第12話 ましな方へ
赤錆の申込箱が外され、浅縁の補助班という札が掲示板に掛かった朝、灯口の相談所の戸は開いたままだった。
帳簿をめくる音、椅子を引く音、賃の額を聞き返す声。赤錆へ名前を書けなくなったぶんだけ、行き先を失った名前がここへ流れてきている。ノラ・ヴェイルは戸の前で足を止めた。
昨夜の赤い粉は払ったのに、爪の脇にはまだ残っている。ヨルは相談所の入口を嗅ぎ、すぐにノラの靴の横へ戻った。
「入るよ」
相談所の中は朝から混んでいた。壁には北堤、河岸、工房、倉庫の仕事紙が貼られている。行ける仕事と、今すぐ足りる仕事は違う。紙の前に立つ者たちの顔は、どれも明るくなかった。
マルヤ・センドは机の前に立ち、帳簿と紙束を交互に見ながら、一人ずつ名前を確かめていた。
「河岸は昼から。杭場じゃない方へ。あの手首で縄は握らせないで」
「片手の荷出しは、もう二人います」
「なら今日だけ一人増やして。昨日まで赤錆へ三人出せたのに、戻った一人を置く場所がないとは言わせないわ」
相手の男が困った顔をしても、マルヤは声を荒げず、帳簿の端を指で押さえた。
「断るなら、私が親方に聞く。あなたが決めて」
男が少し黙って紙を受け取り、奥へ下がったところで、マルヤは初めてノラに気づいた。目の下は暗い。夜を越した顔だった。けれど、立ち方は崩れていない。
「来ると思っていたわ」
「赤錆の控えを見に来た」
「それだけ?」
ノラはマルヤの目の下の影を見た。マルヤは責めなかった。顎で窓際を示す。
「カヤとリトなら、あそこ」
窓際の椅子に、カヤが座っていた。古い上着の袖は、手首の上で折られている。布が巻かれた手は膝に置かれ、もう片方の手で仕事紙を押さえていた。顔色は悪いが、目は昨日よりはっきりしている。
リトはその隣にいた。封壺は持っていない。両手を膝の上に置き、時々、指を開いては閉じている。何かを抱えていない自分の手に、まだ慣れていないようだった。
カヤが先にノラを見た。
「河岸に回されました。片手でできる方だそうです」
「いつから」
「昼過ぎです」
カヤは仕事紙の端を押さえた。
「赤錆よりましな方へ行きます。ましな方でも、足りませんけど」
カヤは痛む手を使わず、片手で仕事紙を折ろうとしている。
「今日は強く握らないで。痛みが上がったら、紙より先に戻ってきて」
「戻ったら、賃が減ります」
「減らされたら、私のところへ来なさい」
マルヤが横から言った。
「取り返せるとは言わない。でも、黙って減らされるよりはましにする」
「それ、頼りになる言い方なんですか」
「頼りになる言い方だけを聞きたいなら、赤錆の太い字を見ればいいわ」
カヤは一瞬だけ黙ってから、仕事紙を折った。
「じゃあ、こっちにします」
カヤは折った紙を上着の内側へしまいかけ、片手ではうまく入らず、少し顔をしかめた。リトが迷ってから、紙の端だけを押さえた。
「そこ、引っかかってます」
「……助かった」
「壺じゃないなら、持っても怒られないと思って」
カヤは小さく息を吐いた。
「じゃあ、そういうものだけ持ってな」
リトが小さく言った。
「俺は、まだ叔父さんを待っています」
ノラが向けた視線を受けても、リトは顔を上げず、膝の上で組んだ手を見ながら言葉を継いだ。
「怒られるのは、まだ怖いです。でも、底の声に従うよりはましでした」
リトの言葉を聞いたカヤは、表情を隠すように横を向いた。
「なら、戻ったんだよ。まだここにいる」
戻れたことと待つ人の怒りを同時に思ったのか、リトは返事を選びかねて眉を寄せた。
「ここにいても、怒られます」
「怒られるなら、地上で怒られな。下で言いなりになるよりは、まだ言い返せる」
「言い返せる気は、しません」
「じゃあ、黙って立ってな。それでも底に残るよりはいい」
リトの頬がこわばった。けれど、目は床へ逃げなかった。
膝の上の手が、何かを抱える形になりかける。リトはそれに気づき、自分で指を開いた。封壺はない。
「忘れないで」
