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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第13章 兄の名札
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第53話 内側から返る声

挿絵(By みてみん)

後送された神官の名札を布に包んだまま、ノラ・ヴェイルは「返りの間」と札の掛かった扉に向き直った。エリオは写し終えた紙を胸元へしまう。


扉の向こうから、乾いた声がした。


「戻り一名。発声あり」


同じ文だった。


先ほどから繰り返されている、記録の声。そう思えば済むはずだった。けれど、二度目は少し違った。


「戻り一名。発声あり」


声の端が、後送した神官に似ていた。


外門の見習いが、鍵束を抱えたまま顔を上げる。


「今の、さっきの人の……」


「俺を見て。奥を見ない」


エリオが早く言った。


見習いは反射的にエリオを見た。頬に血の気はない。鍵束を握る指だけが、金属の輪を鳴らしている。


扉の向こうが、すぐに返した。


「俺を見て。奥を見ない」


エリオの声だった。


急がせる響きも、見習いを落ち着かせようとした硬さも、そのまま薄く削り取られていた。


ノラは扉を見る。


「ここは、答えた声をすぐ返す」


エリオが何か聞き返しかけた。


ノラは先に言った。


「理由は後。今は、奥に応じない」


テオは扉の横にある古い印を見ていた。


石に彫られた印だ。半分は煤で黒くなり、もう半分は何度も指でなぞられたように薄くなっている。テオの目は、その削れた線から離れない。


指が伸びかけた。


ノラは手首をつかむ。


「その印に触るな」


テオは答えなかった。目はノラを越え、扉の向こうへ向いている。


奥から、テオの声がした。


「急げ」


自分の声を聞いたテオの肩が、わずかに動いた。


同じ声なのに、そこに息はなかった。誰かが声だけをはがして、扉の裏へ貼りつけたような薄さだった。


すぐに、別の声が重なる。


「見るな」


ラウルの声だった。


ノラはテオの手首を離さない。


「本物でも追うな」


テオの喉が動いた。


テオは口を閉じた。


ヨルが扉の下へ鼻を寄せる。小さな黒い体を低くし、隙間の匂いを探った。しばらくして、鼻先を鍵穴の横へずらす。


ノラは鍵穴を見る。


穴の縁に、糸のような白い筋が絡んでいた。布の繊維にも似ているが、灯りを近づけると細く縮む。生き物のようで、道具のようでもある。


外門の見習いが鍵束を持ち直した。


「開けますか」


声は震えていた。けれど、逃げる声ではなかった。


エリオは扉と、後送した神官の消えた通路と、ノラを順に見た。ここは神殿の奥だ。灰鷹が勝手に開ければ、後で問題になる。だが、ラウルはこの先へ入っている。奥で倒れる者が増える前に、進むしかない。


「開けた後、何を守ればいいですか」


エリオはノラに聞いた。


「名を呼ばない。自分の声が聞こえても、追わない。返事は、外に出てからでいい」


見習いが顔をこわばらせる。


「自分の声でも?」


「自分の声ほど、足が出る」


見習いは何か言いかけ、やめた。代わりに鍵を選ぶ。細い鍵だった。普段使う門の鍵とは違う。持つ者の手になじむほど使われてはいないのに、歯の部分だけが妙に削れていた。


鍵穴へ差す。


一度目は回らなかった。


見習いは力を入れ直そうとする。


「力じゃない」


ノラは短剣を抜いた。


鍵穴の奥で、白い筋が絡んでいる。扉の内側から、鍵の動きを押さえていた。ノラは刃先を縁に入れ、木を削らないように筋だけを払う。濡れた紙を切るような感触が、柄まで伝わった。


