第7話 まだ椅子がある
灰喉が沈んで、四日が過ぎた。
それでも町は止まらなかった。朝になれば荷車は石畳を鳴らし、工房の煙突は黒い息を吐き、広場の掲示板には新しい紙が掛かる。灰喉の札はもうなかったが、古い釘の周りだけ、板の色が四角く残っていた。
そこに紙があったことを、木目だけがまだ覚えていた。
ノラ・ヴェイルは、その前を通り過ぎた。
肩は縫ってあり、背中の擦り傷にも布を当てている。動けないほどではないが、右腕を上げれば傷の奥が細く引きつった。その痛みを見抜くように、ヨルはいつもより近くを歩き、ノラの歩幅が乱れるたび顔を上げてきた。
「歩けるよ」
ヨルはノラの足取りを見直し、耳を横へ伏せて、信じていない顔をした。
ノラはパン屋の裏口へ回り、表では売れない固いパンを布袋いっぱいに詰めてもらった。欠けた端や焼きすぎた丸パン、昨日の残りで、まともな客には出せなくても腹には入る。
パン屋の女主人は袋を持ち上げ、ノラの肩へ目をやった。
「二つに分けるよ。片方だけ重いと、傷に当たる」
「一つで持てる」
「持てるだろうね。でも、あの酒場まで行くんだろ」
女主人は返事を待たず、固い丸パンを半分ほど別の袋へ移した。
「減らさない。重さを分けるだけ」
ノラは二つになった袋を見て、余計な世話だと言いかけたが、肩の疼きに止められた。
「……助かる」
ヨルが片方の袋を鼻で押し、重い方を選び分けたように、そちらばかり気にした。
「そっちは私が持つ」
言葉を信じず、ヨルは重い方の袋から鼻を離さなかった。
「文句じゃなくて、確認だろ」
女主人は小さく笑った。
「その黒いのの方が、あんたより分かってるね」
「分かりすぎるから困る」
「はいよ」
女主人は袋の口をきつく結ぶと、棚の奥から小さな紙包みまで出した。
「塩。あそこの粥、薄いだろ」
「酒を飲みに行くんだけど」
「あの店なら、どうせ粥も出すよ。空き腹にあの酒は荒いから、持っていきな」
女主人は塩を袋へ載せると、それ以上、傷のことには触れなかった。
ノラは袋を二つ持って裏通りを抜け、町外れの古い酒場へ向かった。
開いているようにも、閉まっているようにも見える店だった。片方の鎖が外れた看板は風のたびに壁へ当たり、歪んだ扉は押しても引いても引っかかる。初めて来た者はたいてい帰り、それでも帰らなかった者だけが客になる。
ノラが取っ手を持ち上げ、下の引っかかりを外すように扉を押すと、奥から木が床を擦る音がした。
「おう。今日は蹴らねえのか」
「ああ。前に怒られたからね。酒を飲む前に店を壊す気はないよ」
「飲んだ後なら壊す顔だな、盗賊娘」
「パンは持ってきた。酒代も払う。そこまで悪い客じゃない」
爺さんは口を動かしながら扉の隙間から鉤棒を伸ばし、内側の掛け金を外した。
「悪くない客は、もう少し開く扉の店へ行くもんだ」
「そこだと、酒がまずいか確かめられない」
「うちを酒の試験場にするな」
扉がいやな音を立てて開き、その向こうから薄暗い店内が現れた。まだ昼を過ぎたばかりなのに窓の布は半分下り、床板はところどころ沈んで、椅子の高さも揃っていない。炉の上には鍋がかかり、酒と焦げた麦、古い薬草の匂いが混ざっていた。
客は四人いた。片腕を布で吊った中年男、片目に白い膜の張った女、曲がった指で杯を両手に持つ老人、背中を丸めて時折乾いた咳をこぼす元荷運び。若い客はいなかった。
誰もノラを見て驚かなかった。驚く力の残っている人間は、ここへあまり来ない。
爺さんは片足を引きずりながらカウンターの向こうへ戻った。杖は使わず、手慣れた鉤棒の先で棚の瓶を引っかけ、落とさず手元へ寄せる。
「酒を出して」
「その肩で飲むのか」
