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迷宮閉葬  作者: Aramaki_mai
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7/13

第7話 まだ椅子がある

灰喉が沈んで、四日が過ぎた。


町は止まらなかった。


朝になれば荷車は石畳を鳴らし、工房の煙突は黒い息を吐き、広場の掲示板には新しい紙が掛かる。灰喉の札はもうなかったが、古い釘の周りだけ、板の色が四角く残っている。


そこに紙があったことを、木目だけがまだ覚えていた。


ノラ・ヴェイルは、その前を通り過ぎた。


肩は縫ってある。背中の擦り傷にも布を当てた。動けないほどではない。ただ、右腕を上げると傷の奥が細く引きつる。ヨルはいつもより近くを歩き、ノラの歩幅が乱れるたびに顔を上げてきた。


「歩けるよ」


ヨルは短く鳴いた。


「クル」


信じていない声だった。


ノラはパン屋の裏口へ回った。


表では売れない固いパンを、布袋いっぱいに詰めてもらう。欠けた端、焼きすぎた丸パン、昨日の残り。まともな客には出せないが、腹には入る。


パン屋の女主人は袋を持ち上げ、ノラの肩へ目をやった。


「二つに分けるよ。片方だけ重いと、傷に当たる」


「一つで持てる」


「持てるだろうね。でも、あの酒場まで行くんだろ」


女主人は返事を待たず、固い丸パンを半分だけ別の袋へ移した。


「減らさない。重さを分けるだけ」


ノラは、二つになった袋を見た。


余計な世話だ、と言いかけてやめた。


「……助かる」


「はいよ」


女主人は袋の口をきつく結び、棚の奥から小さな紙包みを出した。


「塩。あそこの粥、薄いだろ」


「酒を飲みに行くんだけど」


「あの店なら、どうせ粥も出すよ。空き腹にあの酒は荒いから、持っていきな」


女主人はそれ以上、傷のことには触れなかった。


ノラは袋を二つ持ち、裏通りを抜けた。


向かう先は、町外れの古い酒場だった。


開いているようにも、閉まっているようにも見える店だ。看板は片方の鎖が外れ、風が吹くたび壁へ当たる。扉は歪んでいる。押しても引いても引っかかるので、初めて来た者はたいてい帰る。


帰らない者だけが、客になる。


ノラは取っ手を持ち上げ、扉の下の引っかかりを外すように押した。


奥から、木が床を擦る音がした。


「おう。今日は蹴らねえのか」


「ああ。前に怒られたからね。酒を飲む前に店を壊す気はないよ」


「飲んだ後なら壊す顔だな、盗賊娘」


「パンは持ってきた。酒代も払う。そこまで悪い客じゃない」


爺さんは扉の隙間から鉤棒を伸ばし、内側の掛け金を外した。


「悪くない客は、もう少し開く扉の店へ行くもんだ」


「そこだと、酒がまずいか確かめられない」


「うちを酒の試験場にするな」


扉が、いやな音を立てて開いた。


中は薄暗かった。


昼を過ぎたばかりなのに、窓の布が半分下りている。床板はところどころ沈み、椅子は高さが揃っていない。炉の上には鍋がかかり、酒の匂いと、焦げた麦と、古い薬草の匂いが混ざっていた。


