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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第16章 呼べなくなる名
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第66話 呼べなくなる名

挿絵(By みてみん)

ラウルは、門の前から下がらなかった。


マルヤは、門へ向いたラウルの背に言った。


「あなたが捨てていいと思ったものを、兄の名前にしないで」


マルヤは記録帳を閉じた。黒い線は見ず、それでも耳は塞がなかった。


線はラウルの靴先からマルヤの足元とテオの影へも伸び、ノラの短剣は円形の溝から出る根を押さえたまま動かせない。ヨルが鼻先を右へ振ってから左の石を叩き、その石へ前足を置いて体重を移す。白い筋は浮かなかった。直後、ラウルが門へ一歩近づく。マルヤは袖を引いたが、その腕ごと前へ運ばれた。閉じた記録帳を胸へ抱え、ヨルが踏んだ一枚へ出て、ラウルと黒い線の間に立った。


ラウルは止まらず、閉じた帳面ごとマルヤの肩へぶつかった。マルヤの踵が石目の縁で滑り、噛んだ唇に血がにじむ。退かなかった。帳面を脇へ抱え直して両手を空け、兄の胸を押し返した。


「私をいないことにして、二人だけで決めるのをやめて」


テオの顔が動いた。言葉は自分にも向いている。ラウルも門だけを見続けることができず、ようやくマルヤを見た。


「そこへ行ったら、戻れない」


ラウルはやっと彼女を見た。


「戻すために来た」


マルヤは息を吸いかけ、口が「誰を」の形になったところで舌を噛んだ。黒い線が唇の動きへ寄る。顎を引き、名へつながらない言い方で続けた。


「今、あなたが見ているのは、本当にお兄さんなの。それとも、戻せると思いたいだけなの」


ラウルは、答えが兄の名へつながると知って口を閉じた。その沈黙をこじ開けるように、黒い線の奥で湿った音がした。


「呼べば返る」


誰の声でもない。けれど、聞いた者の中で一番弱い場所へ入ってくる声だった。


ラウルの顔が動いた。


テオが一歩、前へ出る。


「門じゃなく、俺を見ろ」


ラウルの歯が鳴った。噛み殺した言葉が、歯の間で擦れた音だった。


「お前は、いつもそうだ。勝手に決めて、俺を置く」


テオはすぐには応じなかった。


黒い線の奥では、テオに似た影の中で、奇跡の間の整った声だけが入れ替わっていた。足音も、テオの息もない。


テオの視線はラウルに据わり、影を外していた。


「家へ戻れたのは、お前だ」


「戻れば神殿に見つかった」


「だから俺と一緒に、死者のままでいた」


「お前を何にしたのか追うには、その方が都合がよかった」


「その間、家には二人分の名札と、空いた椅子が残った」


ラウルの目が細くなった。マルヤは胸へ抱えた帳面の、黒く潰した二行がある場所を親指で押さえている。さっきラウルの肩を受けた唇には血が残り、拭う手も空いていなかった。ラウルはその赤を見て、先に目をそらした。


焼けた指が一度閉じ、裂けた皮膚から黒い筋がのぞいた。ラウルは血のついた帳面から顔をそらしても、門の前からだけは退かなかった。


黒い線が細く震える。


「返事をしろ」


ラウルの口元が震えた。


ノラは床を見る。


細い線が、ラウルの靴の縁から上がろうとしている。まだ足首にも届かず、彼が息を吸うたび革の縫い目で少し太くなる。口が開く瞬間を待つように、先端だけが喉の方角へ起き上がった。


「足元」


ノラは短く言った。


「その名を呼ぶな」


ラウルはノラを見なかった。


「お前には関係ない」


「ある。今、取られかけてる」


ラウルは笑わず、奥の闇を見たまま低く言う。


「黙れ」


テオが、静かに言った。


「そっちを見るな。俺はここにいる」


ヨルが身を低くしてノラの足先を鼻で押し、残る一枚の安全な石を示した。その制限の中で、ラウルはようやく門の影を視界から外し、目の前に立つテオを見た。


「お前のためだ」


「その言い方で、家へ帰らなかった」


「俺が諦めるためだとでも言うのか」


テオは答えず、マルヤの切れた唇を指した。ラウルが振り向くより先に、マルヤは口元を手の甲で拭う。血が閉じた帳面の角へつき、黒く潰した二行の真上に細い赤が残った。


「俺を追う間も、今ここでも、お前はあいつを後ろへ置く」


テオはそこで切り、ラウルの喉元へ視線を下げた。


「次は、その口まで置いていくのか」


ラウルの口元が歪んだ。


「死者でいたのは、俺が決めた」


黒い線の奥で、テオに似た影が手を上げた。


その指の形は、少し違った。片方だけが幼い。袖の長さも合わない。ラウルはその不揃いを見ず、肩の傾きだけを拾っていた。


線が、床から少し浮いた。


ラウルが口を開く。


「テ――」


「俺の名を呼ぶな」


テオが遮った。


ラウルは止まらなかった。門の影から目を外し、テオの瞳へ焦点を合わせる。兄の顔がわずかに揺れても、自分の声で確かめようとした。


「テ――」


声が切れた。喉に傷はなく、息もほかの言葉も出るはずなのに、名の途中だけが先に指でつままれたように抜け落ちている。ラウルは指が白くなるほど首元へ手を押し当てた。爪は傷のない皮膚を左右へ探り、鎖骨のくぼみまで下りてまた喉へ戻る。どこを押しても、一音だけが指の下に見つからなかった。


