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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第1章 煤釘の迷宮
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第1話 迷宮を閉じる女

挿絵(By みてみん)

死者の声に返事をさせない。迷宮を閉じ葬る物語。

救助屋ノラと相棒ヨルの、最初の救助です。

迷宮の核は、片方だけの耳飾りだった。


金でも銀でもない。黒ずんだ輪に、割れた小石が一つぶら下がっている。市で売っても、銅貨一枚になるかどうか分からない。けれど、その耳飾りを中心に、灰色の壁は脈を打っていた。


ノラ・ヴェイルは、灯りを低く掲げた。足元には破れた荷袋が落ち、乾いたパン、空の水袋、折れた短剣、縫い直された革手袋が灰の上に散っている。どれも短期契約者が持たされる品だった。


背後で、少年がかすれた息を吐いた。


「……それ、何だよ」


「核」


ノラは耳飾りから目を離さずに答えた。


「抜けば、この穴は閉じる」


少年の口元がこわばった。年は十五か十六。肩には荷運び用の革紐が食い込み、右足は崩れた岩に挟まれている。ノラが白魔法で痛みを鈍らせ、血だけは止めたものの、歩ける状態ではなかった。


その隣には、もう一人いた。そちらは喋らない。荷袋を抱えたまま、目を開けて死んでいた。


「閉じるって……ここ、俺たちの稼ぎ場だろ」


ノラが振り返ると、少年は死んだ仲間を見ないように顎を上げていた。視線はノラを素通りし、崩れかけた入口の先へ向いている。助けられた後に残るものを、もう恐れていた。


「ここがなくなったら困るんだよ。荷を運べば、今日の銭はもらえるって言われた。閉じられたら、俺、どこで稼げばいいんだよ」


ノラはすぐには答えなかった。耳飾りへ向けていた灯りを、少年の足元へ下げる。岩の下からにじむ血は灰を黒く固め、その隣では、もう呼吸をしない男の頬だけが乾いていた。


迷宮に入らずに済む仕事が何もないわけではない。けれど、目の前の銭に届かない者がいることも知っている。稼ぎ場という言葉だけで少年を責める気はなかったが、その足を挟む岩と、隣で冷たくなった顔を見れば、黙ってもいられなかった。


