第60話 呼ばなかった名
ラウルが消えた裂け目には、焦げた布の匂いと、喉の奥へ返事を作らせる低い響きが残った。
ノラ・ヴェイルは入口側を見る。エリオは布を噛んだ記録係の前に残り、遠い入口の見習いも灰鷹の手信号で留めていた。
ノラは言った。
「あんたの声は、入口側の人を動かせる。ここから先へ持ち込めない」
エリオの目は奥の裂け目へ一度だけ動き、それでも記録係の前から退かなかった。
「灰鷹は入口を押さえます」
最寄りの戸口へ送った手の合図が、灰鷹から灰鷹へ渡った。
ヨルが裂け目の前で鼻を低くし、前足を引いた。
ノラは短剣を握り直す。
「行く」
テオが先に動いた。
ノラは灯りを横から差し出し、テオの進む道を塞いだ。
「先にヨル」
テオは唇を結び、反論せずに床の筋を踏む寸前で足を止めた。
マルヤは記録帳を胸元に抱え直した。ノラはそれを見てから、裂け目をくぐった。
奥は白くなく、狭い部屋だった。
壁は石のまま、ところどころ黒ずんでいる。床の磨きも途中で途切れ、足元には古い布の繊維と乾いた白い筋が絡まっていた。人の胸ほどの木枠が、壁に沿って並んでいる。
空の棚。割れた札。朱印だけが残った木枠。乾ききった封じ布。
ノラは灯りを少し上げる。
「見せる場所の裏が、これ」
マルヤは答えなかった。
怒りを言葉にすれば、この部屋はそれも拾う。マルヤは記録帳の表紙だけを強く押さえた。
テオは、一番奥を見ていた。
そこに、ラウルがいた。
黒く焦げた外套の裾が、石の床に触れている。手袋はさらに裂け、指先の焼け跡がむき出しになっていた。ラウルは奥の棚の前に立ち、封じ布へ手をかけている。
その棚だけが違っていた。
他の棚の布は古い。黄ばみ、端がほつれ、朱印も乾いている。触れれば粉になるようなものばかりだった。
だが、ラウルの前の布には埃がなかった。
朱印はまだ濃い。布の端には湿り気があり、灯りを近づけると、細いものが奥で動いた。誰かが今も触れ、閉じ直し、そこにあるものを空にしないよう保っている。
朱印の中央に、丸く太い印があった。
大司祭印。
治療所の申請紙にも、見せる部屋の額にもあった印。
エルマン・オーリス。
サイラスの部屋で見つけた紙片と同じ名が、空でない棚を守っていた。
ラウルの口元には、ずっと探していたものへようやく指が届いた執着だけが浮かんだ。だから余計に危なかった。
「まだ空じゃない」
テオが即座に言った。
「その布に触るな」
ラウルは振り返る。
兄を見る目ではなかった。敵を見る目でもない。何かを証明しようとして、証明の相手に拒まれた人間の目だった。
「お前に足りなかったものだ」
「いらない」
「お前が決めるな」
「俺のことだ」
ノラはマルヤの前に立たなかった。
マルヤの爪が記録帳の留め紐を探り、空振りして表紙を擦った。短いやり取りの間に一度だけ息を吸ったが、名は出ない。二度目の指先で留め紐をつかみ、指の中へ巻き込んだ。
ほかの棚には整えられた声が残っているのに、奥の棚だけが黙っている。それが、かえって嫌だった。
ノラは棚を見た。
「ここだけ、喋らない」
テオは視線を外さずに言った。
「返事をさせる前に、しまう場所だ」
「何の返事を待ってる」
テオの喉が動いた。
答えようとしたのだろう。だが、言葉は出なかった。ここで答えれば、その答えごと取られる。そういう場所だと、テオ自身が知っている。
ヨルは棚の前へ行き、空の棚や割れた札ではすぐに鼻先を離した。だが、大司祭印の棚では、いったん棚から外した鼻先をその奥の壁へ向け、横へずらしながら低く喉を鳴らした。
「クル……」
「中じゃない。裏だね」
ヨルは鳴かず、壁の下の石目へ爪を立てた。石の隙間から、冷えた煤や焦げた石よりも湿った気配がにじんでいる。誰かの返事を待ち続けた気配だった。
その時、壁の向こうから音がした。
「名を呼べ」
誰の声でもない。神官にも、記録係にも、古い祈祷文の声にも聞こえる。聞いた者が、勝手に顔を当てはめてしまう。
マルヤは照合紙の端を、記録帳の奥へ押し込んだ。
テオは壁の向こうを見たまま動かない。
ラウルだけが、名になる前の息を吸った。
ノラは言った。
「呼べば、そっちへ取られる」
ラウルがノラを見た。
「黙れ」
「黙るのはあなた」
壁の向こうが、今度はテオの声で言った。
「ラウル」
テオ自身の口は閉じていた。
それでも、声だけが壁から出た。息がない。けれど、名を呼ぶ形だけは正確だった。
ラウルの目が揺れ、一瞬だけ、振り向けば兄がいると信じた頃の表情がのぞいた。自分の声で弟の名を呼ばれたテオも体が先に反応し、呼ばれた名の先へ視線だけを動かした。
ノラは短く言う。
