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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第16章 呼べなくなる名
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第70話 声の道を切る

挿絵(By みてみん)

ヨルの鼻先は、朱い印と町を結ぶ筋の分かれ目から動かなかった。ノラ・ヴェイルが短剣の影を重ねると、白い線は石目へ沈み、印の下をくぐって町側へ指一本ぶん伸びた。追った切っ先へヨルの歯が袖ごとぶつかる。


「印を切るな」


テオの声が、同じ瞬間に落ちた。


朱い光は透け始めた彼の足元にも届いている。テオは印へ向けた指をすぐ下ろし、石の継ぎ目へ目を移した。ノラも手首を返す。ヨルが踏みとどまった場所へ刃を寝かせた途端、オーリスの重ねた指が一節ずれ、白い部屋の出口へ向かう助祭が礼をするように膝を折りかけた。


助祭は口布を噛み直した。裂いた階位糸を握る拳で腿を打ち、沈みかけた膝を止め、出口へ踏み出す。その靴音に入口側の見習いが振り向き、壁へ薄く映った白い人影と目を合わせた。


エリオの手が見習いの口へ伸びる。少年はその手が届く前に自分で唇を覆い、鍵束を胸へ押しつけた。エリオは止まりかけた手をそのまま外套へ回し、灰鷹と若い記録係へ下がれと示す。奥で靴底が石を引っ掻いた。何度も同じ場所で鳴る。見習いの指がエリオの袖をつかみ、離れなかった。エリオはその指を近くの隊員の袖へ移し、若い記録係も隊員の背へ押し下げる。少年が握り直すのを見届けてから、仕切りの間を奥へ走った。


オーリスが穏やかな顔で言った。


「返事がなければ、奇跡は続きません」


助祭を支える灰鷹の踵へ、壁の影から白い線が走っていた。隊員は踏み出しかけた足を引き、助祭ごと朱い布の奥へよろめいた。ノラの背後で靴が滑る。仕切りをくぐって追いついたエリオがその肩を引くのと、門がラウルの声で「返せ」と言うのが重なる。ノラの注意が二つの動きに分かれ、刃先が筋の脈を一度外した。


片膝をついたラウルの靴へ冷えが巻きつく。首元を押さえた指から血の気が引いた。門の二度目の「返せ」は、兄の名を失う前の若い響きだった。


ラウルは床へ手をついて立とうとした。マルヤが腕をつかむ。


「行くなら、声を出さずに行って」


ラウルは妹を睨み、歯を食いしばったまま鼻から息を吐いた。門へ伸びる足は止めない。マルヤの靴が引きずられ、胸に挟んだ記録帳の角がラウルの肩へ当たる。押された痛みで彼の焼けた手が開き、巻き戻した手袋の裂け目から白い冷えが皮膚へ入り込んだ。


ラウルは声の代わりに、半ば焦げた朱印の札を蹴った。札は筋の下へ潜ったが、まっすぐ持ち上げず、片端だけを跳ねさせる。白い線が鞭のように床を打ち、灰鷹の足元へ向いたかと思えばテオの影へ戻った。


ノラは刃を振り下ろした。


黒い熱と冷えが掌の中でぶつかり、町へ伸びる道を削った時の傷が開く。血で濡れた柄を横へ引いても、線は札の傾きに合わせて刃の前から逃げ、すぐ同じ継ぎ目へ戻った。切っ先は筋を石へ押しつけるだけで、断ち目を残せない。手首を緩めれば小屋側へ走り、押し過ぎれば朱い印へ潜る。その往復が、ひと息の間に何度も起きた。


ヨルは町へ向かう匂いを追い、途中で鼻先をテオの影へ戻した。どちらにも同じ声の湿り気があり、前足が二つの石の間で止まる。ノラの袖を引いたあとも、次に踏む場所は示さなかった。


テオが刃と自分の欠け始めた影を見比べる。


「戻る道の分かれ目だ」


言い終える前に、石橋の下で風が逆巻いた。唸りがノラの左耳を塞ぎ、その奥へ井戸の水が壁を叩く音が入り込む。どちらへ重心を戻すか迷った膝を、物置で倒れた箱の衝撃が床越しに突き上げた。小屋の戸板も同じ震えを拾い、遠いはずの四つの場所がノラの掌の傷を別々の方角へ引いた。


