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迷宮閉葬  作者: Aramaki_mai
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6/13

第6話 まだ叱れる

灰喉が沈んだ翌朝、ノラの小屋には灰の匂いが残っていた。


戸を閉めていても、服から落ちる。髪から落ちる。爪の間に入り込んだ灰は、洗ってもまだ薄く残った。水桶の底は濁り、濡れ布はもう三枚目になる。


机の上には、小さな布包みが一つ置かれていた。


古い髪飾り。


黒ずんだ金具に、ひびの入った飾り石がついている。昨夜、灰喉の胸から奪った核だった。


ノラ・ヴェイルはそれを布で巻き直し、棚の下から木箱を出した。箱の底には、煤釘の耳飾りが別の布に包まれて眠っている。


ノラは髪飾りを隣へ置いた。


蓋に炭筆で書く。


灰喉。


書き終えた時、背中の傷が引きつった。ノラは少しだけ肩を動かし、すぐにやめた。


戸の横で、ヨルが腹をつけて伏せている。昨夜からほとんど動かない。黒い耳だけが、外の音に合わせてわずかに揺れる。


ミミが洗った布を抱えて戻ってきた。


「座ってください」


「もう座ってる」


「ちゃんと座ってください。背中を壁につけないで。血がつきます」


ノラは壁から少しだけ体を離した。


ミミは机の端に布を置き、ノラの肩を見て顔をしかめた。子どもの顔で、大人のように怒る。


「昨日よりひどくなってます」


「昨日も見たの」


「見ました。見せる気がなくても、床に赤い点を作りながら歩けば分かります」


ヨルが小さく鳴いた。


「クル」


「ヨルも。ノラさんが無理に動こうとしたら、少しは袖を噛んで止めなさい」


ヨルは鼻先を前足の下へ隠した。返事をしない時の顔だった。


ミミは包帯をほどきながら、戸口を気にしていた。患者が来たら、先に傷を見せろと言うつもりの顔だった。


その時、戸を叩く音がした。


一度目は遠慮がちに。二度目は、仕事の音で。


ミミが布を持ったまま振り返る。ヨルは伏せたまま鼻だけを動かした。危険な匂いではない。灰と、外套と、灰鷹の建物にあるインクの匂い。


ノラが戸を開けると、外にエリオ・カーンが立っていた。


外套の裾には灰がついている。顔色は悪い。眠っていない顔だった。けれど、昨夜の現場にいた者の顔でもあった。


「朝からすみません」


「サジュは」


エリオは一瞬、息を止めた。それから答えた。


「生きています。右足は、まだ医師が見ています」


ノラの肩から、ほんの少し力が抜けた。


「リアムは」


「治療所です。出血が多くて、まだ起き上がれません。ただ、運び込んだ時には反応がありました。胸元の荷札も確認されています」


「家族は」


「もう治療所にいます。母親と弟さんです。処置中だったので、まだ寝台のそばには入れていません」


重傷者が治療所に運ばれれば、親族は呼ばれる。待てと言われても、戸の外までは来る。誰かが止めても、来る。


ノラは腰袋へ手をやった。


中には、昨夜灰喉の奥で拾った色違いの靴紐が入っている。


「行く」


ミミが後ろから声を上げた。


「その前に肩です」


エリオもノラの肩を見て、表情を変えた。治療所へ着いたら医師に回すつもりの顔だった。


ノラは戸口の横に掛けていた外套を取った。ミミがあわてて包帯を押しつける。


「これ、持っていってください。使わなかったら返してください。血だらけで返したら怒ります」


「血を止めるための布でしょ」


「限度があります」


ヨルが立ち上がった。足元は少しふらついたが、ノラの後ろへつく。


ミミはヨルの頭をそっと撫でた。


「ヨルも、帰ったら寝るんだよ」


「クル」


「返事だけじゃなくて、本当に」


ヨルは今度は鳴かなかった。けれど、少しだけ尻尾を動かした。


町は、昨日よりよく喋っていた。


灰喉が沈んだ話は、もう広場まで来ている。パン屋の戸口では、荷運びの男たちが声を低くして話していた。武器屋の前では、注文が止まると誰かが言っている。薬屋の奥では、灰喉向けの軟膏が余るとぼやく声がした。


