第52話 返りの間
「外門の内側から、僕の声も聞こえました。ここで下がったら、次に誰が開けるのか分かりません」
ノラは見習いの胸に抱かれた鍵束を見た。下がらないのは勇気だけではない。自分が開ける役目を誰かに渡せば、その誰かも声に狙われると分かっている。
「必要なことだけ、私か灰鷹を見て言って。奥へ向けない」
見習いはすぐ「はい」とうなずいたが、「名を呼ばれても、口を開かない」と続けられると、その決意が自分の名まで試されるのだと悟り、返すまでに少し時間がかかった。
「……分かりました」
「分からなくても、先に守って」
見習いは唇を結び、溝へ足を下ろした。ノラとヨルが先に入り、テオ、見習い、エリオが続く。鍵を持つ少年を中央へ置いた並びは、案内役として進ませながら、前後どちらから声が来ても一人にしないためだった。
排水路の中は、神殿の白い外壁とは別の場所だった。
石は古く、壁のつなぎ目には黒い水の跡が残っている。天井は低い。灯りを掲げても、先までは見えない。足元の溝には泥が薄く残り、ところどころに小さな札が引っかかっていた。
木札。金属札。油紙の切れ端。
水で流されたのではない。誰かが落とし、拾われないまま溜まったように見えた。
見習いが一枚に手を伸ばしかける。
「触る前に見るだけ」
ノラが言うと、見習いの指が止まった。
札には、薄れた墨で文字があった。名前らしい。だが半分は削れ、残った字も水でにじんでいる。
エリオが身をかがめた。
「神殿の持ち物ですか」
「検分具の札だと思います。古いものは、奥の部屋へ運ぶと聞いています」
「奥の部屋?」
見習いは一度、入口の方を見たが、もう神殿側の男の姿はなかった。
「詳しくは知りません。検分のあと、外へ出す前に一度置く場所だとだけ」
ノラは聞く。
「その場所の名は」
見習いは場所の名を明かすべきか迷ったが、その沈黙を急かすように奥から石を引っかく音がした。ヨルが耳を伏せて音の方へ鼻先を向けたため、危険を隠す方が遅れを生むと悟り、見習いは鍵束を胸へ引き寄せて小さく答えた。
「返りの間、と」
テオの足が止まった。
ノラは振り返る。
「知ってる?」
テオはすぐには答えなかった。灯りの外の暗がりへ、言葉の向こうを探るように目を凝らしている。
「名前だけだ」
排水路は少しずつ広くなった。
水を流すための溝のはずなのに、途中から床が平らになっている。荷を置ける幅がある。壁には古い鉄輪が打ち込まれ、何かを引いた跡が黒く残っていた。
ヨルは角の手前で耳を伏せ、鼻先を床近くへ落として止まった。目より先に生きた匂いを確かめさせるため、ノラも灯りを低く持ち替える。
「生きてる?」
ヨルは一度だけ、短く鳴いた。
角を曲がると、若い神官が倒れていた。
外門の見習いとは別の者だった。神官服の袖が泥で汚れ、肩には検分道具を運ぶための革紐がかかっている。顔色は悪いが、胸は動いていた。
問題は右手だった。端の焦げた古い金属札を、切れた紐ごと握り込んでいる。名は読めそうで、灯りの角度が変わるたび消えた。ノラは膝をつくと、札より先に呼吸と首元を確かめる。大きな出血はないが、頭を打った痕があり、左手の爪は石を掻いて割れていた。意識を失うまで、名札だけは持ってここまで這ったのだろう。
倒れた神官のまぶたが震えた。
「読まなきゃ」
「読むな」
ノラが口元へ手をかざすと、神官は名札を握り直した。名をなくすまいとする力が、助ける手まで拒んでいる。札が灯りを返した一瞬、テオの顔が変わったが、ノラは知っている名かとは聞かなかった。
奥から「ここにいる」と、男にも女にも子どもにも聞こえる声が這ってきた。見習いが確かめるように息を吸うと、エリオは自分へ顔を向けさせる。
「俺を見て。名は見ない」
倒れた神官の唇が刻みを追いかけ、声になる寸前で閉じた。
「記録しないと、分からなくなる」
「紙に写す。声にしない」
エリオは薄紙を名札へ滑らせ、灯り皿の煤をつけた布で紙の上を静かにこすった。刻みの高いところだけが黒く残り、誰の喉も動かないまま、失われかけた名が紙へ浮かぶ。
神官は紙に現れた字を見届けると、自分から清潔布を取り、奥歯へ入れた。名札を握っていた指もようやく開く。ノラは焦げた札を包み、エリオは薄紙を折って胸元へしまった。
ヨルがさらに先へ走り、暗がりの手前を爪で掻いた。
ノラが顔を上げると、排水路の先に小さな扉があった。
神殿の正面にある白い門とは違う。人が見に来る場所ではない。古い木に鉄を打ち、外から何度も塗り直した跡がある。取っ手だけが新しく、触られ続けていた。
扉の上には、塗り直された取っ手よりはるかに古い字の札が掛かっていた。
返りの間。
名しか知らなかった場所の前で外門の見習いが息を引き、エリオは胸元の写しを手で押さえたまま、呼吸が声に変わらない間を置いてから扉を示した。
エリオは神官を背負い、外で待つ灰鷹へ預けて戻った。その往復のあいだ、奥で金属が二度鳴る。一度目は近かった。二度目は、さらに奥から聞こえた。
奥の扉の向こうで誰かが話し始めたが、助けを求めも名前を呼びもせず、ただ記録を紙から読み上げるような乾いた調子だった。
「戻り一名。発声あり」
テオの手が、扉の横の石へ伸びた。
そこには、古い印が薄く刻まれていた。読むというより、指で確かめようとする手つきだった。
ノラはその手首を止めた。
「今は、触るな」
テオの目が、扉から離れない。
その時、さらに奥から、焦げた石の底を通ってきたような低い声がした。
「まだ、終わっていない」
ラウルだった。
テオの体は考えるより先に前へ出かけたが、ノラは手首を離さなかった。名を呼ぶ代わりに追いつこうとした一歩も、この部屋には返事として拾われかねない。
「その声を追うな。奪われる」
テオは声を出さなかった。
扉の向こうで、記録を読む声だけが、もう一度続いた。
「発声あり」
ヨルが低く唸った。




