第71話 戻さない
「置いていくな」
煤釘で死んだ少年の声が、黒い線の奥から落ちた。
続いて、見えた、戻った、奇跡だ、と整えられた声が重なる。ありがとうと言って。ここにいる。どれも誰かの喉から一度は出た言葉で、今は息だけがなかった。
町へ伸びる道を断たれ、井戸、石橋、物置、小屋の戸で鳴っていたものが門の中心へ戻ってきたのだ。
短剣は黒い線の縁に食い込んだまま、嫌な湿り気を柄へ伝えていた。腕の内側では、黒い熱がまだ荒く脈を打っている。
ヨルは足元で身を低くした。止めろでも逃げろでもなく、まだ終わっていない、という合図だった。
聞こえるものは本人たちではない。迷宮が食い、神殿が答えを引き出しやすい形へ削った残りだと分かっていても、ノラの指は短剣の柄へ深く沈んだ。
助けられなかった人間はいる。閉じた穴の奥に残した顔もある。名前を取り返せなかった者もいる。聞けば、どこかに本物が混じっていると思いたくなる。その迷いを、門は待っている。
「置いていくな」
その響きが、少し近くなった。
空いた手が、門へ指一本ぶん伸びた。黒い線の縁も、誘うように同じぶんだけ持ち上がる。
ヨルがノラの袖を引いた。
強くはない。爪は石を離さず、鼻から漏れた温かい息だけが布を揺らした。ノラはその息を見て、一度だけ目を伏せ、すぐに開けた。
返事はしない。誰の名も呼ばない。
それでも門へ伸びかけた空いた手を、ノラは短剣の柄へ戻した。
朱い印の下で、オーリスがノラを見ていた。ほどけた手は祈りの形へ戻らず、膝だけはまだ折れていない。
白い神殿服の胸元だけが濡れたように赤く、年老いた顔から落ちる声には、不自然な若さが戻っていた。
「それでも閉じるのですか」
ノラは門から目を離さない。
「閉じる」
オーリスは黒い線の奥を見る。
「妹さん。戻ったと認めてください。兄さんは今、あなたの目の前にいるでしょう」
オーリスはノラへの問いをやめ、マルヤを見た。床の粉に伏せかけていた白い先端が、記録帳を抱く腕へ向き直る。マルヤの指は留め紐をつかんだまま、動かなかった。
ノラは短剣を外さず、オーリスへ顔を向けた。切れ、と言ったテオの声を、待っていた者の声で覆わせるわけにはいかなかった。
「本人が、もう足すなと言った」
オーリスの唇は、なおマルヤの返事を待っていた。
「人の声を使うものは、救いじゃない」
ノラは短剣を黒い線へ押し当てた。白い先端がその刃へ引かれ、オーリスの口も動かなくなった。
その沈黙を、門が嫌った。
黒い線の奥から、テオの声がした。
「呼んでくれ」
ラウルの口元が震えたが、名は出ない。兄を呼ぶための場所だけが口の奥で空いたままなのを見て、マルヤは彼の腕をつかむ手に力を込めた。
奥の口は次を探した。
今度は、マルヤに似せたものが鳴る。
「兄……」
そこで止まった。
その先を、門は欲しがっていた。飲み込まれた言葉の形だけをなぞり、足りないところを本人に言わせようとしている。
マルヤの顔には痛みも怒りも浮かんだ。けれど、門が待つ兄の名だけは出なかった。
「勝手に、続きを作るな」
門の奥で、似せかけた声がほどける。
次に、エリオに似せた音がした。
「こちらへ下がってください」
助祭を支える隊員を先へ送り、エリオは仕切りを抜けて入口側へ戻ったところだった。見習いは残した灰鷹の袖をまだつかんでいる。
エリオが先に動き、自分の声へ顔を向けかけた隊員の肩をつかんで壁際へ押し戻した。声は出さず、見習いと記録係の背へ順に手を添え、壁沿いにさらに下がらせた。見習いは自分の口を押さえたまま、うなずいた。
