第10話 返事をするな
カヤの腕から錆鎖を外したあとも、赤錆の縦穴は静かにならなかった。
吊り荷は足場の縁で止まっている。赤黒い石片を包んだ布、途中で固定された鎖、封を塗られた壺。さっきまで作業の音に紛れていたものが、今は一つずつ耳についた。
カヤは入口側で座り込んでいる。
手首にはノラ・ヴェイルが巻いた布があった。赤く輪になった歯形は隠れても、痛みまでは隠れない。マルヤ・センドが肩を支え、灯口の男へ短く指示を飛ばしていた。
「灰鷹に走って。灯りと担架、長い縄を持てるだけ。途中で誰かを呼べるなら、呼んで」
灯口の男が走り出す。
ダリクは吊り具の横に挟まれた割当札を見ていた。戻った人数を数え直し、赤い土で汚れた札を指で弾く。
「……リトが戻ってない」
その名で、足場の空気が変わった。
荷の遅れではない。
作業の詰まりでもない。
下に、まだ一人いる。
縦穴の底で、かしゃり、と鎖が鳴った。
すぐ下ではない。もっと深い場所からだった。
「リト」
その声は、上から落ちたものではなかった。
赤錆の奥で噛み砕かれ、鎖の輪を通され、底から押し返された声だった。名前だけは人間の形をしている。けれど、呼ぶ相手を心配する温度がない。
ダリクが縦穴をのぞき込もうとした。
「リト、聞こえるか!」
ノラは振り向いた。
「呼ぶな」
ダリクの顔が歪む。
「下に人がいるんだぞ。返事をさせないで、どうやって生きてるか確かめる」
「今のを聞いたでしょう」
「ただの反響だ」
「反響なら、あんたの声で返る。今のは、戻っていない子の名前を選んで呼んだ」
底から、今度は低い男の声がした。
「返事をしなさい。聞こえているなら、答えなさい」
カヤが小さく震えた。
「その声……下で怒鳴ってた監督の声に似てる」
マルヤの手に力が入った。
ノラは吊り具の横の割当札を見た。リトという名の横には、封壺運搬と書かれている。年齢まではない。けれど、字の端は急いで書いたようにかすれていた。
ダリクが腕を出す。
「下へ降りる許可は出してない」
「許可を待っていたら、あの子の声を赤錆に覚えられる」
「勝手に降りて死なれたら、俺の現場だぞ」
「じゃあ、生きて戻る準備をして」
ノラは縄を腰に回し、短剣の位置を直した。
ヨルが足元で縁を嗅ぎ、低く鼻を鳴らす。
マルヤが縄の端を受け取った。
「私はここで持つ。足場には入れないけど、縄は離さない」
「私の名前を呼ばれても返さないで。ヨルが鳴いても、下をのぞかない。赤錆が誰かの声を真似たら、灯りを近づけて黙らせて」
「合図は」
ノラは腰の縄を軽く叩いた。
「三回引く」
「分かった。三回ね」
カヤが青い顔で言った。
「リト、封壺をずっと抱えてました。置いたら怒られるって……あの子、たぶん自分から助けてって言えない」
ノラはカヤを見た。
「聞いた。腕を動かさないで」
「助けてくださいって言うの、遅いですか」
「遅くない」
カヤは唇を曲げた。痛みと悔しさを、まだ噛んでいる顔だった。
「じゃあ、お願いします」
ノラはうなずき、縦穴へ降りた。
赤錆の中は、上から見るより狭かった。
壁に沿った木の足場は古く、踏むたびに乾いた音を立てる。だが、その下から返る音は湿っていた。かしゃり。ぎしり。かしゃり。使われていない鎖まで、誰かの呼吸に合わせるように揺れている。
ヨルが先へ行く。
鼻を床へ近づけ、危ない板の手前で尾を止める。ノラはその合図を見て足を置く場所を変えた。
底が声を変えた。
「返事くらいしろ。聞いていないと言われても知らないぞ」
ダリクに似た声だった。
上にいる本物のダリクは黙っている。足場の上から縄が擦れる音だけがする。
ノラは返さなかった。
「壺を置くな」
今度は作業員の声。
「封を切ったら本人負担だ」
別の声。
「下で止まるな。上が詰まる」
どれも、人間が言った言葉だった。けれど、今言っている人間はいない。赤錆が拾い、噛み、底から吐いている。
ヨルが耳を伏せた。
ノラは片手でヨルの首元に触れた。
「鳴かないで。向こうは音を拾う」
ヨルは鳴かなかった。鼻先を赤い粉の上へ戻し、先へ進む。
途中で足場が途切れていた。
板が数枚抜け、向こうの段まで赤い土壁だけが続いている。ノラは鉤縄を投げた。一度目は錆で滑る。二度目で、壁の割れ目にかかった。
強く引く。
もつ。
ノラは走り、途切れた足場を越えた。向こうの板へ膝から落ちる。右肩の古傷が引きつり、縫ったところの奥が焼けるように痛んだ。
ヨルがすぐに追いついた。
