第65話 足しても戻らない
神殿の奥で、門はまだ閉じていなかった。
ノラ・ヴェイルは短剣を床へつき、白い筋を切った時の冷えが残る指で息を整えた。町と小屋へ伸びた道は一度断った。門からミミの声は返ってこない。
戸を閉めたミミが手順を守っていると信じ、そのぶん自分はここで足を止めない。
ヨルは門を見ず、耳を伏せたまま床の石目を嗅ぎ、前足を一度押しつけてすぐ引いた。嫌がっても逃げない鼻先をノラが追うと、さっき断ったものとは別の白い筋が、灯りの端で見落とすほど薄く、円形の刻みを避けて伸びていた。筋はテオの影を素通りし、ラウルの靴へ巻きつく。ラウルが兄へ息を吸うたび、革の縫い目に沿って一目ずつ上がった。
「返事をしろ」
黒い線の奥から、呼びかけが落ちた。
誰のものともつかない。似せた音でさえないのに、聞いた者の中へ手を入れ、答えを探させる響きだった。
問いの中身を探ろうとしただけで、足元の石が近づいたように感じる。
壁際に寄せられていた若い助祭が、口元の布を歯で押さえ直した。目は開いている。言いたいことはあるのだろう。だが、声にはしなかった。
マルヤ・センドは記録帳を胸に抱えていた。
指が帳面の角に食い込んでいる。兄の名がどこかに残っているかもしれない場所で、彼女は文字を見すぎないようにしている。見れば読みたくなる。
テオは黒い線を見ていた。
ラウルは、その奥を見ていた。
同じ方を向きながら、テオは目の前の危険を、ラウルは向こう側にいるはずの兄を見ていた。
ラウルの口元が、わずかに開きかけた。名にも言葉にもならない、呼ぶための最初の息だった。
ノラは低く言った。
「足元」
ラウルは聞かなかった。
門がまた言う。
「返事をしろ」
それはテオへ向かっているように響いた。だが、床を這う線は、テオへ行かない。ラウルの靴の縁へ届き、細く巻きつこうとしている。
「門を見るな。靴に来てる」
ノラがもう一度言うと、ラウルの目がようやく下がった。
細い線が靴に触れていた。
触れた場所から、霜のような白さが革へ染みていく。冷えだけではない。そこに立っている者の中から、何を呼びたいのかを探っている。
ラウルは怖がらなかった。危険を見ながら、呼びたいものを先に選んでいる。
テオが低く言った。
「まだ呼んでないのに、もう来てる」
「だから何だ」
「お前を待ってる」
ラウルの視線が、また黒い線へ戻る。
「待たせたのは、俺だ」
黒い線の縁が、ゆっくり揺れた。
待っていた、とでも言うように。
ノラは短剣を持ち直した。線はまだ浅く、ラウルが一歩引けば離れる。
だが、ラウルは引かなかった。
白い筋へ視線を落とさせるため、マルヤが一歩動いた。
「ラウル」
名を呼んだ瞬間に黒い線の縁が細く震え、マルヤは自分の声まで拾われたと気づいた。悔やむより先に記録帳を胸へ押しつけ、ラウルの袖をつかみ直す。
「今は見て。聞くんじゃなくて、見て」
ラウルが腕を振ろうとする。
「邪魔をするな」
「邪魔してる」
マルヤは袖を離さなかった。
「兄をもう一度取らせないために」
兄――名ではないその一語にも部屋の空気がわずかに動いた。黒い線は呼び名になる前の血縁も、未練も、呼びたかった相手の場所も知っているように揺れる。マルヤは説明を足せば餌になると悟って口を閉じた。
テオの目がほんの少しだけマルヤへ向き、すぐに戻った。返事をすれば取られるため、マルヤも口を閉じた。
そのままラウルの袖を引く。靴が半歩ずれ、細い線は革を外れて石の溝へ戻った。
部屋の石が細かく鳴る。床の円形の溝に、薄い白さがにじんだ。線はラウルから離れたが、根はまだ石の奥にある。
ノラは短剣を下げなかった。
門の欲しがる返事は、まだ誰の口からも出ていない。それで諦める場所ではなかった。
黒い線の奥で、闇の厚い場所が盛り上がり、まず肩らしい線を作った。次に古い外套の端と、片側だけ少し下がった立ち方が現れる。ラウルが目を細めると重心が左へ寄り、マルヤの指が帳面の角へ触れると影の手も同じ高さへ上がった。三人の視線が動くたび、暗がりの輪郭が一か所ずつ埋まっていった。
