第10話 返事をするな
縦穴の底からリトの名が返ったあとも、赤錆は静かにならなかった。
吊り荷は足場の縁で止まっている。赤黒い石片を包んだ布、途中で固定された鎖、封を塗られた壺。さっきまで作業の音に紛れていたものが、今は一つずつ耳についた。カヤは入口側で座り込んでいる。
手首にはノラ・ヴェイルが巻いた布があった。赤く輪になった歯形は隠れても、痛みまでは隠れない。マルヤ・センドが肩を支えている。灰鷹を呼びに出た灯口の男の足音は、もう入口の外へ遠ざかっていた。
ダリクが縦穴をのぞき込み、口を開きかけた。けれど、さっき自分で仕事鐘の紐を引きちぎった手が喉元で止まる。
「……生きてるか、確かめるにはどうする」
名を呼ばずに尋ねる声は、怒鳴る時より低かった。
ノラは吊り具の横の割当札を見た。リトという名の横には、封壺運搬と書かれている。年齢はない。急いで書かれた字の端だけがかすれていた。
底から、ダリクの声がした。
「返事をしなさい。聞こえているなら、答えなさい」
本物は目の前で歯を食いしばっている。カヤが包帯のない手で腕をさすった。
「あれ、下で何度も聞いた声です。止まるな、返事をしろって」
ダリクは割当札からリトの木片を外した。折るのかと思ったが、腰袋へ入れる。
「俺も降りる」
「足場は一人で抜ける幅しかない」
「どの板が抜けるか、俺は知ってる。あんたは知らん」
「底の声は、あんたが一番聞き慣れた声を使う」
「俺の声だ。俺が黙らせる」
言い方だけなら強がりだった。だがダリクは入口から余った長縄を引き、傷んだ箇所を自分の掌で探り始めた。人へ持てと言うだけの手つきではない。
ノラは縄を腰へ回し、短剣の位置を直した。ヨルが縁を嗅ぎ、古い木枠の一か所で鼻をそらす。
「そこは踏まないで」
「そこは三日前に替えた板だ」
ダリクが反射的に言った直後、ヨルが前足で板を押した。表面だけ新しい板が、裏から赤い粉を吐いて沈む。
ダリクの顔色が変わった。
「……替えたのは、表だけか」
「知らないことは、下で言って。知ってるふりをされた方が危ない」
マルヤが二本の縄の端を受け取った。一方を自分の腰へ巻き、もう一方を吊り具の太い柱へ回す。
「私はここで持つ。足場には入れない。でも、二人とも勝手に消えたら、縄ごと町へ引きずって帰るわ」
カヤは布を巻いていない方の手をマルヤの結び目へ添えた。
「私も持ちます」
「その腕は動かさない」
「こっちは噛まれてません。リトは封壺をずっと抱えてました。置いたら怒られるって……あの子、自分から助けてって言えないんです」
ダリクの太い指が、縄の結び目で一度止まった。
カヤは彼を見たまま続けた。
「下で、あんたの声より大きく言ってください。壺を置けって」
「命令すれば、また同じだ」
「じゃあ頼んでください。やったことないでしょうけど」
ダリクは言い返さなかった。
ノラが腰の縄を三度叩く。
「三回引いたら、生きてる合図。四回なら、すぐに二人分を引いて」
「ヨルが鳴いたら?」
「下をのぞかない。偽物に鳴かされているかもしれない」
マルヤはノラの縄を握り直した。
「本物は?」
「戻ってきた時に匂いで分かる」
ヨルが不満そうにノラを見た。
「今は、そういうことにして」
先にヨル、その後をノラが降りる。ダリクは別の縄を腰へ巻き、狭い足場へ大きな体を横にして続いた。赤錆の中は、上から見るよりずっと狭かった。
壁に沿った木の足場は古く、踏むたびに乾いた音を立てる。だが、その下から返る音は湿っていた。かしゃり。ぎしり。かしゃり。使われていない鎖まで、誰かの呼吸に合わせるように揺れている。
ヨルが先へ行く。鼻を床へ近づけ、危ない板の手前で尾を止める。ノラはその合図を見て足を置く場所を変えた。後ろのダリクは板の釘を見て、悔しそうに奥歯を鳴らす。自分が安全だと思っていた足場を、初めて借り物のように踏んでいた。
