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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第1章 煤釘の迷宮
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第6話 まだ叱れる

挿絵(By みてみん)

灰喉が沈んだ翌朝、ノラの小屋にはまだ灰の匂いが残っていた。


洗っても爪の間は薄く黒い。水桶の底も濁っている。机の上には、昨夜奪った古い髪飾りが布に包まれていた。


ノラ・ヴェイルはそれを巻き直し、棚の下の木箱へ入れる。煤釘の耳飾りの隣に置き、蓋に炭筆で書いた。


灰喉。


書き終えた時、背中の傷が引きつった。


戸の横で、ヨルが腹をつけて伏せている。昨夜からほとんど動かない。黒い耳だけが、外の音に合わせてわずかに揺れた。


洗った布を抱えて戻ってきたミミは、顔を合わせる前にまず床の赤い点を見た。


「座ってください」


「もう座ってる」


「ちゃんと座ってください。背中を壁につけないで。血がつきます」


ノラは壁から半歩離れた。


ミミは机の端に布を置き、ノラの肩を見て顔をしかめた。子どもなのに、大人のように怒る。


「昨日よりひどくなってます」


「昨日も見たの」


「見ました。見せる気がなくても、床に赤い点を作りながら歩けば分かります」


「小さい傷は、数えないで」


「数えます。ノラさんは数えないと、なかったことにします」


ヨルがノラの袖口へ鼻を寄せた。


「ヨルも。ノラさんが無理に動こうとしたら、少しは袖を噛んで止めなさい」


ヨルは鼻先を前足の下へ隠した。返事をしない時の態度だった。


その時、戸を叩く音がした。


一度目は遠慮がちに。二度目は、仕事の音で。


ミミが布を持ったまま振り返る。ヨルは伏せたまま鼻だけを動かした。危険な匂いではない。灰と、外套と、灰鷹の建物に染みついた墨の匂い。


ノラが戸を開けると、外套の裾に灰をつけたエリオ・カーンが立っていた。


「朝からすみません」


「サジュは」


エリオは一瞬、息を止めた。それから答えた。


「生きています。右足は、まだ医師が見ています」


ノラの肩から、ほんの少し力が抜けた。


「リアムは」


「治療所です。出血が多くて、まだ起き上がれません。ただ、運び込んだ時には反応がありました。胸元の荷札も確認されています」


「家族は」


「もう治療所にいます。母親と弟さんです。処置中だったので、まだ寝台のそばには入れていません」


重傷者が治療所に運ばれれば、親族は呼ばれる。待てと言われても、戸の外までは来る。誰かが止めても、来る。


ノラは、昨夜灰喉の奥で拾った色違いの靴紐が入っている腰袋へ手をやった。


「行く」


ミミが後ろから声を上げた。


「その前に肩です」


ノラは戸口の横に掛けていた外套を取った。ミミがあわてて包帯を押しつける。


「これ、持っていってください。使わなかったら返してください。血だらけで返したら怒ります」


「血を止めるための布でしょ」


「限度があります」


ヨルが立ち上がった。足元は少しふらついたが、ノラの後ろへつく。


ミミはヨルの頭をそっと撫でた。


「ヨルも、帰ったら寝るんだよ」


ヨルは聞こえないふりで、小屋の戸口へ鼻を向けた。


「聞こえないふりをしても、本当に」


ヨルは今度は鳴かなかった。けれど、尻尾の先を一度動かした。


町は昨日よりよく喋り、灰喉が沈んだ話はもう広場まで来ていた。荷が止まる、注文が飛ぶ、誰が閉じた。そんな声が店先で重なっていたが、ノラは足を止めなかった。


エリオも何も言わない。聞き流す顔をしているが、筆記板の角をなぞる指だけは硬かった。


掲示板の前を通る。


灰喉の札は半分だけ剥がされていた。釘に残った紙の端に、太い字の一部がまだ読める。


日払い。

未経験可。


戦闘なし、の文字は破れていた。


ヨルがその下で鼻を鳴らす。


「行くよ」


ノラが言うと、ヨルは掲示板から顔を背けた。


治療所は、広場の北側にあった。


戸口には血を洗った水の匂いと、煮沸した布の湯気が混じっている。エリオが先に入り、救護係が奥を示した。


奥の廊下に、女が立っていた。


痩せた人だった。三十代にも四十代にも見える。眠っていない目をしている。髪は乱れていない。乱れないように、何度も結び直した跡があった。


