第3話 見つかり次第
リアム・フォルクが北門から灰喉へ向かった日の夕方、灰鷹から紙が届いた。
ノラ・ヴェイルは、洗った布を絞っていた手を止めた。戸口に立つ若い隊員の外套には、煤釘のものとは違う湿った灰がつき、喉の奥に貼りつくような苦い匂いを放っていた。
寝台の下から、ヨルが顔を出す。
「灰喉です」
隊員は差し出した紙を両手で持ち、その指先にまで灰が入り込んでいた。
ノラは手を拭き、受け取った。
紙の上には、また同じ言葉があった。
所在確認。
灰喉の短期補給班、未帰還二名。続く名前は二つだった。
リアム・フォルク。
サジュ・エルン。
リアムの名で指が止まる。昨日、広場で木片を握っていた少年だった。
「戻った人間はいるんだね」
「います。班の半分は戻りました。二人は後ろにいたと思った、と」
「思っただけで、人を数えなかった」
隊員は目を伏せ、言い返す言葉を持たなかった。
「捜索は」
「隊を組んでいます。ただ、崩落で道が変わっていて、場所がまだ絞れていません。先に匂いを追える者を、と」
ノラは紙を畳んだ。
「火を増やして。灰喉は道を狭める」
「伝えます」
「直接。紙を待つ時間はない」
隊員がうなずくのを見届け、ノラは棚へ向かった。水袋を二つ、包帯を二巻き、短い縄と油袋、目印用の白い布、火打ち石を荷袋へ収め、最後に香袋へ手を伸ばすと、ヨルが耳を伏せた。
「嫌でも持つ」
嫌そうに鼻を鳴らしても、ヨルは逃げなかった。
小屋の奥から、ミミが乾いた包帯を抱えて出てきた。
「濡れてない方。こっち持っていって」
「助かる。戸は内側から閉めて。灰鷹以外は開けない」
「分かってる。ヨル、勝手に先へ走りすぎないでよ」
ヨルは振り返らず、聞こえた証拠に尾の先だけを一度振った。
「そういう返事だけは上手いんだから」
ミミが首にかけた小さな紐を直す間、ヨルは少し不服そうに鳴いていたが、済むとすぐノラの足元へ戻った。
ノラは最後に、油紙を内張りした革の書簡入れを腰へ差した。煤釘で使ったため、中の紙は残り少ない。今日は使わずに済めばいいと思っても、置いていく気にはなれなかった。
小屋を出ると、町の広場はまだ明るかった。
掲示板に、灰喉の札が残っている。
三日契約。日払い。未経験可。戦闘なし。
端は少しめくれていたが、太い字はまだ読めた。ヨルが札を見上げ、低く鼻を鳴らす。
「行くよ」
ノラは足を止めず、北門へ向かった。
灰喉の入口は、町外れの岩場に口を開けていた。
石柱には灰がこびりつき、奥から息のような音が返ってくる。重なった荷車の轍には新しいものもあり、そのうち一筋だけが途中で大きく乱れていた。
ノラはしゃがみ、泥の端を指で押した。
指先についた泥は、まだ乾ききっていない。
「リアム・フォルク。サジュ・エルン」
ノラは二つの名を舌の上でもう一度転がし、灰喉の闇へ向けて息を吸った。奥で見つけた時、顔を知らなくても呼び止められるように、発音だけは間違えず覚えた。
ヨルが先に入った。
灰喉の中は、浅層とは思えないほど息苦しかった。天井は低く、壁の灰は湿っている。灯りを近づけると、石の隙間に古い荷紐が引っかかっていた。
補給置き場までは、すぐに着いた。木箱が割れて乾いた豆が灰の上へ散り、封も切られていない包帯の束まで踏まれている。誰かを手当てするより先に、荷を捨てて逃げたのだ。
ノラは足跡の凹凸が見えるよう、灯りを脇へ伏せた。
「後ろにいたと思った、ね」
入口へ向かう足跡は深いのに、振り返って探した跡は少ない。倒れた人間を避けるように乱れた足運びが、そのまま灰の上に残っていた。
補給置き場の奥で、壁が崩れていた。
本来の通路は半分塞がり、その横に、人一人が肩を縮めて通れる裂け目ができている。荷車は通れない。灰鷹が地図通りに来れば、ここで一度止まる。裂け目の先まで気づくには、匂いか声が要る。
