第53話 内側から返る声
後送された神官の名札を布に包んだまま、ノラ・ヴェイルは「返りの間」と札の掛かった扉に向き直った。エリオは写し終えた紙を胸元へしまう。
扉の向こうから、乾いた声がした。
「戻り一名。発声あり」
同じ文だった。
先ほどから繰り返されている、記録の声。そう思えば済むはずだった。けれど、二度目は少し違った。
「戻り一名。発声あり」
声の端が、後送した神官に似ていた。
外門の見習いが、鍵束を抱えたまま顔を上げる。
「今の、さっきの人の……」
「俺を見て。奥を見ない」
エリオが早く言った。
見習いは反射的にエリオを見た。頬に血の気はない。鍵束を握る指だけが、金属の輪を鳴らしている。
扉の向こうが、すぐに返した。
「俺を見て。奥を見ない」
エリオの声だった。
急がせる響きも、見習いを落ち着かせようとした硬さも、そのまま薄く削り取られていた。
ノラは扉を見る。
「ここは、答えた声をすぐ返す」
エリオが何か聞き返しかけた。
ノラは先に言った。
「理由は後。今は、奥に応じない」
テオは扉の横にある古い印を見ていた。
石に彫られた印だ。半分は煤で黒くなり、もう半分は何度も指でなぞられたように薄くなっている。テオの目は、その削れた線から離れない。
指が伸びかけた。
ノラは手首をつかむ。
「その印に触るな」
テオは答えなかった。目はノラを越え、扉の向こうへ向いている。
奥から、テオの声がした。
「急げ」
自分の声を聞いたテオの肩が、わずかに動いた。
同じ声なのに、そこに息はなかった。誰かが声だけをはがして、扉の裏へ貼りつけたような薄さだった。
すぐに、別の声が重なる。
「見るな」
ラウルの声だった。
ノラはテオの手首を離さない。
「本物でも追うな」
テオの喉が動いた。
テオは口を閉じた。
ヨルが扉の下へ鼻を寄せる。小さな黒い体を低くし、隙間の匂いを探った。しばらくして、鼻先を鍵穴の横へずらす。
ノラは鍵穴を見る。
穴の縁に、糸のような白い筋が絡んでいた。布の繊維にも似ているが、灯りを近づけると細く縮む。生き物のようで、道具のようでもある。
外門の見習いが鍵束を持ち直した。
「開けますか」
声は震えていた。けれど、逃げる声ではなかった。
エリオは扉と、後送した神官の消えた通路と、ノラを順に見た。ここは神殿の奥だ。灰鷹が勝手に開ければ、後で問題になる。だが、ラウルはこの先へ入っている。奥で倒れる者が増える前に、進むしかない。
「開けた後、何を守ればいいですか」
エリオはノラに聞いた。
「名を呼ばない。自分の声が聞こえても、追わない。返事は、外に出てからでいい」
見習いが顔をこわばらせる。
「自分の声でも?」
「自分の声ほど、足が出る」
見習いは何か言いかけ、やめた。代わりに鍵を選ぶ。細い鍵だった。普段使う門の鍵とは違う。持つ者の手になじむほど使われてはいないのに、歯の部分だけが妙に削れていた。
鍵穴へ差す。
一度目は回らなかった。
見習いは力を入れ直そうとする。
「力じゃない」
ノラは短剣を抜いた。
鍵穴の奥で、白い筋が絡んでいる。扉の内側から、鍵の動きを押さえていた。ノラは刃先を縁に入れ、木を削らないように筋だけを払う。濡れた紙を切るような感触が、柄まで伝わった。
白い筋が細く縮む。
ヨルの前足が、鍵穴の脇を一度叩いた。
「今」
見習いが鍵を回す。
重い音がした。長く閉められていたものが、しぶしぶ動いた音だった。
扉が、指二本分だけ開く。
風は来なかった。
代わりに、低い声がこぼれた。
「ここにいる」
誰の声か分からない。
男にも、女にも、子どもにも聞こえる。聞いた者の記憶が勝手に形を足し、自分が知っている誰かへ寄せてしまう声だった。
見習いの顔が青くなる。
