の箱へ近づいた女へ目を向ける。
古い上着を着た若い女だった。袖口は擦り切れているが、縫い目は丁寧だ。靴の踵は片方だけ潰れかけ、爪の間には工房の粉が残っている。赤錆の木片を握る手には、小さな擦り傷がいくつもあった。
「カヤ」
マルヤが呼んだ。
女は振り向いた。手には、赤錆の申込木片がある。
「工房は」
「戻っても、今日の分にはなりません」
カヤの声は固かった。泣きそうな顔ではない。先に言っておかなければ負けると思っている顔だった。
ノラは赤錆の札を見てから、カヤへ向いた。
「赤錆はやめた方がいい」
カヤは、ノラの腰の短剣と足元のヨルを見た。それから、自分の手の中の木片を隠すように握り直した。
「穴が嫌いな人は、他の仕事をくれるんですか」
ノラはすぐに答えられなかった。
カヤは笑わない。
「くれないなら、危ないって言われても困ります。危ないのは、もう聞きました」
周りの声が少し薄くなった。
マルヤが一歩だけ前へ出る。腰の帳簿から、折った紙を一枚抜いた。灯口の相談所の印が小さく入っている。
「カヤ、行くなとは言わない。けれど、太い字だけ読んで入るな」
カヤは紙を受け取ったが、開かなかった。
マルヤは赤錆の札の下を指で押さえる。
「ここ。破損は本人負担。途中離脱は違約金。足場判断は現場責任者に従うこと。救援要請は監督者判断」
カヤは読んだ。
目は逃げなかった。字を追い、意味を飲み込み、それでも木片を離さなかった。
「読んだよ。だから何ですか」
カヤの指が、木片に食い込む。
「今夜の寝床代は、細い字を読んでも安くなりません」
マルヤの手が止まった。
ノラはカヤの指先を見た。
木片を握る爪の横に、赤茶けた粉がついている。箱の底に落ちていたものと同じ色だった。
ヨルが低く鳴いた。
「クル……」
カヤは気づかない。木片を握る手に、さらに力が入る。
そこへ、柔らかい声が入った。
「相談は良いことです。ただ、相談では今日の寝床代は払えませんから」
サイラスだった。
よく払われた上着。泥の少ない靴。爪の間に土の入っていない手。掲示板の前に立つには、少し清潔すぎる男だった。
サイラスはカヤへ触れなかった。木片にも触れなかった。ただ、赤錆の札を見上げている。
「赤錆は、まだ枠があります。搬出補助ですから、戦う仕事ではありません」
ノラはサイラスを見た。
「迷宮で、戦わない仕事なんてない」
サイラスの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「怖い言い方ですね。けれど、怖がらせるだけでは、人は今日を越せません」
「怖がらせない字で、人を穴へ入れるよりまし」
マルヤが横から別の札を取った。
「河岸の杭場に一人ねじ込めるかもしれない。賃は落ちるけど、赤錆よりはましよ。カヤ、少し待ちなさい」
「河岸の枠は、朝に埋まったようです」
サイラスは穏やかに言った。
「先ほど、札を下げていましたよ」
マルヤが一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬だった。けれど、ノラには見えた。
サイラスは嘘をついている顔ではない。少なくとも、そう見える顔をしている。ただ、その言葉が置かれた瞬間、カヤの前から道が一つ消えた。
カヤは、マルヤではなくノラを見た。
「止めるなら、代わりを出してください」
ノラはすぐには言わなかった。
出せない。
それを、別のきれいな言葉で包む気にはなれなかった。
「代わりは出せない」
カヤの顔が硬くなった。
ノラは続けた。
「でも、入口までは見る。何を持たされるか。誰が数えるか。怪我をした時に誰が止めるか。そこは見る」
マルヤがノラを見た。
「救助要請は出ていないわ」
「分かってる」
「中へ入れば、あなたが問題になる」
「だから入口で見る。落ちる前に見る。落ちたら拾う」
マルヤは、少しだけ息を吐いた。
納得ではない。けれど、同じ方向へ一歩だけ足を出す顔だった。
マルヤはカヤへ向いた。
「赤錆へ行くなら、入口まで付き添う。中へは入れない。でも、説明は聞く。荷も見る。怪我をした時に誰が止めるのかも聞く」
カヤは救われた顔をしなかった。
それでよかった。
今この場で、救われる話ではない。
カヤは受け取った相談所の紙を、折らずに上着の内側へ入れた。細い字も読んだ。ノラにも止められた。マルヤにも止められた。
それでも、赤錆の木片を箱へ入れた。
乾いた音がした。
木片が底へ落ちた瞬間、ヨルが一歩下がった。
ノラはそれを見た。
カヤは見ていなかった。
掲示板の前で、赤錆へ向かう列ができ始める。太い字を見て迷っていた者たちが、集合時刻を思い出したように動き出した。
マルヤは相談所の男を呼び止めた。
「灯口へ戻って。赤錆へ行った名前を控えて。戻らなかった時に、探す名前が要る」
男はうなずき、人垣を抜けて走った。
ノラはヨルを連れて歩き出す。
赤錆へ向かう列の中で、カヤの潰れかけた踵が石畳を踏んだ。足取りは速くない。けれど、戻る気配もなかった。
サイラスが、ノラの横に並ばない距離で声をかけた。
「応援していますよ。あなたが動けば、助かる人もいるでしょうから」
ノラは返さなかった。
返せば、相手の言葉に乗ることになる。
マルヤだけが、その言い方を覚えるようにサイラスを見た。
ヨルがまた鼻を鳴らした。
赤茶けた粉の匂いは、掲示板から離れても、まだ足元に残っていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




