第11話 錆びた鈴の底
赤錆は、まだ返事を待っていた。
縦穴の底から呼ばれたノラの名に、誰も応じなかった。声は一度で消えず、赤い土の奥に薄く残っている。呼ばれた者が、うっかり顔を向けるのを待つ気配だった。
リトは、灯口の男に肩を貸されて入口の外へ出た。
担架を見て、首を横に振る。
「歩けます」
声は細い。足も震えている。それでも、封壺を抱えていた手ではなく、自分の足を見ていた。
カヤが隣へ回った。巻かれた手首は使えない。もう片方の手だけを、リトの背中の近くに置く。
「転ぶなら言いな。荷みたいに運ばれるの、嫌でしょ」
リトは少しだけ顔をしかめた。
「嫌です」
「なら歩きな。遅くていいから」
礼はなかった。
それでよかった。
ダリクは割当札の板に、戻った者、怪我をした者、封壺の破損を書き直していた。言い方は荒く、善意の顔でもない。それでも、リトの名前を板の隅へ押しやることはしなかった。
縦穴の奥で、ちりん、と小さな音がした。
ダリクの筆が止まる。マルヤも足を止めた。ヨルは縁へ近づかず、ノラの靴の横で鼻を低くしている。
ノラは縦穴を見た。
「まだ鳴ってる」
マルヤがリトを灯口の者に預け、戻ってきた。
「救助は終わったわ」
「生きている子が残っていないか見る」
「灰鷹が来る。あなた一人で見る必要はない」
「灰鷹が底へ降りるまでに、また誰かが返事をするかもしれない」
マルヤはすぐには返さなかった。
ノラの言葉を認めたくない顔だった。認めれば、その先にノラが何をしようとしているのかまで見えてしまう。
「……救助以外のことをするなら、私は止めるわ」
ノラは答えなかった。
言葉を置けば、底がそれを拾う気がした。
日が落ちる前に、赤錆の入口には停止札が掛けられた。
作業中止。安全確認まで立入禁止。
灰鷹は入口側の足場を調べ、灯口の者は怪我人を町へ運んだ。吊り具は固定され、割当札の板はダリクが抱えて出た。
ノラも一度、赤錆を離れた。
町へは戻らなかった。
夜が深くなり、人の声が赤錆の周りから消えてから、ノラはヨルを連れて崩れた石柱の裏へ回った。昼のうちにヨルが鼻を向けていた古い搬出口が、赤い土の割れ目に半分埋もれている。
正面の足場は使わない。
そこには灰鷹の足跡がある。停止札も、吊り具に残された固定縄もある。正面から入れば、誰かに見つけてくれと言うような跡が残る。
ノラは古い搬出口に手をかけた。
すぐには入らず、ヨルを先に割れ目へ寄せる。
ヨルは赤い土の隙間へ鼻を入れ、長く嗅いだ。
鳴かなかった。
生きている匂いはない。
ノラは古い搬出口へ体を入れた。
古い搬出口の中は狭かった。
使われなくなって久しい道らしく、壁には擦り傷が残っている。人の肩の高さではない。木枠や縄がこすれた低い位置に傷が集まっていた。
ヨルが先を行く。
灯りは小さくした。強く照らせば、外へ光が漏れる。赤錆の中では、暗さよりも音の方が危ない。
奥へ進むほど、かすかな鈴の音が近づいた。
ちりん。
ノラは応じない。
底の壺置き場は、昼よりも低く沈んでいた。
割れた封壺。墨の潰れた申込札。錆びた作業札。切れた鎖。それらが縦穴の中央へ寄り、赤い粉の下でゆっくり上下している。
人の形はしていない。
だからこそ、逃げ場がなかった。どこを見ても、赤錆の口だった。
「今日の銭は、まだ足りない」
カヤに似た声だった。
ノラは足を止めなかった。
本物のカヤなら、あんな平たい声では言わない。痛みを抱え、明日のことを数えながら、それでも自分の手首を見て言う。
赤錆の底に、その重さはない。
次に、リトの声がした。
「聞こえてる」
