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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第16章 呼べなくなる名
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第67話 戻らない兄

挿絵(By みてみん)

ラウルは床に膝をつき、片手で首元を押さえている。声は漏れても、さっきまで口の奥にあった名だけが形にならない。


黒い線の奥では奪われた名がまだ揺れていたが、誰も返事をせず、続きを渡さなかった。


ラウルが顔を上げる。


「返せ」


誰へ向けたものなのか、分からなかった。


門へか。テオへか。自分へか。


テオは門から床の黒い線へ目を移した。口を開けば、門が続きを待つ。怒りも、拒絶も、慰めも、ここでは材料になる。


マルヤはラウルの前から動かず、抱き起こしも肩貸しもせず、門との間へ体だけを置いた。ラウルが立とうと膝へ力を入れるたび、彼女の踵も石目を擦って半歩押される。記録帳を抱える手は震え、背表紙が肋へ何度も当たった。差し出せる手を胸の前へ残したまま、道幅だけを塞いだ。


ラウルが低く言う。


「どけ」


「どかない」


「お前に、止める権利があるのか」


「権利で立ってるんじゃないわ」


マルヤはラウルを見下ろした。


「今どいたら、あなたはまた取られる」


ラウルの目が細くなる。


「取られても、戻せるなら」


「兄としては、戻らない」


答えたのはマルヤではなくテオだった。


ラウルの顔が動く。


テオはラウルへ近づかなかった。半歩出ると、ラウルの視線がその手から門へ走る。テオは足を元の石へ戻し、二人の間に腕一本ぶんの距離を残して立った。


ラウルの口角が一度だけ上がり、喉元を押さえた指が痛みに引かれると、笑いの形まで届かず落ちた。


「じゃあ、俺は何を持ってここまで来た」


テオの目は、ラウルの焼けた指先へ落ちた。


ラウルは裂けた手袋を歯で引き抜いた。古い火傷の上に白い筋の跡が重なり、指を曲げるだけで皮膚が引きつれる。その手をテオの前へ突き出す。


「これも、何でもなかったって言うのか」


「言わない」


テオは手を取らず、自分の薄くなり始めた指をその横へ並べて見せる。二人の指の隙間から、同じ石目が違う濃さで透けた。


「それは、お前が持って帰る傷だ。俺の残りにするな」


ラウルは殴る時のように拳を握り、握り切れずに開いた。脱いだ手袋が二人の間へ落ちた。


マルヤも答えない。


床の筋がかすかに動き、ノラはラウルからその行き先へ目を移した。門は取れなかった名を離し、黒い線の奥で祈りの声を歪めると、数本の筋を朱印の押された封じ布の下へ向けている。ヨルはノラの足元で前足を上げたまま止まり、朱印と祈祷布の間へ鼻を二度振った。いつもの短い鳴き声は出ず、爪だけが石を軽く掻いた。


ノラは短剣を持ち直した。


「名が取れないなら、残ってる声を使う気だ」


テオの目が、封じ布へ移る。


「まだ残していた」


マルヤが顔を上げた。


「何を」


テオの足が、封じ布へ半歩だけ進んだ。


答えより先に、門が動いた。


黒い線の奥から、泣きも叫びも削られた三つの認定が重なった。


壁際では、口元の布を押さえていた若い助祭が、青ざめたまま目を上げた。唇の端には布の跡がついている。


黒い線の奥から、さらに声が重なる。


「祈りを止めるな」


自分を縛ってきた命令に、助祭の歯が反射で布から外れかけた。


「祈りを……」


ノラは命令へ返事が重なる前に距離を詰め、外れかけた布を、助祭自身が歯で押さえられる位置へ戻した。


「続きは外で言って。ここでは取られる」


助祭の目が、ノラを見た。


本人の口を布で塞いだまま、同じ命令が今度は助祭の音色で返った。助祭は自分の喉へ手を当て、動いていないことを確かめても目を見開いたままだった。ずれた布を自分の指で奥歯へ戻し、声がもう一度写される前に噛み直した。