客は四人いた。


片腕を布で吊った中年男。

片目に白い膜の張った女。

指が曲がって杯を両手で持つ老人。

背中を丸め、ときどき乾いた咳をこぼす元荷運び。


若い客はいない。


誰もノラを見て驚かなかった。驚く力の残っている人間は、ここへはあまり来ない。


爺さんは片足を引きずりながら、カウンターの向こうへ戻った。杖は使わない。鉤棒の先で棚の瓶を引っかけ、落とさずに手元へ寄せる。


「酒を出して」


「その肩で飲むのか」


「肩で飲むわけじゃない」


「口が動くなら、まだ床には落ちねえな」


爺さんは瓶の栓を抜き、匂いを嗅いでから顔をしかめた。


「まだ飲める」


「その確認で不安になる」


「飲めない酒は出さん。うちにも礼儀はある」


片腕の男が杯を上げた。


「爺さん。昨日の酒にも、その礼儀はあったのか」


「昨日のは酒じゃねえ。体の内側を消毒する薬だ」


「毒と薬を間違える年だろ」


「毒なら、お前は今より静かになってる」


乾いた笑いが、店の中を少しだけ揺らした。


ノラは布袋をカウンターへ置いた。固い音がした。


爺さんは片眉を上げる。


「石か」


「パン」


「この店の客に恨みでもあるのか」


「酒でふやかせば食べられる」


片目の女が笑った。


「歯が折れたら、あんたが治してくれるのかい」


「歯は戻せない」


「じゃあ、折る前に飲むしかないね」


爺さんは鼻を鳴らし、ノラの前に木杯を置いた。中の酒は薄く濁っている。口に含む前から、まずいと分かる酒だった。


ノラは一口飲んだ。


「まずい」


「金は取る」


「取る味じゃない」


「椅子代が入ってる」


ノラはカウンター端の椅子を見た。片方の脚に布が巻かれ、かろうじて高さを合わせてある。


「その椅子、傾いてる」


「床よりはましだ。立って飲みたいなら止めん」


ノラは椅子に腰を下ろした。


ヨルが足元から顔を出し、布袋を鼻でつつく。爺さんは袋からパンの欠片を一つ取り、鉤棒の先で器用に床へ落とした。


「ほら。悪魔用だ」


ヨルは欠片を嗅いだ。


食べるか迷っている。


「贅沢言うな。ここの客より歯がある」


背中の丸い元荷運びが、咳の合間に笑った。


「それは勝てねえな。俺の歯は半分、穴と酒場に置いてきた」


「うちで落とした歯なら、床のどこかにある」


「探す気になる酒を出してから言え」


ヨルはようやく欠片をくわえた。


爺さんは残りのパンを棚の下へ押し込んだ。礼は言わない。ノラも言わせる気はなかった。


そういうものは、この店ではかえって邪魔になる。


片腕の男が、ノラの肩へ目をやった。


「あんた、まだ穴に入ってるのか」


「仕事だからね」


「俺を引きずった時も、そう言った」


「そんなこと言った?」


「言ったよ。こっちは腕が一本減った日だ。言われたことくらい覚えてる」


男は杯を置いた。


「助けられた方は、助かった後の置き場所に困る。働けない。家にも座りにくい。礼を言われるたび、腕が戻るわけじゃねえって思う」


爺さんが棚へ瓶を戻す。


「そのくせ、ここには来る」


「椅子があるからな」


男は傾いた椅子を足で軽く鳴らした。


「まっすぐじゃなくても、座れれば少しは違う」


ノラは何も言わなかった。


言い返す話ではなかった。


片目の女が、白く濁った方の目を布で軽く押さえた。


「あたしは灯り番だったよ。立っているだけでいいって言われた」


爺さんが低く笑う。


「立っているだけで済む穴なら、こんな店に流れちゃ来ない」


「灯りを持ってたから、魔物があたしを先に見つけたんだよ」


女は酒に浸したパンを指で押さえた。


「契約の紙には、戦闘なしって書いてあった。あの字だけ、昔から太かったねえ」


「危険の字は、昔から細い」


片腕の男が言った。


ノラは杯を置いた。


太い字。


日払い。未経験可。戦闘なし。


灰喉の板に残っていた紙の端が、頭の奥で乾いた音を立てた。


けれど、ここであの少年の名は出さなかった。あの名前は、ようやく家へ戻したばかりだ。この店の酒に混ぜていいものではない。


背中の丸い元荷運びが、また咳をした。


爺さんは鍋の蓋を開けた。


「粥を飲め。酒だけで咳が止まるなら、俺は医者で食ってる」


「粥でも止まらねえよ」


「止まらなくても、腹には入る。文句は飲んでから言え」


ノラはパン屋の塩包みを出し、カウンターへ置いた。


爺さんは包みを見て顔をしかめる。


「誰だ、塩なんぞ持たせたのは」


「パン屋」


