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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第16章 呼べなくなる名
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第68話 祈りを止めるな

挿絵(By みてみん)

「祈りを止めるな」


その命令が落ちたあと、門が、これまでの呼び声とは違う音を立てた。


石が割れる音ではなかった。布を裂く音でもない。誰かの声になる前のものを、濡れた手で押し戻したような音だった。


ラウルは膝をつき、削られた名を探すように首元を押さえていた。マルヤはその腕を離して門への道を塞ぎ、テオも近づかない。


誰も返事をしない沈黙を嫌い、床の円形の溝に残る白い筋が細く震えた。テオの足元、ラウルの靴、マルヤの記録帳へ伸びた先端が一斉に引き、朱い印と封じ布の下、奇跡認定の記録を重ねた割れ棚の奥へ向きを変える。棚の中で、さっきまで聞こえなかった古い返事が一つ咳き込んだ。


ノラの視線は、床の円形の溝へ落ちた。


ヨルが床へ鼻先を押しつけた。


鼻先をつけたまま右へ振り、同じ場所から左へ戻る。前足は出ず、爪だけが石を二度鳴らした。どちらへ追っても別の匂いが重なり、ヨルの肩がその場で固くなる。


朱い印の下には、黒ずんだ染みのようなものがあった。


さっきまでは、壁に溜まった古い煤に見えた。朱色の布が揺れるたび、ただ影が濃くなっているだけに見えた。


細い線が寄るにつれて、朱い印の光が強まり、暗がりに肩と、胸の前で重ねた手が見えてきた。顔は揺れる布の陰に隠れたまま、袖口のほつれと節の太い指だけが赤く照らされる。光が揺れるたび、その手が壁へ落とす影だけが伸び縮みした。


奥から、同じ命令が戻った。若い助祭の膝が、誰の声か確かめるより先に石を擦り、礼の深さまで沈みかけた。


入口側ではエリオの外套が上がり、白い部屋の外にいた見習いと記録係を、灰鷹がさらに入口側へ下げる。朱い布の奥で命令を自分の役目だと聞き分けた若い助祭だけは顔を上げ、口元の布から歯が浮きかけた。


助祭はノラに直される前に、拳へ巻いた布端を引き、浮いた歯を自分で閉じた。膝はまだ礼の角度に残り、人差し指も腿の上で祈りの回数を一度だけ打つ。もう片方の手でその指を握り込み、二打目を止めた。布の内側から声は出なかった。


壁の線が、取り損ねたものに反応して細かく震えた。石の内側で、湿った舌打ちのような音がする。


ノラは短剣を下げないが、逃げる線へは入れなかった。


助祭の声を取れなかった線は、すぐに別の場所を探した。円形の溝を回って封じ布の下へ潜ろうとし、布の縁を内側からわずかに持ち上げる。


封じ布の下から、三つの息が重なった。焦げた核の乾いた音に、「奇跡」と告げた整った響きがかぶさり、その下で祈りを続けた者のかすれた返事が何度も途切れる。白い線は途切れた語尾へ一本ずつ絡んだ。


筋は封じ布から記録板へ、記録板から朱い印へ移り、また円形の溝へ戻った。ノラは手を出さず一巡を見届ける。封じ布で白かった同じ筋が、記録板を通ると墨色を帯び、朱い印を抜ける時だけ赤く濡れた。二巡目も三巡目も、同じ染みが同じ順で輪を回り、通るたび封じ目の声が一つ増えた。


テオが低く言った。


「俺の返事は取れなかった」


ノラは床から目を離さない。


「次を探してる」


テオの語尾へ白い先端が跳ね、床の溝を半周した。ノラは舌を上顎へ押しつけ、次の言葉を止めた。


ラウルは立とうとして片膝を上げたものの、首元を押さえる指へ力が入り、すぐ床へ落ちた。空いた手は門へ伸び、拳になり、また開く。口も動いたが、最初の音は出ない。マルヤはその手が二度目に持ち上がる前に、門との間へ足を入れた。