オーリスの声だけが、その騒ぎを抜けて近く聞こえた。


「その声の道を切れば、戻った者たちは」


石橋の風に肩を取られたまま、ノラは刃を抜かなかった。


「戻ってない」


井戸の水音が一度高く跳ね、返事の続きを求めるように止まる。


「返った形を、人の声で保ってるだけだ」


記録板の奥から「祈りを」と助祭の声がこぼれた。本物の助祭の歯が布から浮きかけ、腿を打っていた拳まで祈りの回数を刻もうとする。灰鷹が彼を引こうとした時、今度はエリオの声が入口へ走った。


「こちらへ下がってください」


聞き慣れた命令に隊員の足が動く。だが、その先は門の影が濃い側だった。エリオは外套を掲げたままでは偽の声を本物らしく見せると気づき、布を捨てて隊員の前へ体を入れた。隊員を背中で押し戻す勢いで、エリオの踵がラウルの蹴った札を踏んだ。札が平らになった途端、刃の下の線が沈み、ノラの手首が床へ引かれた。


エリオはノラの刃を見て、自分が何を動かしたか知った。足を上げようとする。ノラは首を振った。上げればまた線が跳ねる。エリオは灰鷹を肩で押した姿勢のまま、焦げた札へ踵を残した。


若い記録係の声が「記録に」と続き、その語尾へ物置からマルヤの声が重なった。


「兄を」


ラウルが妹を振り向く。マルヤは言っていない。それでも兄の肘が胸の記録帳へ当たり、二人とも門側へよろめいた。マルヤは押し返す代わりにラウルの脇へ肩を入れ、自分ごと反対へ倒れる。支えられたと誤解したラウルが門へ体重を預け、妹の膝が石へぶつかった。


「私の声で、勝手に呼ぶな」


マルヤの怒りは門へ向いたが、ラウルの腕を離す力までは残らない。偽の声が崩れる間にも、白い線は手袋の裂け目へ冷えを送り、ラウルの焼けた指を札の方へ曲げさせた。


黒い線の奥で、今度はテオの声がした。


「ここにいる」


ラウルが兄を見た。声のした闇と、生身の息を一つ吐いたテオが同じ視界に入る。どちらへ行くか決める前に、テオがノラへ言った。


「今だ」


その一言を、ラウルは自分を置いていく合図だと聞いた。


「待て」


ラウルがテオへ向き直る勢いで、脇からマルヤの肩が抜けた。焼けた手が床を探り、エリオの踵の下にある札へ届く。引けば線が浮く。だがエリオは偽の命令へ動いた灰鷹をまだ背中で止めており、足をどけられない。ラウルが札を奪おうとするたび、刃の下の筋が左右へ擦れ、ノラの掌に新しい裂け目を作った。


「これを切れば、お前も消える」


「だから今、切る」


「また、お前一人で決めるのか」


テオはラウルから目をそらさなかった。


「今度は聞け。俺が決めた」


マルヤは床へついた膝を起こし、二人の間へ割り込んだ。ラウルを押さえる手が滑ったため、今度は自分の背を兄の胸へ当てる。


「嫌でも聞いて。私も聞くから」


テオは妹の肩越しにラウルを見た。開きかけた唇から音は出ない。二人の顔を順に見たあと、ノラへ向き直った。その間も刃は同じ筋を押さえ、切ろうとした一線から動いていない。


煤釘で死んだ少年の息が、井戸の水と石橋の風の間からした。


「置いていくな」


ノラの踵が声へ返り、刃を押す肩が浮いた。空いた手は暗がりへ伸び、息をする胸、血の色、引き寄せられる腕を探す。閉じた穴へ戻った夜と同じ姿勢を作ったのはノラだけではなかった。ヨルも少年の息へ一歩飛び出し、鼻先で空を掻いてからノラの膝へぶつかった。二人分の重さに押され、短剣が筋の上を指半分滑る。


少年の体はない。あるのは、水と風に刻まれた呼吸だけだった。


ノラが空をつかんだ手を柄へ戻すより早く、小屋の戸が彼女自身の声で震えた。


「開けて。もう大丈夫」


「ミミは開けない」


言い切った声へ門が食いつき、同じ「開けて」をノラのすぐ背後で重ねた。前後を取り違えた耳につられ、ノラの重心が小屋側へねじれる。ヨルは今度は袖を引かず、ぶつけた肩を膝の外側へ残した。正しい道を示せなくても、ノラが刃から転がる方だけは塞いだ。



