第64話 声を出さない家
小屋診療所の戸には、内側から椅子が噛ませてあった。
掛け金だけに任せない。青い糸の入った布を背もたれと戸の取っ手へ結び、外から押されれば、机に置いた空瓶が先に倒れるようにした。水桶は棚の脇。口へ当てる清潔布は、もう襟元に挟んである。
ミミは教わった手順を、自分の手に合う形へ直していた。
町から短い警告が飛んでくるたび、紙の端へ印を一つつける。井戸、石橋、物置。声に出して数えない。ノラとヨルが戻るまで、どの方角がまだ鳴っているかを残すためだった。
戸板の隙間から差す光は、朝の白さを失い、机の脚の影を長くしていた。
四つ目の印をつけた時、空瓶が触れてもいないのに細く鳴った。
その時、戸の外から呼ばれた。
「ミミ」
手が止まった。
ノラともマルヤとも違う。ヨルの鳴き声も、決めた合図もなかった。
母の声だった。
ミミは返事をしなかった。
声は泣いていない。寒いとも、開けてとも言わない。ただ、いつものように名前を呼んだ。朝、寝台から起こす時の声。
「ミミ」
二度目は、少し近かった。
ミミは戸へ行かず、机の前へ戻って薬包の紙を一枚取った。角を合わせ、指の腹で押さえ、折る。いつもの順に手を動かせば、母の声へ走ろうとする足をここに留めておけた。
「母さんよ」
目の奥が熱くなった。
知っている、と言いたかった。会いたかった、と言えば、戸の向こうの声がほっとするような気がした。
ミミは布を口へ当てた。
歯で噛む。強く噛みすぎると、布の味で気持ち悪くなる。けれど、今はそれでよかった。口の中に言葉の置き場を作らないためなら、少し苦いくらいでいい。
小屋の戸が、小さく震えた。
木目の奥だけが、叩く手もないのに細く鳴った。ミミは戸を見た。掛け金は下り、窓も閉まっている。けれど、戸板の隙間から何かが家の中を探していた。
返事をすれば、次は戸の外から自分の声がする。ノラなら足を止める。マルヤなら文句を言いながら確かめに来る。二人とも、この狭い小屋の前へ呼ばれてしまう。
それが嫌だった。母の声を怖いと思った自分にも腹が立った。
ミミは机の上にある、危ない場所を知らせる時にノラが使う白い布へ手を伸ばした。本来なら戸へ結ぶものだが、近づけば声まで近くなる。そこで机の脚へ結ぼうとすると、震える指から一度は布端が逃げた。もう一度引き、今度は締める。決められた目印を、今いる場所で使える形へ変えた。
机の脚に白い布が下がった。
戸の外で、母の声が言った。
「返事をして」
叱ってはいない。責めてもいない。少しだけ困っている。小さい頃、ミミが薬を飲みたくなくて黙っていた時と同じ声だった。
本物なら、こんな言い方はしない。
母はミミが薬を飲まない時、困った声を出したあと、最後には水を持って隣へ座った。戸の外で返事だけを待ったりしない。
ミミは布を噛み直し、薬包の紙を押さえた。
角は少しずれている。けれど、破れていない。
神殿の奥で、ノラの短剣は白い筋に食い込んだまま止まっていた。
黒い線は閉じない。
石壁の前に立った細い闇だけが、そこにある空気を変えている。
「誰を戻しますか」
その問いは、もう部屋の中だけに留まっていなかった。
ヨルは朱い布から鼻先を外し、通ってきた通路の先、町の方へ向いた。耳を伏せ、喉の奥で低く鳴った。
「クル……」
ノラはその向きだけで分かった。
小屋の方だ。
ミミの名をここで呼べば、門が拾う。ノラの声で小屋の戸を叩くようになる。ヨルを呼ぶ声にも、ミミを起こす声にも、怪我人を招く声にもされる。
ノラは刃を抜かなかった。
ここを離れれば、町へ伸びる声の道を断つ者がいなくなる。声の方が先に小屋へ着く。
腕の奥が焼ける。黒い熱が指の骨まで上がってくる。外へは出さない。見える形にすれば、ここにいる者の目に残る。灰鷹に知られなくても、神殿の壁が覚えるかもしれない。
短剣の角度を変える。
冷えが柄を伝って手に入り、使われた声の薄く伸びる感触を残した。
奥の暗がりから、ラウルが黒い線の手前へ戻った。