「肩で飲むわけじゃない」
「口が動くなら、まだ床には落ちねえな」
爺さんは瓶の栓を抜き、中身の匂いを嗅いでから顔をしかめた。
「まだ飲める」
「その確認で不安になる」
「飲めない酒は出さん。うちにも礼儀はある」
片腕の男が杯を上げた。
「爺さん。昨日の酒にも、その礼儀はあったのか」
「昨日のは酒じゃねえ。体の内側を消毒する薬だ」
「毒と薬を間違える年だろ」
「毒なら、お前は今より静かになってる」
客たちの乾いた笑いが、店の中を少しだけ揺らした。
ノラが布袋をカウンターへ置くと、パンとは思えない固い音がした。爺さんが片眉を上げる。
「石か」
「パン」
「この店の客に恨みでもあるのか」
「酒でふやかせば食べられる」
片目の女が笑った。
「歯が折れたら、あんたが治してくれるのかい」
「歯は戻せない」
「じゃあ、折る前に飲むしかないね」
爺さんは鼻を鳴らし、ノラの前に木杯を置いた。中の酒は薄く濁っている。口に含む前から、まずいと分かる酒だった。
ノラは一口飲んだ。
「まずい」
「金は取る」
「取る味じゃない」
「椅子代が入ってる」
ノラはカウンター端の椅子を見た。片方の脚に布が巻かれ、かろうじて高さを合わせてある。
「その椅子、傾いてる」
「床よりはましだ。立って飲みたいなら止めん」
ノラは椅子に腰を下ろした。
ヨルが足元から顔を出し、布袋を鼻でつつく。爺さんは袋からパンの欠片を一つ取り、鉤棒の先で器用に床へ落とした。
「ほら。悪魔用だ」
ヨルは落ちた欠片を嗅ぎ、食べるべきか迷っていた。
「贅沢言うな。ここの客より歯がある」
背中の丸い元荷運びが、咳の合間に笑った。
「それは勝てねえな。俺の歯は半分、穴と酒場に置いてきた」
「うちで落とした歯なら、床のどこかにある」
「探す気になる酒を出してから言え」
客の話を聞いてから、ヨルはようやく欠片をくわえた。爺さんは残りのパンを棚の下へ押し込む。礼は言わず、ノラも言わせる気はなかった。
片腕の男が、ノラの肩へ目をやった。
「あんた、まだ穴に入ってるのか」
「仕事だからね」
「俺を引きずった時も、そう言った」
「そんなこと言った?」
「言ったよ。こっちは腕が一本減った日だ。言われたことくらい覚えてる」
過去を飲み下すように、男は杯を置いた。
「助けられた方は、助かった後の置き場所に困る。働けない。家にも座りにくい。礼を言うたび、腕が戻るわけじゃねえって思う」
男は、布で吊った腕を顎で示した。
「でも、死んでたら、この椅子の悪口も言えない。礼は言わねえよ。礼ってやつは、言った方も聞いた方も妙な顔になる」
爺さんは口を挟みながら、棚へ瓶を戻した。
「そのくせ、ここには来る」
「椅子があるからな」
男は自分を支える傾いた椅子を、足で軽く鳴らした。
「まっすぐじゃなくても、座れれば少しは違う」
ノラは返す言葉を探す代わりに、杯の縁を親指でなぞった。
片目の女が、白く濁った方の目を布で軽く押さえた。
「あたしは灯り番だったよ。立っているだけでいいって言われた」
爺さんが低く笑う。
「立っているだけで済む穴なら、こんな店に流れちゃ来ない」
「灯りを持ってたから、魔物があたしを先に見つけたんだよ」
女は酒に浸したパンを、崩れないよう指で押さえた。
「契約の紙には、戦闘なしって書いてあった。あの字だけ、昔から太かったねえ」
「危険の字は、昔から細い」
片腕の男が言った。
ノラは杯を置いた。脳裏には、あの太い字が浮かんでいた。
日払い。未経験可。戦闘なし。
灰喉の板に残っていた紙の端が、頭の奥で乾いた音を立てた。