底から、ノラの名が上がった。
「ノラ・ヴェイル」
女の声だった。
知っている誰かに似せようとして、失敗している。マルヤでもミミでもない。ただ、ノラが振り向きそうな形だけを作った声。
ノラは息を吐いた。
「名前の形をしているだけだ」
ヨルは鼻先を床へつけたまま、鳴かずに進んだ。
底に近づくほど、鉄の味が濃くなった。
壺置き場は、壁を浅く削って作られていた。封を塗られた壺がいくつも並び、口の赤い封は乾いた血のように固まっている。床には赤黒い粉が積もり、足跡を半分飲み込んでいた。
逃げた足跡は上へ向かっている。
転び、踏み直し、誰かを待たずに戻った跡。
その中で、一つだけ、壺置き場の前から動いていない足跡があった。小さな靴跡だ。壺を抱えたまま膝をつき、立とうとして、また同じ場所に戻っている。
ヨルが壺置き場の奥を嗅いだ。
すぐに鼻先を戻す。
生きている匂いは、一つ。
少年は、壺を抱えていた。
細い肩。膝には赤い土。両手は封壺の胴を抱え込み、指の関節が白くなっている。爪の間には赤黒い粉が詰まっていた。
リトだった。
ノラが近づくと、リトは顔を上げた。
助けを求める顔ではなかった。
怒られる前に、言い訳を探している子どもの顔だった。
「返事、してない」
最初に出たのは、それだった。
ノラは膝をついた。
「よく我慢した」
リトの目が少しだけ揺れた。
叱られる準備だけをしていた顔が、一瞬、どこへ向けばいいのか分からなくなる。
けれど、腕は壺を離さない。
「上に行くよ」
「でも、壺」
「置いていく」
「置いたら、俺のせいになります。封が切れたら、俺の分じゃ払えない。叔父さんにも迷惑がかかる。置いてもらってるのに、また役に立たないって」
言葉は早かった。
何度も頭の中で繰り返していたのだろう。誰かに責められる前に、先に自分で責める癖がついた子の声だった。
ノラは壺へ手を伸ばさなかった。
「壺じゃないね。離した後が怖いんだ」
リトは睨もうとした。
けれど、力が足りなかった。睨む前に目が赤くなる。
「食わせてもらってる。役に立たないと、いらないって思われます」
底から、低い声がした。
「リト。聞こえているなら、答えなさい」
リトの喉が動く。
ノラは首を振った。
「口を開かない」
リトは唇を閉じた。閉じたまま、壺をさらに抱きしめる。
赤錆は声を変えた。
「置いてもらっている子は、先に返事をするものだ」
リトの肩がびくりと跳ねた。
誰の声か、ノラには分からない。だが、リトが怖がる声だということは分かった。
「叔父さん……」
小さな声が漏れかける。
ノラは短く言った。
「ここにはいない」
「でも、同じ声です」
「同じ声で、ここに縛ってる」
壺の封が、ぴしりと鳴った。
壺置き場の奥で、赤い粉が持ち上がる。鎖の切れ端、割れた壺の破片、名前の消えた作業札。それらが一か所へ吸い寄せられ、口のように開いた。
底呼び。
人の形ではない。縦穴の底そのものが、喉になっていた。
「リト」
今度は優しい声だった。
「君が壺を持っていれば、まだ失敗じゃない」
リトの指が、もう一度取っ手を握る。
赤錆は続けた。
「壺を離したら、下の班の失敗は君のせいになる。みんな上へ行った。君だけが残った。君がちゃんと持っていれば、まだ言い訳できる」
リトの顔から血の気が引いた。
「俺のせいじゃない」
声が出た。
赤錆の粉が揺れた。
言葉の形を、待っている。
ノラはリトと底呼びの間へ入った。
「リト。私が取ったら、君は取り返しに戻る」
リトは壺を見た。
「自分の手で離して」
「無理です」
「最初の一本だけでいい」
リトは首を振る。
底呼びが、待っていたように叔父の声を出した。
「取り返せ。言われた物も持てない子を、誰が置いてくれる」
リトの指が、壺の取っ手へさらに食い込んだ。
赤い粉の中から、細い鎖が伸びた。
ノラの腕に巻きつく。歯のある輪が布を裂き、皮膚へ食い込んだ。
ノラは顔をしかめたが、声を返さなかった。
リトの右手の小指が震えた。
壺の胴から、ほんの少し浮く。
「離すな」
底呼びが言う。
リトの指が戻りかける。
ヨルが低く鼻を鳴らした。
ノラは鎖をつかんだ。黒い熱を手のひらへ集め、歯のある輪を握り潰す。皮膚が裂れる。だが、鎖の動きも止まった。
「置いていけと言う声に、返事をするな」
リトは目を閉じなかった。
泣きもしなかった。
壺を抱えたまま、歯を食いしばり、自分の指を一本ずつ外していく。
小指。
薬指。
中指。