「返すな」
テオは口を閉じた。
ラウルの手が、封じ布へかかった。
「そこにあるなら、使う。足りないなら、足す」
テオが前へ出る。
「俺のためなら、やめろ。俺を作り直すな」
ラウルの顔が崩れかけた。
怒りより早く、言われたくない言葉を言われるべき相手から突きつけられた痛みが走った。
「お前がそれを言うな」
「言う。俺の声で言う」
壁の奥が、低く鳴った。
言葉を欲しがっている。今の声を、そのまま棚に縫いつけようとしている。床の石目から細い筋が伸び、テオの足元へ向かった。
ノラは即座に踏み込む。
「続けるな。今のも取られる」
テオは口を閉じた。
その沈黙の隙に、ラウルの指先から黒い熱が走った。
封じ布が焼ける。
朱印が歪み、布の端が黒く縮んだ。床の筋が悲鳴のように震える。けれど、声にはならない。ここはまだ、声になる前のものを抱えている。
棚は開かなかった。
鍵でも印でもない開け方を拒むように、奥で何かが軋んだ。
だが、木枠が割れた。
湿ったものを無理に裂く音がした。木の奥に別のものが貼りついている。ラウルはそれを焼き切り、腕を押し込むようにして割れ目を広げた。
灯りを向けても、奥は光を受け取らない布のように黒い。
ヨルが強く鳴いた。
「クルッ」
ノラは床の筋から身を引く。
その直後、壁の向こうからまた響きが来た。
「名を呼べ」
今度は近かった。
響きは喉の内側へ触れ、誰かの名を呼ぶ寸前の息だけを探ってくる。音を持たないのに、体が声を作ろうとする。
マルヤが目を閉じた。
マルヤは呼ばなかった。
テオはラウルを見ていた。
ラウルもテオを見ていた。
ラウルが割れた棚の奥へ足を入れようとする。
ノラは床を選んで踏み込んだ。
だが、床から伸びた筋がテオの足元へ絡む。テオが動けば、声を拾われる。ラウルへ向かうための足が、兄の名を呼ぶのと同じ働きをしてしまう。
ノラはラウルではなく、テオの足元へ短剣を落とした。
白い筋を切る。
筋は刃を避けるように縮んだ。だが、完全には逃げきれない。切れた端が床で震え、薄い声になりかける。
「戻——」
ヨルが飛びついた。
白い筋を噛む。小さな体が床に沈むように低くなり、喉の奥で唸った。続きは作れない。壁の向こうが、足りない音を探して蠢く。
ラウルがノラを見た。
「また、そっちを選ぶのか」
ノラは短く返す。
「その声を取らせない方を選ぶ」
ラウルは笑いもせず、怒鳴りもせず、ただ、その目から何かが遠くなった。ノラを見ているようで、見ていない。止める者が誰であれ、自分は進むと決めた目だった。
テオが前へ出る。
ノラは止めようとした。だが、テオは呼ばなかった。
「俺を戻すために、誰かを足すな」
棚の奥が、すぐにその言葉を返そうとする。
「戻そうと——」
ヨルがさらに白い筋へ爪を立てた。
音が切れる。
テオの声は、ここでは渡りきらない。
ラウルは割れた棚の奥へ身を滑らせた。焦げた外套が、闇に触れた瞬間、黒い布よりも濃い影に飲まれる。最後に見えたのは、焼けた指先だけだった。
テオの喉が動く。
マルヤも、記録帳を抱く腕に力を入れた。
ラウルの名は、ここには落ちなかった。
ノラはすぐには追わず、後ろを見た。
白い部屋の入口側では、エリオがまだ記録係を押さえ、さらに外では灰鷹が見習いを守っている。
守れたものはある。けれど、奥への道は開いた。
割れた棚の内側で、朱色の布が揺れていた。
大司祭印と同じ色だった。神殿の表で見る祈祷布よりも深い、乾いた血に似た朱。その奥から、初めて別の言葉が聞こえた。
「祈りを止めるな」
誰の声かは分からず、ノラは決めつけなかった。ただ、その言葉が出た瞬間、割れた棚の朱布が一度だけ大きく膨らんだ。
祈りを続けるための場所がある。
声を止めさせないための奥がある。
今分かるのは、それだけだった。
ノラは灯りを持ち直した。
「次は、そこ」
ヨルが白い筋を離し、口元を震わせるように鳴いた。
「クル」
マルヤは記録帳を閉じた。
テオは割れた棚の奥を見たまま動かない。呼ばなかった名が、喉の奥でまだ熱を持っていた。
ノラは、その顔を見なかったことにはしなかった。
「行くなら、声をここに置いていかないで」
テオは少し遅れて、ノラを見た。
「置けるものならな」
「置きそうなら、噛んででも止める」
ヨルが小さく鼻を鳴らした。
テオは笑わなかった。けれど、返事の代わりに半歩下がり、床の筋を踏まない位置へ立った。
入口側で、エリオがようやく短く言う。
「奥へ進む人数を、絞ります」
ノラはうなずいた。
割れた棚の奥では、朱色の布がまだ揺れている。
その向こうで、ラウルの足音はもう聞こえなかった。