けれど、ここであの少年の名は出さなかった。あの名前は、ようやく家へ戻したばかりだ。この店の酒に混ぜていいものではない。
背中の丸い元荷運びがまた咳をすると、爺さんは鍋の蓋を開けた。
「粥を飲め。酒だけで咳が止まるなら、俺は医者で食ってる」
「粥でも止まらねえよ」
「止まらなくても、腹には入る。文句は飲んでから言え」
ノラはそこでパン屋の塩包みを思い出し、カウンターへ置いた。
余計な世話の出どころを悟り、爺さんは顔をしかめた。
「誰だ、塩なんぞ持たせたのは」
「パン屋」
「余計なことをする女だ」
「薄いって言ってた」
「薄いから数が出せるんだ」
そう言いながらも、爺さんは粥へ塩を落とした。味を確かめるふりもせず元荷運びの前へ椀を置き、片腕の男の皿には固いパンを割って投げる。
片腕の男につられて女も笑う横で、老人はパンを酒へ浸していた。ヨルはノラの足元で丸くなり、もらった欠片を少しずつ噛んでいる。
ノラがそんな店の中を見渡していると、爺さんが杯へ酒を足した。
「まずいって顔をしてるわりに、杯は空けるな」
「酒のせいじゃない」
「分かってる顔をするな。若いくせに」
ノラは爺さんを見た。
爺さんは鉤棒で棚の瓶を寄せ、栓を閉めた。その間も片足に体重をかけない。どこで悪くしたのか、ノラは聞いたことがなく、爺さんも話したことはなかった。
「爺さん」
「酒の値切りなら、肩が裂けてても聞かんぞ」
「ここ、よく椅子が壊れないね」
爺さんは答える代わりに、店の中の高さが違う椅子を見渡した。
「壊れる前に布を巻く。脚を削る。釘を打つ。まっすぐにはならねえが、尻を乗せるくらいはできる」
爺さんが鉤棒の先で一番奥の椅子を小さく押すと、短い片脚の下でぐらつきながらも、床へ倒れはしなかった。
「座る奴がいるうちは、捨てねえよ」
ノラは短い脚へ巻かれた布を見た。
「直った椅子じゃない」
「直ったなんて言ってねえ。座れるって言ったんだ」
爺さんは言葉を区切るように、鉤棒で床を小さく叩いた。
「戻った人間も同じだ。元通りかどうかは知らん。戸を押して入ってきたなら、椅子くらいは出す」
片腕の男が、杯の底を卓へ軽く打ちつけた。
「尻の重さだけは、全員まだ残ってるからな」
「お前のは少し減らせ」
「腕一本分は軽い」
「そういう軽口を言うから、酒を薄くするんだ」
笑いが起き、それが静まるのを待ってから、爺さんはノラへ言った。
「止まれなかった奴に椅子を出す。お前は、まだ歩いている奴に声をかけろ」
杯の中で濁った酒が少し揺れていた。ノラが重心を移すと、巻かれた布の下で椅子が一度きしんだものの、倒れはしなかった。
その軋みを聞いて、ヨルが足元で鼻を鳴らした。
ノラは杯を、爺さんの方へ押し戻した。
「次に来る時は、もう少し柔らかいパンにする」
片腕の男が、残った方の手で杯を少しだけ上げた。
「また穴に入るなら、帰りに寄れ。まずい酒くらいは残ってる」
「残ってなくていい」
「残るんだよ、この店は。まずいものほどしぶとい」
爺さんは鼻で笑った。
「この店に柔らかいもんを持ち込むな。客が驚いて噛み方を忘れる」
「じゃあ、今日と同じ固さで」
「酒代は置いていけ。椅子代が入ってる」
ノラが銅貨を置いて立ち上がると、肩の奥が引きつった。顔には出さなくても、ヨルは気づいて先に戸の方へ回った。
片目の女が、酒に浸したパンを指で押さえながら言った。
「外の札は、細い字まで読みなよ」
「見る」
女は少し笑った。
爺さんが鉤棒で掛け金を外した。
「扉を蹴るなよ」
「開かなかったら?」
「二度押せ。それで駄目なら、今日は飲むなってことだ」
「酒場のくせに、客を選ぶね」
「選ばないと床が抜ける」
