第4話 まだ名前を呼べる
灰喉の奥へ進むほど、通路は細くなった。
「荷を捨てるな」
「戻れ」
「三日だけだ」
どれも人間の言葉だった。けれど、人の口から出ているようには聞こえない。灰を詰めた穴の奥が、拾った言葉だけを押し出している。
ノラは灯りを低く持った。
足元には、リアムの血が細く残っている。量は多くない。だが、途中で乱れ、壁にこすれた跡へ変わっていた。這ったのか、引きずられたのか。まだ決めるには早い。
ヨルは鳴かなかった。
床に鼻を近づけ、灰の上を何度も確かめている。尻尾は低い。耳も伏せている。それでも、足は止めない。
通路が落ちていた。
床の半分が崩れ、灰を吐く裂け目が口を開けている。向こう側に、細い通路が続いていた。壁には爪の跡がある。人の爪ではない。何かが何度も通った跡だ。
ヨルが向こう側を見た。
「クルッ」
短く、低い。
ノラは縄を出した。鉤を壁の割れ目へ投げる。一度目は灰に滑った。二度目で、硬い音が返る。強く引く。もつ。
裂け目の幅は、身軽なら越えられる。だが、帰りに同じように越えられるとは限らない。リアムを見つけても、背負って戻るには厳しい。
「見てから決める」
今ここで足を止めれば、リアムの匂いは薄くなる。
ノラは走り、崩れた縁を蹴った。
足の奥で黒い熱が跳ねる。体が軽くなったわけではない。重い体を、無理やり前へ押し出される。向こう側の壁に肩を打ちつけ、鉤縄へ腕をかけた。灰が顔に散る。
着地した時、膝が少し笑った。
鼻の奥が熱い。まだ血は落ちていない。ノラは灯りを持ち直した。
ヨルが先へ進む。
通路の先で、少年の声がした。
「サジュ」
今度の声には、かすれがあった。
灰が鳴らした声ではない。痛みを抱え、名前を呼ぶ力だけを残した声だった。
ノラは足を速めた。
「リアム」
返事はすぐには返らなかった。
曲がり角を抜けると、そこだけ床が広く落ち込んでいた。補給用の木箱が砕け、干し豆と包帯が灰にまみれている。上から崩れた石板が斜めに突き刺さり、その下に少年の体が挟まっていた。
リアム・フォルクだった。
片方だけ色の違う靴紐はない。手前の通路で拾ったものと同じ靴が、片足だけ灰の中から見えている。肩の荷紐は切れかけ、胸元の荷札は灰で汚れていた。名前の墨だけが、辛うじて読める。
リアムはノラを見て、最初に別の名前を出した。
「サジュは」
「手前にいる。足を固定した。水と灯りも置いた。灰鷹が来れば引き抜ける」
リアムの目に、少しだけ力が戻った。安心しきった顔ではない。自分だけ奥に落ちたことを、まだ受け入れていない顔だった。
「俺が戻ったから」
「そう聞いた」
「呼ばれたんじゃない。俺が勝手に戻った。あいつが挟まって、班の奴らは走って……そのままにできなかった」
ノラは膝をついた。
石板の下を見た。挟まれている場所が悪い。無理に引けば、押さえられていた血が一気に抜ける。白魔法で傷を塞ぐにも、石が乗ったままでは届かない箇所がある。
リアムの顔は灰で汚れている。目だけが、まだ生きていた。
「痛みを少し落とす」
「頼む」
「リアム聞いて。眠らないで。眠ってしまったら私一人では外へ出せない」
リアムは笑おうとして、痛みに顔をしかめた。
「……起きてる。だから、早くしてくれ」
ノラは布を裂き、傷の見える場所へ押し当てた。白魔法を細く流す。光は薄い。煤釘で使った分、サジュで使った分、残りは多くない。それでも、血の勢いは少し弱まった。
その時、奥で声が鳴った。
「サジュ、こっちだ」
リアムの声だった。
石板の下にいるリアムは、口を動かしていない。
ヨルが体を低くした。リアムの顔ではなく、灰の奥を見ている。鼻先が細かく震えた。
リアムの表情がこわばった。
「今の、俺?」
「喋らなくていい」
「俺、言ってない」
「分かってる」