「今のあなたを、あそこへ戻さない」


ラウルは顔を上げた。


言い返そうとした口が動く。けれど、言葉の真ん中に開いた穴へ、怒りだけが落ちていった。


マルヤは続けた。


「勘違いしないで。守ってるのは、あなたじゃない」


首元を押さえていたラウルの手が、半分だけ下がった。


マルヤの口が「あなた」の形まで動くと、ラウルの焼けた手が押し退けるように上がった。マルヤはそこで舌を噛み、兄の固有名も帳面の二行も出さず、残った息だけで続けた。


「兄の名よ。これ以上、あそこへ近づけたくない」


記録帳の留め紐が、掌へ食い込んだ。


門の奥が、かすかに鳴った。濡れた舌が歯のない隙間を一度だけ擦り、続きの音を作れずに止まった。


テオは二人を見たが、足を動かさなかった。


朱い印の奥から、助祭に似せた声で命令の続きが来た。


「止めれば、戻らない」


助祭は自分が言っていないことを確かめるように拳の布端を握り直した。いくつもの仕切りの向こうでは、見習いと記録係がすでに朱い印を見通せない位置まで下がり、エリオの外套だけを合図にしている。似せた命令は二人へ届いても、動かすための視線を結べなかった。


取り損ねた線が朱い印へ集まると、その明かりが奥まで届いた。黒ずんだ染みに見えていた場所に、白い神殿服の裾と痩せた肩が浮かぶ。顔はまだ揺れる布の陰で、口元も見えない。ノラは顔を見定めるより先に、その足元を見た。朱い印と封じ布を結ぶ線から細い枝が床の溝へ広がり、古井戸、石橋、物置、壁の割れ目へ伸びかけた時と同じ冷えた煤の匂いを放っていた。


口だけを塞いでも足りない。


ノラは短剣を低く構えた。


「声を出す口だけじゃない」


テオがこちらを見る。


ノラは線の交差する場所を見た。


「声を外へ通す道がある」


「切れるのか」


テオの語尾は低く途切れ、視線はノラの刃先から動かなかった。


朱い印、封じ布、記録板から来る三本は重なるたび位置を入れ替え、刃先を向けた一本が別の二本の下へ潜る。ヨルも三か所を嗅ぎ直し、どこへ鼻を置いても横へそらした。いつもの一声は出ない。ノラが刃の腹で一本を押すと、別の筋が町側の石目を持ち上げた。


ラウルは床に膝をついたまま、さっき石床で拾い直した裂けた手袋を開いた。焦げた札の縁へ革をかぶせ、焼けた指でつかむ。マルヤの手が止めに伸びかけたが、ラウルは声を出さず、札を線の重なりへ横から差し入れた。三本の筋が金属の上へ一緒に持ち上がり、滑った一本が彼の手袋の裂け目へ入る。冷えが古い火傷をなぞり、塞がりかけた皮膚から血がにじんだ。それでも札を離さず、手首を返して三本を別々の高さへ起こした。


一番下に、どの筋も戻ってくる白い根が露出した。ノラはラウルの手が震えている間に踏み込み、根と札の隙へ刃を差し込む。マルヤは札から引き剥がす代わりにラウルの肘を下から支え、門側へ倒れる重さだけを戻した。ラウルは礼も合図も返さず、ノラの刃が根を押さえるまで焼けた手を上げ続けた。札を下ろす時、血のついた手袋を掌へ巻き戻し、裂け目から出た指で革を押さえた。


刃に行く手を塞がれた白い筋は、外の古井戸や石橋へ散らず、円形の溝を逆に走って朱い印へ戻った。封じ布の下の低い声と、記録板に残った三つの認定が一か所で同じ息を吸う。朱い光が膨らむたび、ラウルの札に持ち上げられた三本も、根元だけは同時に引かれた。


右壁の助祭は布を噛んだまま片膝を折りかけ、慌てて壁へ肩を押しつけた。顔の見えない影へ、教え込まれた礼の深さだけが先に出ている。テオの視線が助祭の膝から朱い印へ上がり、マルヤもラウルの肘を支えたまま同じ赤い光を見た。


門の奥で、朱い印が濡れたように光る。黒ずんだ人影の輪郭が、さらに濃くなった。


老人が一人、そこにいた。


祈るように手を重ねている。


白い神殿服。痩せた手。朱い布の影。


顔は、まだはっきりしない。


ただ、口元だけが朱い光の下に浮いていた。


祈りは止んでいる。


その口だけが、祈っていなかった。


若い助祭の膝が、染みついた礼の深さまで沈みかけた。途中で、切れた階位糸を握る。外套を差し出している灰鷹の肩を見て立ち直り、老人の重ねた手にも頭を下げなかった。



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