ノラが町へ伸びる筋をこそぎ始めた瞬間、ラウルは門へ半歩近づいた。黒い線から目を外してテオだけを見つめ、焦げた手を喉元まで上げる。
ラウルが、兄の名を出すための息を吸った。
マルヤは空いた手でラウルの腕を掴んだ。
門へ向けては兄の名を呼ばない。ラウルの名も、テオの名も投げない。ただ、掴む。爪が食い込むほど強く止めた。
「今呼んだら、声の道が外へ伸びる」
ラウルがマルヤを見た。
「邪魔をするのか」
「するわ」
マルヤの声は震えていた。だが、名前は出なかった。
「ここで呼べば、あなたの声も、兄さんの声も、誰かを呼ぶ道具になる」
ラウルは振り払おうとした。
テオが前へ出て、そこで止まった。怒りも、拒絶も、もっと古い言葉も喉まで来ている。だが、ここで声にすれば、門が続きを待つ。
テオは歯を食いしばるだけにした。
テオの歯が鳴り、声は出なかった。その間にノラは短剣を石の継ぎ目へ寝かせ、糸より硬く根を張ろうとする白い筋を刃先で削り取る。
「返事をしろ」
門の向こうで、いくつもの声が重なる。
「名を呼べ」
「誰を戻す」
その中に、かすかに別の音が混じった。
「ミミ」
呼ばれた名にもノラは顔を上げず、その分だけ刃を深く押し込んだ。手の皮が切れて柄へ血がにじみ、痛みが喉まで上がっても声にはしない。返事でなくても、ここでは痛みの声さえ材料になる。
ヨルが短く鳴いた。
「クルッ」
ヨルの一声を角度が合った合図と受け、ノラは白い筋を引き剥がした。黒い線の縁が湿った音を立てて歪み、部屋の奥で誰かが布を噛み直す。神官か助祭かを確かめる余裕はなかったが、町へ伸びていた気配の一つが遠のいた。
小屋の戸の震えが止まった。
音が止まっても安全とは限らないと教わっていたため、ミミはすぐには動かなかった。母の声はまだ残るものの、板一枚の向こうから、石の隙間の奥でこちらを探すほど遠ざかっている。その距離だけを手掛かりに、待つ時間を自分で決めた。
「ミミ」
ミミは布を噛んだまま目を閉じず、返事を求めるものより長く待つと決めた。
薬包の紙は、指の下で少し曲がっている。端もきれいにそろわず、ミミならやり直したくなるくらい歪んでいた。
でも、粉は漏れていない。
声がもう一度遠くで呼んだ。音が小さくなっただけかもしれない。ミミは薬包をもう一枚折り終えるまで待つことにした。頬を涙が伝っても、布は外さなかった。
母の声は一声ごとに遠のいた。ミミは布を噛んだまま、胸に溜めていた息を鼻から細く吐いた。それから、自分で場所を変えて結んだ机の脚の白布を見た。
神殿では、立っていた神官が意識のない同僚を背負った。黒い線が歪んだ隙に壁際を抜け、いくつもの仕切りの向こうで待つ灰鷹へ引き渡した。そのまま後送に付き添い、二人とも通路の外へ下がった。
神殿の奥で、ノラは膝をついたまま、刃を支える腕をわずかに沈めた。
手が冷えている。指先の血が短剣の柄に広がり、黒ずんで見えた。刃の先には、白い筋の残りが薄く絡んでいる。切りきれず、道を一つ削り潰しただけだ。門はまだそこにある。
テオが手を伸ばしかけたが、ノラは自分で立った。
「門はまだ閉じてない」
声は低く、門を越えずに目の前の人間へだけ届いた。
マルヤはラウルの腕を離していなかった。
ラウルは、さっきより静かになっている。町へ伸びた声が小屋を取れなかったと理解しても、諦めは見せなかった。
黒い線がゆっくり向きを変えた。町で返事を奪えなかった門が、ラウルの呼ぼうとしていた唯一の名へ折り返し、今度はテオの声を求めている。
「返事をしろ」
誰の声でもない声が、そう言った。
ラウルの喉が動く。
マルヤは兄の名を呼ばないまま、そこに立つ。
テオは門を見ていた。
その足元を避け、一本の白い筋が向きを変える。まっすぐ、ラウルの靴先へ伸びた。
小屋では、ミミが折り終えた薬包を机の右端へ置いた。母の声が遠のいてからも戸へは行かず、次の一枚を取り、ずれた角を今度は直さないまま折り目だけを押さえた。