ノラはリアムの胸元へ手を当てた。心臓は弱く打っている。体はここにある。生きている。けれど、声だけが先に奥で鳴った。
灰喉は、まだリアムを殺していない。
殺す前に、引き始めている。
「母さんには、荷運びって言った。灰喉って言ったら、止めるから」
「だから黙って出た?」
「帰るつもりだった。サジュを置いて行ったら、俺が俺じゃなくなる気がした」
言葉の終わりがかすれた。
リアムは強い子ではない。怖くなかった子でもない。怖さを抱えたまま、逃げ道を細くして、自分の足で戻っただけだ。
ノラは石板の縁へ指をかけた。
普通なら動かない。大人が数人いて、支えを入れ、角度を作って、ようやく動かす重さだ。一人で持ち上げるものではない。
それでも、黒い熱が腕の内側で動いた。
ノラはそれを嫌った。嫌いでも、今は拒めない。力があるなら使う。救助屋は、好き嫌いで手段を選べるほど綺麗な仕事ではない。
「リアム。石が少し浮いたら、体を右へずらせる?」
「右って、どっち」
「声がする方と反対」
「それなら、分かる」
ヨルが石板の隙間へ鼻を近づけた。鳴かずに、場所を示す。そこだけ少し空いている。だが、狭い。抜けるには足りない。
ノラは黒い熱を腕に集めた。
骨がきしむ。肩の奥が熱を持つ。視界の端が白くにじんだ。石板は動かない。さらに力を込める。灰が指の間に食い込む。
石板が、ほんのわずか浮いた。
「今」
リアムが体を動かした。
次の瞬間、石の下から新しい血が広がった。押さえられていた傷が開いた。リアムは声を出せず、顔だけを歪めた。
同時に、奥でリアムの声が強く鳴った。
「俺はこっちだ」
ヨルが低く唸った。
ノラはすぐに力を抜いた。
石板が落ちる。灰が跳ねた。
持ち上げることはできた。
けれど、引き抜けば壊れる。血だけではない。リアムの声が、体から離れるように奥へ引かれた。
ノラは布を押し当て、白魔法を流し直した。光はさっきより弱い。指先が震える。魔力の限界か、闇憑きの反動か、区別している暇はなかった。
リアムは荒く空気を吸い、顔を歪めた。
「体が、置いていかれるみたいだ」
その言い方で、ノラは分かった。
痛みではない。傷のせいでもない。灰喉が、体の奥からリアムを引いている。
「俺の声が、穴の奥に行ったみたいだ」
ノラは返事をしなかった。
隠せる段階ではない。だが、言葉を間違えれば、リアムの意識が灰の方へ傾く。
ノラは荷札の名前を指で払った。
「自分で名前を言ってみて」
リアムは困ったように眉を寄せた。
「なんで?」
「言って」
リアムは息を整えようとした。最初の音が出ない。
奥で、先に声が鳴った。
「リアム・フォルク」
ヨルの毛が逆立った。
名前まで先に呼ばれた。
迷宮は、人の声と名前を足がかりに魂を引く。声だけなら、まだ呼び戻せる。だが、名前まで先に握られると、魂は戻る場所を失う。
自分で名乗れなくなった者は、たいてい奥へ持っていかれる。
ノラはリアムから目を離さなかった。
「君が言う」
リアムは唇を動かした。
「リアム……フォルク」
かすれていた。途中で途切れかけた。けれど、石板の下から出た。灰の奥ではなく、リアム自身から出た。
ノラは短く息を吐いた。
「まだ名前を呼べる」
リアムは、少し遅れてその意味を受け取った。
「なら?」
「まだ灰喉のものじゃない。取り返せる」
奥の灰がざわめいた。
その音に混じって、別の声がした。
「救助屋」
若い男の声だった。リアムではない。班の誰かでもない。もっと乾いた、灰の奥で何度も削れた声。
ノラは灯りを上げた。
灰の奥に、痩せた人影が立っていた。
若者の形をしている。けれど、首が長すぎる。喉には裂け目がいくつもあり、その奥で別々の舌が湿った音を立てていた。
灰鳴り。
ヨルがノラの足元へ戻り、低く身を沈める。
裂けた喉の一つが、リアムの声で笑った。
「母さん」
リアムの指が灰を掻いた。
ノラはすぐに言った。