「その足で、また入るの」


少年の視線が、自分の足へ落ちた。


「治れば、行く」


「治るまで、待ってくれる穴じゃない」


「でも、銭が要るんだ」


「分かってる」


ノラは、耳飾りを守るように薄く震える壁の奥を見た。


「でも、この穴は人を呼ぶ。死んだ声まで使って、次を呼ぶ。そんな稼ぎ場なら、残さない」


少年は何も言わなかった。


少年の視線が、隣に転がる仲間の荷袋へ落ちた。怒りだけで押し返すには、その体が近すぎた。


ヨルが足元で低く鼻を鳴らした。小さな角のある黒い魔物は床へ鼻を近づけたまま、死んだ少年には寄らない。血の匂いも、生きている者の匂いも、ヨルは間違えなかった。


今、生きている匂いは一つ。岩に足を挟まれた少年だけだった。


耳飾りの奥から、笑い声がした。


壁の割れ目がひらき、灰色の顔がぬるりと出てくる。人の形を真似ているが、首が長すぎる。喉にいくつも口があり、それぞれ違う声を出した。


「やめろ、救助屋」


男の声。


「核を抜けば、この迷宮は死ぬ」


年寄りの声。


「置いていくな」


死んだ少年の声。


少年は小さな悲鳴を飲み込んだ。


ノラは眉ひとつ動かさなかった。


「よく覚えたね」


灰色の顔は、喉の口を増やして笑った。


「助けてくれ。帰りたい。置いていくな。人間は、いい声を残す」


「その声で、何人呼んだ」


「呼べば来る」


柔らかい声だった。


「誰かが返事をする」


別の声。


「誰かが戻る」


また別の声。


ノラの手が、耳飾りに届いた。


灰色の顔が壁から半分まで這い出し、長く垂れた腕の先では、指が骨のように尖っていた。


「閉じれば、お前は追われる」


「知ってる」


「それでも抜くのか」


「人の声で呼ぶ穴は、残さない」


ノラは耳飾りをつかんだ。核は冷たかったが、触れた瞬間、指先の奥へ黒い熱が沈んだ。火でも水でもない、知らない力が骨の内側へ落ちてくる。


嫌な力だった。ほしくて手に入れたものではないのに、使わなければ誰かが死ぬとなれば、体はなおさら早く覚えてしまう。


灰色の顔が叫んだ。


「やめろ」


「人の声で喋るな」


ノラは核を引き抜いた。


迷宮が、泣いた。


壁の奥で石が割れ、天井から灰が降る。通路の向こうでは崩落の音が連続し、そのたびに灯りの輪が縮んで、床の模様まで歪んだ。


少年が泣きそうな顔でノラを見た。


「閉じるのか。本当に」


「閉じる」


「俺、出られるのか」


「出す」


ノラは膝をつき、少年の足を挟んでいた岩を見た。大人二人でも動かせない重さで、白魔法で骨をつなげたところで、岩が乗ったままでは意味がない。ヨルが隙間へ鼻先を入れ、低く短く鳴いた。


「クルッ」


奥から灰色の腕が伸びた。ノラはその間合いへ入らないうちに短剣を抜き、少年の革紐を切る。床へ落ちた荷袋を、少年は反射的につかもうとした。


「捨てろ」


「でも、これがないと報酬が」


「死んだら受け取れない」


少年の手が止まったのを見て、ノラは岩の縁に指をかけた。普通なら持ち上がらない。それでも、核を抜いた時に沈んだ黒い熱が、今は足の裏と腕の内側で脈を打っていた。


「ヨル、合図」


ヨルが岩の下へ鼻先を差し、もう一度鳴いた。


ノラが息を詰めて黒い熱を腕に集めると、骨がきしみ、視界の端が白くなった。


岩が、ほんの少し浮いた。


「抜け」


少年は動けなかった。


「助けるから、足を抜いて。早く!」


その声で、少年が体を引いた。血で滑ってうまくいかないのを見て、ノラは岩を支えたまま、肩で少年の上着を押す。足が岩から抜けると同時に力を解き、落ちた岩が床を割って灰を跳ね上げた。


灰色の腕が迫る。ノラが短剣で受けずに火薬袋を投げると、小さな爆ぜ音に灰色の顔がひるんだ。倒せないし、倒す時間もない。


「立てる?」


「無理だ」


「なら、つかまって」


ノラは少年を背負った。力を抜いて体を預けられない怪我人は、見た目よりずっと重い。背中へ回った腕を引き上げて背負い直す間にも、右足から血がにじんでくる。仮止めはしたが、長くはもたない。