ノラが扉を押して外へ出ると、夕方の風は酒場の中より少し冷たかった。横へ並んだヨルは、口の端にパンの粉をつけている。
「もらったなら、ちゃんと噛んで」
「クル」
不服そうな返事だった。
扉は、ノラの背後で途中までしか閉まらなかった。中から椅子の脚が滑る音と、爺さんの舌打ちが聞こえる。
押し戻すと、片腕の男が座っていた椅子の布巻きがほどけ、短い脚が横へずれていた。男は残った腕で座面を抱え、爺さんは床を転がる釘を鉤棒で追っている。
「帰ったんじゃねえのか」
「戸が閉まらなかった」
「なら、その脚を踏んでろ。客ごと倒れる」
ノラは外套を着たまま椅子の脚を靴で押さえた。爺さんが布を巻き直し、曲がった釘を一本抜く。新しい釘は長すぎて、先が座面の裏から出かかった。
「痛いぞ、爺さん」
片腕の男が言うと、爺さんは釘を半分戻した。
「尻に穴が開く前に言え」
「腕で十分だ」
「じゃあ、尻は守れ」
打ち直した椅子はまだ少し揺れた。男は腰を下ろし、二度体重をかけてから杯を引き寄せる。ノラが靴を離しても倒れなかった。
爺さんは抜いた曲がり釘を捨てず、小皿へ入れた。
「それも使うの」
「明日、伸ばす。釘一本で酒が薄くなる」
ノラは今度こそ外へ出た。扉を持ち上げて二度押すと、掛け金が噛んだ。中では直したばかりの椅子がまたきしみ、片腕の男が爺さんを呼んでいた。ヨルは口の端のパン粉を舐めながら、店の前で待っていた。
扉の向こうから、片腕の男が思い出したように声を張った。
「そういや明日、また新しい穴の札が出るぞ。赤錆だとよ」
ノラは閉めたばかりの戸へ顔を向けた。
「どこで聞いたの」
「荷車引きが、赤い紙を印刷所へ運んでた。俺はこういう腕になってから、仕事の匂いだけは鼻につくんだ」
爺さんの怒鳴り声が続いた。
「言うのが遅え。盗賊娘、明日は酒場じゃなく掲示板へ行け。うちの椅子まで持ち出すなよ」
「持っていかない。歩いている人は、まだ座らせない」
「それでいい」
ノラは戸から顔を戻し、ヨルと歩き出した。
翌朝、酒場で聞いた通り、広場の掲示板の前にはもう人が集まっていた。
荷運びの男、腰に縄を巻いた女、手の甲に火傷跡のある老人、まだ背の伸びきっていない少年。誰もゆっくり文字を読まず、太い字だけを拾い、日払いの額を見て、集合場所だけを覚えようとしていた。
灰喉の札は、もうない。
灰喉の札があった場所には釘の跡だけが残り、その横へ新しい紙が掛けられていた。
赤錆の縦穴。
三日契約。
日払い。
未経験可。
搬出補助、十名。
墨はまだ乾ききらず、太い字だけが朝の光を吸って黒く見えた。その下の新しい木箱には、申込用の木片が、まだ誰にも触れられずに重なっている。
ノラが赤錆の札を見上げる間、ヨルは掲示板の下を嗅ぎ、木箱の前で鼻をそらした。嫌な匂いではなく、嫌な字を見たような仕草だった。
「読めないくせに」
「クル」
「読めなくても、嫌なものは分かるか」
酒場で直した椅子は、布を巻き直しても釘を打っても、最後まで少し揺れていた。まっすぐにするためではなく、座る人間を床へ落とさないための手間だった。
止まれなかった奴に椅子を出す。お前は、まだ歩いている奴に声をかけろ。
声をかけて、何と言う。危ないから行くな。それなら今日の賃をどうしろと返された時に、ノラは何を出せるのか。
人垣の中から、一人の手が木片へ伸びかけた。ノラも紙の端へ指を伸ばすが、剥がすためではない。まだ何をするか決めたわけでもなく、ただ、その紙がどれほど薄いのか、触れて確かめようとした。
その時、横から声がした。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