ヨルは裂け目の前へ鼻を寄せ、尻尾を低くした。鼻先が岩の下と裂け目の奥を行き来し、どちらにも匂いが残っていることを示していた。
ノラは短剣を抜いて裂け目へ入った。肩を擦る壁の灰が袖へまとわりつき、そのさらに奥から、押し殺した息が聞こえた。
「灰鷹じゃない。ノラ・ヴェイル。探しに来た」
岩の陰で誰かが動いた。サジュだった。
右足が崩れた木箱と岩の間に挟まっている。それでも、ノラを待っていた姿勢ではなかった。両手を箱の縁へかけ、歯を食いしばって自分の足を引き抜こうとしている。箱は動かず、代わりに膝の下から血が新しく流れた。
「やめて」
サジュは手を離さなかった。
「止めるな。リアムが奥にいる」
「その足を裂いて追いつくつもり?」
ノラが腕をつかむと、サジュは振りほどこうとした。力は残っていないのに、諦めの悪さだけで体を前へ出そうとする。その動きで木箱が傾き、右足が嫌な角度へねじれた。
ノラは箱とサジュの間へ膝を入れ、無理やり上体を床へ戻した。
「リアムは」
「先に血を止める。話はその間にして」
「あいつは戻ったんだよ!」
痛みより先に、その一言がサジュの口から飛び出した。
「俺が挟まって、班の奴らには逃げろって叫んだ。あいつだけ戻った。箱をどけようとして、俺の腕を引いて、それでも駄目で……奥まで崩れて、向こうへ滑った」
ノラは破れたズボンを裂け目の上まで切り、傷を見た。今すぐ引けば、押さえられている血が一気に出る。箱をどけるにも支えがいる。一人で力任せに外せば、救助ではなく足を一本置いていくことになる。
布を当てて白魔法を細く流す。傷の縁が白く光った瞬間、サジュの背が跳ねた。
「痛いなら箱を殴って。私の手は払わないで」
サジュは本当に箱を殴った。一度。二度。灰と血で汚れた指の先には、それより前から箱を掻いた爪跡が残っている。
「リアムは向こう側へ落ちた。手を伸ばしたけど届かなかった。しばらくは、俺に動くなって言ってた。灰鷹を呼ぶって。でも途中から、同じ声で来いって言い始めた」
ノラが奥へ灯りを向ける。さらに落ち込んだ裂け目の先が、舞う灰ににじんだ。
「班の奴らの声もした。荷を捨てるなとか、後ろにいたと思ったとか。俺、どれが本物か分からなくなって……一回、返事をした」
最後だけが小さかった。
「何て?」
「待ってろ、俺が行くって。それからリアムに、左へ行けって言った」
ノラの手が止まる。
「左に出口があるの」
「知らない」
「知らない道を教えた?」
「あいつが、どっちだって聞いたんだよ!」
サジュは箱を殴った。痛みで声が裏返る。
「黙ってたら置いていかれたと思うだろ。右から班の奴の声がした。だから左なら、まだ誰もいないと思った。俺だって、助けるつもりだった」
灰喉は声を混ぜる。右で聞いた班員の声が本物だった保証はない。サジュは分からないまま答え、リアムも分からないまま従った。
サジュはまた起き上がろうとした。ノラは傷へ当てた布を離さず、肩で押し戻す。
「それで足を抜こうとしてたの」
「俺が呼んだんだ。あいつは、俺が挟まらなきゃ戻らなかった」
「戻ったのはリアムが決めた」
「あいつが決めたって、俺はここで待ってるだけかよ。左って言ったの、俺なんだぞ!」
怒鳴った直後、サジュは自分の声に怯えて奥を見た。灰喉が今の言葉を覚えたかもしれない。ヨルも奥へ鼻を向けたまま、鳴かずにノラの袖を噛んでいる。
ノラは木箱の割れ板を傷の脇へ当て、布で結んだ。火と担架を持った灰鷹なら、箱を支えて外せる。そう説明しても、サジュは灯りばかり見ていた。
「灰鷹が来るまで、これを持つ」
水袋を押しやり、小灯りを奪うようにつかむ。
「倒したら、向こうから見えなくなる」
「見えすぎるのも嫌だ。あれが、また俺の声で来たら?」
