第66話 呼べなくなる名
ラウルは、門の前から下がらなかった。
マルヤは、門へ向いたラウルの背に言った。
「あなたが捨てていいと思ったものを、兄の名前にしないで」
マルヤは記録帳を閉じた。黒い線は見ず、それでも耳は塞がなかった。
線はラウルの靴先からマルヤの足元とテオの影へも伸び、ノラの短剣は円形の溝から出る根を押さえたまま動かせない。ヨルが鼻先を右へ振ってから左の石を叩き、その石へ前足を置いて体重を移す。白い筋は浮かなかった。直後、ラウルが門へ一歩近づく。マルヤは袖を引いたが、その腕ごと前へ運ばれた。閉じた記録帳を胸へ抱え、ヨルが踏んだ一枚へ出て、ラウルと黒い線の間に立った。
ラウルは止まらず、閉じた帳面ごとマルヤの肩へぶつかった。マルヤの踵が石目の縁で滑り、噛んだ唇に血がにじむ。退かなかった。帳面を脇へ抱え直して両手を空け、兄の胸を押し返した。
「私をいないことにして、二人だけで決めるのをやめて」
テオの顔が動いた。言葉は自分にも向いている。ラウルも門だけを見続けることができず、ようやくマルヤを見た。
「そこへ行ったら、戻れない」
ラウルはやっと彼女を見た。
「戻すために来た」
マルヤは息を吸いかけ、口が「誰を」の形になったところで舌を噛んだ。黒い線が唇の動きへ寄る。顎を引き、名へつながらない言い方で続けた。
「今、あなたが見ているのは、本当にお兄さんなの。それとも、戻せると思いたいだけなの」
ラウルは、答えが兄の名へつながると知って口を閉じた。その沈黙をこじ開けるように、黒い線の奥で湿った音がした。
「呼べば返る」
誰の声でもない。けれど、聞いた者の中で一番弱い場所へ入ってくる声だった。
ラウルの顔が動いた。
テオが一歩、前へ出る。
「門じゃなく、俺を見ろ」
ラウルの歯が鳴った。噛み殺した言葉が、歯の間で擦れた音だった。
「お前は、いつもそうだ。勝手に決めて、俺を置く」
テオはすぐには応じなかった。
黒い線の奥では、テオに似た影の中で、奇跡の間の整った声だけが入れ替わっていた。足音も、テオの息もない。
テオの視線はラウルに据わり、影を外していた。
「家へ戻れたのは、お前だ」
「戻れば神殿に見つかった」
「だから俺と一緒に、死者のままでいた」
「お前を何にしたのか追うには、その方が都合がよかった」
「その間、家には二人分の名札と、空いた椅子が残った」
ラウルの目が細くなった。マルヤは胸へ抱えた帳面の、黒く潰した二行がある場所を親指で押さえている。さっきラウルの肩を受けた唇には血が残り、拭う手も空いていなかった。ラウルはその赤を見て、先に目をそらした。
焼けた指が一度閉じ、裂けた皮膚から黒い筋がのぞいた。ラウルは血のついた帳面から顔をそらしても、門の前からだけは退かなかった。
黒い線が細く震える。
「返事をしろ」
ラウルの口元が震えた。
ノラは床を見る。
細い線が、ラウルの靴の縁から上がろうとしている。まだ足首にも届かず、彼が息を吸うたび革の縫い目で少し太くなる。口が開く瞬間を待つように、先端だけが喉の方角へ起き上がった。
「足元」
ノラは短く言った。
「その名を呼ぶな」
ラウルはノラを見なかった。
「お前には関係ない」
「ある。今、取られかけてる」
ラウルは笑わず、奥の闇を見たまま低く言う。
「黙れ」
テオが、静かに言った。
「そっちを見るな。俺はここにいる」
ヨルが身を低くしてノラの足先を鼻で押し、残る一枚の安全な石を示した。その制限の中で、ラウルはようやく門の影を視界から外し、目の前に立つテオを見た。
「お前のためだ」
「その言い方で、家へ帰らなかった」
「俺が諦めるためだとでも言うのか」
テオは答えず、マルヤの切れた唇を指した。ラウルが振り向くより先に、マルヤは口元を手の甲で拭う。血が閉じた帳面の角へつき、黒く潰した二行の真上に細い赤が残った。
「俺を追う間も、今ここでも、お前はあいつを後ろへ置く」
テオはそこで切り、ラウルの喉元へ視線を下げた。
「次は、その口まで置いていくのか」
ラウルの口元が歪んだ。
「死者でいたのは、俺が決めた」
黒い線の奥で、テオに似た影が手を上げた。
その指の形は、少し違った。片方だけが幼い。袖の長さも合わない。ラウルはその不揃いを見ず、肩の傾きだけを拾っていた。
線が、床から少し浮いた。
ラウルが口を開く。
「テ――」
「俺の名を呼ぶな」
テオが遮った。
ラウルは止まらなかった。門の影から目を外し、テオの瞳へ焦点を合わせる。兄の顔がわずかに揺れても、自分の声で確かめようとした。