その隣に、少年がいる。リアムよりずっと幼い。片方の靴には紐がなく、細く裂いた布で代わりに縛ってあった。


女はノラを見た。


「息子のことで?」


「ノラ・ヴェイル」


ノラが名乗ると、エリオが横から一言補った。


「現場で見つかったものを預かっていた方です」


「エナ・フォルクです」


エナは名乗ってから、すぐに寝台のある部屋の戸へ視線を戻した。


「灰鷹の方は、生きているとだけ言いました。医師の先生も同じことを言いました。でも、まだ会わせられないって」


「処置中なら、待つしかない」


「分かっています」


ティムがノラの腰袋を見た。


「兄ちゃんのもの、持ってる?」


エナが振り返る。


「ティム」


「だって、灰鷹の人、荷札は本人と一緒だって言った。でも、他にも落ちてたかもしれないだろ」


ノラは腰袋から布に包んだ靴紐を出した。


色違いの靴紐。


灰喉の奥で拾った時より、灰は落としてある。けれど、擦り切れた部分にはまだ黒ずみが残っていた。


ティムの目が大きくなった。


「それ、俺のだ」


ノラは差し出した。


ティムは受け取る前に、自分の靴を見下ろした。布で縛った片方の靴。それから、ノラの手の中の紐を見る。


「兄ちゃん、勝手に持ってった」


文句の形をしていたが、死んだ人へ向ける声ではなかった。起きたら言うつもりの文句だった。


ノラは靴紐をティムの手に置いた。


「返してもらえばいい」


ティムは紐を握りしめた。


「起きたら、自分で結ばせる。俺、布で歩いたんだから。痛くはなかったけど、腹が立った」


エナの顔が、そこで初めて崩れかけた。


泣かなかった。けれど、口元を押さえた手が震えた。ティムに見せないようにしているのに、ティムの方も見ないふりをしていた。


部屋の戸が開いた。


白い布を肩に掛けた医師が出てきた。額に汗が浮いている。年配の男だった。誰かに優しい言葉を選ぶ余裕はなさそうだったが、乱暴ではなかった。


「母親は入っていい。弟も、騒がないなら」


ティムが息を吸った。


エナはすぐには動かなかった。


「触っても」


「手だけだ。体を揺らすな。足元には近づくな。傷が開けば、また止めるところからやり直しになる」


「はい」


エナは返事をしてから、ようやく足を動かした。


ノラは入るつもりはなかったが、ティムが振り返った。


「来ないの」


「家族が先」


「兄ちゃん、あんたのことも聞くと思う」


エナもノラを見た。


「短くでいいなら」


医師が横から言った。


「全員、短くしろ。ここは再会の部屋じゃない。怪我人の部屋だ」


部屋の中は、薬草と血と灰の匂いがした。


リアムは奥の寝台にいた。顔色は紙のように白く、右足には厚く布が巻かれている。荷札は寝台脇の皿に置かれ、汚れた墨でも名前は読めた。


リアム・フォルク。


エナは寝台の横に立ち、左手だけを握った。


「リアム」


返事はなかった。


ティムは寝台の足元へ行きかけて、医師に目で止められた。あわてて横へ回り、靴紐を両手で持ったまま立つ。


「兄ちゃん」


「これ、俺のだからな。勝手に持って行くなよ。布で縛ると、歩きにくいんだぞ」


リアムの指が、ほんの少し動いた。


エナの手がその動きを逃さなかった。目を見開き、すぐに口を引き結ぶ。


リアムのまぶたが震えた。


開いた目は、焦点が合っていなかった。天井を見て、白い布を見て、それから母の顔を探すように動いた。


「……母さん」


エナは息を吸った。


「帰ってきたなら、まず謝りなさい」


リアムの口元が、わずかに動いた。


笑おうとしたのか、謝ろうとしたのか分からない。どちらにしても、痛みに負けた。


「ごめ……」


「寝たままの謝罪は受け取りません。起きてから、ちゃんと聞きます」


ティムが鼻をすすった。


「靴紐も返せよ」


リアムの目が、ティムの手元へ動いた。


色違いの靴紐。


それを見て、リアムは小さく眉を寄せた。


「……借りた」


「勝手に持ってったら、借りたって言わない」


エナがティムを止めなかった。


その文句を残しておけることが、今は何より大事だった。


リアムの唇がまた動いた。


「サジュは」


ノラは前へ出すぎない位置から答えた。


「生きてる。右足は医師が見てる」


リアムの目が、わずかに閉じかけた。


「よかっ……」


「よくない」


