第67話 戻らない兄
ラウルは床に膝をつき、片手で首元を押さえている。声は漏れても、さっきまで口の奥にあった名だけが形にならない。
黒い線の奥では奪われた名がまだ揺れていたが、誰も返事をせず、続きを渡さなかった。
ラウルが顔を上げる。
「返せ」
誰へ向けたものなのか、分からなかった。
門へか。テオへか。自分へか。
テオは門から床の黒い線へ目を移した。口を開けば、門が続きを待つ。怒りも、拒絶も、慰めも、ここでは材料になる。
マルヤはラウルの前から動かず、抱き起こしも肩貸しもせず、門との間へ体だけを置いた。ラウルが立とうと膝へ力を入れるたび、彼女の踵も石目を擦って半歩押される。記録帳を抱える手は震え、背表紙が肋へ何度も当たった。差し出せる手を胸の前へ残したまま、道幅だけを塞いだ。
ラウルが低く言う。
「どけ」
「どかない」
「お前に、止める権利があるのか」
「権利で立ってるんじゃないわ」
マルヤはラウルを見下ろした。
「今どいたら、あなたはまた取られる」
ラウルの目が細くなる。
「取られても、戻せるなら」
「兄としては、戻らない」
答えたのはマルヤではなくテオだった。
ラウルの顔が動く。
テオはラウルへ近づかなかった。半歩出ると、ラウルの視線がその手から門へ走る。テオは足を元の石へ戻し、二人の間に腕一本ぶんの距離を残して立った。
ラウルの口角が一度だけ上がり、喉元を押さえた指が痛みに引かれると、笑いの形まで届かず落ちた。
「じゃあ、俺は何を持ってここまで来た」
テオの目は、ラウルの焼けた指先へ落ちた。
ラウルは裂けた手袋を歯で引き抜いた。古い火傷の上に白い筋の跡が重なり、指を曲げるだけで皮膚が引きつれる。その手をテオの前へ突き出す。
「これも、何でもなかったって言うのか」
「言わない」
テオは手を取らず、自分の薄くなり始めた指をその横へ並べて見せる。二人の指の隙間から、同じ石目が違う濃さで透けた。
「それは、お前が持って帰る傷だ。俺の残りにするな」
ラウルは殴る時のように拳を握り、握り切れずに開いた。脱いだ手袋が二人の間へ落ちた。
マルヤも答えない。
床の筋がかすかに動き、ノラはラウルからその行き先へ目を移した。門は取れなかった名を離し、黒い線の奥で祈りの声を歪めると、数本の筋を朱印の押された封じ布の下へ向けている。ヨルはノラの足元で前足を上げたまま止まり、朱印と祈祷布の間へ鼻を二度振った。いつもの短い鳴き声は出ず、爪だけが石を軽く掻いた。
ノラは短剣を持ち直した。
「名が取れないなら、残ってる声を使う気だ」
テオの目が、封じ布へ移る。
「まだ残していた」
マルヤが顔を上げた。
「何を」
テオの足が、封じ布へ半歩だけ進んだ。
答えより先に、門が動いた。
黒い線の奥から、泣きも叫びも削られた三つの認定が重なった。
壁際では、口元の布を押さえていた若い助祭が、青ざめたまま目を上げた。唇の端には布の跡がついている。
黒い線の奥から、さらに声が重なる。
「祈りを止めるな」
自分を縛ってきた命令に、助祭の歯が反射で布から外れかけた。
「祈りを……」
ノラは命令へ返事が重なる前に距離を詰め、外れかけた布を、助祭自身が歯で押さえられる位置へ戻した。
「続きは外で言って。ここでは取られる」
助祭の目が、ノラを見た。
本人の口を布で塞いだまま、同じ命令が今度は助祭の音色で返った。助祭は自分の喉へ手を当て、動いていないことを確かめても目を見開いたままだった。ずれた布を自分の指で奥歯へ戻し、声がもう一度写される前に噛み直した。
ノラは助祭から手を離し、封じ布の方へ向き直った。
床の筋は石の継ぎ目を選び、また町の古い傷へ出る道を探っていた。
ラウルが、助祭のことなど見ていないまま、テオへ声を向けた。