底が声を変えた。
「返事くらいしろ。聞いていないと言われても知らないぞ」
ダリクに似た声だった。すぐ後ろにいる本物のダリクは黙っている。握った縄だけが、きしり、と鳴った。ノラは返さなかった。
「壺を置くな」
今度は作業員の声。
「封を切ったら本人負担だ」
別の声。
「下で止まるな。上が詰まる」
どれも、人間が言った言葉だった。ヨルが耳を伏せる。ダリクの手が反射的に口元へ行った。自分が吐いた命令を、穴の底から聞かされている。ノラは片手でヨルの首元に触れた。
「鳴かないで。向こうは音を拾う」
ヨルは鳴かなかった。鼻先を赤い粉の上へ戻し、先へ進む。途中で足場が途切れていた。
板が数枚抜け、向こうの段まで赤い土壁だけが続いている。ノラは鉤縄を投げた。一度目は錆で滑る。二度目で、壁の割れ目にかかった。
強く引く。
もつ。
ノラは走り、途切れた足場を越えた。向こうの板へ膝から落ちる。右肩の古傷が引きつり、縫ったところの奥が焼けるように痛んだ。ヨルがすぐに追いつく。
後ろでダリクが鉤縄を引いた。
「俺には短い」
「戻って上で待つ?」
「待たん」
ダリクは吊り具に使う太い革帯を鉤縄へ回し、即席の輪に片足を掛けた。体を振って裂け目を渡り、着地の代わりに肩から壁へぶつかる。灰が落ち、声を出しかけた口を自分で塞いだ。
「その方法、帰りにもできる?」
「帰りはリトに笑われんよう、もう少しましにやる」
底から、ノラの名が上がった。
「ノラ・ヴェイル」
女の声だった。知っている誰かに似せようとして、失敗している。マルヤでもミミでもない。ただ、ノラが振り向きそうな形だけを作った声。
ノラは息を吐いた。
「名前の形をしているだけだ」
ヨルは鼻先を床へつけたまま、鳴かずに進んだ。底に近づくほど、鉄の味が濃くなった。
壺置き場は、壁を浅く削って作られていた。封を塗られた壺がいくつも並び、口の赤い封は乾いた血のように固まっている。床には赤黒い粉が積もり、足跡を半分飲み込んでいた。逃げた足跡は上へ向かっている。
転び、踏み直し、誰かを待たずに戻った跡。その中で、一つだけ、壺置き場の前から動いていない足跡があった。小さな靴跡だ。壺を抱えたまま膝をつき、立とうとして、また同じ場所に戻っている。
ヨルが壺置き場の奥を嗅いだ。すぐに鼻先を戻す。生きている匂いは、一つ。
少年は、壺を抱えていた。
細い肩。膝には赤い土。両手は封壺の胴を抱え込み、指の関節が白くなっている。爪の間には赤黒い粉が詰まっていた。
リトだった。
ノラを見た時には、目へわずかに安堵が浮かんだ。すぐ後ろのダリクを見た瞬間、その色が消える。壺を抱く腕へ、いっそう力が入った。
「返事、してない」
助けを求めるより先に、監督へ言い訳を出す声だった。
ダリクが一歩出る。リトは壺を盾にするように身を引いた。
「封も切ってない。落としてない。俺、ちゃんと――」
「もういい」
ダリクの声が太く響き、リトの肩が跳ねた。ダリク自身もそれに気づき、次の言葉を出せなくなる。
底から、同じ太さの声がした。
「返事をしなさい。聞こえているなら、答えなさい」
どちらが本物か迷う必要はなかった。本物のダリクは、言い直すために何度も口を開いている。底の声は、一度も迷わない。
ノラはリトの前へ膝をついた。
「上に行くよ」
「壺も?」
「置いていく」
「置いたら俺のせいになります。封が切れたら俺の分じゃ払えない。叔父さんにも迷惑がかかる。置いてもらってるのに、また役に立たないって」
息継ぎを忘れたような速さだった。何度も頭の中で繰り返し、責められる前に自分で責める言葉を作っていたのだろう。
