第13話 煤釘の控え
サイラスの姿が人混みに紛れても、相談所の前に置かれた言葉だけは消えなかった。
煤釘。
赤錆でも、浅縁でもない。もう閉じたはずの穴の名だった。
マルヤ・センドは、しばらく通りの向こうを見ていた。人を追う目ではない。置かれた罠の輪郭を、頭の中でなぞっている目だった。
「中へ」
短く言って、マルヤは相談所へ戻った。
ノラ・ヴェイルも後に続く。ヨルは敷居で一度だけ鼻を鳴らし、床板の匂いを確かめてからノラの足元へ寄った。赤錆の粉はもう払われているはずなのに、相談所の中にはまだ薄い錆の気配が残っている。
窓際の椅子には、さっきまでカヤとリトが座っていた跡があった。机の上には、河岸、工房、倉庫へ振り分ける紙が積まれている。その横で、マルヤは帳簿を一冊引き寄せた。
煤釘の控え。
「渡していないわ」
マルヤは頁をめくりながら言った。
「灯口に残っている分は、私のところで止める。あの人に見せるつもりはない」
「ここだけじゃない」
「ええ。灰鷹の所在確認、作業口の出入り控え、短期仕事を回した側の写し。戻った子の名前を追う紙は、灯口だけにあるわけじゃない」
ノラは答えなかった。
サイラスは、煤釘の控えを見せろとは言わなかった。
戻った子の名前は拾っておいた方がいい。
そう言っただけだ。善意にも聞こえる。記録を整える言葉にも聞こえる。だから、余計に嫌だった。
人を落とした穴の名ではなく、そこから戻った名前を見ている。
それは、次に誰へ手を伸ばすかを数える目だった。
マルヤは頁の一つを指で押さえた。
「トマ。北の石段の下。ここにはそう残っている」
「見てくる」
「待って」
マルヤは帳簿を閉じた。音は小さかったが、相談所のざわめきの中で妙に固く聞こえた。
「紙は私が見る。あなたは、あの子が今どこにいるかを見てきて。問い詰めないで。あの子が何かを隠していても、隠させた人間は別にいる」
ノラはマルヤを見た。
「私にも渡さないんじゃなかったの」
「渡さないわ。だから、名前だけ口で渡した。紙はここに置く」
マルヤは帳簿を胸に抱えた。
「あなたが穴の中で声を止めるなら、私は紙の上で足を止める。そう決めたところでしょう」
ノラは少しだけ顎を引いた。
「分かった」
ヨルが扉の方へ先に歩き出した。返事のように、尻尾が低く一度だけ揺れた。
北の石段は、広場から少し外れた古い住宅の脇にあった。
昔は水路へ下りるための階段だったらしい。今は半分が崩れ、下の段には洗い桶や割れた木箱が置かれている。石の継ぎ目には草が入り、昼前の光でも少し湿って見えた。
トマは、その中ほどに座っていた。
片足を伸ばし、もう片方の膝を立てている。靴紐を結び直しているように見えたが、指の動きは遅かった。傷めた足をかばっているのが、離れていても分かる。
ノラが近づくと、トマは顔を上げた。
目が合った瞬間、少年の体が反射的に逃げようとした。けれど、立ち上がる前に足が引きつり、石段へ手をつく。
「逃げる足じゃない」
トマは顔をしかめた。
「説教なら先に言っとく。俺はまだ何もしてない」
「何を」
トマは口を閉じた。
右手が、上着の脇へ回る。隠すには遅い。指の間に、小さな木片が見えていた。
ヨルが石段の下から鼻を上げる。
低い声で鳴いた。
「クル……」
トマは木片をさらに後ろへ回した。
「見るなよ」
「隠したら、細い字を読めない」
「読んだ。見張りだって。立ってるだけでいいって言われた。重い荷も持たない。足が治りきってなくてもできるって」
早口だった。
誰かに言い返すために、何度も頭の中で並べていた言葉だ。ノラへ向けているようで、半分は自分へ言っている。
ノラは石段の一つ下に腰を落とした。トマが見下ろされない位置にした。
「木片」
「取るなよ」
「取らない。読むだけ」
トマはしばらく木片を握っていた。渡せば負けると思っている顔だった。けれど、ノラが手を伸ばさないでいると、不機嫌そうに腕を前へ戻した。
浅縁の見張り補助。
日払い。
浅層のみ。
重荷なし。
足場確認。
字は太かった。迷っている人間に、先にそこだけ見せるための字だった。
ノラは木片の下の細い字を追った。
危険時は監督者判断。
縁の破損は作業者確認。
呼びかけへの応答義務。
最後の一文で、ノラは視線を止めた。
「呼びかけへの応答義務」