「返事をしない」
リアムは声を出しかけて、歯を食いしばった。自分の声に返事をしかけた体を、ぎりぎりで止めた。
「……今の、母さんの声」
「聞くな。灰喉が混ぜてる」
灰鳴りがまた喉を開いた。
「帰っておいで」
母親の声に似ていた。
リアムの目が揺れた。
ノラは肩を押さえた。強くは押さない。痛みで止めるのではなく、ここに体があることを知らせるためだった。
「リアム・フォルク」
返事はない。
今度は、唇も動かなかった。
灰の奥で、同じ名前が鳴った。
「リアム・フォルク」
リアムの視線がノラを通り過ぎた。焦点が合わない。次の瞬間、まぶたが落ちた。
石板の下の体は、まだ浅く息をしている。
けれど、呼んでも戻ってこない。
意識だけが眠ったのではない。魂の方を、灰喉に強く引かれている。
ヨルが鳴かずに、ノラの袖を噛んだ。
引き留めるのではない。急げ、と言っている。
ノラは奥歯を噛んだ。
まだ死んでいない。
だが、もう会話で引き戻せる場所にはいない。
ノラは荷札に触れた。まだ外さない。遺品にしない。本人と一緒に地上へ戻すため、胸元に残す。
遠くから、灰鷹の声が届いた。
「サジュ、意識あるぞ!」
「箱を支えろ、足を引くな!」
隊はまだ手前にいる。ここまでは来ていない。
ノラは返事をしなかった。
今、声を張れば、灰鳴りにも灰鷹にも行き先を知らせる。奥へ進む理由を聞かれれば、答えられない。リアムを動かせない本当の理由も、全部は言えない。
核を奪うことは、救助の手順ではなく罪として扱われる。灰鷹の前で口にすれば、止められる。止められれば、リアムの魂は灰喉に残る。
ノラは傷の布を結び直した。きつくしすぎれば血が止まりすぎる。ゆるければ持たない。指先で確かめ、もう一度白魔法を流す。
光は薄い。
これで治せるわけではない。ただ、体が魂を待てる時間を少し伸ばすだけだ。
ノラは短剣の先で、石板の横に短く印を刻んだ。
動かすな。
文字ではない。灰鷹が現場で使う、支え待ちの印だ。ここは見つけてもらう場所ではなく、動かしてはいけない場所だった。
ノラは腰袋の紐を締め直した。さっき布袋へ入れた色違いの靴紐が、中で小さく当たる。荷札はまだリアムの胸元にある。あれは本人と一緒に出す。
灰鳴りが笑った。
「置いていくのか」
リアムの声だった。
「また一人だけ選ぶのか」
別の声が重なる。
ノラは歩き出した。
「違う」
声は低く、灰に沈まなかった。
「取り返す」
灰鳴りの影が奥へ滑る。裂けた喉が、まだリアムの声を探している。
ノラは一度だけ振り返った。
「リアム・フォルク」
石板の下の少年は答えなかった。
代わりに、灰の奥で名前が笑った。
ノラの足元で黒い熱が脈を打つ。今すぐ走れば届く。だが、怒りで踏み込めば、道を見失う。核を取っても、戻れなければ救助にならない。
ヨルが先へ出た。
鼻を床に寄せ、灰鳴りの影ではなく、その奥の匂いを追っている。核の匂い。声が集まる場所の匂い。
ノラは手の灯りを掲げた。リアムのそばには、予備の小灯りを岩のくぼみに据える。
今のリアムは歩けない。声にも返れない。体はここにあるのに、魂は灰喉へ引かれている。
このまま外へ出しても死ぬ。
だから、先に核を取る。
核を奪えば、引かれたものは体へ戻る。目を開ければ、足に力を入れられる。ノラ一人で背負えなくても、支えれば進ませられる。
その分の時間を、いまの処置で買う。
ノラは灰の奥へ向き直った。
灰鳴りが笑う。リアムの声で。サジュの声で。知らない若者の声で。
ノラは短剣を抜いた。
核を取る。
そのために、奥へ進んだ。
反映した主な修正は、名前確認の会話、母の声への反応、「今の、何」の重複削除、灰鳴りへの返答、核奪取の秘匿です。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