「灰喉が本当に閉じたなら、北の荷はどうするんだ」


「短期の連中は別の場所へ回すしかないだろ」


「誰がやったんだ」


「死人は前から出てた。だが、穴が沈むのは困る」


ノラは足を止めなかった。


エリオも、何も言わなかった。灰鷹の隊員として、町の不満を聞き流す顔をしている。けれど、流しきれてはいない。指先が筆記板の角を何度もなぞっていた。


掲示板の前を通る。


灰喉の札は、半分だけ剥がされていた。釘に引っかかった紙の端が残り、そこに書かれていた太い字の一部だけが読める。


日払い。


未経験可。


戦闘なし、の文字は破れていた。


ヨルがその下で鼻を鳴らす。


「行くよ」


ノラが言うと、ヨルは掲示板から顔を背けた。


治療所は、広場の北側にあった。


白い壁ではない。古い石造りの建物だ。戸口には血を洗った水の匂いと、煮沸した布の湯気が混じっている。中では誰かが歩き回り、桶を置く音、布を絞る音、低い指示の声が重なっていた。


エリオが先に入った。


救護係が奥を示す。戸の前に、母親と弟がいるらしい。


ノラが廊下の奥へ進むと、女と少年が立っていた。少年は片方だけ紐のない靴を気にして、布の結び目を何度も押さえている。


ノラは腰袋の上から靴紐に触れた。


奥の廊下に、女が立っていた。


痩せた人だった。三十代にも四十代にも見える。眠っていない目をしている。髪は乱れていない。乱れないように、何度も結び直した跡があった。


その隣に、少年がいる。リアムよりずっと幼い。片方の靴には紐がなく、細く裂いた布で代わりに縛ってあった。


女はノラを見た。


灰鷹の隊員と一緒に来た、血の匂いを残した若い女。そこまで見ても、すぐには何者か分からない顔だった。


「息子のことで?」


「ノラ・ヴェイル」


ノラが名乗ると、エリオが横から少しだけ補った。


「現場で見つかったものを預かっていた方です」


「エナ・フォルクです」


エナは名乗ってから、すぐに寝台のある部屋の戸へ視線を戻した。


「灰鷹の方は、生きているとだけ言いました。医師の先生も同じことを言いました。でも、まだ会わせられないって」


「処置中なら、待つしかない」


「分かっています」


分かっている声ではなかった。


分かろうとして、必死に形を保っている声だった。


ティムがノラの腰袋を見た。


「兄ちゃんのもの、持ってる?」


エナが振り返る。


「ティム」


「だって、灰鷹の人、荷札は本人と一緒だって言った。でも、他にも落ちてたかもしれないだろ」


ノラは腰袋から布に包んだ靴紐を出した。


色違いの靴紐。


灰喉の奥で拾った時より、灰は落としてある。けれど、擦り切れた部分にはまだ黒ずみが残っていた。


ティムの目が大きくなった。


「それ、俺のだ」


ノラは差し出した。


ティムは受け取る前に、自分の靴を見下ろした。布で縛った片方の靴。それから、ノラの手の中の紐を見る。


「兄ちゃん、勝手に持ってった」


文句の形をしていた。


でも、死んだ人へ向ける声ではなかった。起きたら言うつもりの文句だった。


ノラは靴紐をティムの手に置いた。


「返してもらえばいい」


ティムは紐を握りしめた。


「起きたら、自分で結ばせる。俺、布で歩いたんだから」


その言い方は、リアムが目を覚ますと決めている子どもの文句だった。


エナの顔が、そこで初めて崩れかけた。


泣かなかった。けれど、口元を押さえた手が震えた。ティムに見せないようにしているのに、ティムの方も見ないふりをしていた。


部屋の戸が開いた。


白い布を肩に掛けた医師が出てきた。額に汗が浮いている。年配の男だった。誰かに優しい言葉を選ぶ余裕はなさそうだったが、乱暴ではなかった。


「母親は入っていい。弟も、騒がないなら」


ティムが息を吸った。


エナはすぐには動かなかった。


「触っても」


「手だけだ。体を揺らすな。足元には近づくな。傷が開けば、また止めるところからやり直しになる」


「はい」


エナは返事をしてから、ようやく足を動かした。


ノラは入るつもりはなかった。


けれど、ティムが振り返った。


「来ないの」


「家族が先」


「兄ちゃん、あんたのことも聞くと思う」


エナもノラを見た。


「短くでいいなら」


医師が横から言った。


「全員、短くしろ。ここは再会の部屋じゃない。怪我人の部屋だ」


それは冷たくはなかった。


冷たくしてでも、守るものを間違えない声だった。


部屋の中は、薬草と血と灰の匂いがした。


リアムは奥の寝台にいた。


顔色は紙のように白い。髪にも耳にも灰が残っている。右足には厚く布が巻かれ、腰のあたりから下は別の布で支えられていた。処置の邪魔になるから外されたのだろう。荷札は寝台脇の小さな皿に置かれている。名前の墨は汚れていたが、読めた。


