第2話 戦闘なし
煤釘の灰は、朝になっても爪の間に残っていた。
ノラ・ヴェイルは薬屋の包みを小脇に抱え、広場の端で足を止めた。包帯、消毒薬、乾いた布――どれも昨夜のうちに減り、先に補充しなければならないものだった。
そう思って広場を抜けようとした時、木の掲示板に新しい札が掛かっているのが見えた。
皿洗い、荷車の押し手、屋根の修繕、工房の下働き。住み込みや食事つきをうたうものもあり、紙の厚さも字の大きさもばらばらだった。どれも人手が足りない顔をしている。その中で、一枚だけ字が太かった。
灰喉、短期補給員募集。
三日契約。
日払い。
未経験可。
戦闘なし。
ヨルが足元で鼻を鳴らした。
ノラは札を見たまま、薬屋の包みを抱え直した。
灰喉。
ノラはその名を、灰鷹の紙で何度か見ている。補給班、帰還遅れ、所在確認。その下へ並ぶのは、若い名前が多かった。
字だけなら、優しかった。
札の下には、申込用の小さな木片が吊られていた。名前を書いて受付へ持っていけば契約の順番に入る、その木片へ、ひとりの少年が手を伸ばした。
十七ほどだろう。上着は古いが、洗ってある。靴の爪先は何度も縫い直され、紐の片方だけ色が違った。肩から下げた袋は軽そうで、硬いパンの角が布越しに形を作っている。
何度も縫い直した袖から伸びた指先が、木片に触れた。
「やめとけ」
少年は振り返った。
ノラを見た少年は、まず薬屋の包みに目をやり、それから腰の刃物、包みの隙間からのぞく包帯、足元のヨルへ順に視線を移した。ヨルの方は少年を見ず、灰喉の札を見上げている。
ノラは言った。
「それに手を出したら、君、死ぬよ」
朝の広場から、少しだけ音が引いたように感じられた。少年は何を言われたのか分からない顔をし、木片に触れた指だけをそのまま残している。
「……何だよ、急に」
「死にやすい仕事だから」
「戦闘なしって書いてある」
「その字を見て入って、戻らない子がいる」
少年の指は木片からわずかに離れたものの、手そのものは引っ込めなかった。
「灰鷹の人か」
「違う」
「じゃあ、何で止めるんだよ。関係ないだろ」
「関係ない。止める権利もない」
ノラは札を見た。
「ただ、灰喉がどういう穴かは知ってる」
少年の顔が少し強張る。そこには怒りより、怖い話を信じたくない戸惑いが先に立っていた。
「俺、死にに行くわけじゃない」
「そう言って潜る奴の方が多い」
「荷を運ぶだけだ。補給員って書いてある」
「荷は勝手に歩かない。人が持って入る」
少年は言い返そうとして、うまい言葉を見つけられなかった。その沈黙を埋めるように、木片を握る指へもう一度力が入る。
その時、横から柔らかい声が入った。
「朝から怖がらせないでくれないかな」
男が歩いてきた。よく払われた上着に、泥の少ない靴。爪まで整った手は、灰喉へ荷を運ぶ者のものではない。
サイラスだった。
ノラはその顔を知っていた。灰喉の短期仕事を回しながら、自分では入口に立たない男だ。
「短期補給員は、戦う仕事じゃない。荷を運ぶだけだよ。三日でまとまった金が入る。家に金を入れたい子には、悪い話じゃない」
少年の目が、もう一度札へ戻った。
日払い。三日契約。未経験可。
大きな字だけは、遠目にも読みやすかった。
ノラはサイラスを見た。
「戻らなかった人間がいる穴に、次を入れるの」
「どの穴にも危険はあるよ。灰鷹も管理している」
「管理していたら戻るわけじゃない」
「町の荷は止められない。灰喉で日銭を得ている子もいる。怖い話だけで仕事を奪うのは、簡単じゃないかな」
言葉は穏やかだった。少年の肩に触れも、背中を押しも、怒鳴りもしない。それでも、サイラスの言葉は逃げ道を一つずつ塞いでいく。
「仕事を渡す顔で、危険を渡すな」
サイラスは笑みを少しだけ薄くした。
「危険がないとは言っていない。説明もする。本人が納得して署名するんだ」
「納得じゃない。困っている子に、そう言わせてるだけだ」
その言葉に、少年が顔を上げた。
「困ってるからって、何もできないよりましだろ」
ノラは少年を見た。迷いはある。けれど、それを見られたくない顔でもあり、木片を握る指の爪が白くなっていた。
「皿洗いも、荷車の押し手も、そこにある」
「それで足りるなら、そっちに行ってる」
少年の声が荒くなった。
「母さんの薬、昨日は半分に割った。弟には、粥は食ったって嘘ついた。三日でこれだけもらえるなら、怖くても行くんだよ」
ノラは黙った。止めるだけなら簡単でも、止めた後の鍋は満たせない。薬を買ってやる金もない。ノラの荷袋に入っているのは包帯と薬であって、他人の家を三日食わせる銀貨ではなかった。
サイラスが静かにうなずいた。
「三日だけだ。戻れば、少しは楽になる」
少年の目は、他のどの札よりも太く記された「日払い」の文字へ戻った。
