第5話 人の声で
灰喉の奥で、裂けた喉が笑った。
「救助屋」
リアムの声だった。
ノラは短剣を構えたまま、踏み込まなかった。
足元には灰が厚く積もっている。ところどころ色が違った。踏めば抜ける場所がある。怒りで足を出せば、床ごと落ちる。
背後には、石板に挟まれたリアムの体がある。
胸元には荷札。腰袋には、片方だけ色の違う靴紐。
手前の裂け目では、灰鷹が動いているはずだった。
さっきまで届いていた声は、今はもう岩に吸われている。代わりに、担架の金具が石を叩く音と、複数の足が灰を踏む音だけが、奥から細く伝わってくる。
サジュの声は聞こえない。
それでも、あの場所が空のまま放られていないことだけは分かった。
ノラの足元で、ヨルが身を低くした。鳴かない。黒い鼻先だけが、灰の奥を探っている。
灰の向こうに、痩せた人影が立っていた。
若者の形をしている。肩は細く、腕も骨ばっている。けれど、首が長すぎた。喉には裂け目がいくつもあり、その奥で別々の舌が湿った音を立てている。
灰鳴り。
裂けた喉が、またリアムの声を出した。
「サジュ、動くなよ」
ほんの少し、ノラの足が前へ出かけた。
さっきまで、リアムが本当にそう言っていた。痛みでかすれ、怖さを隠し損ね、それでも誰かを気にしていた声。
だが、今の声には熱がなかった。
言葉の形だけを拾い、灰の中で乾かして鳴らしている。
ノラは短剣を握り直した。
「その声は、お前のものじゃない」
灰鳴りが首を傾けた。
「お前は、また一人だけ選ぶ」
次の瞬間、腕が伸びた。
人の腕ではなかった。肘から先が灰の縄のようにしなり、指先が刃の形に裂ける。ノラは横へ沈み、短剣で受けずに身を抜いた。
灰の刃が壁を削った。石粉が灯りの中に散る。
近い。
声で誘うだけの魔物ではない。声で止め、止まったところを裂く魔物だ。
ノラは踏み込みかけて、すぐに足を引いた。足場が崩れた。床に穴がある。
灰鳴りは、そこを踏まなかった。
知っている。
自分の穴を、足場まで覚えている。
裂けた喉のひとつが、柔らかい大人の声を鳴らした。
「三日だけだ。戻れば、少しは楽になる」
ノラの視界に、広場の札がよぎった。
日払い。未経験可。戦闘なし。
その一瞬を、灰鳴りは待っていた。
折れた短剣が、灰の中から突き出された。いつ拾ったのか、死体から奪ったのか。錆びた刃の先だけが鋭い。
ノラはかわしきれなかった。
肩の布が裂け、熱い血が腕へ伝う。
下がらない。
ノラは逆に一歩詰め、灰鳴りの手首へ刃を入れた。硬い。骨ではなく、乾いた木を削るような手応えが返った。手首が半分裂け、折れた短剣が落ちる。
灰鳴りは痛がらなかった。
別の腕が、腹の横から伸びた。
ノラは肘で受けた。重い。小柄な体が壁へ押しつけられる。灯りが揺れ、天井から灰が落ちた。
ヨルが灰鳴りの足元を抜けた。
噛みつかない。爪も立てない。低い姿勢で懐へ滑り込み、胸元を一瞬だけ嗅ぐ。
尾がぴんと止まった。
ノラは見た。
裂けた喉の下。胸の奥。灰の膜が薄く脈を打っている。その向こうに、小さな影があった。
細く曲がった、古い髪飾り。
核。
灰鳴りの喉が一斉に開いた。
「見るな」
腕がヨルへ振られた。
ノラは壁を蹴った。
傷と重さを置いたまま、体を横へ押し出す。膝が灰鳴りの腕に入った。
乾いた音がした。腕が曲がる。ヨルはその下をすり抜け、ノラの背後へ回った。
灰鳴りが、リアムの声で笑った。
「俺を置いていくのか」
ノラの動きが、半歩だけ鈍った。
その半歩で、灰鳴りの顔が近づく。もう若者の顔ではなかった。頬が裂け、眼窩が広がり、誰のものでもない顔へ崩れていく。
「この穴は必要だ」
喉の奥で、別の声が混じった。
「戻る場所のない子の穴も閉じる気か?」
ノラは、灰鳴りの胸の膜を見た。
そこに集まっているのは、髪飾りだけではない。帰りたい声。怖かった声。誰かを呼んだ声。逃げた言い訳。送り出した言葉。
全部、灰喉が食っている。
ノラは壁に背を当てたまま、短剣を握り直した。
「私が全部救えないことを、お前に言われる筋合いはない」
灰鳴りの喉が震えた。
「大人たちが、お前を必要だと言っても、私はいらない」
黒い血が、ノラの袖から落ちた。灰の上で小さくにじむ。
「人を呼ぶために声を残す穴なら、ここで終わりだ」
灰鳴りがリアムの声を探した。