マルヤは記録帳を胸と腕の間へ挟み、空いた手もラウルの袖へ重ねた。
ラウルの口元が、また開きかける。ノラは短剣を構えたまま見たが、名はまだ出ていない。
影の顔は暗くて見えないのに、輪郭だけはテオに近すぎた。見えない部分を自分たちの記憶で埋めさせるための曖昧さだと分かっても、テオの息だけがわずかに浅くなる。自分に似たものへ自分の記憶まで引かれかけた反応だった。
影の口が開く。
門は、整いすぎた声を落とした。
「見えました」
奇跡の間で聞いた、整いすぎた記録の響きだった。
テオが言った。
「それでも見るのか」
ラウルは、すぐには答えなかった。
返事をすれば、それすら門が拾う。そう分かっているのかもしれない。けれど、口を閉じても、胸の奥では言葉が暴れていた。
「見なければ、兄を戻す道も見つからない」
低い声だった。
マルヤは記録帳を抱えたまま、ラウルの横顔を見た。肩が動いたが、声にはしなかった。
テオは黒い線を見た。
「戻そうとしているものを間違えている」
「間違えている」というテオの言葉へ門が反応し、否定を餌に黒い線の奥の影をテオへ近づけた。その精度に引かれ、ラウルの唇がわずかに開く。
まだ名は出ない。けれど、呼びたい形だけが口の奥に生まれている。ノラはラウルから床へ目を移した。
テオに似た輪郭の中で、その整いすぎた声が重なった。
ラウルは影を見つめたまま言った。
「兄に見えないところが、足りないだけだ」
ノラは口を閉じた。門は議論の続きを待っている。
その線は、ラウルの靴へは向かっていなかった。
今度は、マルヤの足元へ伸びていた。
「そこを離れて」
ノラは短く告げた。
マルヤは兄と違うと知りながら、腕の角度や肩の沈み方へ、灯口の記録にはない家での姿を探してしまった。影が記録帳を胸へ抱えるような仕草をすると、つられて本物の帳面を抱え直す。その瞬間、影の指は細く、人らしい曲がり方へ変わり、テオ本人の癖から、マルヤだけが覚えている兄の癖へ近づいた。似ていると思うこと自体が、似せる材料を渡していた。
それでも親指だけが違った。テオは擦り切れた帳面の角を隠すように親指を置いたが、影は表紙の題を見せるように指を開いている。間違いは小さい。小さいからこそ、門が家の中まで覗き込み、意味だけを取り違えたことが気味悪かった。
自分が偽物を育てたと悟り、マルヤの顔から色が引いた。
「私が知ってるところを、取ってる」
「足元」
ノラは言った。
「見て」
マルヤは視線を落とした。
細い線が、靴の縁に触れていた。声を出す前に、名を呼ぶ前に、記憶の置き場へ入り込もうとしている。
ヨルが線の届いていない石を前足で叩き、マルヤは影ではなくその合図を信じて足を引いた。白い筋が靴を外れて溝へ戻り損ねると、借りる記憶を失った影の肩も崩れた。テオに似た輪郭は半分だけ別人になり、外套の丈は合わず、片手だけが幼く、足元には影さえない。それでも口の位置だけを残し、整った声を続けた。
崩れた口だけが、三つの認定を順に繰り返す。
ラウルの顔が歪んだ。
「違う」
テオが静かに言った。
「そうだ」
ラウルはテオを見た。
やっと、目の前にいる方を見た。けれど、それは一瞬だけだった。すぐに視線は門へ戻る。
「違うなら、足りないところを足せばいい」
マルヤの親指が、兄二人の名を自分で黒く潰した頁を探った。留め紐が半分だけ外れると、白い筋が帳面へ向けて起き上がる。彼女は表紙をすぐ胸へ押し戻した。勢いで親指の爪が革へ食い込み、黒い二行のある頁は閉じたまま軋んだ。
テオは影の開いた親指へ、自分の指を向けた。
「マルヤは帳面の題を隠す。あれは、わざわざ見せてる」
門の奥で、湿った音が鳴った。
影がまた揺れる。
今度はラウルの方を向いた。顔はない。けれど、見ているのだと分かる。黒い線の縁から細い白が伸び、床の溝を伝ってラウルへ向かう。
その影の中から、テオに似せた声がした。
「呼んでくれ」
ラウルの表情が変わった。