白い筋が細く縮む。


ヨルの前足が、鍵穴の脇を一度叩いた。


「今」


見習いが鍵を回す。


重い音がした。長く閉められていたものが、しぶしぶ動いた音だった。


扉が、指二本分だけ開く。


風は来なかった。


代わりに、低い声がこぼれた。


「ここにいる」


誰の声か分からない。


男にも、女にも、子どもにも聞こえる。聞いた者の記憶が勝手に形を足し、自分が知っている誰かへ寄せてしまう声だった。


見習いの顔が青くなる。


扉の内側から、今度は短い返事が聞こえた。


「はい」


見習い自身の声だった。


「はい」


もう一度、同じ声がする。


見習いの口が動いた。


「僕は——」


ノラは清潔布を見習いの口元へ当てた。


最初の音が布に潰れ、見習いの目が見開かれた。


「今のは君じゃない」


ノラは布越しに言った。


見習いは布を奪うように両手で押さえ、自分から口に当てた。


エリオが見習いの肩を支えた。


「言わなくていい。今は、黙っている方が仕事です」


扉の内側が軋む。


今度は、エリオの声。


「俺を見て」


続いて、テオの声。


「急げ」


さらに奥から、ラウルの声。


「まだ、終わっていない」


テオが一歩進みかけた。


ノラはその前に入る。


「進む。でも声は追わない」


テオはノラを見た。


奥にいる者へ、今すぐ届かなければ。その切迫が目を強張らせた。けれど、彼は声を出さなかった。


ノラは扉を開ける。


内側は、神殿の白い廊下ではなかった。


壁は古く、何度も塗り直した跡が斑になっている。床には、落ちた札、折れた筆、噛み跡のある祈祷布、焦げた木片が散っていた。棚はある。だが、整っていない。保管場所というより、使ったあとに片づけきれなかった処理場に見えた。


壁に、乱れた字がある。


声を出すな。


別の布にも同じ文が書かれていた。筆跡が違う。高さも違う。大人の手の位置にあるものもあれば、腰より下の低い場所にあるものもある。


見習いは布を見て、口元の清潔布をさらに強く押さえた。


エリオの目が細くなる。


「これは、神殿の祈祷作法ですか」


誰に聞いたのか分からない問いだった。見習いは答えられない。テオも言わない。


ノラは布へ触れなかった。


「見るだけ。拾わない」


ヨルが床を嗅ぎながら進む。落ちた札には寄らない。噛み跡のある布にも触れない。焦げた木片のそばで、低く喉を鳴らした。


その先に、黒い足跡があった。


焦げた跡だ。靴底の形をしているが、泥ではない。石の表面が焼けて、踏まれた場所だけ濡れたような艶を残している。


ラウルの黒い熱が通った跡。


奥へ続いていた。


「いるね」


ヨルは尾を低くして先を見た。


エリオは床の跡を見てから、ノラを見る。


「あなたは、これを前にも見ていますね」


「見た」


「どこで」


「さっきの古い家で」


エリオはそれ以上聞かなかった。聞けば、答えにくい部分へ踏み込むと分かっているのだろう。けれど、疑いは消えていない。いまの目つきは、灰鷹の若い窓口役より、現場で人数と危険を数える者に近い。


「あとで聞きます」


「今は奥」


「分かっています。だから、あとでです」


テオが部屋の奥で足を止めた。


床に、焦げた記録板が倒れている。


木に見えたそれは薄い金属板で、焼けた紙が貼りついていた。端には研究者印のようなものが残っている。煤で半分隠れているが、線の癖だけは見えた。


テオの顔から色が引く。


ノラは聞く。


「知ってる印?」


テオの視線は、煤に半分埋もれた印から動かなかった。


エリオが彼を見る。


「あなたは、ここを知っているんですか」


テオは唇を動かしかけた。


その前に、奥が返した。


「知らない」


テオの声だった。


ただし、今のテオは言っていない。


自分の声に、テオの口元が歪む。否定しかけて飲み込んだものまで、声にされていた。


ノラは短く言う。


「言いかけでも取る」


エリオの表情が変わった。


見習いが布を押さえたまま、小さくうなずいた。


奥から、ラウルの声がした。


「そこを見るな」


今度の声には、薄い息があった。


扉に貼りついた声ではない。遠くで、実際に誰かが言った声だ。焦げた石の匂いが、その声のあとから遅れて流れてくる。


テオが顔を上げる。


ノラは焦げた足跡を見た。


焦げた足跡は、誰の名も呼ばず、奥の扉の下へ消えていた。


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