黒い線の奥から、細い声が返る。


「――オ」


ラウルの声だった。


だが、ラウルの口は開いていない。


兄の名が喉まで来ても、マルヤは口を閉じた。呼べば、門はそれを答えにする。


ノラはヨルが示した石へ足を置き、線を踏まないよう体を低くして、根を押さえていた短剣の柄へ両手を戻した。濡れた針のような冷えが指から肘へ上がる中、刃の手前に浮いた浅い一本は断てたが、靴へ絡んだ筋は石の溝へ深く根を下ろしている。ラウルが次の息を吸うたび、細い先端が喉へ向いて持ち上がった。ノラはその呼吸に合わせて刃を残し、先端が石目から出るたび押し戻した。


門が、今度ははっきりと言った。


「テオ」


門は兄の名をラウルの音色で、その口から切り離して黒い線の奥から落とした。テオは弟が呼べなくなった名を、弟の声で聞かされた。


テオは顔を動かさず、目の奥だけを揺らしても応じなかった。弟の声へ兄が返すはずだという目論見が外れ、黒い線の縁が、待ったものを得られない湿った音で震えた。


返事を得られなかった名は消えず、ラウルの声の形のまま床へ落ちた。円形の溝へ触れたところだけ、朱い印へ続く筋が一度白く浮いた。


ラウルの指が喉へ食い込んだ。床へ落ちた自分の声と、何も出てこない口を交互に見て、爪をさらに深く立てた。


「何を」


そこまでは出た。


ラウルは門を睨んだ。


「何を、取った」


門は答えなかった。


マルヤがラウルの腕を掴んだ。


「もう呼ばないで」


ラウルは振り払おうとした。腕は動く。力もある。だが、喉を押さえた手が離れない。


「離せ」


「離さない」


「お前に、何が」


そこで言葉が止まった。


マルヤはラウルを見た。


「兄を、戻すための道具にしないで」


線が、マルヤの靴にも触れかける。


このままでは門がラウルの声をさらに深く覚える。ノラは短剣を構え直し、指先へ黒い熱を沈めた。ヨルの尾が止まるのを根元が露出した合図と読み、刃を入れる。濡れた奥に残るものを断つ音が床へ響き、刃を伝った熱が線の中へ落ちると、筋は縮んでラウルの靴から離れた。


刃へ熱を落とした反動でノラの膝が折れかけ、視界の端が白く揺れた。ヨルが袖を強すぎない力で引き、倒れかけた肩がそこで止まる。ノラは犬の前足が滑る前に、自分の足を一枚ぶん踏み直した。


黒い線が、初めて大きく震えた。


「返事をしろ」


その響きが近くなる。


「誰を戻しますか」


助祭の口元の布が揺れる。マルヤの記録帳に、細いものが一瞬だけ伸びかける。テオの影の周囲にも、まだ残っている。


テオはラウルへ近づいたが、触れなかった。門の線が届く範囲をヨルの鼻先で確かめ、近づきすぎる前に止まった。ラウルは喉を押さえたまま見上げ、ようやく門の向こうから、目の前にいるテオへ視線を戻した。


テオは言った。


「俺は、返らない」


ラウルの顔が崩れた。


「お前が決めるな」


ラウルがようやく絞り出した声はかすれ、やはり名だけが出なかった。テオは薄くなった自分の手を一度見てから、ラウルの顔へ視線を戻した。


「俺のことだ」


ラウルは息を吸った。


「……お前は」


そこまでは言えた。


その先へ行けない。


黒い線の奥で、拾った声が名の形を作ろうと軋んだ。テオは応じなかった。


ラウルは首元から手を離せない。マルヤはラウルの腕を離してその前に立った。黒い線から見れば、閉じた帳面と彼女の背がラウルの喉を隠す。ラウルから見れば、門もテオも肩越しに半分しか見えない。退けと押せるはずの焼けた手は、石を掴んだまま上がらなかった。


「呼ばない。もう、ここでは誰も」


ラウルは答えなかった。


ノラは床を見ていた。


線はラウルとマルヤから退き、黒い線の近くへ戻っていく。それでも、門は次の一声を待っていた。


ラウルの膝が、石の床に落ちた。


片手は首元を押さえたまま、もう片方の手が床を掴む。声も息もある。呼ぶための名だけがなかった。


黒い線の奥で、門だけが告げる。


「テオ」


ラウルの音色で、兄の名を呼んでいた。


ラウルは反射で門を見た。次の瞬間、傷のない首元へ爪を立て、無理に顔を目の前のテオへ戻す。呼べない名の代わりに焼けた拳が石を打った。門がもう一度「テオ」と呼んでも、ラウルはそちらへ振り向かなかった。


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