「名前」


「……トマ」


「届け先」


「北の石段の下」


「覚えた」


「俺、死ぬのか」


「今は死なせない」


「今は、って」


「今は、喋れてる」


トマは泣きそうに笑った。笑ったせいで痛みが走り、すぐに顔を歪める。


来た時には大人二人が並べるほどだった通路が狭まり、今はノラの肩が壁に擦れる。背中のトマを守るために体を斜めにし、泥と灰で濡れた床を蹴った。


先を走るヨルが、地図では出口に近い右ではなく左へ曲がる。崩落で道が変わったのだと察し、ノラは迷わずついていった。


背後で、灰色の喉がいくつも鳴った。


「置いていくな」


「助けて」


「まだ帰りたい」


「お前も置いていく」


あれは死んだ者そのものではなく、死んだ者の言葉を食って都合よく鳴らしているだけだ。


ノラは走りながら言った。


「うるさい」


灰色の顔が笑う。


「一人しか持てない。救助屋、救助屋、救助屋」


ノラはトマの膝裏を抱え直した。


一人しか背負えない。だから、穴を閉じる。


その先は声にしなかった。トマに聞かせる必要はないが、ヨルだけは耳を伏せた。


前方の床が崩れた。


裂け目の向こうに、出口へ続く薄い光が見える。しかし幅があり、普通に跳んでも届きそうにない。トマを背負った今はなおさらだった。


戻る道は、もう灰で塞がり始めている。


トマがノラの肩を握った。


「下ろして」


「置いていかない」


「俺を置けば、あなただけなら届くだろ」


「背負ったまま届かせる。つかまって」


ノラは縄を出し、先端の鉤を向こう側の岩へ投げた。一度目は外れたものの、二度目には硬い音を立ててかかる。強く引いても岩は揺れなかった。


足の奥に、黒い熱が戻ってきた。


使えば倒れるかもしれない。使わなければ、ここで終わる。


ノラは短く息を吐いた。


「ヨル」


ヨルは裂け目の手前で身を低くした。黒い体が灰に沈み、狐に似た細い顔だけがこちらを向く。


「クルッ」


合図。


合図を受けてノラは走り、裂け目の手前で床を蹴った。体が軽くなったのではない。重いまま無理やり前へ押し出され、膝に痛みが走ると、鼻の奥まで熱くなった。


届かない。


ノラが跳ぶのとほとんど同時に、ヨルは身軽に裂け目を越え、向こう岸へ回っていた。届かないと思った瞬間、そのヨルが縄を噛んで引く。ノラは鉤縄へ腕をかけ、岩壁に肩を打ちつけながら、反対側へ転がり込んだ。


トマが背中で呻く。


「生きてる?」


「……生きてる」


「上等」


ノラの鼻から落ちた血を袖で拭っても、視界はまだ少し揺れていた。さっきの力は、長く使うものではない。


出口は近い。


だが、その手前にゴブリンが二匹いた。閉じ始めた迷宮から逃げてきたのだろう。目が血走り、壁に体をぶつけながらこちらへ来る。


ノラは短剣を構えた。


正面から戦う余裕はなく、背中にはトマがいる。ノラが血止め用の布袋を投げると、ゴブリンの一匹が食料と思って反射的につかんだ。その足元をヨルが抜け、体勢を崩したところへ踏み込んで、首ではなく武器を持つ手首を斬る。


二匹目は間を置かずに跳びかかってきた。ノラは背中を見せて避ける代わりに懐へ入り、肩から壁へぶつける。一瞬だけ腕を走った黒い熱が骨に響く手応えを返し、ゴブリンは壁に叩きつけられたまま動かなくなった。そこでようやく、ノラも膝をついた。


「ノラさん」


「名前、教えたっけ」


「荷運びの人が、そう呼んでた。救助屋だって」


壁へ片手をつき、ノラは立ち上がった。


「呼び名だけ。そういう仕事の札はない。だから、見つかる前に出る」


灰鷹の外套も、神殿の印も、ノラにはない。だから見つかれば、救助屋ではなく迷宮閉鎖犯として縄を打たれる。


出口の光が広がった。


外へ出た瞬間、冷たい風が顔を打った。夕方だった。迷宮の入口を囲む石柱が震え、奥から灰が噴き出している。もう数刻ももたない。


遠くで、迷宮が崩れ始めたことに気づいた見張りが警鐘を鳴らしている。


トマの顔色が変わる。


「閉じたって、分かるのか」


「分かる」


「じゃあ、誰がやったかも」


「見つからなければ分からない」


ノラはトマを草むらへ下ろし、足の布を締め直した。血はまだにじむが、入口まで来た人の声はもう届いている。ここまで出せば、灰鷹に運んでもらえる見込みはある。


入口の方から、人の声が近づいていた。


「迷宮が沈むぞ!」


「逃げろ! 中に残っている奴はいないか!」


「灰鷹を呼べ!」


ノラは水袋の残りをトマに飲ませ、空になった袋を腰へ戻した。灯りは草の陰でも見える石のくぼみへ、風で倒れないように据える。今必要なのは、駆けつけた者にトマを見落とさせないことだけだった。


