第62話 残っている核
助祭が祈祷布を噛み直したのを確かめ、ノラ・ヴェイルは床の灯りを前へずらした。
テオはもう奥へ半歩出ている。マルヤは記録帳を抱えたまま、その足元を見た。
「足元を見て」
テオは唇を結んだ。
反論はしなかった。けれど、目は奥へ行っている。ラウルを追いたい足が、白い筋の手前で止まっていた。
ヨルは低く体を沈め、床の継ぎ目を嗅ぎながら、黒い鼻先を横へ逃がして踏める場所を選んだ。ノラはその後ろへ続いた。
朱い布のさらに奥は広くなく、白い壁も整えられた棚もない、石のままの部屋だった。ただし床だけが妙に丁寧に削られ、中央の円形の溝から細い線が四方へ伸びている。祭壇にしては作業の跡が多く、作業場にしては祈りの向きが揃いすぎていた。祈ることと何かを切り分けることを、同じ手順にした場所に見えた。
溝の縁には、小さな封じ布がいくつも置かれている。布はどれもきつく巻かれ、朱印を押され、白い筋で棚ではなく床へ結ばれていた。
中身は見えないのに、煤、錆、綿、湿った石、古い布を閉め切った部屋へ置き続けたようなぬるい匂いが、封じ目から順に漏れていた。ヨルが一つずつ確かめては鼻先を横へずらす。その拒み方と、布の下からにじむ食われた声の冷えを重ね、ノラはこれが空の容器ではないと悟った。
「まだ空じゃないものがある」
テオが低く言った。
ノラは聞き返さなかった。
その言い方だけで、ここに何が残っているのかを察するには足りた。
円形の溝の右手には神官が二人いた。一人は祈祷布を握ったまま崩れ、もう一人は倒れた同僚と溝の間に立っている。顔を青くしながら布を胸へ抱く姿は、助けを待つ者より、与えられた祈祷役から逃げられない者に見えた。
「止めないでください」
助けを拒む声ではなく、自分が手を離せば倒れた同僚まで無駄になると恐れる声だった。
ノラが「誰に言われた」と聞くと、神官は名を口にせず、壁に濃く残った大司祭印を見た。
「祈りを止めれば、大司祭の奇跡が途切れると」
ノラは、円形の溝を見た。
溝の奥で、白い筋が細く動く。今の言葉を聞いていた。続きがあるなら欲しがっている。
「奇跡のために、誰の声を使う」
神官は円形の溝から目を上げられず、握った祈祷布の端だけが一筋裂けた。
円形の溝を挟んだ正面奥では、ラウルが封じ布の前に立っていた。焦げた外套の裾が石の床に触れ、さらに裂けた手袋から黒く焼けた指先がむき出しになっている。神官もノラも見ず、目の前の封じ布だけを見ていた。
ほかの布とは違った。
古びていない。朱印が濃い。ほかの封じ布から床を這ってきた白い筋が、その印の下で束になり、ほどけまいとして細く震えている。
ラウルの指が、その布へ触れた。
「これなら足りる」
テオがすぐに言った。
「俺にそれを足すな」
ラウルは振り返らなかった。
「足りなかったから、お前はそうなった」
部屋の空気が、そこで薄く張った。何が足りず、何を足され、戻ったはずのテオに何が戻っていないのか。答えを記す癖のあるマルヤの指が記録帳の留め紐へかかった。だが今は一字も帳面へ渡すまいと、ほどけかけた紐を固く結び直した。
ノラはラウルへ言った。
「その話は外でやれ」
「外で済むなら、ここまで来ていない」
ラウルの親指の下で、濃い朱印の縁がひび割れた。同時に、右壁の神官が震える手で祈祷布を掲げる。ラウルを止めるためではない。教えられた唯一の守り方へ戻ろうとする動きだと気づいた時には、もう唇が動いていた。
「大司祭の――」
待っていた円形の溝が薄く鳴り、神官の靴先へ筋を伸ばした。ノラは切れば声まで傷つけると見て、短剣ではなく腰の布を投げる。神官は受けても噛まず、祈りを止める方を恐れて押し返しかけた。
そのためらいへ、溝が本人の声で続きを足した。
「奇跡が途切れる」
自分の祈りを先回りされ、神官の顔が白くなった。
「続けたら、次は全部取られる」
円形の溝を越えれば、ラウルの手が封じ布を裂く前に届くかもしれない。だが、その一歩を使う間に目の前の声は取られる。朱印から白い糸が一本ずつ抜け始めるのを見ながら、ノラは神官の手首をつかみ、布を歯の前へ押し上げた。
間に合わなかったのではない。ノラは目の前の声を残す方を選び、ラウルへ届く一歩を使わなかった。
「噛め」
神官は、何が途切れるかを知った上で布を噛んだ。命令へ従う手を、自分の声と同僚を残す手へ変え、ノラが顎で示すと倒れた者のそばへ膝をついた。同僚の胸が一度大きく上下するまで、彼は大司祭印へ目を戻さなかった。
テオがラウルへ向かおうとした。
足元の白い筋が、すぐに動く。テオの靴先へ触れようとする。呼び止めるものではない。足の裏から、声の重さを測ろうとする動きだった。
マルヤは記録帳を脇へ挟み、空いた手でテオの袖を掴んだ。帳面が脇腹へ食い込んでも、手は離れない。
テオの足が止まる。
その間に、ラウルが封じ布を裂いた。
封じ布は、濡れたものを無理に剥がす音を立てて裂けた。朱印が割れると、そこへ束ねられていた残りの核から一斉に冷えが漏れ、円形の溝へ流れ込む。別々に封じられていたものがラウルの開けた一点でつながり、溝は内側から黒く染まった。
その合流した先で、壁に黒い縦の線が走る。扉にも穴にも見えないのに、向こう側の何かがこちらの返事を待っていることだけは分かった。
右壁で神官の歯が鳴ったが、布を押さえるのは今度は自分の手だった。音だけが残り、言葉にはならなかった。
黒い縦の線の向こうから、誰かが言った。




