表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第12章 返事をしなかった子
PR
51/63

第51話 名を奪われるな

挿絵(By みてみん)

神殿区へ向かう道は、夜明けの色だけが先に来ていた。


町はまだ目を覚ましきっていない。けれど、眠ってもいなかった。古い井戸の周りには灯口の使いが二人ずつ立ち、壁の割れ目には布が詰められ、物置の前では戸口から人を離す声が飛んでいる。


泣く声は少なかった。悲しむ暇がないのではなく、泣く息まで呼び声に拾われかねないため、誰もがまず口を守っていた。ノラ・ヴェイルが足を止めずに井戸の脇を抜けると、向こう側で女が誰かを叱っている。


「声を出さないで。そこにいない人の声よ」


子どもの返事は風に崩れて聞こえなかったが、女の腕がすぐその肩を抱き寄せた。ノラの足元ではヨルが鼻を低くし、町の井戸にも石橋にも古い物置にも寄らず、神殿区へ続く広い坂だけを選んでいる。


「外門で止まっているなら、まだ間に合う」


テオの声には、走り出したい足を無理に道へ合わせる硬さがあった。ノラは坂の上を見たまま答えた。


「止まっていない匂いだね」


テオの横顔が固まり、「中へ入ったか」と問い返す。ノラが「たぶん」とだけ答えると、それ以上は聞かなかった。ラウルを知る者として何か言いたいはずなのに、今はその言葉より、奥へ入った足跡を追う方を選んだ。


神殿外門は、朝の光を受けても白く見えなかった。


門石の左側は、石の継ぎ目まで黒く焼け、濡れたような艶を残していた。門の前には灰鷹の外套が数枚見える。その中で、エリオがこちらへ振り返った。


外套には朝露と灰がついていた。走ってきたのだろう。髪も少し乱れている。けれど、目だけは忙しく動いていた。倒れた者、立っている者、門の内側を見張る者。人を数えている目だった。


エリオが声をかけるより先に、ノラが聞いた。


「死者は」


「今のところ、いません」


エリオはそう言ってから、門の足元を示した。


門番は二人いた。一人は石段の脇に横たえられ、丸めた外套で首を支えられている。息こそあるが、顔色は土のように悪い。もう一人は壁にもたれて腕を押さえており、傷よりも口元の方が異様だった。歯に噛ませた神殿の祈祷布には、古い墨で「名を出すな。声を奪われるな」とある。ノラは布に触れず、その処置を知っていた者が神殿内にいた事実だけを受け取った。


神殿側の男が一歩前に出た。四十前後。神官服の上に濃い外套を羽織っている。清潔な手は、門番や現場の者の汚れ方をしていなかった。


「神殿内の事故です。外の者は下がってください」


エリオが男を見る。


「外門で人が倒れています。灰鷹は人を数えます」


「内部の確認はこちらで行います」


「内部に何人いるか、まだ出していただいていません」


男の眉が動いた。


怒りより先に、嫌な記録を見つけられた動揺が目に走った。


「外へ広げれば、人が集まります。人が集まれば、余計な声も増える。灰鷹なら、そのくらいは分かるはずです」


言い分そのものは、間違っていなかった。


今の町で、人を集めるのは危ない。誰かが声を出せば、その声が別の戸を叩く。声の出どころを見ようとすれば、次の口が開く。


ノラは男を見た。


「広げないために、人を数える」


男はノラへ視線を移した。


「あなたは灰鷹ではない」


「倒れている人を見れば分かる。声を奪って、門を開けさせるものが来てる」


男は何も言わなかった。


その沈黙だけで、知らないふりをしているのだと分かった。


エリオが、祈祷布へ視線を落とす。


「これは、迷宮汚染の処置ですか」


「古い祈祷作法です」


男は間を置かずに言い切ったが、それは確かめて答えた速さではなく、用意していた説明を差し出す速さだった。ノラはその綻びを逃さず、短く返す。


「作法で口は塞がない」


門の脇にいた若い見習いが、そこで小さく顔を動かした。十六か十七ほど。神官服の裾がまだ硬い。新しく仕立てたものだ。手には門番用の鍵束を持っているが、指が白くなっていた。


ノラは意識のある門番の前へ膝をついた。


「布は外さない。声を出さなくていい」


門番の目が少しだけ動いた。喋れないことではなく、喋ることを怖がっている目だった。


「黒く焼けた跡を残す男は、どこへ行った」


門番は布を噛んだまま、片手を上げた。震える指が、正面の内門ではなく、外門の左脇を指す。


そこには低い石組みがあった。


雨水を逃がすための溝に見える。人が通るには狭い。だが、腰を落とせば入れないことはない。入口は鉄格子で塞がれているはずだったのだろう。格子の片側が黒く焼け、曲がっていた。


ヨルがそこへ近づき、鼻を寄せた。


嫌がって跳ねはしない。だが、すぐに顔を横へずらす。


「同じ焦げ跡」


ノラが言うと、テオが排水路を見た。


顔から色が引いている。


「知ってる道?」


ノラは聞いた。


テオは少し遅れて言った。


「昔は、検分道具を運んだ。表の門を通せない物を、内側へ回す道だ」


神殿側の男が、そこで初めてはっきりと遮った。


「そこは封じられています」


「封じた場所に、足跡は残らない」


ノラは焼けた格子の下を見た。


黒い焦げ跡の上に、灰が細かく乱れている。ラウルは足早に抜けた。門番を倒し、正面を壊すより先に、狭い道を選んだ。


殺しに来たのではない。


奥へ行くために来ている。


その時、内門の向こうから「開けてくれ」と門番の声がした。本人はノラの前で布を噛んでいる。それでも若い見習いの指は、教え込まれた順番どおり、鍵束の中で最も大きい内門の鍵を探った。