「余計なことをする女だ」


「薄いって言ってた」


「薄いから数が出せるんだ」


爺さんはそう言いながら、粥に塩を落とした。元荷運びの前に椀を置き、片腕の男の皿へ固いパンを割って投げる。


片腕の男が笑い、女も笑った。老人はパンを酒に浸していた。ヨルはノラの足元で丸くなり、パンの欠片を少しずつ噛んでいる。


ノラは店の中を見た。


この人たちは、灰喉が沈んだからここにいるわけではない。


灰喉より前から、別の穴、別の札、別の「戦闘なし」があった。戻らない人もいる。戻っても、座る椅子を探し続ける人もいる。


爺さんがノラの杯へ酒を足した。


「まずいって顔をしてるわりに、杯は空けるな」


「酒のせいじゃない」


「分かってる顔をするな。若いくせに」


ノラは爺さんを見た。


爺さんは鉤棒で棚の瓶を寄せ、栓を閉めた。片足に体重をかけない癖がある。どこで悪くしたのか、ノラは聞いたことがない。爺さんも話したことはない。


「爺さん」


「酒の値切りなら、肩が裂けてても聞かんぞ」


「ここ、よく椅子が壊れないね」


爺さんは、店の中の高さの違う椅子を見た。


「壊れる前に布を巻く。脚を削る。釘を打つ。まっすぐにはならねえが、尻を乗せるくらいはできる」


片腕の男が杯を上げた。


「尻の重さだけは、全員まだ残ってるからな」


「お前のは少し減らせ」


「腕一本分は軽い」


「そういう軽口を言うから、酒を薄くするんだ」


笑いが起きた。


爺さんは、その笑いが落ちた後で、ノラへ言った。


「止まれなかった奴に椅子を出す。お前は、まだ歩いている奴に声をかけろ」


ノラは答えなかった。


杯の中で、濁った酒が少し揺れている。


この店の椅子は、どれもまっすぐではない。座ればきしむ。体を預けすぎれば傾く。


それでも、床よりはましだった。


ヨルが足元で鼻を鳴らした。


「クル」


ノラは杯を置いた。


「次に来る時は、もう少し柔らかいパンにする」


爺さんは鼻で笑った。


「この店に柔らかいもんを持ち込むな。客が驚いて噛み方を忘れる」


「じゃあ、今日と同じ固さで」


「酒代は置いていけ。椅子代が入ってる」


ノラは銅貨を置き、立ち上がった。


肩の奥が引きつる。顔には出さなかった。けれどヨルが先に立ち、戸の方へ回る。


片目の女が、酒に浸したパンを指で押さえながら言った。


「外の字は、よく見て歩きなよ。太い字ほど、足を引っかける」


「見る」


「見るだけじゃ足りない時もある」


ノラは戸口で振り返った。


「その時は、声をかける」


女は少し笑った。


「なら、聞こえるうちに頼むよ」


爺さんが鉤棒で掛け金を外した。


「扉を蹴るなよ」


「開かなかったら?」


「二度押せ。それで駄目なら、今日は飲むなってことだ」


「酒場のくせに、客を選ぶね」


「選ばないと床が抜ける」


ノラは扉を押して外へ出た。


夕方の風は、酒場の中より少し冷たかった。ヨルが横へ並ぶ。口の端にパンの粉をつけている。


「もらったなら、ちゃんと噛んで」


「クル」


不服そうな返事だった。


翌朝。


広場の掲示板の前には、もう人が集まっていた。


荷運びの男、腰に縄を巻いた女、手の甲に火傷跡のある老人、まだ背の伸びきっていない少年。誰もゆっくり文字を読んではいない。太い字を拾い、日払いの額を見て、集合場所だけを覚えようとしている。


灰喉の札は、もうない。


釘の跡だけが残っている。


その横に、新しい紙が掛けられていた。


赤錆の縦穴。


三日契約。

日払い。

未経験可。

搬出補助、十名。


墨はまだ乾ききっていない。太い字だけが、朝の光を吸って黒く見えた。


下には、新しい木箱が置かれている。


申込用の木片が、まだ誰にも触れられずに重なっていた。


ノラは赤錆の札を見た。


昨日の酒場の椅子が、頭の隅できしんだ。


止まれなかった奴に椅子を出す。


お前は、まだ歩いている奴に声をかけろ。


人垣の中から、ひとりの手が木片へ伸びかけた。


ノラは紙の端へ指を伸ばした。


剥がすためではない。まだ、何をするか決めたわけでもない。


ただ、その紙がどれだけ薄いのか、触れて確かめるように。


その時、横から声がした。


「剥がせば済むなら、私が先に剥がしている」


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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