小屋診療所では、間のない三度の音がまだ戸を叩いていた。


とん、とん、とん。


ミミは偽物が作った間隔へ返事を足さず、薬包のずれた角を直した。戸の外でノラに似た声が名を呼びかける。ミミは戸を見ず、朝と夜の紙を折り終えて机の右端へ置く。


次の三度は、二つ目で途切れた。


ミミの指は三つ目を待ったまま紙の角に残り、戸は鳴らない。静かになったから開ける、という約束もしていない。薬包を右端から動かさず、椅子へ深く座り直した。



神殿の奥で、ノラは同じ一線へ体を戻した。


刃の腹を打つ脈は弱まっていない。物置から来たマルヤの声が兄の名の最初の音を作り、入口では偽のエリオが退路を逆に教え、井戸の水には少年の息が残っている。どれかを聞き分けようとするたび、別の音が肩や膝を動かした。


ヨルが黒い線の方へ鼻を向け、すぐ顔をそらす。


「消えてない」


テオが、ノラより先に答えた。


「門の中心に集まってる」


町側の音は途切れかけても、押し戻された声の匂いだけが黒い線の際で濃くなる。それに引かれてテオの袖口が灯りに透け、床の影も肩の下から欠けた。マルヤは兄へ伸びかけた手を途中で止め、代わりにラウルの胸を背で押し返す。ラウルは呼べない名を噛み殺し、裂けた手袋の掌を焦げた札へ押しつけた。エリオの踵と反対側から力がかかり、札がわずかに軋む。


テオはノラを見た。


「切れ。俺を残すために、声の道を一本も町へ戻すな」


ラウルが札の端を引き、エリオの踵が反対の端を押さえた。マルヤがラウルを門から押し戻すと、札の縁に掛かった筋も横へ引かれ、ノラの刃の下でぴんと張った。石目へ逃げ込もうとする先端が、そこで止まる。


「倒れるなら、こっちに倒れなさい。門の方じゃなくて」


マルヤがラウルを背中で受ける。エリオは偽の号令へ進みかけた隊員から目を離せず、踵の感触だけで札を踏み続けた。ヨルはまだ少年の声を探して鼻を振り、テオの「今だ」ももう終わっている。


ノラは新しい合図を待たなかった。


傷のある掌を柄へ重ね、外れかけた重心ごと刃へ戻す。井戸の水が耳の奥で跳ね、橋の風がその音を奪い、物置の衝撃が膝を上げ、小屋の戸から自分の声が迫った。ノラはどの方角にも顔を向けず、最初から押さえていた筋へ短剣を一息で走らせた。


白い線が一度だけ、骨を折るように鳴った。


町へ伸びる声の道が切れた。


ノラの耳から、四方へ引かれていた圧が消える。井戸の水は壁へ落ちきる前にただの水音へ戻り、石橋の風は誰の息にもならず抜けた。物置の箱が倒れたまま沈黙し、小屋の戸からは三つ目の音が来ない。遅れて戻った静けさが、町側の石目を端から灰色にしていった。


ラウルが札から手を離す前に、切られた筋の町側が縮んだ。反対側はノラの刃を擦りながら黒い線へ這い戻り、朱い印と記録板と封じ布に残っていた声まで門の中心へ引きずる。テオの輪郭は戻らない。刃を抜けば、集まったものがどこへ噴き出すか分からなかった。


オーリスの手は祈りの形を失っていた。白い筋が足元から退いても、その指は透けず、痩せた胸が大きく上下した。テオの袖の向こうには石床が見える。老人は一歩よろけ、靴底で床の粉を擦った。ノラは刃を抜かず、その違いを目の端で捉えた。老人が乾いた声で問う。


「あなたは、戻る声を断つのですね」


ノラは答えず、短剣を黒い線の縁へ残した。返事を待った朱い印が一度だけ明滅し、それきり光を戻さない。


町へ続いていた石目には、もう白い筋が浮かなかった。門の中心だけが音もなく膨らみ、部屋中の灯りをひと息ぶん暗くした。



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