第61話 朱い布の奥
朱色の布が、風もないのにもう一度膨らんだ。
「祈りを止めるな」
二度目にも、声の持ち主は見えなかった。
ノラ・ヴェイルが入口側を見ると、エリオは布を噛んだ記録係と、鍵束を抱く見習いを下げる列に残っていた。朱色の布へ一度だけ目を向け、それでも離れず、外套の端だけを上げる。灰鷹はその合図で二人を白い部屋より外へ下げた。
ヨルが朱色の布を嗅ぎ、嫌そうに鼻をそらした。それでも先頭を譲らない。
テオは白い筋の手前で足を止め、マルヤは記録帳の文字を自分の胸側へ伏せた。追う者、残す者、道を選ぶ者が、それぞれの手を先に決めた。
ヨルが先に朱色の布をくぐった。
布の内側には、神殿の表で焚かれる香の匂いが残っていた。花と樹脂を混ぜた、清潔に見せるための匂い。その下に、湿った布と古い石の匂いがある。
朱色の布を境に部屋の作りが変わり、白い部屋の裏で見た木枠も、ここまでは続いていなかった。黒ずんだ石壁そのものが別の役目を負い、途中で磨きをやめた床には、乾いたものと湿ったものが混じる古い祈祷布の繊維が貼りついている。
棚の代わりに壁へ打ちつけられていたのは、「帰還祈願」「応答待ち」「祈り継続」「大司祭印」とだけ記された短い札だった。どの札からも名前だけが削られている。それでも並びを追えば、祈らせ、待たせ、返事があるまで止めさせなかった手順は読めた。人を戻す部屋ではなく、人の声が尽きるまで待つ部屋だった。
ノラは札を長く見なかった。
「見せる場所の奥が、これか」
テオが低く返す。
「見せる前に、待たせる場所だ」
マルヤは何も言わず、手の中で紙を少し歪めた。
部屋の左壁には、外門の見習いより一段上の印を袖につけた若い助祭が膝をついていた。口布を噛みながら、片方の爪で石を一定の間隔に叩いている。視線は「祈り継続」と「大司祭印」の札を往復していた。祈りの文句を言えなくなっても回数だけは続けろ、止めれば帰還は失われると教え込まれた手だった。
ノラたちを見た助祭の歯が布から浮く。
「止めたら」
朱い布の奥が、同じ声で続きを待った。
助祭は大司祭印へ伸ばしかけた手を途中で返し、口布の端を拳へ巻いた。自分で奥歯まで引き込み、爪も石から離す。石を叩く音が途切れた。助祭は戻らないものを見るように札を見つめたが、それでも手を再開しなかった。壁の札が薄く鳴った。
袖の下へ入りかけた筋だけをノラが短剣の背で布束側へ戻し、右壁沿いの道を空ける。近づきかけたマルヤも、床の筋を見て自分から足を戻した。
テオは奥の壁を見ていた。
「ここは、祈りをしまう場所じゃない」
ノラは助祭の布を確認しながら答える。
「続けさせる場所だね」
ノラは助祭のそばに落ちていた朱印の札を、短剣の背で布の上へ寄せた。指では触れない。札の端に、乾いた白い筋が絡んでいる。動かされたことに気づいたように、壁の奥が小さく鳴った。
ヨルが奥へ鼻を向けたものの、右の壁から床の継ぎ目へ移るたび、黒い鼻先は嫌そうに横へ逃げた。避けた煤の先に錆があり、その下から綿、湿った石、閉じ込められた古布の匂いが重なる。煤釘や赤錆の残りだけではなく、ニカを助けた物置の枝口まで、これまで別々の迷宮で嗅いだものが薄められ、ここ一か所へ集められていた。だからヨルは、追うべき一つを選べずにいる。
ヨルが奥の石目へ爪を立てた。
「クル……」
低い鳴き声だった。
テオが言う。
「一つじゃない」
ラウルの足音はさらに奥で鳴った。それでもノラは灯りをそちらへ向けず、ヨルが爪を立てた石目へ寄せた。
石の向こうで、まだ声にはなっていないものが待っている。誰かの名を聞く前の静けさ。誰かが返事をする前の湿り気。口を開く者を待つ気配が、部屋の奥に溜まっていた。
「もう、始められるところまで来てる」
奥の石目が低く鳴った。
まだ門ではない。けれど、戸口の向こうで誰かが息を整えたような音だった。
マルヤの指が、記録帳へ食い込んだ。
ノラは床の灯りをマルヤから少し遠ざけ、壁の札を視界から外した。
「見なくていい」
マルヤはノラを見なかった。
「見たいわ」
「今は見ない方がいい」
「分かってる。だから腹が立つのよ」
奥の石目が、かすかに鳴った。名を待っていたものが、取れなかった音だった。
その時、奥からラウルの足音がした。迷いなく進んだ足が何かの前で止まり、布を払う音に、湿ったものへ触れた嫌な粘りが混じる。テオの足は考えるより先にそちらへ出たが、靴先で揺れる白い筋を見て、自分で止めた。ヨルが筋のない石目へ鼻先を移すまで、弟との距離が開く音を聞いたまま待った。
助祭は口布を噛んだまま、拳に巻いた端をわずかに上げた。ノラは朱い布の方へ二本指を向け、入口へ「一人、迎えが要る」と手だけで送る。戸口から戸口へ合図が返り、助祭は目でうなずいた。祈りを止めても、自分を連れ出す人間は来る。その違いを確かめるように、拳を握り直した。
朱色の布のさらに先で、低い響きが動く。
助祭はもう手を止めている。それでも布の向こうでは、さっきと同じ間隔で石を叩く音が続いていた。止めた祈りさえ写し取り、回数だけを重ねさせる音だった。
助祭は動いていない自分の爪を見て、拳ごと口布の中へ隠した。音だけが、彼を置いて先へ進んだ。




