第63話 名前を待つ門
「誰を戻しますか」
黒い縦の線の向こうから、声が落ちた。
神官にもラウルにもテオにも属さず、男とも女とも、若いとも老いたとも決められない声だった。それなのに聞いた者の中にある名だけを先に動かし、答えを喉の内側へ置いてくる。マルヤは顔色を変えながら黒い線へ背を向け、記録帳を腕の内側へ隠した。ノラ・ヴェイルは助けるために伸ばしかけた手を、マルヤ自身が選ぶ余地を残して短剣の柄へ戻した。
マルヤは背を向けたまま言った。
「名前は、ここでは出さない」
声は震えていた。
黒い線の奥で、欲しかったものを取り損ねた湿った喉の音が鳴った。
マルヤの足元へ伸びかけていた白い筋が、石の溝へ戻る。
ラウルが、ゆっくりとテオへ顔を向けた。
その目は、兄を見ているようで、兄を見ていなかった。ここに来れば今度こそ足りると、まだ信じている目だった。
ラウルの喉が動く。
「テ――」
「俺の名を呼ぶな」
テオが遮った。
黒い線の縁が揺れた。言いかけの音を拾おうとするように、闇が細くラウルの方へ寄る。
ラウルはそれを見ていた。危険を見抜いた上で、それでも手を伸ばしていた。
テオはもう一度言った。
「俺の名を、ここに取らせるな」
それを聞き、ラウルの口元が歪んだ。
「取らせなかったから、足りなかった」
「足しても、俺にはならない」
その言葉に、門が応えた。黒い縁から「見えました。戻りました。奇跡です」と、記録欄を順に埋めるような声が重なって漏れる。泣き崩れも叫びもない。その直後には「誰に見えますか。返事はありましたか。奇跡と認めますか」と問いまで整い、名と返事が出る瞬間だけを待った。
マルヤの記録帳が、もう一度きしんだ。テオの肩も動いた。ラウルだけが、黒い線から目を離さない。
ノラは円形の溝の外周に沿って左へ動いた。ヨルは白い筋を踏まない壁際を鼻先で示し、黒い線へ向かう枝と、反対に左壁の古い割れ目へ潜ろうとする枝との分かれ目で止まる。後者は神殿の奥ではなく、外へ向いていた。
ノラはまだ刃を入れず、筋が石目のどこへ戻るかを見定める。白い筋が左壁へ根を下ろすほど、門の声は部屋の外まで道を得たように近くなった。
「返るなら、救――」
壁際の神官が、布の隙間から言いかけた。
門の奥が、取れなかった続きを先に出す。
「救いです」
神官の喉は動いていない。自分の祈りを別のものに完成され、顔から血の気が引いた。ノラが手を伸ばすより先に、神官は濡れた布端を拳で引き、奥歯まで噛み直した。大司祭印へ向きかけたもう一方の手も自分でつかみ、倒れた同僚の胸へ置く。門ではなく、生きて上下する胸を見た。
ラウルが低く言った。
「一度だけでいい」
テオは動かなかった。
「一度で終わる場所なら、こんなに声は残らない」
ラウルの目が揺れる。
そこへ、門の奥から別の声が落ちた。
「兄さん」
マルヤの肩が跳ねた。
ラウルにもテオにも属さない声が、兄弟の間にある呼び方だけを削り取り、知らない喉へ貼りつけていた。
マルヤは目も耳も塞がず、呼び方を奪った仕組みを見届けるように記録帳を胸へ押し当てた。逃げずに聞くことと、呼び返すことは違う。
「呼ばない」
マルヤが言い切ると、湿った近さが黒い線の奥へ退き、左壁へ向かう細い枝が露出した。門はすぐ命令の形へ変わり、「名を呼べ。誰を戻す」と天井を擦った。
ラウルは左壁へ這い始めた枝を一度だけ見て、それでも黒い線へ半身を入れた。追おうとしたテオには別の筋が先回りし、マルヤは兄の名を呼ばず、袖をつかむ力だけで止める。
「ここでは、あの人を追わないで」
マルヤが袖を離しても、テオは動かなかった。追う一歩が誰かの声を外へ通すと分かっている。ラウルはその沈黙を見届け、残る片脚も門へ運んだ。焦げた外套が細い闇へ沈み、背中まで見えなくなる。
「誰を戻しますか」
最初の問いがまた来た。今度は部屋を満たさず、ラウルが解いた核の冷えと一緒に円形の溝から左壁へ滑っていく。床、壁、神殿の石の奥が順に鳴り、ヨルの鼻先はラウルではなく町へ向いた。
井戸、物置、石橋、古い塀。声が使ってきた町の傷が一本につながり、その先に小屋診療所が浮かんだ。
「声の道が町へ伸びた」
マルヤが息を飲む。
ノラは走り出さなかった。声は足より速く、もう町の傷から戸の隙間を探している。ミミのもとへ向かえば、ここにいる全員と、町へ伸びる根を残すことになる。
「小屋へ行かないの」
マルヤの声は、責めるものではなかった。行けない理由を、分かりたくないまま聞いている声だった。
「行っても、声の方が先に着く」
白い筋の先端は割れ目から割れ目へ移るが、町へ向かう枝はすべて溝の左端へ集まっていた。テオの目はラウルの消えた奥を追い続けても、足は動かない。
ノラはその合流点へ膝をついた。
「この声の道を、ここで切る」
ヨルの鼻先が左の石目を一度叩く。ノラはそこへ刃先を寝かせ、根を石から浮かせるように差し込んだ。いま門を閉じる刃ではなく、町への道を塞ぐ栓にする。ラウルを追う道も門も残る代わりに、最初の声を戸へ着かせない選択だった。
切断の意図を察したように、黒い線の向こうで何かがこちらを向いた。
「誰を戻しますか」
誰かを思い出させ、切る手を止めるための問いだった。
マルヤが記録帳を抱え直した。兄の名は出さない。歯を食いしばる音だけが、近くにあった。
テオも声を出さなかった。
ラウルの背中はもう見えない。それでも、追うための足を踏み出さなかった。
ノラは体重を刃へ預けた。筋は切れず、代わりに刃を石目へ噛み込ませる。完全に断てなくても、町へ走る根をここで塞ぐためだった。柄から上がる冷えが骨の奥へ達する。
町の方で、何かが戸を探している。
ノラは声を出さず、刃を栓にしたまま動かなかった。
小屋診療所の戸が、内側から小さく震えた。