「助けたいなら、声の場所じゃなく、体の場所を見ろ」


ノラは手を押さえず、布を噛む門番と閉じた内門を示した。ヨルが扉の下を嗅いで鼻先を横へ振る。血も、生きた人間もいない。漏れてくるのは冷えた煤だけだった。


「中で呼んでいます」


見習いは内門を見たまま言った。


「でも、倒れている人はここにいる」


内門の鍵へ置かれていた指が離れた。見習いは鍵束を一度裏返し、普段は端へ追いやられている細い一本を抜く。古びた歯の部分だけが、不自然なほど削れていた。


「古い内鍵です」


彼が向いたのは内門ではなく、焼けて曲がった排水路だった。門を開ける務めではなく、まだ体のある者へ届く道を自分で選んだ。


エリオが一歩、内門の前に立った。


「本人確認が先です。内側からの声には、こちらから声を出しません」


神殿側の男が低く言う。


「灰鷹が神殿の門で指図をするな」


「倒れている人間の声が、門の向こうから聞こえています。これはもう、神殿だけの話ではありません」


エリオは声を荒らげず、それでも神殿側へ判断を譲らなかった。内門が同じ門番の声でまた開放を求めると、神殿側の男は外門脇で布を噛む本人と見比べ、ようやく口を閉じた。


ノラはそこで、外門の周囲を見直した。


「外門番は何人」


エリオがすぐに手帳を開く。


「神殿側の記録では四人です。今ここに二人」


「残りは」


神殿側の男の視線は、内門へ逃げた。


代わりに、さっきの見習いが口を開きかけた。すぐに閉じる。布を噛んでいる門番を見て、自分の喉へ指を当てる。


ノラは見習いへ向き直った。


「短く。名前じゃなく、場所だけ」


見習いは喉を押さえたまま言った。


「内門の裏に、交代待ちが二人いました」


神殿側の男が見習いを見る。


見習いは身を縮めたが、もう言葉を引っ込めなかった。


「その人たちの声も、さっき聞こえました。でも、本人かどうかは分かりません」


ノラは内門ではなく、焼けた排水路を見る。


ラウルは正面から内門を開けていない。狭い道を通って奥へ入った。


けれど、ラウルが通ったことで、奥にあるものの声が外門まで届いた。いま内門を開ければ、閉じていたものがもっと広い場所へ出る。


「内門は開けない」


ノラが言うと、神殿側の男が唇を強く結んだ。


「外の者が決めることではありません」


「開けるなら、先に外門の人を離す。声を奪われかけた人を分ける。倒れた人の口を守る。そこまでしてから」


男は言い返しかけたが、門番の声が先ほどより近い場所から響いたため、その言葉を飲み込んだ。


男はその声を聞き、外門の脇に横たえられた門番を見た。順番を間違えれば、自分も門を開ける側になる。その理解に、口元が強張った。


男がようやく危険の順番を受け入れたと見て、エリオは灰鷹の隊員へ短く指示を出した。


「倒れている門番を外門から離せ。布は外すな。声を聞いた者を一か所に集めるな。見習いは門番たちから離して立たせる。声を出させるな」


隊員たちが一斉に動いても、神殿側の男はもう止めなかった。対立が一つ減ったことを確かめたノラは、排水路を知るテオへ次の判断を渡した。


「通れる?」


テオは排水路の奥へ目を向けた。


「昔のままなら」


「今は昔じゃない」


「なら、なおさら急いだ方がいい」


テオの声には焦りが戻っていた。


テオがあの道を知っている。それで今は足りる。


内門の奥から、今度は門番でも見習いでも、ラウルでもテオでもない声がした。


「戻された者を、乱すな」


穏やかな神官の声だった。神殿側の男の顔から血の気が引き、テオも焼けた石の縁に触れたまま指先を白くする。二人とも、その声を知っていた。


ノラはテオを見た。


「誰」


テオの爪が焦げた石の表面をわずかに削った。知らないのではない。今ここで名を口にすれば、声だけでなく、自分が恐れてきた帰還まで本物と認めてしまう。ノラはその沈黙を急かさなかった。


ヨルが外門の左脇へ鼻を向け、低く鳴いた。


ノラは灯りを持ち直した。


「声を追わない。跡を見る」


誰の言葉も待たなかった。


ノラは、黒く焼けた格子の前へ戻った。


内門を開けない手順を灰鷹に預け、今度は、通るための幅と奥へ続く跡を確かめる。


底には水がなかった。薄い泥の上の足跡は、外から中へ続いている。戻った跡はない。人が腰を落とせば通れる幅だった。


ヨルは今度は格子ではなく、溝の奥へ鼻を向けた。尾を低くし、戻らない足跡の先を見ている。


テオは格子の向こうを見たまま、顔色を悪くしていた。


「道具だけじゃない。私たちも通れる?」


「通れないことにしてあった」


ノラは、内側へ曲がった格子と奥へ続く足跡を見た。


「でも、一人は通った。今度は跡を追う」


外門では、指示を受けた灰鷹が門番を運び出していた。


神殿側の男は止めなかった。


止めれば、門の奥から聞こえた声を認めることになる。その迷いが、上げかけた手を鈍らせていた。


若い見習いは、選んだ細い鍵を胸元で握り、焼けた排水路の前に立った。


「途中の内鍵まで案内します。内門は開けません」


神殿側の男が見習いを睨んだ。


見習いは鍵を戻さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