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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第3章 助ける人でしょう
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第13話 煤釘の控え

挿絵(By みてみん)

掲示板の空いた釘跡を確かめたあと、ノラ・ヴェイルは相談所へ戻った。マルヤ・センドは、すでに帳簿を一冊引き寄せていた。


煤釘の控え。


「灯口の控えは、ここで止める」


「ここだけじゃない」


「ええ。灰鷹にも作業口にも、仕事を回した側にも写しがある。私はそっちを追う」


「戻った傷まで使って、軽い仕事に見せれば、また穴の近くへ戻せる」


サイラスは控えを見せろとは言わず、「戻った子の名前は拾っておいた方がいい」とだけ言った。その善意めいた言葉の先に、次の勧誘先がいる。マルヤは頁の一つを指で押さえた。


「トマ。北の石段の下。ここにはそう残っている」


「見てくる」


「待って」


マルヤは帳簿を閉じた。音は小さかったが、相談所のざわめきの中で妙に固く聞こえた。


「紙は私が見る。あなたは、あの子が今どこにいるかを見てきて。問い詰めないで。あの子が何かを隠していても、隠させた人間は別にいる」


ノラはマルヤを見た。


「私にも渡さないんじゃなかったの」


「渡さないわ。だから、必要なことだけ口で伝えた。紙はここに置く」


マルヤは帳簿を胸に抱えた。


「あなたが穴の中で声を止めるなら、私は紙の上で足を止める。そう決めたところでしょう」


ノラは少しだけ顎を引いた。


「分かった」


ヨルが扉の方へ先に歩き出し、低く垂れた尾が一度だけ揺れた。北の石段は、広場から少し外れた古い住宅の脇にあった。


昔は水路へ下りるための階段だったらしい。今は半分が崩れ、下の段には洗い桶や割れた木箱が置かれている。石の継ぎ目には草が入り、昼前の光でも少し湿って見えた。トマは、その中ほどに座っていた。


片足を伸ばし、もう片方の膝を立てている。靴紐を結び直しているように見えたが、指の動きは遅かった。傷めた足をかばっているのが、離れていても分かる。ノラが近づくと、トマは顔を上げた。