ダリクがしゃがむ。大きな体を低くしても、リトは顔を上げなかった。
「リト。壺を――」
「落とすなって言った!」
少年の方が怒鳴った。
「割ったら俺じゃ払えないって、あんたが言った。下で止まるなって言った。呼ばれたら返事をしろって、ずっと!」
底の赤い粉が嬉しそうに波打つ。ダリクは言い返さず、怒鳴られた言葉を全部受けた。
「言った」
「じゃあ持って帰る」
「違う。俺が間違えた」
その一言だけは、底呼びがすぐに真似できなかった。
壺置き場の奥で封が、ぴしりと鳴る。赤い粉が持ち上がり、鎖の切れ端、割れた壺の破片、名前の消えた作業札が一か所へ吸い寄せられた。人の形にはならない。縦穴の底そのものが、喉のように開く。
底呼び。
「リト」
今度は優しい声だった。
「君が壺を持っていれば、まだ失敗じゃない。みんな上へ行った。君だけが残った。君がちゃんと持っていれば、まだ言い訳できる」
リトの指が取っ手へ食い込む。
「俺のせいじゃない」
漏れた声へ赤錆の粉が集まり、次の言葉を待つ。ノラはリトと底呼びの間へ体を入れた。
「リト。私が壺を取ったら、君は取り返しに戻る」
リトはうなずかなかった。否定もしない。
「自分の手で離して」
「無理です」
ダリクが壺の反対側へ手をかけた。
リトが息を呑む。
「取るな!」
「取らん。一緒に持つ」
「何で」
「お前一人の荷にしたからだ。ここからは半分、俺が持つ」
ダリクの手が壺の胴を支える。重さが軽くなっても、リトの指は取っ手に食い込んだままだった。ダリクは持ち上げず、少年が抱えている高さで壺を支え続けた。
底呼びが叔父の声を出した。
「取り返せ。言われた物も持てない子を、誰が置いてくれる」
リトの喉が動く。
「ここにはいない」
ノラが言うと、リトは首を振った。
「同じ声です」
「本物なら、今のお前の手を見てる。声だけで命令しない」
ダリクはリトの赤くなった指を見た。自分の言葉が食い込んだ跡を初めて見るような顔だった。
「三つ数える」
「また命令?」
「頼む。三つで、俺と一緒に離してくれ」
カヤに言われた通りの言葉は不格好で、最後だけ妙に小さくなった。
リトは泣かなかった。ただ、ダリクの両手が本当に壺を持っているか確かめる。
赤い粉の中から細い鎖が伸びた。
ノラの腕へ巻きつき、歯のある輪が布と皮膚を裂く。ノラが鎖をつかむと、別の一本がダリクの手首へ向かった。ヨルが途中へ飛び込み、鎖の根元を前足で踏む。
「離すな」
底呼びが命じる。
リトの指がまた硬くなった。
ノラは黒い熱を掌へ集め、歯のある輪を握り潰した。皮膚が裂ける。腕を流れる血が壺へ落ちても、鎖の動きだけは止める。
「離すなと言う声に、返事をするな」
ダリクが一つ目を数えた。
「一」
底呼びが叔父の声で割り込む。
「仕事を失うぞ」
「二」
「叔父さんが困る」
リトは壺を見たまま、声を張らずに言った。
「聞こえてる」
返事ではない。怖い声が消えていないことを、本物のダリクへ伝える声だった。
「聞こえたままでいい」
ダリクは壺から目を上げなかった。
「三」
二人は同時に手を開いた。
支えを失った壺が落ちる。赤錆の口が床から開き、壺を飲もうとした。
リトの手が反射的に戻りかける。ダリクがその手首をつかんだ。
「俺が離せと言った。戻すな」
ノラは落下点へ足を差し入れ、封壺を口から横へ蹴り出した。壁際の割れ板へ当たり、封が裂け、赤黒い粉が噴き出す。
ヨルが小さな体でぶつかり、壺をさらに横へ転がした。赤錆の口は追いきれず、空を噛むように閉じる。
「割れた」
リトの声が震えた。
ダリクは壊れた壺と、自分がつかんだままのリトの手首を見た。
「見えてる」
「俺が――」
「謝るな。割ったのは、離せと言った俺だ」