トマの指が泥を握った。


「ここ、俺たちの稼ぎ場だったんだ」


「そうだな」


「分かってて閉じたのか」


ノラは迷宮の入口を見た。


灰が吹き出し、石柱の影がゆっくり崩れていく。奥から、もう死んだ少年の声は聞こえなかった。


「閉じた」


トマは何か言いかけたが、言葉は続かなかった。


足音が近づいてくる。


「こっちだ!」


「生きてる奴がいる!」


ヨルがノラの袖を噛み、茂みの奥へ引いた。入口側の足音は、もう草を踏む音に変わっている。


近づく足音を確かめ、ノラは立ち上がった。


「生きて、文句を言いに来て」


それだけ言って、ヨルを連れて茂みに入った。


背後で男たちの声が近づく。


「おい、何があった!」


「誰か見たか!」


少し迷ったあと、トマの声が灰の中でかすかに聞こえた。


「……知りません。気づいたら、外にいました」


ノラは振り返らなかった。


町外れの古い荷置き小屋へ戻ったころには、もう夜になっていた。ノラは戸を内側から閉め、しばらく背を預けた。鼻血は止まっている。それでも足の震えだけは、閉じた戸の向こうへ置いてくることができなかった。


水桶の横で丸くなっていたヨルが顔を上げる。生きた匂いかどうか確かめるように、鼻先をノラの膝へ寄せた。


「生きてる」


ヨルはすぐには離れなかった。ノラがもう一度同じことを言うと、ようやく水桶の脇へ戻った。


腰袋から出した布包みの中には、片方だけの耳飾りがあった。


輪の汚れを拭おうとして、ノラは指を止めた。トマの仲間の耳についていたものかもしれない。誰かが市で選んだものか、拾ったものか、片方を失くしても捨てられなかったものか。何ひとつ分からない。核になった途端、それまで持っていたはずの暮らしだけが見えなくなる。


売るためでも、飾るためでもない。戦利品と呼ぶ気にもなれなかった。閉じた穴と、そこで人の声を使われたことを忘れないために持ち帰ったものだった。


棚の下から小さな木箱を出す。中にはまだ何も入っていない。


耳飾りを箱の底へ置くと、金具が木に触れて、ひどく軽い音を立てた。あれほど大勢の声を抱えていたのに、片耳ぶんの重さしかない。


ノラは布を巻き直し、蓋に炭筆を走らせた。


煤釘。


それが、今日閉じた迷宮の名だった。


戸の外で風が鳴った。トマが迷宮を稼ぎ場と呼んだ声が、不意に耳の奥へ戻る。


生きて、文句を言いに来て。


言ったのは自分だ。来られるだけの足を残せたかは、まだ分からない。ノラは短くなった炭筆を置き、濡れ布で掌の血を拭った。途中で布が乾き、桶の水を足そうとして、空になった水袋を握っていたことに気づく。


紙も残りが少ない。炭筆も明日には使えなくなる。香袋は一つ潰れ、匂いが腰袋へ染みついていた。補充しなければ次の穴へ持っていけないものばかりだったが、今夜それを数えても足の震えは止まらない。


ノラは水袋を机へ放り、箱の前へ座り込んだ。


ヨルが寄ってきて、箱ではなくノラの手首へ顎を載せた。


「朝になったら行く」


返事はない。ノラは耳飾りの軽い音がしないよう、今度は両手で木箱の蓋を閉じた。灯りを落としたあとも、トマがどんな文句を持ってくるのかだけは、暗がりの中でしばらく考えていた。



本作品の表紙になります。

物語の入口になる一枚として、作品の雰囲気に合うように仕上げました。本作を少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

挿絵(By みてみん)

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