目が合った瞬間、少年の体が反射的に逃げようとした。けれど、立ち上がる前に足が引きつり、石段へ手をつく。


「逃げる足じゃない」


トマは顔をしかめた。


「説教なら先に言っとく。俺はまだ何もしてない」


「何を」


トマは口を閉じると、右手を上着の脇へ回した。だが隠すには遅く、こわばった指の間から小さな木片がのぞいていた。


ヨルが石段の下から鼻を上げ、低い声で鳴いた。


「クル……」


トマは木片をさらに後ろへ回した。


「見るなよ」


「隠したら、細い字を読めない」


「読んだ。見張りだって。立ってるだけでいいって言われた。重い荷も持たない。足が治りきってなくてもできるって」


早口なのは、誰かに言い返すために何度も頭の中で並べていた言葉だからだろう。ノラへ向けているようで、半分は自分へ言っている。


ノラは石段の一つ下に腰を落とした。トマが見下ろされない位置にした。


「木片」


「取るなよ」


「取らない。読むだけ」


トマはしばらく木片を握っていた。ノラが手を伸ばさないでいると、不機嫌そうに腕を前へ戻した。浅縁の見張り補助。


日払い。

浅層のみ。

重荷なし。

足場確認。


字は太かった。迷っている人間に、先にそこだけ見せるための字だった。ノラは木片の下の細い字を追った。


危険時は監督者判断。

縁の破損は作業者確認。

呼びかけへの応答義務。


最後の一文で、ノラは視線を止めた。


「呼びかけへの応答義務」


声に出すと、トマの肩が少し動いた。


「見張りだからだって。下から呼ばれたら答えないと困るって、そう説明された。下に人がいるかもしれないから、返事は仕事だって」


「誰が説明したの」


「浅縁の申込を回してた人」


「サイラス?」


「違う。あいつじゃない」


トマはすぐに否定した。声に、嫌なものを思い出した時の硬さが混じる。


「帳面を持ってた男だよ。広場で、サイラスの後ろにいたことがある。俺に直接話しかけたのは、その人」


ノラは木片から目を離さなかった。説明したのがサイラス本人でなくても、その背後から仕事を回せるほど近い人間なのだ。


「浅縁の話だけ?」


伸ばした足のつま先が、石段の縁を探るように少し動く。痛みが走ったのか、頬のあたりがこわばった。逃げたいが、逃げられない。木片を握る爪の横に、乾いた粉が入り込んでいる。


「悪い人には見えなかった」


トマは、言い訳のように言った。


「サイラスみたいに、ずっと笑ってる感じでもなかった。普通に、仕事を持ってきただけだ。俺が足をやったって聞いて、これならできるって」


「足をやったって、誰から聞いたの」


トマの目が一瞬だけ泳いだ。


「知らない。煤釘で戻ったってことは、向こうも知ってた。だから……まあ、足も見れば分かるし」


「煤釘のことも聞かれた?」


トマは木片を握る手を止めた。石段の上を、洗い桶を抱えた女が通り過ぎる。二人をちらりと見たが、何も言わずに路地へ消えた。水の揺れる音だけが、しばらく残った。


「少しだけだ」


トマは、石段の割れ目を見ていた。そこに答えが書いてあるわけでもないのに、目だけが離れない。


「あの夜、助けた女は何を取ったのかって。石か、札か、売れそうなものだったかって」


トマは続けた。喋るほど、自分の声が小さくなる。


「灰鷹の人が持っていったのかって。あんたがどこかへ渡したのかって」


「それで」


ノラが促すと、トマは木片を握り直した。


「耳飾りみたいなものかって聞かれた」


煤釘の奥で脈打っていた、片方だけの耳飾り。トマは、それを見ていた。


ノラが抜いたところも、迷宮が泣いたところも、岩が動いたところも。


「俺、言った」


トマの口元が歪んだ。


「片方だけの耳飾りだったって」


帳面を持った男は、その答えを聞いて一拍黙った。トマには、探していた場所へ印をつけたように見えた。ノラが爪の横に残る乾いた粉を見ると、トマが顔を上げた。


「言わない方がよかったんだろ」


ノラは木片を返しかけた。


「誰に、どこまで話した」


思ったより硬い声が出た。トマの指が引き、木片は二人の間の石段へ落ちた。


「……ほら。やっぱり俺のせいなんだろ」


ノラはすぐに拾えなかった。


「言いふらしてない」


トマの声が荒くなる。


「灰鷹には言ってない。相談所にも言ってない。あの人だけだ。聞かれたから答えただけだ。あんたから『核』だって聞いた。抜けば穴が閉じるとも。知ってるのはそれだけだ」


トマは、ノラの顔を見た。


「よくない顔してる」


「その足を見て、次の穴の札を持ってきた奴の話だ」


「助けられたことまで、仕事の理由にされた」


トマは木片を拾った。膝へ戻す途中で、手が止まる。


「煤釘から戻ったなら、穴の見方も分かる。足が悪くても、見張りならできる。そう言われたんだね」


トマは木片の太い字を掌で覆った。


「俺だって、分かってるよ」


トマは低く言った。


「おかしいって、少しは思った。でも、足がこうなったら荷は運べない。石も担げない。走れない。皿洗いに行っても、長く立てない。煤釘で死にかけたって言えば、みんな気まずい顔をする。じゃあ、何ならできるんだよって時に、見張りだけならできるって言われたら、聞くだろ」