リトは喉まで出た謝罪を飲み込んだ。代わりに、空になった両手を胸の前へ引き寄せる。底呼びが次の言葉を待っても、リトはもう何も渡さなかった。
目から涙だけが落ちた。リトは袖で拭おうとして、空の両手を見つめる。
「離した」
「俺が?」
「君が」
ダリクが答えた。褒める口調ではない。自分も同じ時に手を開いた人間として、見たことをそのまま言った。
底呼びが震える。粉の奥から鎖が何本も伸び、封壺の破片、作業札、赤い土を巻き込みながら足場の脚へ噛みついた。
ダリクは腰袋から、さっき外したリトの木札を出した。
「持て」
リトが身を硬くする。
「また荷?」
「お前の名だ。嫌なら捨てろ。壺よりは軽い」
リトは札を受け取った。両手で抱えず、片手の中へ握る。
ノラは自分とダリクの縄を三度引いた。上からすぐに張りが返る。マルヤとカヤが、こちらの重さを待っている。
「立てる?」
リトは膝へ力を入れた。最初は赤い粉に滑り、ダリクの腕へぶつかる。
「立つ」
「なら俺につかまれ」
ダリクが腕を出すと、リトは迷った末、上着ではなく縄をつかんだ。
「あんたには、まだ腹が立ってる」
「上で聞く」
「逃げない?」
「俺の現場だ」
さっきまで責任から逃げるために使っていた言葉を、今度は残るために使った。
来た道は、もう同じ形をしていない。板の角度が変わり、鎖の位置もずれている。先を走ったヨルが、途切れた足場の手前で止まった。
ノラが越えた時より、裂け目は広がっていた。鉤縄のかかった壁も、赤い粉を落としている。
「子どもを先に渡す」
ダリクは吊り具用の革帯を外し、鉤縄へ輪を作った。リトの腰へ回そうとすると、少年が後ずさる。
「吊るの?」
「荷みたいには吊らん。俺が後ろで支える。足は自分で板へ置け」
「落ちたら」
「俺も落ちる」
「やだ。落ちる話しないで。まだ俺、足を乗せてないのに」
ダリクは言い直そうとして、言葉を詰まらせた。
ノラが先に裂け目を越えた。着地で肩の傷が開き、鼻の奥へ血の味が上がる。向こう側から革帯を引いたところで、裂け目の底から赤い粉が逆さの雨のように昇った。
リトの片手には木札がある。名前の溝へ粉が入り、赤い字になった。
「口へくわえて。両手は縄」
ノラが言う。
リトは札を口へ運びかけ、止めた。
「これ、下の声が触ってる」
木の裏で、何かが爪を立てる細い音がした。ダリクが取り上げようとすると、リトは胸へ引く。
「俺の名前だ」
「分かってる。だから早く渡れ」
リトは札を口へくわえ、両手で縄を握った。ダリクが背中を押し、ノラが帯を引く。赤錆が叔父の声で呼んでも、口は塞がっている。
一歩目は板へ届いた。二歩目で靴が滑る。
裂け目から細い鎖が跳ね、木札へ巻きついた。歯のある輪が札の端を削る。リトは口から取れかけた札を反射で片手につかみ、もう一方の手だけで縄へぶら下がった。
「離せ!」
ダリクの怒声に、リトの指が硬くなる。
「これがないと、働いたって分からなくなる!」
革帯が腰からずれた。片手では体を支えきれず、リトの胸が裂け目の縁へ当たる。ノラは帯を腕へ巻き、肩の縫い目が切れるほど引いた。ヨルが外套の裾へ噛みつく。
「リト、手!」
「賃、もらえない!」
「それでも手を離してくれ!」
ダリクの声は頼む形になったが、穏やかにはならなかった。怒鳴り慣れた喉がひび割れ、最後の一字だけ掠れる。
木札の表で、赤い字がリトの名を先に呼んだ。
リトは目を閉じた。
札を離す。
錆鎖が木片を裂け目へ引き込んだ。落ちていく間も、赤い名だけが何度も闇へ浮かぶ。底で小さな歯の音が重なり、木の割れる音は聞こえなかった。
空いた手が縄をつかむ。ダリクが鉤縄を張り、ノラが革帯を引いて、リトを板へ転がした。ヨルも外套を噛んだまま後ろへ倒れる。ノラはリトの腰から外した革帯を、向こうへ投げ返した。ダリクはそれを鉤縄へ回し、最後に裂け目を越えた。今度は勢いをつけすぎず、革帯へ体重を預ける。