門の奥で、エリオを真似た声が一つ、噛み合わずに崩れた。
*
明け方から続いた異変は昼を食い、外はもう暗くなっていた。
小屋診療所では、間のない三度の音が、それきり途絶えていた。
ミミは椅子から立たず、次の薬包の紙を折っていた。指で角を押さえ、ずれたところを直すうちに、戸の外で声になりかけたものが揺れた。
「ミ……」
そこで途切れた。
母の声になろうとしても、町へ伸びる道を切られ、小屋まで形を保てない。名前を呼ぶ前にほどけた音を聞きながら、ミミは唇を結んだ。
母の声になりかけたものを、母として扱わない。ノラの声になりかけたものも、ノラとして扱わない。
違う。外にいるのは声だけだと、胸の内だけで確かめる。戸は開けなかった。
*
神殿の奥で、線が門の中心へ戻っていく。
取れなかった返事。続かなかった祈り。呼ばれなかった名。それらを諦めきれないように、奥の闇が薄く膨らんだ。
テオが門の中心へ一歩出た。マルヤはラウルの腕を片手で押さえたまま、もう片方の手でテオの袖をつかんだ。袖の中では腕の輪郭がもう薄く、床に落ちた影も肩から下が欠けている。テオはまずマルヤを見た。
「俺の名は呼ぶなよ」
次にラウルを見ると、呼べない弟の口が兄の名の形だけを作った。
「俺の声を、残すな」
テオは透けた指で、町から門へ引き戻された声の束を示した。
「これでいい。足すな」
門から伸びた最後の線は、テオの命ではなく、消える前の声をさらおうとしていた。ノラが横へ走らせた刃は、その線を断った。
線を切っても、テオの輪郭は戻らない。
マルヤはつかんでいた袖を、自分から離した。テオがその袖口の縫い目を二度つまむと、マルヤは一度目で気づき、二度目まで目をそらさなかった。ラウルは名を呼べず、テオも別れを言わない。言えば、その声だけが門に残ると三人とも知った沈黙の中で、テオは二人を一度ずつ見て、灯りの揺れにほどけた。
朱い印の下では、オーリスがなお立っていた。町への道が切れた時と同じ、痩せた老人の姿だった。ラウルはその胸が上下するのを見た。顔を戻した先には、もうテオはいない。開いた口を閉じることもできず、床を押す腕が震えた。マルヤはその腕を離さなかった。袖を放した方の手だけが、兄のいた場所に残っていた。
ラウルのもう片方の膝も床へ落ちた。マルヤの手を振りほどかず、門へも戻らなかった。それを見た門が、最後に言った。
「奇跡です」
ノラは応じず、短剣の刃を門の中心へ合わせる。
救助なら、手を伸ばす。閉葬なら、手を引く。今はそのどちらでもあった。
黒い熱が腕を走った。骨の奥が焼ける。指に細い線が絡み、皮膚の下へ潜ろうとする。ヨルが足元で尾を低くした。
絡んだ線を振りほどく代わりに、ノラは柄を握り直した。
「二度と喋るな。人の声で」
刃を押し込む。
門は泣かなかった。
叫びもしなかった。
神殿の奥が崩れ落ちる音もない。石が砕ける派手な音も、光が爆ぜることもなかった。
ただ、使われていたものだけが返らなくなった。
「見えました」が消える。
「戻りました」が途切れる。
「奇跡です」が途中で乾く。
「ありがとうって、言って」が黙る。
「ここにいるよ」が遠ざかる。
「置いていくな」が、もう次の誰かを呼べなくなる。
朱い印は黒く沈み、封じ布の下で通り道が乾いていく。線は生き物の血管のような形を失って細い粉になり、核の残りも宝石のようには砕けず、湿り気だけを失って黒ずんだ欠片へ戻った。