リアム・フォルク。


本人と一緒に、地上へ出た証拠だった。


エナは寝台の横に立った。


抱きしめることはできない。頬に触れることも、ためらった。少し触れるだけでも壊してしまいそうなほど、リアムは細く見えた。


だから、エナは左手だけを握った。


「リアム」


返事はなかった。


ティムは寝台の足元へ行きかけて、医師に目で止められた。あわてて横へ回り、靴紐を両手で持ったまま立つ。


「兄ちゃん」


声が震えていた。怒ろうとして、うまく怒れない声だった。


「これ、俺のだからな。勝手に持って行くなよ。布で縛ると、歩きにくいんだぞ」


リアムの指が、ほんの少し動いた。


エナの手がその動きを逃さなかった。目を見開き、すぐに口を引き結ぶ。声を上げれば、ようやく動いた指まで消えてしまうと思ったのかもしれない。


リアムのまぶたが震えた。


開いた目は、焦点が合っていなかった。天井を見て、白い布を見て、それから母の顔を探すように動いた。


「……母さん」


エナは息を吸った。


怒る言葉も、泣く言葉も、喉の手前でぶつかった。


「帰ってきたなら、まず謝りなさい」


リアムの口元が、わずかに動いた。


笑おうとしたのか、謝ろうとしたのか分からない。どちらにしても、痛みに負けた。


「ごめ……」


「寝たままの謝罪は受け取りません。起きてから、ちゃんと聞きます」


ティムが鼻をすすった。


「靴紐も返せよ」


リアムの目が、ティムの手元へ動いた。


色違いの靴紐。


それを見て、リアムは小さく眉を寄せた。


「……借りた」


「勝手に持ってったら、借りたって言わない」


エナがティムを止めなかった。


その文句を言えることが、今は何より大事だった。


リアムの唇がまた動いた。


「サジュは」


部屋の空気が少し変わった。


ノラは前へ出すぎない位置から答えた。


「生きてる。右足は医師が見てる」


リアムの目が、わずかに閉じかけた。


「よかっ……」


「よくない」


エナの声が低くなった。


リアムの目が母へ戻る。


「人の心配をする前に、自分の足を見なさい。薬代のために死にかける子に、私は育てた覚えはありません」


リアムは何か言おうとして、失敗した。


エナは握った手に力を込めた。強すぎないよう、気をつけながら。


「でも、帰ってきた。それだけは、あとで褒めます。今日は怒る方が先です」


ティムが靴紐を握ったまま、ぽろぽろ泣き始めた。


「俺、腹減ってないって嘘つくの、もうやめる」


エナの顔が痛そうに歪んだ。


リアムの指が、ティムの方へ少しだけ伸びかける。届かない。ティムは自分から近づこうとして、医師に止められ、慌てて足を戻した。


ノラはそれを見ていた。


灰喉の中で聞いた呼び声とは違う。


ここには薬の匂いがあり、血の匂いがあり、ティムの握った靴紐があった。


医師が手を叩いた。


「そこまで。母親は少し残っていい。弟は外へ」


「え」


「怪我人より先に倒れそうな顔をしてる。水を飲め」


ティムは言い返そうとして、エナを見た。


エナはうなずいた。


「行って。紐は持っていて」


「兄ちゃんに返す」


「起きてからでいい」


ティムは靴紐を胸の前で握りしめ、部屋を出た。ノラもそれに続こうとする。


その時、エナが声をかけた。


「ノラさん」


ノラは振り返った。


「ありがとうございます」


ノラはすぐに返事をしなかった。


礼を受け取るには、リアムの傷が重すぎた。けれど、拒むには、エナの手がまだ震えていた。


「起きたら、本人に文句を言ってください」


エナは薄く笑った。