リトはすぐ裂け目へ這い戻ろうとした。
「札が」
ダリクが腰を抱えて止める。
「俺の名前が下にある」
「見てた」
「見てたなら取ってよ!」
ダリクは返せない。裂け目の向こうで鎖が鳴り、底呼びが今度は、札を噛みながら喋るような濁った声でリトの名を試していた。
リトが鼻をすすり、腰に回った腕を押した。
「放して。上に行く」
「戻るんじゃないぞ」
「じゃあ、歩かせてよ」
ダリクは腕を緩めた。リトは裂け目を睨んでから、ノラの方へ歩き出した。
上の灯りが見えた。ノラは自分の腰の縄を外し、リトの腰へ結び直した。
「縄を引く!」
マルヤの声には息切れと焦りがあった。底呼びの滑らかな声とは違う。
最初にリトの縄が上がる。途中で足場へ靴をぶつけても、少年は木札を失った片手を握りしめたまま、もう一方で縄を握った。入口側から伸びたマルヤの腕が上着をつかみ、カヤが包帯のない手で背中を引く。
「遅い」
カヤの第一声はそれだった。
「壺が重かった」
「置いてきた?」
「割った」
カヤは自分の噛まれた手首を見せた。
「じゃあ、お揃い。私も荷を守れなかった」
「怒られない?」
「これから監督を二人で怒る」
カヤは地面へ座り込んだリトの隣へ腰を下ろした。噛まれた手首をもう片方の手で支え、縦穴を睨んでダリクが上がってくるのを待った。
次にダリクが上がる。マルヤがリトの腰から外した縄を下ろし、ノラは自分の腰へ結び直した。最後のノラはヨルを外套の内側へ入れ、足場を蹴った。黒い熱を足へ無理に集めた途端、視界が揺れる。縁へ届いた指をマルヤがつかみ、ダリクは縄ごと反対の腕を引いた。
ノラが足場へ転がり込む。鼻から血が落ち、裂けた袖の下では鎖の歯形からも血がにじんでいた。マルヤが布を押し当てようとするが、ノラは先にダリクを見た。
ダリクは割当札の板を拾い、リトの空いた行へ炭筆を置いている。少年の手に戻したはずの木札はもうなく、名の横の小さな穴だけが残っていた。
「封壺破損」
書きながら、リトへ言った。
「ここまでは事実だ」
次に、自分の名を書き込む。
「監督命令による破棄。下班の退避確認不足。底からの呼び声あり。本人札、底で喪失」
マルヤが横から紙をのぞく。
「返事をしたら危ないことも書くの?」
「書く。リトが戻っていなかったこともだ」
筆先が止まった。ダリクは苦い顔のまま、逃げるための空欄を見つめる。
「俺が書けば、俺の責任になる」
「なるわね」
マルヤは励まさず、ただ待った。
ダリクは空欄へ線を引いた。
「そうする」
リトは手が空いたまま、その手元を見ていた。
「札がないと、今日の賃は」
ダリクの筆が止まる。割当板に名があっても、本人札が戻らなければ、上役は受取不明で払わない。いつもならダリク自身がそう処理していた。
「今ここで、もらえるとは言えん」
「じゃあ落としたのと同じだ」
「俺が拾わせなかった」
「それで銭が出る?」
ダリクは答えなかった。炭筆を持った手だけが、割当板の端を強く押した。板へ書いた責任では、今夜の銭にも、叔父へ見せる本人札にもならない。
縦穴の底で、ちりん、と小さな鈴が鳴る。
全員が黙った。
「ノラ・ヴェイル」
人間の声に似せている。けれど、誰の声でもない。
リトがノラを見て、口を開きかけた。ダリクの大きな手が少年の口を塞ぐのではなく、自分の口元へ上がる。喋るなと誰かへ命じず、まず自分が黙った。
ノラは返事をしなかった。
ヨルも鳴かない。
リトは二人を見て、自分で唇を閉じた。名札を失った手が、何かを握る形のまま小さく震えていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