ノラは裂け目へ白い布を二本結んだ。低い方は灰の上、もう一本はサジュの肩の高さだ。
「灯りを消さない。この布も取らない。班の人を庇って、声が混じったことまで黙らない」
「命令するなよ」
「左へ行けと命令したのは君だ」
サジュの顔から怒りが消えた。代わりに、認めたくないものを飲み込む顔になる。
「……左にいたら」
「連れて戻る」
「右だったら」
「探し直す」
「そんなの、間に合うのか」
ノラには答えられなかった。灯り、水、白い布、添えた板。準備できるものを並べても、サジュが間違えた方角だけは消えない。
立ち上がったノラを、サジュが呼び止めた。
「灰鷹には、俺が左って言ったことまで言うのか」
「私からは言わない」
サジュの肩が下がる。
「君が言う」
またこわばった。サジュは水袋を取らず、肩の高さの白布へ目をやる。迷宮に見つかる印にも、救助に見つけてもらう印にも見えるのだろう。
「リアムがいたら」
サジュの声は、さっきより低かった。
「俺の声を信じるなって、先に言ってくれ」
ノラは振り返らずに片手を上げた。先へ出たヨルを追うと、少し先に靴紐が落ちていた。
片方だけ色が違う、昨日広場で見た靴の紐だった。あの時、リアムの足元で妙に目についた色をしている。
ノラは靴紐を拾って布袋へ入れた。床には細い血の跡が続き、途中で途切れて、壁をこすった跡へ変わっている。リアムが這ったのか、引きずられたのかは分からない。
決めるには早い。ノラは床と壁の跡を同時に拾えるよう、灯りを低くした。
「リアム」
返事の代わりに、奥で鈴が鳴った。
荷馬車の鈴に似ている。昨日の広場で、リアムが振り返らずに歩いた時の音にも似ていた。
一度。
二度。
それから、少年の声がした。
「俺が行くって言ったんです」
ノラの背筋が冷えた。リアムの声に似ていても、息も、痛みも焦りも混じっていない。誰かが覚えた言葉を、丁寧になぞっているようだった。
ヨルがノラの袖を噛む。
噛む力は強くない。行くな、ではなく、確かめろと言っている。
ヨルは袖を引かず、奥へ鼻先を振った。灰の匂いに紛れた生きた息を、逃さないようにもう一度嗅ぐ。前足は奥へ向いているのに、後ろ足だけがサジュの方へ半歩残っていた。
奥から、別の声が重なった。
「三日だけだ」
柔らかい大人の声だった。
「戻れば、少しは楽になる」
広場で聞いた言葉だった。優しく聞こえたぶんだけ、灰の中では悪く響く。その声の周りを、灯りに浮いた灰がゆっくり舞っていた。
ノラは理解した。
灰喉は、人の言葉を覚えている。死に際の言葉だけではない。送り出した大人の声も、逃げた者の言い訳も、怖くて吐き出した声も、全部を食って、都合のいい順番で鳴らしている。
「リアム」
ノラはもう一度呼んだ。
今度は、灰の奥で何かが擦れた。
ヨルが袖を放して床へ鼻を寄せた。灰を吸い込むように長く嗅いだあと、低い尻尾のまま前足を一歩、奥へ置く。
今にも消えそうな生きた匂いが、奥へ続いていた。
ノラは短剣を握り直した。白魔法はもう多く残らず、奥へ進めば水も灯りも足りなくなる。背負えるのは一人だけで、サジュを今動かせば足を壊す。リアムを見つけても、同じ道で戻れるとは限らない。
それでも、リアムの匂いは奥にある。
灰が笑った。
「救助屋」
声は、リアムではなかった。
「また一人だけ選ぶのか」
ノラは振り返らなかった。
サジュは手前にいて、灰鷹が来れば助かる見込みがある。リアムは奥で、声まで食われかけている。
選ばないのではない。選ばされる場所を、これ以上残したくなかった。
「この穴が、まだ人を食うなら」
ヨルが振り返った。
ノラは灰の奥を見た。
「終わらせる」
ノラは、リアムの匂いが残る方へ進んだ。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