「怖かったことですか」
「底の声に従わなかった方を」
リトはすぐには答えなかった。
「忘れたくても、たぶん忘れません」
リトは膝の上で手を裏返した。空の掌には、封壺の取っ手の跡が赤く残っていた。戸口で、大きな影が止まった。ダリクだった。
割当札の板と報告紙を抱えている。夜を越して書くものを片づけてきたらしく、顔は昨日より険しい。マルヤが机の前から振り返る。
「赤錆の報告?」
「戻った奴も怪我人も、底の声も書いた。壺の破損は現場分だ」
ダリクが差し出した紙を、マルヤは受け取って目を通した。
「監督者判断、で逃げなかったのね」
「リト一人にかぶせたら、あとで帳面まで嘘になる」
リトは紙ではなく、ダリクの顔を見た。ダリクは目を合わせず、報告紙の角をマルヤへ向けた。ダリクはリトの前を通る時、足を止めた。
「次に壺を持たされそうになったら、先に札を見ろ。読めなきゃ、読める奴を呼べ」
リトは小さくうなずいた。ダリクは謝りもせず、荒い足取りで相談所の外へ出ていく。カヤがその背中を見送った。
「変な人ですね」
マルヤは報告紙を帳簿に挟んだ。
「これは残すわ。あとから、この子一人のせいには書き換えさせない」
ノラは窓の外を見た。相談所の前には、まだ人がいる。赤錆の箱がなくなっても、立つ場所を変えただけの者たちだ。マルヤはその一人ひとりに紙を渡し、戻ってこいと言い、時には無理だと言う。
穴の中とは違う、終わりのない仕事だった。
昼前になってノラが相談所を出ると、ヨルが先に戸口を抜けて外の石畳を嗅いだ。赤錆の粉の匂いより、人の足の匂いが多い場所だった。後ろから出てきたマルヤは、帳簿を抱えたまま戸の横に背を預けた。
「赤錆で何が起きたのか、私は全部は知らない」
ノラは立ち止まった。
「灰鷹の紙には、作業中止と安全確認までの立入禁止。それから、底の異音が消えたとしか書かれないでしょうね」
マルヤは遠くの掲示板を見た。
「カヤが戻った。リトが戻った。赤錆が止まった。私が言えるのは、そのくらい」
ノラは立ち止まったまま、マルヤの次の言葉を待った。
「でも、外に残った子まで、私ひとりに預けないで」
ノラはマルヤを見た。机の紙を背に、マルヤは疲れていても逃げていなかった。
「あなたが中で声を止めるなら、私は外で札を止める。そういう分け方でいい。でも、穴から出た後に何も言わずに消えられると、こっちも手が届かない」
「札は、声よりしつこいね」
「ええ。紙は黙っているふりをして、人を連れていくから」
マルヤは帳簿の背へ指をかけた。
「だから、こっちでは紙の首根っこを掴む」
「全部は見られない」
「知っているわ」
マルヤはすぐに返した。
「だから、見た時だけでも逃げないで」
ノラは一拍、黙った。
風が吹き、相談所の戸口に貼った紙が揺れる。迷宮の札へ名前を書く前に相談を。太い字ではない。赤錆や浅縁ほど、人を引き寄せる字でもない。
それでも、マルヤはそれを貼る。剥がせば済むなら、そうしている人間だった。
「穴から出たら、人数だけは伝える。誰を預けたかも」
ノラが言うと、マルヤはようやく息を吐いた。
「それで十分とは言わない。でも、今日はそこから始める」
足元でヨルが返事の代わりに尾を一度振ると、マルヤはその仕草へ目を細めた。
「あなたも聞いたの?」
ヨルは顔を背けた。
「都合の悪い時だけ魔物になるのね」
その時、相談所の前を行き交う人々が、道を譲るように少し割れた。その中央からサイラスが歩いてくるのを認め、ヨルは男の靴へ鼻を向けた。
ヨルは一度だけ嗅いだ。洗剤の匂いに鼻先が止まり、サイラスの靴をもう一度確かめることなくノラの足元へ戻る。マルヤはその動きを見て、帳簿を閉じた。
「浅縁の札なら、もう見たわ」
「早く見ていただけて助かります」
サイラスは穏やかに言った。
「止まった仕事があれば、次を用意しないと。掲示板の前で待たせる方が残酷でしょう」
「便利な言い方ね」
マルヤの声は低くならなかった。
