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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第14章 奇跡の正体
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第59話 不足の札

挿絵(By みてみん)

剥がれ落ちた「不足」の札から、白い筋が棚の奥へ引かれていた。背後ではエリオが布を噛んだ記録係を壁際へ留め、遠い入口の見習いも灰鷹の手信号だけを見て鍵束を抱えている。


ノラ・ヴェイルは灯りを拾い、短剣を持ち直す。ヨルが鼻先を向けた奥へ進むと、テオと、記録帳を抱くマルヤが続いた。二人とも名は呼ばなかった。


その一番奥の棚の前に、ラウルが立っていた。


焦げた外套の裾が、床の白さの中で黒く浮いている。手袋は裂け、指先の黒く焼けた跡が見えていた。片手で棚の札をつかみ、もう片方の手を奥の封じ布にかけている。


棚には、空になった区画、割れた札、朱印だけのもの、文字を半分削られたものが並び、処置の失敗だけを互いに区別できない形へされていた。その中でラウルが握る札だけは、まだ白い筋を端へ巻きつかせている。


「それ以上、剥がすな」


ノラは言った。


ラウルは振り返らなかった。


「漏らしたのは神殿だ」


「その札を奥へ運べば、漏れは広がる」


ラウルの指に、黒い熱が走った。札の端がじり、と焦げる。白い筋が縮み、祈祷布の下で何かが小さく息をした。


ノラは踏み出す。


足元の石は白く磨かれている。けれど、隙間には細い筋が這っていた。ヨルが先に床を嗅ぎ、踏んでいい石を鼻先で示した。


ラウルが札をこちらへ少し向けると、「不足」「認定待ち」「大司祭印」の断片だけが読めた。その横には「核」とも見える消えかけた字があるが、続きは黒く焼け、線の端しか残っていない。ラウルの親指は欠けた文字を何度も擦り、読めない続きがある奥へ札の先を向けた。


マルヤの視線はそこへ吸い寄せられたが、すぐに目をそらした。


読めば、喉が動く。喉が動けば、この場所は待つ。


テオは札を見たまま、顔色をなくしていた。


ラウルが言う。


「足りなかった。だから、あいつは戻りきらなかった」


テオは短く返した。


「俺に足すな」


ラウルが初めて振り返った。


目の奥に、火のような怒りはなかった。もっと古い。消えない炭が、ずっと同じ場所で熱を持っているような目だった。


「それで済むと思っているのか」


「済まなくても、もう足すな」


棚の奥が細く鳴った。


棚は、ラウルの怒りでもテオの痛みでもマルヤの問いでも構わず、喉から出たものを「不足」を埋める材料として拾おうとしている。


ノラは短剣を下げたまま言う。


「話すなら外で。ここは、言ったものを残す」


ラウルは返事の代わりに、札を握る手にさらに力を込めた。


白い筋が切れた。


棚の奥から、声が漏れた。


若い女の「見えました」に、年寄りの男の「戻りました」、さらに「奇跡です」が続く。どれも泣き声や叫びから揺れを削り、祈りの場で求められた返答の長さへ整えた、紙に残しやすい声だった。


白い棚の奥で、いくつもの声が薄く重なっていく。


入口側の若い記録係が震えた。布を噛んでいる口元に力が入る。外門の見習いは、鍵束を抱えたまま顔を上げた。


エリオは声を出さず、すぐに動いた。片手で記録係を壁際に押さえ、もう片方の手で見習いに動くなと合図した。


その時だった。


棚の奥から、エリオの声がした。


「入口側へ下がってください」


見習いの肩が跳ねた。何度も彼を危険から離してきた、現場を乱さず人を安全な場所へ移す声だった。だが、その声は棚の奥から来た。見習いは指示の主を確かめようと、棚の方へ足を出しかける。エリオ自身も、奪われた指示が誰を動かすか悟って棚を見た。


棚は続ける。


「声を出した人は、一人にしないでください」


若い記録係が顔を上げた。布を噛んだまま、誰かを探すように目を動かす。エリオの声だ。現場の者なら従うべき声。自分を助けようとしていた人間の声。


だが、声は棚の奥から来ていた。


エリオが「ちが――」と否定しかけた瞬間、ノラはその肩をつかんで自分の方へ強く引いた。エリオの視線が棚から外れた。


奪われたのは音だけではなかった。見習いがエリオの命令なら従うと覚え、記録係がその声なら助けに来たと信じた時間まで、棚は使っていた。自分が築いた服従が、自分の喉を離れて人を危険へ歩かせる。エリオは叫んで否定する代わりに、途中まで出た一音を歯の裏で止めた。