声に出すと、トマの肩が少し動いた。
「見張りだからだって。下から呼ばれたら答えないと困るって、そう説明された。下に人がいるかもしれないから、返事は仕事だって」
「誰が説明したの」
「浅縁の申込を回してた人」
「サイラス?」
「違う。あいつじゃない」
トマはすぐに否定した。声に、嫌なものを思い出した時の硬さが混じる。
「帳面を持ってた男だよ。広場で、サイラスの後ろにいたことがある。俺に直接話しかけたのは、その人」
ノラは木片から目を離さなかった。
サイラス本人ではない。
けれど、遠くもない。
「浅縁の話だけ?」
トマは答えなかった。
伸ばした足のつま先が、石段の縁を探るように少し動く。痛みが走ったのか、頬のあたりがこわばった。逃げたいが、逃げられない。木片を握る爪の横に、乾いた粉が入り込んでいる。
「悪い人には見えなかった」
トマは、言い訳のように言った。
「サイラスみたいに、ずっと笑ってる感じでもなかった。普通に、仕事を持ってきただけだ。俺が足をやったって聞いて、これならできるって」
「足をやったって、誰から聞いたの」
トマの目が一瞬だけ泳いだ。
「知らない。煤釘で戻ったってことは、向こうも知ってた。だから……まあ、足も見れば分かるし」
「煤釘のことも聞かれた?」
トマは木片を握る手を止めた。
石段の上を、洗い桶を抱えた女が通り過ぎる。二人をちらりと見たが、何も言わずに路地へ消えた。水の揺れる音だけが、しばらく残った。
「少しだけだ」
トマは、石段の割れ目を見ていた。そこに答えが書いてあるわけでもないのに、目だけが離れない。
「あの夜、助けた女は何を取ったのかって。石か、札か、売れそうなものだったかって」
ノラは返事をしなかった。
トマは続けた。喋るほど、自分の声が小さくなる。
「灰鷹の人が持っていったのかって。あんたがどこかへ渡したのかって」
「それで」
ノラが促すと、トマは木片を握り直した。
「耳飾りみたいなものかって聞かれた」
煤釘の奥。
灰色の壁に埋まっていた、片方だけの耳飾り。黒ずんだ輪に、割れた小石が一つ。銅貨一枚にもならないようなものを中心に、穴は脈を打っていた。
トマは、それを見ていた。
ノラが抜いたところも、迷宮が泣いたところも、岩が動いたところも。
「俺、言った」
トマの口元が歪んだ。泣きそうではなかった。泣けば済むなら、もうとっくに泣いている顔だった。
「片方だけの耳飾りだったって」
ノラは、すぐには何も言わなかった。
トマが顔を上げる。
「言わない方がよかったんだろ」
責められる準備をした声だった。
ノラは木片を返した。トマの膝の上に置く。取り上げなかったことで、かえってトマの目が揺れた。
「他に誰へ話した」
「言いふらしてない」
トマの声が荒くなる。
「灰鷹には言ってない。相談所にも言ってない。あの人だけだ。聞かれたから答えただけだ。あれが何かなんて、俺は知らない。あんたが抜いたら穴が崩れて、俺を背負って走った。それしか知らない」
「それでいい」
「よくない顔してる」
「君が悪い話じゃない」
トマは反発しようとして、うまく言葉を見つけられなかった。木片の角を親指でこすり、乾いた粉を少し落とす。
「助けられたことまで、仕事の理由にされた」
ノラは言った。
トマの手が止まる。
「煤釘から戻ったなら、穴の見方も分かる。足が悪くても、見張りならできる。そう言われたんだね」
トマは答えなかった。
答えないことで、答えになった。
「俺だって、分かってるよ」
トマは低く言った。
「おかしいって、少しは思った。でも、足がこうなったら荷は運べない。石も担げない。走れない。皿洗いに行っても、長く立てない。煤釘で死にかけたって言えば、みんな気まずい顔をする。じゃあ、何ならできるんだよって時に、見張りだけならできるって言われたら、聞くだろ」
木片の太い字が、トマの膝の上で乾いた光を受けていた。
日払い。
重荷なし。
浅層のみ。
生きて戻った者を、次の穴へ戻すための字だった。
ノラの奥で、熱が細く動いた。
怒りだった。
だが、ここで出すものではなかった。トマへ向ける怒りではない。トマの足を、煤釘で助かったことを、次の穴へ入れる理由に変えた誰かへ向けるものだった。
ノラは石段の上へ視線を向けた。
浅縁の箱は、広場にある。ここからでも、通りを曲がればすぐだ。トマの足なら時間はかかる。けれど、行けない距離ではない。