奥にあった口が閉じ、死者の門はそこで沈黙した。
しばらく、誰も動かなかった。
最初に、マルヤがラウルの腕から手を離した。
さっきまでとは違う沈黙だった。誰かの返事を待つ湿り気も、呼びかけの前に息を吸う気配もない。石は石に、布は布に戻り、記録板は読まれるのを待つだけの板になっていた。
オーリスの親指が、空いた掌を一度だけなぞった。次の返事を数える場所を探すように。やがて手が落ち、そのあとで膝をつく音は小さかった。
「奇跡が」
聞こえたのは、目の前にいる年老いた男自身の声だった。借りていた若い響きはなく、その先も続かない。オーリスが膝をついたのと同時に、ラウルも立とうとして片足を滑らせた。
マルヤは支えるより先に一歩ずれ、ラウルの視界から門跡を隠した。形にならない音が彼の口から漏れる。名ではなかった。
「ここでは、名前を呼ばない」
ラウルは返事をしなかったが、門のあった場所を見ようともせず、石をつかんだ手で体を起こし直した。
エリオが近づいてきた。閉じた門と床の白い粉を見たあと、最後にノラを見る。短剣を離さなかった掌は裂け、腕の内側では黒い熱がまだ脈を打っていた。
「見なかったことにはできない」
ノラは床から、焦げた朱印の欠片を拾った。乾いた血に似た赤が、まだ縁に残っている。
「後で、箱のことを話す。煤釘の核をどこから出して、どう奪われたかも」
箱と煤釘という言葉に、エリオの顔が硬くなった。
「聞きます。今度は、途中でいなくならないでください」
「逃げない」
エリオはそれで追及を終えた顔をしなかった。それでも、灰鷹から受け取った清潔な布を勝手に巻こうともせず、ノラの傷へ掌を向ける。
「その言葉を信じるためにも、まず手を見せてください」
ノラは一度だけためらった。黒い熱を見られることより、人に腕を預ける方が落ち着かなかった。だが短剣を鞘へ戻し、傷のある手をエリオへ差し出した。エリオは掌から腕へ清潔布を巻き、結び目をノラ自身に確かめさせてから手を離した。
「今は、あれを聞いた者を一人にしない。それが先だ」
「真似られた人も」
「分かった」
ノラは焦げた朱印の欠片を、エリオの開いた記録袋へ落とした。
「手伝って。声を聞いた人を、一人で帰さないで」
エリオは袋の口を閉じた。
「そのために残っています」
戸口から灰鷹が二人入ってきた。一人がオーリスへ、もう一人がラウルへ近づくと、ラウルは差し出された腕を払いかける。エリオは命令の声を使わず、オーリスとラウルの間へ立った。
「手当てのあとも、あなたとあの男は別の場所です」
ラウルの顔に怒りが戻った。マルヤは兄を庇わず、オーリスも見ずに言う。
「離れた方がいい。今は、私もそうしてほしい」
ラウルは灰鷹の腕を借りなかった。それでも、その場へ残るとも言わなかった。
ノラはマルヤに、サイラスが娘の声を保つために人と物を使い、最後は声の道に呑まれたことを伝えた。マルヤはテオを失った妹の顔のまま聞き、記録帳を開く。黒く潰した兄二人の行を避け、サイラスの名を一行へ置いた。未帰還、声の道に呑まれた、と書いたところで手が止まる。
一行を空け、古い相談記録から娘の名を写した。父の呼びかけに最後まで応答しなかった。娘が最後に守ったものを、父の失敗の下へ埋めないための一行だった。マルヤの指先にはまだテオの袖を離した感触が残っていた。彼女はそれ以上何も足さず、帳面を閉じる。
