第8話 空いた釘の前で
「剥がせば済むなら、私が先に剥がしている」
女の声に、ノラ・ヴェイルは赤錆の札へ伸ばしかけていた手を止めた。
掲示板の下では、ヨルが申込箱の底を嗅いでいた。赤茶けた粉はただの土にも見えたが、顔を背ける様子からして嫌な匂いらしい。
横を見ると、四十前後に見える女がいた。髪を後ろで束ね、腰には擦れた革表紙の帳簿を下げている。袖は肘まできちんと折られている一方、靴には乾いた泥がつき、机の前だけに座っている足ではなかった。
「あなたがノラ・ヴェイルね」
「名札は出してない」
「肩を縫った若い女。小さい魔物を連れて、灰喉の札の前で人を止めていた。灰鷹の若い隊員が、そう話していたわ」
ヨルが女を見上げても、相手はしゃがまず、怖がりもしなかった。ただ、ヨルが飾りではないと分かっている距離を保ち、一度だけ視線を落とした。
「マルヤ・センド。灯口の相談所をやっている」
「これを貼る仕事?」
「違うわ。貼られた紙の前で、足を止めさせる仕事」
マルヤは名乗っても、掲示板から目を離さなかった。
「止められない日もある。だから、止められなかった名前も拾う。戻らない子を、最初からいなかったことにさせないために」
マルヤは掲示板に並ぶ別の札を指で示した。北堤の土嚢積み、河岸の杭場、工房の下働き、半日払いの荷出し。どれも楽ではないが、赤錆ほど簡単な顔で人を飲み込まない。
「仕事は探す。でも、今日の銭に届かないことがある。そこを赤錆みたいな札が拾っていく」
「だから、赤錆を残すの」
仕事札と赤錆を見比べ、ノラの声が低くなった。
責める響きにも、マルヤは怒らなかった。
「残したいと言っていないわ」
「なら剥がせばいい」
「そのあと、ここにいた人がどこへ行くかまで見るのが、私の仕事よ。剥がした手だけきれいにしても、人は別の穴へ行く」
ノラは赤錆の木箱へ目を戻した。若者が一人、木片を手に取る。別の男は北堤の札を見ながら、日払いの額だけを指でなぞっていた。文字を読んではいても、必要なところまで見えている目ではなかった。
マルヤは男に声をかけた。
「北堤は腰をやる。昨日熱があったなら、今日はやめなさい」
「赤錆なら、三日で済むって聞いた」
「三日で済む仕事は、三日で体を壊すこともある」
男が顔をしかめて人垣の奥へ戻っても、マルヤは追わなかった。行き先を決めるのは本人だと線を引くように帳簿を閉じ、次に赤錆の箱へ近づいた女へ目を向けた。
古い上着を着た若い女だった。擦り切れた袖口は丁寧に縫われている。片方だけ潰れかけた靴の踵と、爪の間に残る工房の粉、赤錆の木片を握る手の細かな擦り傷が、働いてきた日々を示していた。
「カヤ」
マルヤが呼んだ。
女が振り向いても、手は赤錆の申込木片を離さなかった。
「工房は」
「戻っても、今日の分にはなりません」
カヤの声は固く、涙の気配はない。先に言っておかなければ負けるとでもいうように、顎を上げていた。
ノラは赤錆の札を見てから、カヤへ向いた。
「赤錆はやめた方がいい」
カヤはノラの腰の短剣と足元のヨルへ順に目をやり、それから手の中の木片を隠すように握り直した。
「穴が嫌いな人は、他の仕事をくれるんですか」
答えようとしたノラの手には、代わりに渡せる仕事札が一枚もなかった。
カヤは慰めなど求めていない顔で、笑わなかった。
「くれないなら、危ないって言われても困ります。危ないのは、もう聞きました」
返せない問いに、周りの声が少し薄くなった。
マルヤは腰の帳簿から、灯口の相談所の印が小さく入った、折り畳んだ紙を一枚抜いた。
「カヤ、行くなとは言わない。けれど、太い字だけ読んで入るな」
カヤは紙を受け取っても、木片を握る手を緩めず、すぐには開かなかった。
マルヤは赤錆の札の下を指で押さえる。
「ここ。破損は本人負担。途中離脱は違約金。足場判断は現場責任者に従うこと。救援要請は監督者判断」
カヤは指された字を一つずつ読んだ。目を逃がさずに意味まで飲み込み、それでも木片を離さなかった。
「読んだよ。だから何ですか」
細い字に負けまいとするように、カヤの指が木片へ食い込んだ。
「今夜の寝床代は、細い字を読んでも安くなりません」
カヤは木片を持たない方の親指を見せた。針を押した跡が硬くなり、その脇に新しい裂け目がある。
「工房の銭は五日後です。宿の人には日暮れまでって言われてます。明日の仕事があっても、今夜は寝られない」