マルヤは声を使わず、ラウルの袖を掴む手に力を込めた。
「今のは兄さんじゃない」
ラウルは振り払おうとした。
「お前に何が分かる」
「分かるところを、今、取られかけた」
ラウルの腕が短い間だけ止まった。マルヤの足元から退いた筋を目で追い、開かなかった帳面へ一度視線を落とす。その沈黙へ、門がラウル自身の声を差し込んだ。
「足りない」
門から落ちたのはラウル自身の声だったが、本人の口は動いていない。ラウルの顔から血の気が引く。その頬を横切っていたノラの視線はすぐ床へ落ち、円形の溝から靴の影へ入り込む細い筋を追った。
ラウルの足元へ伸び直した線は、今度は円形の溝の内側から出て、靴の影へ深く入り込もうとしていた。ノラは逃げる先端を追わず、溝から出る根元へ短剣を横たえる。刃は石にも肉にも触れず、言葉の続きを運ぶ何かを床へ押さえた。黒い熱を強めると、小屋の戸から井戸、物置、石橋へ向いた古い枝が同時に石目を持ち上げる。ノラは熱を細く戻し、枝が沈むぎりぎりのところで刃の腹を平らに保った。
「退け」
ノラは刃を床へ押さえたまま言った。
ラウルは動かない。
「戻せるなら」
「聞くな」
テオが低い声で命じると、ラウルの目は門から兄へ戻った。テオは影の方へ一度も視線をやらず、ラウルと目が合うまで同じ位置に立った。薄くなった唇が、次の拒絶を自分の息で押し出した。
「俺を、誰かの願いの形に直すな」
ラウルの口が開いた。
言葉が出る前に、影がテオの調子で言った。
「返事をしろ」
テオは返さなかった。
マルヤの口元が歪んだ。
「記録って、そう言わせるためにあるんじゃない」
低い声だった。怒鳴らないぶんだけ、床の線は寄り損ねた。
ラウルはそれを見てしまった。
開いた親指、長さの合わない外套、片方だけ幼い手、石へ落ちない影。その口だけが「見えました」「戻りました」と滑らかに続けている。ラウルが「足せばいい」と言った時の形は、もうどこにも揃っていなかった。唇が同じ言葉を作りかけても、息だけが先に漏れた。
ラウルはまだ、門の前から下がらない。
「なら、俺が呼ぶ」
マルヤの手に力が入った。
「呼ばないで」
声は低く、袖をつかむ指も同時に締まった。傷口へ当てた布が浮かないよう、掌の付け根まで押しつける手つきだった。
ラウルは答えなかった。
テオが言う。
「次に呼んだら、お前の声で呼び返される」
ラウルは、ようやくテオを見た。
「取られてもいい」
ノラは横たえた刃へ体重をかけ直した。
「よくない」
ラウルがノラを睨む。
「お前に決める権利はない」
「ないよ」
ノラは刃をさらに床へ沈めた。
冷えが指から肘へ上がる。黒い熱が反射のように腕へ集まり、刃と筋の接点だけが細く赤黒くなる。そこから外へ漏れれば古い枝がまた浮く。ノラは手首を固め、熱の帯が刃幅より広がらないよう押さえ続けた。指の骨が震えても、柄の位置は動かさなかった。
「でも、その声で次を呼ばせるなら、止める」
門が低く鳴る。
影はまだ消えない。外套の丈がまた短くなり、開いていた親指は節の位置を失って細い棒のように伸びた。口から出るラウルの声も、語尾だけが本人より高く割れた。
線は刃の下で平たく潰れた。
ラウルの靴元から、冷えがわずかに離れる。だが、断ち切れてはいない。深いところでつながった筋が刃を抱え、ノラは短剣を引けなくなった。
ヨルがノラの袖を引いた。
無理に引けば、押さえた根が別の石目へ移る。踏み直せば、また道を開く。
ノラはそこで手を止めた。刃の下で筋が、次に踏む足を待っていた。
部屋には、誰かに言わせた整った記録だけが残る。テオもマルヤも応じず、ラウルだけが口の奥で次の言葉を探していた。
テオは言葉を足さなかった。ラウルが爪を立てている首元へ二本の指を向け、次に、門がラウルの声で鳴った場所を指す。最後に自分の唇を閉じ、同じ二本の指を喉元へ戻した。
ラウルの口が開く。
まだ名は出ない。
ラウルは自分の喉へ指を押し当てた。呼べない一音の代わりに、爪の跡だけが白く残った。