マルヤが出口へ一歩進む。ラウルが床を押して立つまで、振り返らずに次の一歩を遅らせた。やがて足音が、彼女の半歩後ろからついてきた。並ばず、離れもしない。その距離のまま二人は朱い布を出た。
エリオは記録袋を肩へ掛けたが、包帯を巻き終えたノラが隣に並ぶまで歩き出さなかった。
*
小屋へ戻る途中、灯口の使いが追いついた。サイラスの家から声は消え、床に残した髪飾りも封じ布に包んで回収されたという。使いは小屋の付き添いの女を迎えに、そのままノラと歩いた。
夜の小屋診療所は、いつもより静かだった。ミミは閉じた戸に背を向け、机の前で薬包を折っていた。紙の角をそろえて朝と夜の印をつける手は少し遅いが、止まってはいなかった。口元を塞いでいた清潔布も、今は畳んで机の端へ置いてある。
母の声も、ノラをまねるものもいない。間のない三度の音も、もう戻ってこなかった。
しばらくして、戸が鳴った。
とん、とん、とん。
少し置いて、とん。
ミミは紙を置いたが、すぐには開けない。戸脇の窓へ移り、掛け金を残したまま細い隙間から外を見ると、石の粉をつけたヨルが戸の前にいた。その後ろにはノラが立ち、窓越しにミミを見て空いた手を上げている。
片腕には布が巻かれている。
ミミは戸の取っ手と椅子の背をつないでいた青糸の布をほどき、窓へ戻った。掛け金を残したまま、その端を外へ垂らす。ノラは腰袋から血止めを出し、布の端へ結んだ。ミミは布を引き戻し、結び目と薬の匂いを確かめる。
「ヨル?」
戸の外で、小さく鳴く。
「クル」
ミミは戸の前の椅子を引き、掛け金を外した。
戸を開けると、黒い体に石の粉をつけたヨルが先に入り、床へ降りた途端、鼻先を少しだけ上げてから安心したように丸くなった。
その後ろに立つノラは顔色が悪く、外套にも髪にも神殿の粉を残していた。灯口の女が戸の脇へ立ち、残った飲み水の小瓶を差し出す。ノラは受け取って「助かった」と頭を下げた。女はミミの顔も確かめ、ノラが中へ入ってから戸を出て、使いの隣へ並んだ。
ミミはノラを見上げた。
「返事、しませんでした」
ノラは少しだけうなずく。
「うん」
ミミはもう一度外を見た。二人の足音が道の角で遠ざかり、暗がりには誰も立っていない。何かが名前を呼ぶ気配もなかった。それを確かめて戸を閉めると、そのままノラの上着の端をつかんだ。
脚に布を巻いた古い椅子へ手を伸ばしかけても、上着をつかんだ指は離れなかった。ミミは一度だけその指を開き、今度こそ、座れば少し傾く椅子を引いた。ヨルが以前かじった跡も残っている。
「座ってください」
ノラは「まだ立っていられる」とも、平気だとも言わずに座った。椅子が一度きしんで体重を受け止め、そこで初めて肩が落ちた。
ヨルは床から顔を上げ、ノラの靴先へ鼻を寄せた。
ミミは薬包の紙を一枚取り直した。
「朝の分、作り直します。湿ってしまったので」
ノラは薬包へ伸ばしかけた手を、膝へ戻した。
「お願い」
ミミがうなずくと、紙を折る音が小屋の中に戻った。外では夜風が古い木戸を撫でているが、それはただの風で、誰かの名を呼ぶための音ではない。
ミミは折り終えた薬包を、朝の分と夜の分に分けた。
「明日、合図をもう一つ増やします」
ノラは目を閉じかけて、少しだけ開けた。
「何を」
「ヨルが嫌な顔をした時は、戸の前に椅子を置きます。開ける時に邪魔ですから」
足元で、ヨルが不満そうに鼻を鳴らした。
ノラは目を閉じた。
ミミは朝の薬包の角を、もう一度だけ押さえた。
門が閉じたあと、小屋の戸を叩いたのは、生きている手だけだった。