笑いというより、泣くのをこらえた顔が少しだけ別の形になったものだった。


「文句は、もう山ほどあります」


「なら、足りる」


「足りません。だから、あの子には長く聞いてもらいます」


ノラはうなずいた。


それでよかった。


治療所の廊下へ出ると、ティムが壁際で水の入った器を両手で持っていた。飲むより、こぼさないことに必死になっている。


サジュは別の寝台にいた。


エリオが案内するまでもなく、奥の小部屋から医師の指示と布を替える音が聞こえていた。ノラが戸口に立つと、灰鷹の隊員が少し身を引いた。


右足は厚く巻かれ、木の添え板で固定されている。顔色は悪いが、息はあった。寝台の横には、替えたばかりの濡れ布が畳まれている。


サジュの目がうっすら開いた。


「……リアム」


声はほとんど空気だった。


ノラは寝台の横に立った。


「隣で母親に怒られてる」


サジュの口元が、少しだけ動いた。


笑おうとして、痛みで失敗した顔だった。


「なら……よかった」


「君も、動こうとした分は医師に数えられてる」


「それは、嫌だな」


隊員が横から言った。


「もう数えられています。三回です」


サジュは目を閉じた。逃げるような閉じ方だった。


ノラは水袋の位置と布の締めを見た。灰鷹の処置は粗くない。手も足りている。ここでノラが触る必要はなかった。


「起きたら、リアムに言って」


サジュのまぶたが少し動く。


「何を」


「置いていくな、は一回でいいって」


サジュは返事をしなかった。


けれど、口元が今度は少しだけ笑いになった。


ノラもその後、治療所で捕まった。


肩と背中の傷は洗われ、縫われ、包帯を巻かれた。医師は最後まで不機嫌だったが、縫い目は乱れなかった。


廊下へ戻ると、エリオが筆記板を抱えて待っていた。板の上には、すでにいくつか書きつけがある。ノラの動き、サジュの位置、白い布、奥の崩落。聞きたいことは山ほどある顔だった。


ノラが「あとで」とだけ言うと、エリオは困ったように眉を下げた。追いかけては来なかった。今ここで問い詰めるより、寝台の上にいる二人を優先したのだろう。


廊下の端で、ティムがこちらを見ていた。靴紐を握ったまま、まだ泣いた顔をしている。だが、さっきより少しだけ背中が伸びていた。


ノラは治療所を出た。


外の空気は冷たかった。灰喉の灰がまだ遠くで薄く舞っているのか、朝の光が少し白く濁っている。


ヨルが戸口の石段で待っていた。治療所の中へは入らず、鼻先だけを扉へ向けていたらしい。ノラが出てくると、足元に寄った。


「クル」


「生きてた」


ヨルは短く鳴き、尻尾を少しだけ揺らした。


広場へ戻ると、灰喉の札は剥がされていた。


釘だけが残っている。紙の跡が白く浮き、そこに昨日までの太い字がまだ残っているように見えた。


ノラは足を止めた。


掲示板の端で、男が新しい紙を押さえている。墨はまだ乾いていない。指先が黒く汚れていた。


日払い。


未経験可。


その下の細かい字は、人だかりに隠れて読めなかった。


ヨルが低く鳴いた。


ノラは掲示板を見たまま、腰袋に触れた。


靴紐はもうない。ティムの手に戻った。リアムが起きたら、自分で結び直すだろう。文句を言われながら。母親に怒られながら。


釘の下で、新しい紙が揺れていた。


灰喉の名はない。


それでも、太い字だけは昨日とよく似ていた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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