言い終えると、カヤは裂けた親指を隠すように木片を握り直した。ノラは止める言葉を探したが、代わりに渡せる今日の銭を一枚も持っていなかった。
返す言葉を選ぶ間、マルヤの指が帳簿の角を押さえた。
ノラはカヤの指先を見た。木片を握る爪の横に、箱の底へ落ちていたものと同じ赤茶けた粉がついている。
「クル……」
カヤはヨルの警戒に気づかず、木片を握る手へさらに力を込めた。
そこへ、柔らかい声が入った。
「相談は良いことです。ただ、相談では今日の寝床代は払えませんから」
サイラスだった。よく払われた上着に泥の少ない靴、爪の間に土の入っていない手は、掲示板の前に立つには少し清潔すぎた。
サイラスはカヤにも木片にも触れず、ただ赤錆の札を見上げていた。
「赤錆は、まだ枠があります。搬出補助ですから、戦う仕事ではありません」
ノラはサイラスを見た。
「迷宮で、戦わない仕事なんてない」
迷宮そのものを否定され、サイラスの笑みがほんの少し薄くなった。
「怖い言い方ですね。けれど、怖がらせるだけでは、人は今日を越せません」
「怖がらせない字で、人を穴へ入れるよりまし」
言葉だけにしないため、マルヤは横から別の札を取った。
「河岸の杭場に一人ねじ込めるかもしれない。賃は落ちるけど、赤錆よりはましよ。カヤ、少し待ちなさい」
「河岸の枠は、朝に埋まったようです」
マルヤが帳簿を開くより先に、サイラスは穏やかに言った。
「先ほど、札を下げていましたよ」
マルヤはすぐには言い返さず、帳簿を開き直して別の欄を探した。空きを作れる仕事がないか、今この場で確かめている。その沈黙が長引くほど自分の言葉が効くと知っているように、サイラスは急かさなかった。
サイラスは嘘をついている顔ではない。少なくとも、そうは見えない顔をしている。ただ、その言葉が置かれた瞬間、カヤの前から道が一つ消えた。
カヤは、マルヤではなくノラを見た。
「止めるなら、代わりを出してください」
代わりは出せない。その事実を、別のきれいな言葉で包む気にはなれなかった。
「代わりは出せない」
カヤの顔が硬くなる。
「だったら同じです。危ないと知ってる人が増えただけ」
「同じにはしない」
ノラは赤錆の札ではなく、カヤの潰れかけた踵と、裂けた親指を見た。
「入口まで行く。何を持たされるか見る。あの靴で逃げられる足場かも見る。荷を落とした時、荷より先にあなたを止める人がいるか聞く」
「いなかったら?」
「私が覚える」
「覚えて、どうするんですか」
「必要になった時に、勝手に入る」
救助屋らしいきれいな約束ではなかった。権限もなく、入れば追われると分かっている女の、危うい答えだった。
マルヤが眉間を押さえる。
「救助要請は出ていないわ。中へ入れば、あなたが問題になる」
「だから、入らなくて済むか見に行く」
「済まなかった時の顔をしているけれど」
「その時に考える」
カヤが二人を見比べた。
「私の前で、私より先に喧嘩しないでください」
声は硬いままだった。慰められたいのではなく、自分の話を横から奪われたくないのだ。
「入口まで来るなら、私の代わりに返事をしないで。危ないから帰るかどうかも、私に聞いてください」
ノラは短くうなずいた。
マルヤも息を吐く。
「分かった。説明は一緒に聞く。荷も見る。止める人間が誰か、本人の前で答えさせる」
「宿の人には?」
カヤの強い顔が、そこで初めて少し崩れた。
「日暮れを越えたら、荷物を外へ出されます」
マルヤはすぐに帳簿を開かなかった。腰の袋から相談所の小さな木札を一枚外し、カヤへ差し出す。
「これを宿へ持っていきなさい。払えるとは書いていない。私が日暮れまでに話をしに行く、とだけ伝える」
「追い出さないでって頼むんですか」
「頼むし、あなたの荷を勝手に道へ出したら私が拾いに行くとも言う。効くかは宿の主人次第よ」
「絶対じゃないんですね」
「絶対と言う人を、今から見に行くんでしょう」
カヤは札を裏返した。灯口の印は浅い。宿の主人が見なかったことにしようと思えばできる程度の印だった。
「こんなので、何分待ってくれますか」
「一晩とは言えない。私が着くまでよ」
「着く前に、荷を捨てられたら」
「私が拾う」
「拾って、どこに置くんです」
マルヤは口を閉じた。相談所の床は雨漏りし、戸棚は戻らない者の荷で埋まっている。それをカヤも知っていた。