喉の裂け目が、ひとつずつ開く。もう一度、あの子の言葉でノラを止めるつもりだった。
吐き出される前に、ノラは言った。
「二度と喋るな」
黒い熱が、両手に宿った。
「人の声で」
ノラは踏み込んだ。
灰鳴りの腕が三本伸びる。
一本目を肩で外す。裂けた傷がまた開いた。
二本目が頬をかすめる。血が飛んだ。
三本目が腹へ届く前に、ノラは懐へ入っていた。
近すぎる距離。
灰鳴りの長い腕は、伸びきる前に詰まる。ノラの短剣も振れない。
だから、拳を使った。
黒い熱を宿した拳が、裂けた喉へ入る。
柔らかいものを殴った感触ではなかった。乾いた殻の中に、濡れた袋がいくつも詰まっている。そんな嫌な手応えだった。
声が折れた。
リアムの声も、知らない若者の声も、柔らかい大人の声も、途中で潰れた。
灰鳴りが初めて、言葉にならない音を出した。
ノラは止まらない。
足場が崩れる前に、さらに半歩入る。短剣を捨て、空いた左手で灰鳴りの胸元をつかんだ。
右拳を、灰の膜へ叩き込む。
膜が割れた。
灰が噴き出し、視界が白く塗られる。鼻の奥が熱い。血が口に入った。膝が抜けそうになる。
ヨルが低く鳴いた。
「クルッ」
合図。
ノラはもう一度、拳を入れた。
今度は殴るだけではない。膜の奥に指を差し込み、硬い殻を探る。
嫌な手つきだった。
人の懐から盗むために覚えた癖。捨てても、捨てても、指が先に思い出す技術。
けれど今は、命を食う穴から核を奪うために使う。
指先に、殻の縁がかかった。
灰鳴りが暴れた。
喉を潰されても、腕は動く。背中に刃のような爪が入った。痛みで息が散る。
ノラは指を離さなかった。
「返せ」
殻が割れた。
中から出てきたのは、古い髪飾りだった。
黒ずんだ金具に、ひびの入った小さな飾り石がついている。その髪飾りを中心に、灰喉の壁は脈を打っていた。
ノラは髪飾りを握った。
灰鳴りの体が大きく震える。
裂けた喉が、何かを言おうとした。リアムの声を探したのか、サジュの声を探したのか、送り出した大人の声を探したのか。
出てきたのは、灰を擦るだけの音だった。
ノラは髪飾りを引き抜いた。
灰喉が沈んだ。
音は下から来た。地鳴りではない。巨大な喉が、息を詰まらせたような音だった。
壁が内側へ縮む。天井から灰が滝のように落ちる。通路の奥で、魔物がいくつも吠えた。
灰鳴りの体が崩れていく。
若者の形が失われる。腕がほどける。胸の穴から灰がこぼれ、裂けた喉は開いたまま震えていた。
もう、人の言葉にはならなかった。
ノラは髪飾りを布で包む暇もなく、腰袋の奥へ押し込んだ。
「ヨル」
ヨルはすでに走っていた。
来た道は狭くなっている。さっき通れた裂け目が、肩を削るほどに閉まりかけていた。ノラは身を横にして抜ける。背中の傷が壁に擦れ、視界が白く弾けた。
それでも止まらない。
リアムのいた場所へ戻る。
小灯りは、まだ岩のくぼみに残っていた。火は細い。灰をかぶり、今にも消えそうだった。
石板はさらに沈んでいた。
リアムの体は灰にまみれている。胸元の荷札も、顔も、白く汚れていた。
ノラは膝をついた。
「リアム・フォルク」
返事はなかった。
だが、灰の奥からも返ってこなかった。
ノラはリアムの首へ指を添えた。
脈がある。弱い。けれど、灰喉の奥ではなく、ここにある。
戻っている。
リアムの声は、体の中に戻っている。
ノラは石板の縁を見た。
核を抜いたせいで、周囲の壁が縮んでいる。石板の角度も、少し変わっていた。挟まれている場所は悪い。だが、悪いことばかりではない。砕けた木箱の板が一本、石の下へ斜めに噛んでいる。
支えに使える。
ノラは板を蹴って位置を変え、石と床の隙間へ差し込んだ。
「右へ。声の方じゃない。私の方」
リアムは息を吸い損ねた。
「足、動かない」
「足で行こうとしないで。腰をずらして。左手で床を押す。荷札は握らなくていい。名前はそこにある」
リアムの指が、胸元へ行きかけて止まった。
荷札はまだ付いている。
本人と一緒に出すために。
ノラは石板の縁に両手をかけた。黒い熱が指の奥で跳ね、手首から肘へ食い上がる。骨の芯が軋み、鼻から落ちた血が唇に触れた。
それでも、手は離さない。
「今度は、壊さない。合わせて」
リアムはうなずけなかった。ただ、左手を床に押しつけた。
ノラは息を止め、両手に熱を込めた。