「声じゃなく、手で止めて」


エリオの右手が喉元まで上がり、そこで外套へ向きを変えた。襟の留め具を外し、片側を高く掲げる。入口側で号令を待っていた二人がその布へ顔を向け、一人は上げかけた足を下ろし、もう一人は口布を歯へ戻した。


灰鷹たちが同じ形を継ぎ、黒い裾が記録係と見習いの前に壁を作った。エリオは片手で下がるなと示し、もう片方で記録係の肩布をつかむ。縫い目が軋み、足が止まった。


棚の奥が、途中で切れたエリオの声を返す。


「ちが……」


それ以上は続かない。


ヨルが棚の下へ飛び込んだ。白い筋が床の隙間から伸び、エリオの声の方へ細く走っている。ヨルはそれを鼻で探り、歯を立てた。


「クルッ」


短い鳴き声と同時に、白い筋がぴんと張った。切れずに伸びるその先で、棚は命令どおり誰かが動くのを待っている。


ノラが目を上げると、ラウルはまだ走れば背へ届く距離で奥の扉へ向かっていた。しかしエリオの口元は固く、見習いは鍵束を抱え直し、記録係も布を噛んだまま次の指示を待っている。ここで灰鷹の声を道具にされれば、追いついても後ろが崩れる。


ノラは刃を使わず、ラウルではなくエリオと棚の間へ入った。エリオは外套を閉じ、片手を水平にして「動くな」の形を保つ。入口まで誰一人、棚から来た指示に従わない。その時間が続くほど、ヨルの歯の間で筋は張りを失い、棚の声も次へ渡る相手をなくした。


ただし全員の手と視線が奪われた声を止める方へ向いた一拍で、ラウルの足音だけは奥へ一つ進んだ。エリオの目は追えない背中へ動きかけ、目の前の二人へ戻る。片方の唇が開けば、震える外套の端をさらに高く張った。奥で二つ目の足音が消えても、その布は下がらなかった。


テオはラウルの背を見ていた。


弟の名を呼べば、振り向くかもしれない。テオの唇はわずかに開き、声を待つ棚の前で閉じた。


ラウルは奥の扉の前に立った。


扉は白くなかった。何度も塗り直された板の上に、古い鉄が貼られている。文字のあった場所は削られ、読める名はない。ただ、中央の札に朱色の印だけが残っていた。


大司祭印。


遠い入口側で、外門の見習いが息を飲む音がした。


付き添う灰鷹の外套が、少しだけ動く。見習いから奥を隠すよう、その縁を上げた。見せれば、何かを言わせる場所だ。見せないことも、今は処置だった。


ラウルの手から、黒い熱が扉の継ぎ目へ入る。


鍵は回らない。扉も正しくは開かない。だが、鉄板の端が黒くなり、祈祷布が縮む。継ぎ目に細い裂け目が走った。


奥から漏れた低い響きは、声でも祈祷文でも、誰かの名前でもなかった。けれど、聞いた者の喉の奥に返事の形を探させる響きだった。


見習いの鍵束が、小さく鳴った。


付き添う灰鷹が声を使わず、手で止める。見習いの手首へ軽く触れ、鍵束を胸元へ戻させた。


記録係は布を噛んだまま、目を閉じた。


ヨルは棚の下で白い筋をくわえ、低く唸っている。


ノラはエリオの前から動けなかった。


ラウルは裂け目へ身を滑らせる。焦げた外套が、白い部屋の奥へ消えていく。


テオもマルヤも名を呼ばなかった。


そのかわり、ラウルの背だけが、割れた扉の向こうへ消えた。


割れた扉の向こうで、ラウルの踵が一度だけ石を打った。二度目は届かなかった。低い響きだけが残り、テオの開きかけた唇を内側から震わせた。


入口側で、見習いは声の出た棚と、生身のエリオを交互に見た。エリオは喉へ上げた手を外套へ移し、端を横に張る。指が震えて布も細かく揺れたが、見習いは棚の命令ではなく、その震えへ目を留めた。エリオは目が合うまで手を下ろさない。奥で消えた足音を追う号令は、最後まで喉から出なかった。


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