カヤは木札を相談所の紙と重ね、上着の内側へ押し込んだ。胸元で札どうしが擦れ、乾いた音がする。赤錆へ行く決断は変わらない。
申込木片を箱へ落とす。
箱の底の赤茶けた粉が、音に合わせてふわりと浮いた。風はない。粉はカヤの手を追い、裂けた親指の脇へ一筋だけ付いた。
ヨルが低く鳴いて箱から身を引く。
「手を見せて」
ノラが言うと、カヤは親指を握り込んだ。
「針で割れただけです」
「その赤いのは、工房の粉じゃない」
「さっき箱を触ったからでしょう」
カヤは上着の裾で拭った。皮膚の上の粉は落ちたが、爪の際へ入った細い色は残った。裂け目の奥に、赤い糸を通されたように見える。
マルヤが帳簿へ筆を置こうとすると、カヤが手を出した。
「自分で書きます」
「親指が裂けているわ。今は私が――」
「名前くらい書けます」
言い切って炭筆を奪う。痛む親指を人差し指へ押しつけ、帳簿の空いた行へ書き始めた。
カ。
最初の角を曲がったところで、爪の下の赤い筋が脈を打つ。
ヤ。
炭の線の脇へ、赤錆色の影がにじんだ。帳簿の紙に粉は落ちていない。それなのに影はカヤの指の動きを半呼吸遅れてなぞり、最後の払いだけ先回りして長く伸びた。
カヤが炭筆を離す。名前の下で、赤い払いが細い針のように箱の方角を指した。
マルヤは帳簿を引いた。
「線を引くわ」
「やめて」
「今のはあなたの字じゃない」
「私の名前です」
「だから消すの」
マルヤが炭筆を返せと言う前に、カヤは帳簿を腕で押さえた。裂けた親指から血が一滴落ち、赤い影へ触れる。影は血を吸い、今度こそはっきり箱の方へ向いた。
ノラはカヤの手首をつかんだ。カヤが振り払おうとして、胸元の相談札が飛び出す。木札の浅い印に、帳簿から赤い筋がするりと移った。
灯口の印の溝が、赤錆色で埋まる。
「これ、宿へ持っていったら」
ノラの言葉を、カヤが睨んだ。
「宿までついてくるって言いたいんですか」
ヨルは札へ鼻を近づけず、歯を見せた。
マルヤが手を出す。
「返して。宿には私が直接行く」
カヤは札を握り、渡さなかった。
「これまで取ったら、日暮れに何を見せるんです」
「赤錆の印を宿へ持ち込めない」
「じゃあ今夜、私はどこに行けばいいんですか!」
初めて声が割れた。掲示板の前の何人かが振り返る。カヤはそれに気づき、すぐ口を固く結んだ。
ノラは札を取り上げようとした自分の手を下ろした。選べるものが二つしかない顔を、よく知っていた。どちらにも穴が開いている。
「帳簿の名前を消す」
「戻らなかった前提で書くなら嫌です」
「追ってくる」
「戻ったら、自分で線を引きます」
その言葉の終わりを待っていたように、帳簿の赤い払いがもう一度動いた。
マルヤは帳簿を取り返さなかった。指を伸ばして紙へ触れれば、筋が自分へ移るかもしれない。ためらった一瞬を、カヤは見逃さない。
「ほら。マルヤさんだって触らない」
救われた顔はしていなかった。勝った顔でもない。最後に残った薄い札を取られまいと、歯を食いしばっているだけだった。
掲示板の前では赤錆へ向かう列ができ始める。集合時刻を告げる鐘が一度鳴り、迷っていた者たちも押されるように動いた。
マルヤは相談所の男を呼び止め、カヤが書いた行を見せた。
「灯口へ戻って。赤錆へ行く人には、ここへ自分で名前を書いてもらって。字が書けない人は、本人に綴りを聞く。勝手な名をつけないで」
言ってから、マルヤの目が赤い払いへ落ちる。
「待って。箱に触った手で――」
「戻らなかった時の控えですか」
男の問いへ、カヤが先に答えた。
「戻って、自分で消すためです」
男はうなずき、人垣を抜けて走った。マルヤの「待ちなさい」は、集合の鐘と靴音に潰れた。
ノラもヨルを連れ、列の横を歩き出す。カヤの潰れかけた踵が石畳を踏む。速くはない。右の親指を上着へ隠し、左手には赤く染まり始めた相談札を握っていた。
サイラスが、ノラの横に並ばない距離で声をかける。
「応援していますよ。あなたが動けば、助かる人もいるでしょうから」
ノラは答えず、カヤの後ろへ回った。マルヤはその言い方を忘れないように、サイラスの片笑みを見ていた。
ヨルが石畳へ鼻を寄せる。掲示板から離れたはずの赤茶けた粉が、カヤの踵の跡へ一粒ずつ現れていた。
足跡は列の先へ続く。赤錆の入口へ近づくほど、赤い粒は大きくなった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