木片の太い字が、トマの膝の上で乾いた光を受けていた。


日払い。

重荷なし。

浅層のみ。


生きて戻った者を、次の穴へ戻すための字だった。ノラの親指が石段の欠けを擦った。薄い石粉が爪の下へ入り、払っても残った。


ノラが石段の上へ視線を向けると、浅縁の箱がある広場までは、通りを曲がればすぐだった。トマの足なら時間はかかる。けれど、行けない距離ではない。


「今日は入れないで」


トマは顔を上げた。


「足が治るまでって言うなら無理だ」


「足が治るまでじゃない。今日だけでいい」


「今日だけ待っても、何も変わらない」


「変わらない。だから、明日また考えていい」


トマの喉から、乾いた息がこぼれた。


「じゃあ、止める意味ないだろ。あんた、またそうやって、止めた後のことは俺に持たせるんだ」


「持たせる。私が君の家を食わせられるわけじゃない」


トマは木片を握ったまま、何も言わなかった。ノラは続けた。


「でも、今日その木片を入れたら、君は呼ばれたら答える仕事に入る。そこだけは、足より先に危ない」


「返事くらい、しなきゃ仕事にならないだろ」


「煤釘は、死んだ子の声で喋った」


トマの目が変わった。死んだ仲間の声で鳴いた灰色のものを、トマは忘れていなかった。


「浅縁が同じとは言わない。でも、返事を仕事にする穴へ、今日は行かないで」


トマは逃げ道を探すように木片の太い字を見つめた。


「明日のことまで、ここで約束しなくていい」


ノラは、明日の稼ぎまで奪う言い方にならないよう声を抑えた。


「今日だけ、箱へ入れないで」


トマは長く木片を見つめ、怒りも悔しさも消えないまま、それでも立ち上がることだけはやめた。


「一日だけだ」


トマは木片を上着の内側へ押し込み、視界から隠した。


「明日までに別の口がなかったら、また考える。あんたが嫌な顔しても、俺はまた考えるからな」


「それでいい」


「よくないだろ」


「今日、返事をしないで済む」


トマは言い返しかけた。


けれど、煤釘の灰色の喉が、どこかでまだ鳴っているような顔をした。息を一つ乱し、無理に立とうとして失敗する。ノラは支えなかった。トマも手を出せとは言わなかった。


何度か膝に力を入れ直して、トマは石段に座り直した。


「足、まだ変な感じがする」


「長く立たないで」


「仕事しなきゃ立つだろ」


「だから、今日は短く立って」


トマは嫌そうに顔をしかめた。


「そういう言い方、腹立つ」


「覚えておいて」


「覚えたくなくても、残るんだよ」


けれど、トマは木片を箱へ入れに行かなかった。


ノラは立ち上がった。石段の下から戻ったヨルは、トマの木片へ鼻を寄せかけて前足を止め、そのままノラの靴の横へついた。


「ノラ」


トマが呼んだ。ノラは振り返る。


「あれ、灰鷹に言った方がいいのか。耳飾りのこと」


「今は言わなくていい」


「俺に持たせたままでいいのかよ」


「持たせるんじゃない。これ以上、別の紙に増やさないだけ」


「また俺が間違えるかもしれないぞ」


「その時は、誰に何を話したか、隠さず持ってきて」


トマは何かを言いかけて、やめた。小屋へ戻るころ、空は薄く曇っていた。


風が湿っている。雨になるほどではないが、洗った布が乾きにくい日だった。ミミは出ていない。戸は内側から掛かっていなかったが、机の上には畳みかけの包帯が置かれている。


ノラは棚の下から木箱を出したが、開けずに蓋に炭筆で書かれた文字だけを見た。そこには、煤釘、灰喉、赤錆の名が並んでいた。ヨルは箱とノラの間へ体を入れ、布包みから鼻を背けた。


ノラは煤釘の布包みに触れなかった。サイラスはまだ箱を見ていない。灰鷹も、まだ知らない。


けれど、煤釘という字の下に、トマの声が一つ近づいた。売らず、渡さず、しまってきたものが、助けた子の口から敵へ近づいた。ノラは箱を棚の下へ戻した。


蓋が木の奥へ滑り込む音だけが、小屋の中に残った。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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