ノラは札の下を指で弾いた。
「楽になるところだけ見せるな」
乾いた音に少年が眉を寄せると、ノラは続けた。
「稼げるって字は大きい。怪我をした後の話は、こんな字だ」
少年は札に顔を近づけた。負傷時の責任、途中離脱の違約金、救援判断は現場責任者に委ねること、本人署名をもって危険説明に同意したものとすること。細い字を追ううちに、少年の顔から少しずつ勢いが抜けていった。
サイラスが横から言った。
「形式的な文だよ。どの仕事にもある」
「形式で人は死なない。仕事で死ぬ」
少年は二人を見比べた。木片にかけた指は迷うように動いても、まだ離れなかった。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
少年は怒鳴りながらも、目を何度も細い字へ落とした。木片を握る指も、わずかに震えていた。
「うちの鍋が空でも、あんたは知らないだろ。弟が腹減ったって言っても、知らないだろ。母さんが薬を我慢しても、知らないだろ」
「知らない」
ノラは認めた。
あっさり認められると思わなかったのか、少年は言葉を失ったように口を開けた。
「だから、知ったふうな顔で行くなとは言わない」
ノラは灰喉の札を見た。
「でも、戦闘なしって字だけ見て行くな。怪我をした後の字も読め。戻れなかった後の字も読め」
少年の目が、札の細い字へ落ちた。広場の向こうで荷車の車輪が石に跳ね、パン屋の戸口から漏れた笑い声が、閉じた扉に切られる。しばらく誰も話さない間に、ヨルがノラの足元で鼻を鳴らし、札から顔を背けた。
サイラスが言った。
「君の家の鍋は、今夜も空に近いんじゃないのかい」
少年の肩が揺れた。そこを突くのか、とは言えない。口にすれば、少年の貧しさを広場へさらすだけになる。
「……行く」
怖さを抱えたまま、それでも前へ出ようとする声だった。
「俺が行く」
ノラはもう止めなかった。それでも黙って見送るには、灰喉の札があまりに優しい顔をしていた。
「家には、灰喉に行くって言ったの」
少年は答えなかった。
「荷運びって言ったんだね」
「……嘘じゃない」
「全部でもない」
見抜かれた悔しさに、少年の唇が曲がった。
「心配させたら、止められる」
それだけ言うと、家の顔を思い出したように目をそらした。
サイラスが穏やかに口を挟む。
「家のことを考えているんだね。偉いよ」
ノラの声が低くなった。
「その言い方で背中を押すな」
少年はノラをにらんだ。
「この人に押されたわけじゃない。俺が決めた」
サイラスは、少年が代わりに言ってくれると知っているように、何も言わなかった。
ノラは短く息を吐いた。
「なら、その言葉を大人に渡すな」
少年の目に、怒りとは違う揺れが走った。
「『俺が決めた』は、死んだ後に便利な言葉になる」
「……死なない」
「そう願ってる」
「願うだけかよ」
「願うだけじゃ足りないから、止めてる」
少年はそこで初めてノラをまっすぐ見た。何か言い返そうと言葉を探し、結局やめても、怒りは残ったままだった。
サイラスは申込用の木片を受け取った。
木片は軽いのに、それを離したリアムの指にはまだ力が残り、白くこわばっていた。
「名前は」
少年は一度だけノラを見てから言った。
「リアム・フォルク」
サイラスは手帳に名前を書きつける。
「明朝、北門だ。遅れないように。荷は向こうで渡す」
リアムがうなずくのを見ながら、ノラは「行くな」を飲み込んだ。口にすれば、リアムはもっと背中を固くする。怖がっている子ほど、そうやって自分を立たせる。
リアムが歩き出した。古い上着に縫い直した靴、軽い袋を負った、まだ何も知らない背中だった。
少し離れたところで、リアムが一度だけ立ち止まった。振り返るのかと思ったが、リアムは振り返らず、そのまま歩いていった。
灰喉へ向かう荷馬車の鈴が、広場の向こうで一つ鳴った。
ヨルがノラの袖を軽く噛む。
「分かってる」
ノラは小さく言った。
サイラスが手帳を閉じた。
「君はいつも、人を怖がらせるね」
「あなたはいつも、怖いところを薄くする」
「希望を渡しているんだよ」
「希望なら、細かい字に隠すな。帰れなかった時の字を、小さくするな」
サイラスは、さっきより少し冷たい笑みを浮かべた。
「貧しい子から、選ぶ機会まで奪うのかい」
ノラはリアムの消えた道を見た。
「選ばせるなら、戻れなかった時も見に行け」
サイラスは返事をしなかった。
風が吹き、灰喉の札が揺れた。
戦闘なし。
太い字だけが、まだ朝の光を受けていた。
リアム・フォルク。
覚えるつもりのなかった名前が、残った。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