昼の底で聞いた声。壺を抱え、叱られる前に言い訳を探していた子どもの声。
けれど、今の声には体温がない。
ただ、言葉の殻だけが鳴っている。
ノラは縦穴の中央へ膝をついた。
赤い粉の奥に、作業札の束が半分埋もれている。名前欄はどれも錆で潰れていた。その束のいちばん奥に、小さな鈴が結ばれている。
古い作業札につける呼び鈴だったのだろう。
荷を上げる時、人を呼ぶ時、返事を待つ時に鳴らされたもの。錆びて歪んでいても、鈴だけはまだ人を呼ぶための形を残していた。
ヨルが尾で床を二度叩いた。
そこだ。
ノラは札束の手前に指を差し入れた。
赤錆の粉が指にまとわりつく。札は紙の硬さを失い、濡れた革のように柔らかい。指を入れるたびに、名前欄の切れ目が開く。
そこから、まだ声になる前の音が漏れた。
「返事をしろ」
「聞こえているなら答えろ」
「置いていくな」
ノラは息を細く吐いた。
返事ではない。指を動かすための呼吸だった。
小鈴は、札束の奥で細い紐に結ばれていた。正面から引けば、札ごと赤錆に食い込む。紐の端を探して、結び目をほどかなければ抜けない。
盗むために覚えた手癖だった。
嫌いな技術だ。けれど今は、人を呼ぶ穴から核を奪うための手だった。
結び目の奥へ爪を入れる。
赤い粉が指の間へ入り、皮膚の薄いところを噛む。作業札の束が、濡れた喉のように閉じようとする。ヨルが横から低く喉を鳴らした。噛みつきはしない。余計に動けば、札ごと沈むと分かっている。
ノラは鈴の紐を少しだけ緩めた。
ちりん。
鈴が鳴った。
返事を待つ音だった。
ノラは、その音の奥を見た。
名前欄の潰れた札。割れた壺。切れた鎖。誰かが持たされた木片。落としたら責められる荷。答えたら覚えられる声。
全部、この底が待っていたものだった。
「返事を待つな」
ノラは鈴をつかんだ。
「二度と、人の名前で呼ぶな」
最後の結び目がほどけた。
ノラは鈴を引き抜いた。
赤錆が沈んだ。
音は下から来た。地鳴りではない。巨大な喉が、息を詰まらせたような音だった。
鎖が床へ落ちる。作業札が裂ける。赤い粉が一度だけ膨らみ、それから力を失ったように崩れた。
声は人の形になれなかった。
錆を擦る音だけが、底に残った。
ヨルが短く鳴いた。
「クル」
終わった合図だった。
ノラは鈴を布で包み、腰袋の奥へ押し込んだ。
赤錆は狭まり始めている。閉じる穴は、最後に道を親切には残さない。古い搬出口の方から、土の崩れる音がした。
ノラはヨルを先に走らせた。
来た道は、肩を削るほど細くなっていた。壁の赤い土が服に擦れ、背中の傷へ入り込む。鼻の奥に鉄の味が上がった。
黒い熱は使わない。
使えば、出口の先で立てなくなる。
ヨルが先で尾を止めた。
そこだけ、床が抜けかけている。
ノラは手前の木枠を踏み、体を横へ押し出した。靴の先が崩れる。赤い粉が足元から落ち、下で鈍く鳴った。
返事を待つ音ではなかった。
ただの崩れる土の音だった。
搬出口の割れ目が見えた。
ヨルが外へ出る。
ノラも腕を先に通し、肩を抜き、最後に腰袋を引っかけないよう押さえた。布に包んだ鈴が、袋の奥で小さく揺れる。
外の空気は冷たかった。
夜明け前だった。
赤錆の正面入口の方で、停止札が風に揺れている。札はまだ、作業中止とだけ告げていた。底で何が沈んだのかは、誰にも書かれていない。
ノラは立ち上がった。
ヨルが足元で、赤錆ではなく町の方を見た。
朝には、掲示板が動く。
赤錆は黙った。
けれど、町はまだ黙らない。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