ノラは助祭から手を離し、封じ布の方へ向き直った。


床の筋は石の継ぎ目を選び、また町の古い傷へ出る道を探っていた。


ラウルが、助祭のことなど見ていないまま、テオへ声を向けた。


「何も残らないじゃないか」


テオは動かなかった。


「残すために、人の声を足すな」


「お前は、戻っていないからそんなことが言える」


テオは薄くなり始めた手を上げ、ラウルの焼けた拳と同じ高さへ置いた。灯りが指の間だけでなく、指そのものを通って石へ落ちる。


「なら見ろ。壁の声より先に、こっちが消える」


ラウルの顔が歪んだ。握っていた手袋の裂け目へ指が入り、力を込めるほど傷んだ革だけが伸びた。


怒りの奥から、置いていかれた子どもの表情がのぞいた。


マルヤは記録帳を抱く腕を緩めなかった。


封じ布の下で、低い音がした。


石の音ではなく、箱の中でいくつもの口が目を覚ますような、濡れて重い響きだった。近くで意味を探せば、声として聞き取ってしまいそうな音でもある。


細い筋の一本が、壁の割れ目へ伸びる。


ノラはそれを見た。


細い筋は壁の割れ目を通り、通路の外へ向けてもう一寸伸びた。封じ布の下で助祭の声が重なり、割れ目の先から、まだ誰もいない戸を叩くような音が返る。


マルヤが言った。


「外へ出るだけじゃ、駄目なのね」


ノラは壁の割れ目へ伸びる筋を刃先で追い、その刃を寝かせた。


「出す」


ノラは短く言った。


「でも、残したらまた呼ぶ」


テオがノラを見る。


「分かって言っているのか」


「今分かった」


ノラは壁の割れ目へ伸びた筋を断ち切らず、刃先でこそぎ始めた。力任せなら封じ布の下のものが一斉に鳴り、町へ伸びるか、助祭かラウルの声へ戻る恐れがある。石へ貼りつく薄膜だけを剥がすように刃を滑らせ、開いた手の傷から柄へ血がにじんでも速度を変えない。ヨルの尾が止まったところで根元を見定め、刃の角度を変えて押さえ込んだ。


門の奥から問いと命令が重なった。助祭は布を離さず、マルヤはラウルの前を動かない。テオは返さず、ラウルは形にならない名を飲み込んだ。


ノラは短剣を押し込んだ。


刃の下で筋が震え、壁の中では返事を待っていた口が閉じ損ねて遠く鳴った。やがて一本が切れ、門そのものは閉じなくても、壁の割れ目から町へ伸びかけた道は消えた。その分だけ、外を狙う気配が一つ遠のいた。


ノラが短剣を引いた瞬間、冷えに痺れた指から柄が滑った。刃先が石へ落ちる前に、ヨルが鍔へ前足をかける。ノラは壁へ肩を預け、感覚の鈍い指で柄を握り直した。


刃が落ちかけた隙にラウルが片手を床へつき、門へ体を向けた。マルヤはすぐ腕をつかみ、失った名を追ってこれ以上這わせないよう止めた。


「俺に触るな」


ラウルの声は低かった。


「触るわ」


マルヤは離さない。


「ここで行かせたら、また兄さんが使われる」


マルヤはラウルの腕を門と反対側へ引いた。記録帳の角が二人の間で潰れた。


ラウルは振り払おうとしたが、声を出す瞬間、喉を押さえる手がまた固まり、動きを止めた。テオは近づかず、二人の間に腕一本ぶんの距離を残したまま言った。


「外へ出ろ」


ラウルの目が、ようやく門からテオへ移った。


「命令するな」


「俺を戻すなと言ってる」


ラウルの目が揺れた。


それでも、ラウルは門へ手を伸ばさなかった。


封じ布の下で、また低い音がする。濡れたような朱印が光っていた。


黒い線の奥から、声がする。


「祈りを止めるな」


その声に、封じ布の下のいくつもの口が、まだ言葉になる前の音で応えた。


ノラは黒い線を見た。助祭たちが下がったあとも、壁の割れ目では白い先端が次の戸を探り、封じ布の下の口は閉じなかった。短剣を握る指が、もう一度柄の上で締まる。


その時、封じ布の下で、朱印の一角が内側から割れた。


ラウルの手が反射で持ち上がった。門へ伸びる前に止まり、石床に落とした自分の手袋を掴む。呼べない名の代わりにはならない。焼けた指を包むものは、まだ彼の手の中にあった。


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