「責められにくい言葉を選ぶのが、上手い」
「人を困らせない言葉を選んでいるだけですよ」
「困らせない顔で、困る場所へ連れていく人もいるわ」
サイラスの口元にかすかな笑いが浮かんだが、ノラは黙っていた。サイラスがここで何を探しているのかはまだ分からない。けれど、浅縁の札だけを見せに来た顔ではなかった。
「灯口の控えは、灯口で見るわ」
マルヤが言った。
「もちろん」
サイラスは笑みを崩さない。
「こちらも、戻った人と戻らなかった人を取り違えたくないだけです。赤錆だけでなく、灰喉、煤釘。短期仕事から戻った子が、その後どこへ流れたかを見ておく必要がありますから」
煤釘。
その名が出た瞬間、ヨルが低く鼻を鳴らした。ノラは動かなかった。脳裏を、死んだ仲間の隣でそれでも稼ぎ場を心配していた、煤釘で救った少年の姿がよぎった。サイラスはノラを見ていないふりをしている。
「煤釘の時も、戻った子がいましたね。あの子の控えは、どちらに?」
マルヤはすぐには答えなかった。
「赤錆の整理に、煤釘の控えが要るの?」
「同じ短期仕事の戻りでしょう。助かった子が次にどこへ行くのか、見ておくのは悪いことではありません」
「悪いことではない言い方ね」
「良いことに聞こえませんか」
「聞こえすぎるのよ」
サイラスは小さく笑った。ノラは口を開かなかった。
問い返せば、煤釘を気にしていることが見える。否定すれば、なおさら残る。サイラスは、そういう場所に言葉を置いた。マルヤが帳簿を胸に抱え直した。
「煤釘の控えは、私が確認する。必要なものがあれば、こちらから渡すわ」
「助かります」
「あなたに渡すとは言っていない」
「ええ。急ぎません」
サイラスは浅く頭を下げた。
「思い出した時で構いません。戻った子の名前は、消えないうちに拾っておいた方がいい」
その正しさが、余計に嫌だった。マルヤは帳簿の背を、サイラスから隠すように腕の内側へ回した。
「名前は、次の仕事を回すための持ち物じゃないわ」
サイラスは笑みを薄くしたまま、去っていく。マルヤは背中が人混みに紛れるまで見ていた。それから、声を落とした。
「今のは、浅縁の話じゃないわね」
「煤釘の話でもない」
「なら、何を探っているの」
ノラは答えなかった。
浅縁の補助班の札が、人の肩越しにのぞいている。太い字は朝の光を受けていた。日払い。未経験可。搬出補助。
けれど、サイラスが置いていったのは、煤釘から戻った子の控えという、細い糸だった。引けばどこへつながるのか、まだ分からない。
ヨルが同じ方を見ていた。掲示板ではない。サイラスが消えた通りの先だった。マルヤは帳簿を握る手に力を入れた。
「煤釘の控えは、私が見る。あなたには渡さない」
ノラは一度だけ視線を戻した。
「私にも?」
「あなたにも。今は、誰が何を探しているのか分からないもの」
ノラは何も言わなかった。マルヤが自分の側から引いた線でいいと思った。
相談所の中でマルヤを呼んだのは、河岸の紙を持って集合場所を尋ねる若い男だった。マルヤはすぐに顔を戻し、戸口へ向かった。
「五番倉庫の裏。橋の下じゃないわ。間違えると、半日分が飛ぶ」
若い男があわてて紙を見る。マルヤは一度だけノラを振り返った。
「見た時は、止まるんでしょう」
「ああ」
「なら、こっちも止める」
マルヤは相談所の戸口に残った。ノラは少しの間、戸口の外に立っていた。
カヤの仕事紙は上着の内側にあり、リトの手は空のまま膝に置かれている。ダリクの報告紙も、ひとりだけを底へ戻さない。それだけは、昨日よりましだった。ヨルがノラの靴先を鼻で押した。
「行くよ」
ノラは掲示板の方へ歩き出した。サイラスの背は、もう人混みの向こうに消えていた。
誰へ何を聞くつもりなのかは見えない。だが、次に彼が触る紙だけは分かった。赤錆は黙った。町は、もう次の名前を探していた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