「テ――」
声が切れた。喉に傷はなく、息もほかの言葉も出るはずなのに、名の途中だけが先に指でつままれたように抜け落ちている。ラウルは指が白くなるほど首元へ手を押し当てた。爪は傷のない皮膚を左右へ探り、鎖骨のくぼみまで下りてまた喉へ戻る。どこを押しても、一音だけが指の下に見つからなかった。
黒い線の奥から、細い声が返る。
「――オ」
ラウルの声だった。
だが、ラウルの口は開いていない。
兄の名が喉まで来ても、マルヤは口を閉じた。呼べば、門はそれを答えにする。
ノラはヨルが示した石へ足を置き、線を踏まないよう体を低くして、根を押さえていた短剣の柄へ両手を戻した。濡れた針のような冷えが指から肘へ上がる中、刃の手前に浮いた浅い一本は断てたが、靴へ絡んだ筋は石の溝へ深く根を下ろしている。ラウルが次の息を吸うたび、細い先端が喉へ向いて持ち上がった。ノラはその呼吸に合わせて刃を残し、先端が石目から出るたび押し戻した。
門が、今度ははっきりと言った。
「テオ」
門は兄の名をラウルの音色で、その口から切り離して黒い線の奥から落とした。テオは弟が呼べなくなった名を、弟の声で聞かされた。
テオは顔を動かさず、目の奥だけを揺らしても応じなかった。弟の声へ兄が返すはずだという目論見が外れ、黒い線の縁が、待ったものを得られない湿った音で震えた。
返事を得られなかった名は消えず、ラウルの声の形のまま床へ落ちた。円形の溝へ触れたところだけ、朱い印へ続く筋が一度白く浮いた。
ラウルの指が喉へ食い込んだ。床へ落ちた自分の声と、何も出てこない口を交互に見て、爪をさらに深く立てた。
「何を」
そこまでは出た。
ラウルは門を睨んだ。
「何を、取った」
門は答えなかった。
マルヤがラウルの腕を掴んだ。
「もう呼ばないで」
ラウルは振り払おうとした。腕は動く。力もある。だが、喉を押さえた手が離れない。
「離せ」
「離さない」
「お前に、何が」
そこで言葉が止まった。
マルヤはラウルを見た。
「兄を、戻すための道具にしないで」
線が、マルヤの靴にも触れかける。
このままでは門がラウルの声をさらに深く覚える。ノラは短剣を構え直し、指先へ黒い熱を沈めた。ヨルの尾が止まるのを根元が露出した合図と読み、刃を入れる。濡れた奥に残るものを断つ音が床へ響き、刃を伝った熱が線の中へ落ちると、筋は縮んでラウルの靴から離れた。
刃へ熱を落とした反動でノラの膝が折れかけ、視界の端が白く揺れた。ヨルが袖を強すぎない力で引き、倒れかけた肩がそこで止まる。ノラは犬の前足が滑る前に、自分の足を一枚ぶん踏み直した。
黒い線が、初めて大きく震えた。
「返事をしろ」
その響きが近くなる。
「誰を戻しますか」
助祭の口元の布が揺れる。マルヤの記録帳に、細いものが一瞬だけ伸びかける。テオの影の周囲にも、まだ残っている。
テオはラウルへ近づいたが、触れなかった。門の線が届く範囲をヨルの鼻先で確かめ、近づきすぎる前に止まった。ラウルは喉を押さえたまま見上げ、ようやく門の向こうから、目の前にいるテオへ視線を戻した。
テオは言った。
「俺は、返らない」
ラウルの顔が崩れた。
「お前が決めるな」
ラウルがようやく絞り出した声はかすれ、やはり名だけが出なかった。テオは薄くなった自分の手を一度見てから、ラウルの顔へ視線を戻した。
「俺のことだ」
ラウルは息を吸った。
「……お前は」
そこまでは言えた。
その先へ行けない。
黒い線の奥で、拾った声が名の形を作ろうと軋んだ。テオは応じなかった。
ラウルは首元から手を離せない。マルヤはラウルの腕を離してその前に立った。黒い線から見れば、閉じた帳面と彼女の背がラウルの喉を隠す。ラウルから見れば、門もテオも肩越しに半分しか見えない。退けと押せるはずの焼けた手は、石を掴んだまま上がらなかった。
「呼ばない。もう、ここでは誰も」
ラウルは答えなかった。
ノラは床を見ていた。
線はラウルとマルヤから退き、黒い線の近くへ戻っていく。それでも、門は次の一声を待っていた。
ラウルの膝が、石の床に落ちた。
片手は首元を押さえたまま、もう片方の手が床を掴む。声も息もある。呼ぶための名だけがなかった。
黒い線の奥で、門だけが告げる。
「テオ」
ラウルの音色で、兄の名を呼んでいた。
ラウルは反射で門を見た。次の瞬間、傷のない首元へ爪を立て、無理に顔を目の前のテオへ戻す。呼べない名の代わりに焼けた拳が石を打った。門がもう一度「テオ」と呼んでも、ラウルはそちらへ振り向かなかった。