「今日は入れないで」
トマは顔を上げた。
「足が治るまでって言うなら無理だ」
「足が治るまでじゃない。今日だけでいい」
「今日だけ待っても、何も変わらない」
「変わらない。だから、明日また考えていい」
トマは笑った。笑いではなく、喉の奥でこぼれた息だった。
「じゃあ、止める意味ないだろ。あんた、またそうやって、止めた後のことは俺に持たせるんだ」
「持たせる。私が君の家を食わせられるわけじゃない」
トマの顔から、少しだけ怒りの形が崩れた。
慰められると思っていたわけではない。けれど、きれいな言葉で包まれるより、認められた方が刺さることもある。
ノラは続けた。
「でも、今日その木片を入れたら、君は呼ばれたら答える仕事に入る。そこだけは、足より先に危ない」
「返事くらい、しなきゃ仕事にならないだろ」
「煤釘は、死んだ子の声で喋った」
トマの目が変わった。
あの夜の灰色の顔。喉にいくつも口を持ったもの。隣で死んでいた仲間の声で、置いていくなと鳴いたもの。
忘れた顔ではなかった。忘れたふりをして、今日まで立っていただけだ。
「浅縁が同じとは言わない。でも、返事を仕事にする穴へ、今日は行かないで」
トマは木片を見た。
腹が減れば、日払いの字はまた太くなる。足が痛めば、重荷なしという言葉はもっと近くなる。助かった命が、助かったままではいられないことを、トマ自身が一番よく知っている。
「明日のことまで、ここで約束しなくていい」
ノラは言った。
「今日だけ、箱へ入れないで」
トマは長く木片を見ていた。
怒りも、悔しさも、助けられた相手にまた止められる屈辱も、石段の上に落ちているわけではない。全部、まだトマの中にある。
それでも、彼は立ち上がらなかった。
「一日だけだ」
トマは木片を上着の内側へ押し込んだ。箱へ入れるためではなく、今ここで見ないための動きだった。
「明日までに別の口がなかったら、また考える。あんたが嫌な顔しても、俺はまた考えるからな」
「それでいい」
「よくないだろ」
「今日、返事をしないで済む」
トマは言い返しかけた。
けれど、煤釘の灰色の喉が、どこかでまだ鳴っているような顔をした。息を一つ乱し、無理に立とうとして失敗する。ノラは支えなかった。トマも手を出せとは言わなかった。
何度か膝に力を入れ直して、トマは石段に座り直した。
「足、まだ変な感じがする」
「長く立たないで」
「仕事しなきゃ立つだろ」
「だから、今日は短く立って」
トマは嫌そうに顔をしかめた。
「そういう言い方、腹立つ」
「覚えておいて」
「覚えたくなくても、残るんだよ」
それは、礼ではなかった。
けれど、トマは木片を箱へ入れに行かなかった。
ノラは立ち上がった。ヨルが石段の下から戻ってくる。トマの木片へ鼻を寄せようとして、途中でやめた。嫌な匂いを覚えた顔で、ノラの靴の横へつく。
「ノラ」
トマが呼んだ。
ノラは振り返る。
「あれ、灰鷹に言った方がいいのか。耳飾りのこと」
「今は言わなくていい」
「また俺が間違えるかもしれないぞ」
「その時は、間違えた後で止まればいい」
トマは何かを言いかけて、やめた。
ノラはそれ以上、秘密の重さを渡さなかった。トマが知っているのは、あの夜見たものだけだ。核という名も、閉葬の違法さも、サイラスが何を狙っているかも、背負わせるものではない。
小屋へ戻るころ、空は薄く曇っていた。
風が湿っている。雨になるほどではないが、洗った布が乾きにくい日だった。ミミは出ていない。戸は内側から掛かっていなかったが、机の上には畳みかけの包帯が置かれている。
ノラは棚の下から木箱を出した。
開けなかった。
蓋に書かれた炭筆の文字だけを見る。
煤釘。
灰喉。
赤錆。
ヨルが箱の前で低く鳴いた。
「クル……」
ノラは煤釘の布包みに触れなかった。
サイラスはまだ箱を見ていない。
灰鷹も、まだ知らない。
けれど、煤釘という字の下に、トマの声が一つ近づいた。
売らなかったもの。
渡さなかったもの。
助けた子の口から、敵へ近づいたもの。
ノラは箱を棚の下へ戻した。
蓋が木の奥へ滑り込む音だけが、小屋の中に残った。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