エナの声が低くなった。


リアムの目が母へ戻る。


「人の心配をする前に、自分の足を見なさい。薬代のために死にかける子に、私は育てた覚えはありません」


リアムは何か言おうとして、失敗した。


エナは握った手に力を込めた。強すぎないよう、気をつけながら。


「でも、帰ってきた。それだけは、あとで褒めます。今日は怒る方が先です」


ティムが靴紐を握ったまま、ぽろぽろ泣き始めた。


「俺、腹減ってないって嘘つくの、もうやめる」


エナの顔が痛そうに歪んだ。


リアムの指が、ティムの方へ伸びかける。届かない。ティムは自分から近づこうとして、医師に止められ、慌てて足を戻した。


ノラはそれを見ていた。


灰喉の中で聞いた呼び声とは違う。


ここには薬の匂いがあり、血の匂いがあり、ティムの握った靴紐があった。


医師が手を叩いた。


「そこまで。母親は少し残っていい。弟は外へ。怪我人より先に倒れそうな顔をしてる」


ティムは言い返そうとして、エナを見た。


「行って。紐は持っていて」


「兄ちゃんに返す」


「起きてからでいい」


ティムは靴紐を胸の前で握りしめ、部屋を出た。ノラもそれに続こうとする。


その時、エナが声をかけた。


「ノラさん」


声の方へ振り返った。


「ありがとうございます」


戸口にかけた手を下ろした。


礼を受け取るには、リアムの傷が重すぎた。けれど、拒むには、エナの手がまだ震えていた。


「起きたら、本人に文句を言ってください」


エナは薄く笑った。


「文句は、もう山ほどあります」


「なら、足りる」


「足りません。だから、あの子には長く聞いてもらいます」


ノラはうなずいた。


廊下へ出ると、神殿の若い書記が、待合の家族へ一枚ずつ紙を配っていた。


上には救護費減免、その下には小さく奇跡認定申請とある。戻った者が迷宮の声を聞いたか、死者の名を口にしたか、帰還後に同じ夢を見たか。傷の深さより、声の有無を細かく尋ねる紙だった。


エナは受け取った紙を見て、眉を寄せた。


「奇跡ではありません。あの子を運んだ人がいたんです」


書記は困った顔で、治療費を軽くするための手続きです、とだけ答えた。紙の端には、朱い印が押されている。輪の中に、細い門を立てたような印。その下の名を、ノラは歩きながら一度だけ読んだ。


エルマン・オーリス。


紙はエナの手に残った。ノラは印の形だけを覚え、先へ進んだ。


廊下の先では、ティムが壁際で水の入った器を両手で持っていた。飲むより、こぼさないことに必死になっている。


サジュは別の寝台にいて、右足には布が厚く巻かれ、木の添え板で固定されていた。顔色は悪いが息はあり、目がうっすら開いた。


「……リアム」


「隣で母親に怒られてる」


サジュの口元が、痛みに負けながらも動いた。


「なら……よかった」


「起きたら、リアムに言って。俺のために戻るのは、一回でいいって」


サジュは返事をしなかった。


けれど、今度こそ口元が笑いの形になった。


ノラもその後、治療所で捕まった。


肩と背中の傷は洗われ、縫われ、包帯を巻かれた。医師は最後まで不機嫌だったが、縫い目は乱れなかった。


廊下へ戻ると、筆記板を抱えたエリオが、聞きたいことは山ほどある顔で待っていた。それでも、ノラが「あとで」とだけ言うと追いかけてこなかった。


廊下の端で、ティムがこちらを見ていた。靴紐を握ったまま、まだ泣いた顔をしている。だが、さっきより背筋が伸びていた。


ノラが治療所を出ると、冷たい外気の中、戸口の石段で待っていたヨルが足元に寄った。治療所の中へは入らず、鼻先だけを扉へ向けていたらしい。


「クル」


「生きてた」


ヨルは短く鳴き、尻尾の先を一度揺らした。


広場へ戻ると、灰喉の札は剥がされていた。


ノラは足を止めた。


掲示板の端で、男が新しい紙を押さえている。墨はまだ乾いていない。指先が黒く汚れていた。


日払い。


未経験可。


その下の細かい字は、人だかりに隠れて読めなかった。


ヨルが低く鳴いた。


ノラは掲示板を見たまま、腰袋に触れた。


釘の下で、新しい紙が揺れていた。


灰喉の名はない。


それでも、太い字だけは昨日とよく似ていた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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