石板が持ち上がる。
ほんのわずかだった。人ひとりを楽に抜けるほどではない。けれど、さっきまで潰していた重さが、一瞬だけ逃げる。
差し込んだ木板がきしんだ。
「今」
リアムが体をずらした。
声にならない痛みが、喉で潰れた。新しい血がにじむ。けれど、体は壊れなかった。石の下から腰が抜ける。左足が続く。右足は力を失ったままだった。
ノラは石板から片手を離し、リアムの上着の背をつかんだ。
「こっち」
肩で押し、引きずるように外へ出す。
木板が割れた。
石板が落ち、灰が跳ねる。
リアムの体が、石の外へ出た。
ノラはすぐに布を当て直した。傷は開いている。白魔法はほとんど残っていない。光は薄く、指の間で消えそうだった。
それでも、血の勢いだけは抑える。
リアムのまぶたは閉じかけていた。呼吸は荒い。けれど、さっきのように灰喉の奥へ引かれてはいない。
「リアム、聞いて。眠らないで。灰鷹が来る」
返事はなかった。
ノラは傷に当てた布を押さえたまま、もう一度呼んだ。
「リアム・フォルク。聞こえるなら、指を動かして」
胸元で、リアムの指がかすかに動いた。
荷札の紐が、小さく揺れる。
岩の向こうで、足音が近づいた。担架の金具が石に当たり、灯りの揺れが壁をなぞる。
ノラは小灯りの位置を少しずらした。隊員の目に、リアムの顔と胸元の荷札が入るように。
荷札は持ち帰らない。
このまま、本人の胸元に残す。
それだけ整えて、ノラはヨルへ目を向けた。
ヨルが別の裂け目へ鼻を向けている。
細い。人が通るには狭すぎる。だが、壁の途中に突起がある。足をかければ、体を斜めにして抜けられるかもしれない。
ノラは腰袋を押さえた。
核はここにある。
リアムは灰鷹に渡せる。サジュも運ばれている。ここで姿を見られれば、救助屋ではなく、迷宮核を奪った者として止められる。
ノラは立ち上がった。
「行くよ」
ヨルが裂け目へ滑り込む。
ノラはその後を追った。
背中が擦れる。肩がつかえる。腰袋の中で、髪飾りと靴紐が硬く当たった。
落とせない。
黒い熱を両手に集める。
使いすぎている。分かっていた。鼻血がまた落ちる。視界が斜めに揺れる。けれど、外の空気はまだ遠い。
ノラは岩の縁をつかんだ。
腕で体を引き上げ、膝を押し込む。背後で通路が潰れた。灰が噴き出し、足首を飲み込もうとする。
ヨルが前方で、腰袋の紐を噛んだ。
ノラの服ではない。
腰袋だ。
中身ごと引くつもりなのか、ノラを引くつもりなのか分からない。小さな体で、必死に後ろへ下がっている。
「落とさない」
声がかすれた。
ノラは最後に一度、岩を蹴った。
裂け目を抜けた先は、入口脇の崩れた石柱の裏だった。
夜気が顔を打つ。
外だった。
ノラは膝をつき、片手を地面についた。肺が灰を吐こうとして咳き込む。血の味が濃い。肩も背中も痛む。
けれど、腰袋の重さは残っている。
少し離れた場所で、灰鷹が人を運んでいた。
担架の上に、サジュがいた。顔は白い。右足には布が何重にも巻かれている。隊員の一人が押さえ、もう一人が灯りを掲げて走っていた。
その奥でも、灯りが動いている。
ノラが置いた小灯りではない。灰鷹の灯りだ。岩の奥から揺れながら近づき、誰かを囲むように止まった。
リアムの方だ。
ノラは石柱の影に身を沈めた。
追えば、声をかけられる。リアムが運ばれるところを見届けられるかもしれない。灰鷹に礼を言うべきかもしれない。
けれど今は、灰喉の核が腰にある。
ヨルが隣で低く息を吐いた。
灰喉の入口が、奥から崩れていく。石柱が内側へ傾き、灰が噴き上がる。警鐘が鳴った。人々の怒鳴り声が、夜の岩場へ広がった。
その中で、ノラは耳を澄ませた。
リアムを呼ぶ声はしなかった。
サジュを誘う声も、戦闘なしと笑う声も、戻る場所のない子を呼ぶ声も、もう灰の奥からは聞こえない。
人の声は、外にあった。
担架を運ぶ者の怒鳴り声。怪我人に呼びかける声。名前を確認する声。
灰喉の奥に残ったのは、石が砕ける音だけだった。
ノラは腰袋を押さえ、立ち上がった。
灰喉の奥で、まだ何かが崩れている。
けれど、もう人の声はしなかった。
ノラはヨルを連れて、夜の岩場を抜けた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