「何も残らないじゃないか」
テオは動かなかった。
「残すために、人の声を足すな」
「お前は、戻っていないからそんなことが言える」
テオは薄くなり始めた手を上げ、ラウルの焼けた拳と同じ高さへ置いた。灯りが指の間だけでなく、指そのものを通って石へ落ちる。
「なら見ろ。壁の声より先に、こっちが消える」
ラウルの顔が歪んだ。握っていた手袋の裂け目へ指が入り、力を込めるほど傷んだ革だけが伸びた。
怒りの奥から、置いていかれた子どもの表情がのぞいた。
マルヤは記録帳を抱く腕を緩めなかった。
封じ布の下で、低い音がした。
石の音ではなく、箱の中でいくつもの口が目を覚ますような、濡れて重い響きだった。近くで意味を探せば、声として聞き取ってしまいそうな音でもある。
細い筋の一本が、壁の割れ目へ伸びる。
ノラはそれを見た。
細い筋は壁の割れ目を通り、通路の外へ向けてもう一寸伸びた。封じ布の下で助祭の声が重なり、割れ目の先から、まだ誰もいない戸を叩くような音が返る。
マルヤが言った。
「外へ出るだけじゃ、駄目なのね」
ノラは壁の割れ目へ伸びる筋を刃先で追い、その刃を寝かせた。
「出す」
ノラは短く言った。
「でも、残したらまた呼ぶ」
テオがノラを見る。
「分かって言っているのか」
「今分かった」
ノラは壁の割れ目へ伸びた筋を断ち切らず、刃先でこそぎ始めた。力任せなら封じ布の下のものが一斉に鳴り、町へ伸びるか、助祭かラウルの声へ戻る恐れがある。石へ貼りつく薄膜だけを剥がすように刃を滑らせ、開いた手の傷から柄へ血がにじんでも速度を変えない。ヨルの尾が止まったところで根元を見定め、刃の角度を変えて押さえ込んだ。
門の奥から問いと命令が重なった。助祭は布を離さず、マルヤはラウルの前を動かない。テオは返さず、ラウルは形にならない名を飲み込んだ。
ノラは短剣を押し込んだ。
刃の下で筋が震え、壁の中では返事を待っていた口が閉じ損ねて遠く鳴った。やがて一本が切れ、門そのものは閉じなくても、壁の割れ目から町へ伸びかけた道は消えた。その分だけ、外を狙う気配が一つ遠のいた。
ノラが短剣を引いた瞬間、冷えに痺れた指から柄が滑った。刃先が石へ落ちる前に、ヨルが鍔へ前足をかける。ノラは壁へ肩を預け、感覚の鈍い指で柄を握り直した。
刃が落ちかけた隙にラウルが片手を床へつき、門へ体を向けた。マルヤはすぐ腕をつかみ、失った名を追ってこれ以上這わせないよう止めた。
「俺に触るな」
ラウルの声は低かった。
「触るわ」
マルヤは離さない。
「ここで行かせたら、また兄さんが使われる」
マルヤはラウルの腕を門と反対側へ引いた。記録帳の角が二人の間で潰れた。
ラウルは振り払おうとしたが、声を出す瞬間、喉を押さえる手がまた固まり、動きを止めた。テオは近づかず、二人の間に腕一本ぶんの距離を残したまま言った。
「外へ出ろ」
ラウルの目が、ようやく門からテオへ移った。
「命令するな」
「俺を戻すなと言ってる」
ラウルの目が揺れた。
それでも、ラウルは門へ手を伸ばさなかった。
封じ布の下で、また低い音がする。濡れたような朱印が光っていた。
黒い線の奥から、声がする。
「祈りを止めるな」
その声に、封じ布の下のいくつもの口が、まだ言葉になる前の音で応えた。
ノラは黒い線を見た。助祭たちが下がったあとも、壁の割れ目では白い先端が次の戸を探り、封じ布の下の口は閉じなかった。短剣を握る指が、もう一度柄の上で締まる。
その時、封じ布の下で、朱印の一角が内側から割れた。
ラウルの手が反射で持ち上がった。門へ伸びる前に止まり、石床に落とした自分の手袋を掴む。呼べない名の代わりにはならない。焼けた指を包むものは、まだ彼の手の中にあった。