扉の内側から、今度は短い返事が聞こえた。
「はい」
見習い自身の声だった。
「はい」
もう一度、同じ声がする。
見習いの口が動いた。
「僕は——」
ノラは清潔布を見習いの口元へ当てた。
最初の音が布に潰れ、見習いの目が見開かれた。
「今のは君じゃない」
ノラは布越しに言った。
見習いは布を奪うように両手で押さえ、自分から口に当てた。
エリオが見習いの肩を支えた。
「言わなくていい。今は、黙っている方が仕事です」
扉の内側が軋む。
今度は、エリオの声。
「俺を見て」
続いて、テオの声。
「急げ」
さらに奥から、ラウルの声。
「まだ、終わっていない」
テオが一歩進みかけた。
ノラはその前に入る。
「進む。でも声は追わない」
テオはノラを見た。
奥にいる者へ、今すぐ届かなければ。その切迫が目を強張らせた。けれど、彼は声を出さなかった。
ノラは扉を開ける。
内側は、神殿の白い廊下ではなかった。
壁は古く、何度も塗り直した跡が斑になっている。床には、落ちた札、折れた筆、噛み跡のある祈祷布、焦げた木片が散っていた。棚はある。だが、整っていない。保管場所というより、使ったあとに片づけきれなかった処理場に見えた。
壁に、乱れた字がある。
声を出すな。
別の布にも同じ文が書かれていた。筆跡が違う。高さも違う。大人の手の位置にあるものもあれば、腰より下の低い場所にあるものもある。
見習いは布を見て、口元の清潔布をさらに強く押さえた。
エリオの目が細くなる。
「これは、神殿の祈祷作法ですか」
誰に聞いたのか分からない問いだった。見習いは答えられない。テオも言わない。
ノラは布へ触れなかった。
「見るだけ。拾わない」
ヨルが床を嗅ぎながら進む。落ちた札には寄らない。噛み跡のある布にも触れない。焦げた木片のそばで、低く喉を鳴らした。
その先に、黒い足跡があった。
焦げた跡だ。靴底の形をしているが、泥ではない。石の表面が焼けて、踏まれた場所だけ濡れたような艶を残している。
ラウルの黒い熱が通った跡。
奥へ続いていた。
「いるね」
ヨルは尾を低くして先を見た。
エリオは床の跡を見てから、ノラを見る。
「あなたは、これを前にも見ていますね」
「見た」
「どこで」
「さっきの古い家で」
エリオはそれ以上聞かなかった。聞けば、答えにくい部分へ踏み込むと分かっているのだろう。けれど、疑いは消えていない。いまの目つきは、灰鷹の若い窓口役より、現場で人数と危険を数える者に近い。
「あとで聞きます」
「今は奥」
「分かっています。だから、あとでです」
テオが部屋の奥で足を止めた。
床に、焦げた記録板が倒れている。
木に見えたそれは薄い金属板で、焼けた紙が貼りついていた。端には研究者印のようなものが残っている。煤で半分隠れているが、線の癖だけは見えた。
テオの顔から色が引く。
ノラは聞く。
「知ってる印?」
テオの視線は、煤に半分埋もれた印から動かなかった。
エリオが彼を見る。
「あなたは、ここを知っているんですか」
テオは唇を動かしかけた。
その前に、奥が返した。
「知らない」
テオの声だった。
ただし、今のテオは言っていない。
自分の声に、テオの口元が歪む。否定しかけて飲み込んだものまで、声にされていた。
ノラは短く言う。
「言いかけでも取る」
エリオの表情が変わった。
見習いが布を押さえたまま、小さくうなずいた。
奥から、ラウルの声がした。
「そこを見るな」
今度の声には、薄い息があった。
扉に貼りついた声ではない。遠くで、実際に誰かが言った声だ。焦げた石の匂いが、その声のあとから遅れて流れてくる。
テオが顔を上げる。
ノラは焦げた足跡を見た。
焦げた足跡は、誰の名も呼ばず、奥の扉の下へ消えていた。