取っ手に食い込んでいた指が離れるたび、底呼びの喉が震えた。
「リト」
「叔父さんが困る」
「仕事を失うぞ」
リトは壺を見たまま、声を張らずに言った。
「聞こえてる」
ノラは息を止めた。
リトは、喉の奥で押し殺すように続けた。
「でも、返さない」
人差し指が離れた。
最後に、親指。
壺が膝から落ちる。
赤錆の口が開いた。床の粉がめくれ、壺を飲もうとする。壺が割れれば、リトは謝る。謝れば、その声を赤錆に覚えられる。
ノラは足を出した。
封壺を横へ蹴る。壺は赤錆の口を外れ、壁際の割れた板に当たった。封が裂け、赤黒い粉が吹く。
ヨルが飛び込んだ。
小さな体で壺へぶつかり、さらに横へ転がす。赤錆の口は追いきれず、空を噛むように閉じた。
リトは謝らなかった。
唇を噛みしめ、喉の奥で声を押し殺している。目から涙だけが落ちた。
ノラは言った。
「離した」
リトは壺のない両手を見た。
指が、まだ壺を抱える形に曲がっている。
「俺が?」
「君が」
底呼びが震えた。
粉の奥から鎖が何本も伸びる。封壺の破片、作業札、赤い土が混ざり合い、足場の脚を噛んだ。
上の方で縄が強く張った。
マルヤが気づいたのだろう。
ノラは視線を切った。
「立てる?」
リトは首を振りかけ、途中で止めた。
「立つ」
「なら、私の帯をつかめ。口じゃなく、足で決めて」
リトは壊れた壺を見た。
ほんの一瞬だけ、手が戻りそうになった。だが、自分でその手を引いた。
ノラはリトの腕を支え、足場へ戻った。
来た道は、もう同じ形をしていなかった。板の角度が変わり、鎖の位置もずれている。壺を飲む口は外した。けれど、赤錆はまだ黙っていない。壁の奥で、細い鎖が何度も鳴っている。
ヨルが先を走る。
リトが帯をつかむ手を強めた。
「今、返しそうだった」
「しなかった」
「怖かった」
「それは持って帰れ。底に置くな」
上の灯りが見えた。
マルヤの声が来る。
「縄を下ろす!」
今度は人間の声だった。息がある。焦りもある。言葉に体温がある。
ノラはリトの腰に縄を回し、自分の縄と結び分けた。
「先に上げて」
リトがノラを見た。
「あなたは」
「後で行く。今のは指示」
リトは笑う余裕もなく、縄を握った。
上で、ダリクの太い声がした。
「引け! 止めるな、でも急ぎすぎるな! 子どもがついてる!」
その声に、現場の者が動いた。
リトの体が上へ引かれる。途中で足場に靴が当たり、彼は顔を歪めたが、手を離さなかった。マルヤの腕が上から伸び、リトの上着をつかむ。
カヤもそこにいた。片手は布で巻かれたままだが、もう片方の手で縄を押さえている。
リトが入口側へ引き上げられた。
ノラは最後にヨルを抱え、足場を蹴った。黒い熱はもう薄い。使えば倒れる。そう分かっていても、届かない段差が一つあった。
足の奥を無理に叩く。
体が上へ押し上げられる。縁に指がかかる。マルヤの手が腕をつかんだ。ダリクの腕も、反対側から縄を引いた。
ノラは足場へ転がり込んだ。
鼻から血が落ちた。
ヨルが腹の上から飛び降り、すぐに縦穴の方へ向き直る。鳴かない。尻尾だけが低い。
リトは地面に座り込んでいた。
両手を見ている。壺を抱えていた形のまま、指がまだ少し曲がっていた。
カヤがそばに膝をつく。
「声、覚えられた?」
リトは首を横に振った。
「途中で、取られそうになった」
「でも、最後まで言ってない」
リトは小さくうなずいた。
「壺も、離した」
カヤは少しだけ息を吐いた。
「なら、戻ったんだよ。まだここにいる」
リトは泣かなかった。
泣くための力も、まだ戻っていないのかもしれない。
ダリクは吊り具のそばで縄を握ったまま、リトを見ていた。
「……封壺を割ったら、上に報告がいる」
マルヤの声が低くなった。
「報告するなら、底から名前を呼ばれたことも書きなさい。返事をしたら危ないことも。封壺を持って降りたリトが戻っていなかったことも」
ダリクは苦い顔をした。
「俺が書けば、俺の責任になる」
「今度は、リトに背負わせないで、自分の名前で止めなさい」
ダリクは口を閉じた。
縦穴の底で、ちりん、と音がした。
全員が黙る。
小さな鈴が、赤い土の奥で揺れたような音だった。
そして、底から声が来た。
「ノラ・ヴェイル」
人間の声に似せている。
けれど、誰の声でもなかった。
ノラは返事をしなかった。
ヨルも鳴かなかった。
赤錆は、まだ返事を待っていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




