第51話 名を奪われるな
神殿区へ向かう道は、夜明けの色だけが先に来ていた。
町はまだ目を覚ましきっていない。けれど、眠ってもいなかった。古い井戸の周りには灯口の使いが二人ずつ立ち、壁の割れ目には布が詰められ、物置の前では戸口から人を離す声が飛んでいる。
泣く声は少なかった。悲しむ暇がないのではなく、泣く息まで呼び声に拾われかねないため、誰もがまず口を守っていた。ノラ・ヴェイルが足を止めずに井戸の脇を抜けると、向こう側で女が誰かを叱っている。
「声を出さないで。そこにいない人の声よ」
子どもの返事は風に崩れて聞こえなかったが、女の腕がすぐその肩を抱き寄せた。ノラの足元ではヨルが鼻を低くし、町の井戸にも石橋にも古い物置にも寄らず、神殿区へ続く広い坂だけを選んでいる。
「外門で止まっているなら、まだ間に合う」
テオの声には、走り出したい足を無理に道へ合わせる硬さがあった。ノラは坂の上を見たまま答えた。
「止まっていない匂いだね」
テオの横顔が固まり、「中へ入ったか」と問い返す。ノラが「たぶん」とだけ答えると、それ以上は聞かなかった。ラウルを知る者として何か言いたいはずなのに、今はその言葉より、奥へ入った足跡を追う方を選んだ。
神殿外門は、朝の光を受けても白く見えなかった。
門石の左側は、石の継ぎ目まで黒く焼け、濡れたような艶を残していた。門の前には灰鷹の外套が数枚見える。その中で、エリオがこちらへ振り返った。
外套には朝露と灰がついていた。走ってきたのだろう。髪も少し乱れている。けれど、目だけは忙しく動いていた。倒れた者、立っている者、門の内側を見張る者。人を数えている目だった。
エリオが声をかけるより先に、ノラが聞いた。
「死者は」
「今のところ、いません」
エリオはそう言ってから、門の足元を示した。
門番は二人いた。一人は石段の脇に横たえられ、丸めた外套で首を支えられている。息こそあるが、顔色は土のように悪い。もう一人は壁にもたれて腕を押さえており、傷よりも口元の方が異様だった。歯に噛ませた神殿の祈祷布には、古い墨で「名を出すな。声を奪われるな」とある。ノラは布に触れず、その処置を知っていた者が神殿内にいた事実だけを受け取った。
神殿側の男が一歩前に出た。四十前後。神官服の上に濃い外套を羽織っている。清潔な手は、門番や現場の者の汚れ方をしていなかった。
「神殿内の事故です。外の者は下がってください」
エリオが男を見る。
「外門で人が倒れています。灰鷹は人を数えます」
「内部の確認はこちらで行います」
「内部に何人いるか、まだ出していただいていません」
男の眉が動いた。
怒りより先に、嫌な記録を見つけられた動揺が目に走った。
「外へ広げれば、人が集まります。人が集まれば、余計な声も増える。灰鷹なら、そのくらいは分かるはずです」
言い分そのものは、間違っていなかった。
今の町で、人を集めるのは危ない。誰かが声を出せば、その声が別の戸を叩く。声の出どころを見ようとすれば、次の口が開く。
ノラは男を見た。
「広げないために、人を数える」
男はノラへ視線を移した。
「あなたは灰鷹ではない」
「倒れている人を見れば分かる。声を奪って、門を開けさせるものが来てる」
男は何も言わなかった。
その沈黙だけで、知らないふりをしているのだと分かった。
エリオが、祈祷布へ視線を落とす。
「これは、迷宮汚染の処置ですか」
「古い祈祷作法です」
男は間を置かずに言い切ったが、それは確かめて答えた速さではなく、用意していた説明を差し出す速さだった。ノラはその綻びを逃さず、短く返す。
「作法で口は塞がない」
門の脇にいた若い見習いが、そこで小さく顔を動かした。十六か十七ほど。神官服の裾がまだ硬い。新しく仕立てたものだ。手には門番用の鍵束を持っているが、指が白くなっていた。
ノラは意識のある門番の前へ膝をついた。
「布は外さない。声を出さなくていい」
門番の目が少しだけ動いた。喋れないことではなく、喋ることを怖がっている目だった。
「黒く焼けた跡を残す男は、どこへ行った」
門番は布を噛んだまま、片手を上げた。震える指が、正面の内門ではなく、外門の左脇を指す。
そこには低い石組みがあった。
雨水を逃がすための溝に見える。人が通るには狭い。だが、腰を落とせば入れないことはない。入口は鉄格子で塞がれているはずだったのだろう。格子の片側が黒く焼け、曲がっていた。
ヨルがそこへ近づき、鼻を寄せた。
嫌がって跳ねはしない。だが、すぐに顔を横へずらす。
「同じ焦げ跡」
ノラが言うと、テオが排水路を見た。
顔から色が引いている。
「知ってる道?」
ノラは聞いた。
テオは少し遅れて言った。
「昔は、検分道具を運んだ。表の門を通せない物を、内側へ回す道だ」
神殿側の男が、そこで初めてはっきりと遮った。
「そこは封じられています」
「封じた場所に、足跡は残らない」
ノラは焼けた格子の下を見た。
黒い焦げ跡の上に、灰が細かく乱れている。ラウルは足早に抜けた。門番を倒し、正面を壊すより先に、狭い道を選んだ。
殺しに来たのではない。
奥へ行くために来ている。
その時、内門の向こうから「開けてくれ」と門番の声がした。本人はノラの前で布を噛んでいる。それでも若い見習いの指は、教え込まれた順番どおり、鍵束の中で最も大きい内門の鍵を探った。
「助けたいなら、声の場所じゃなく、体の場所を見ろ」
ノラは手を押さえず、布を噛む門番と閉じた内門を示した。ヨルが扉の下を嗅いで鼻先を横へ振る。血も、生きた人間もいない。漏れてくるのは冷えた煤だけだった。
「中で呼んでいます」
見習いは内門を見たまま言った。
「でも、倒れている人はここにいる」
内門の鍵へ置かれていた指が離れた。見習いは鍵束を一度裏返し、普段は端へ追いやられている細い一本を抜く。古びた歯の部分だけが、不自然なほど削れていた。
「古い内鍵です」
彼が向いたのは内門ではなく、焼けて曲がった排水路だった。門を開ける務めではなく、まだ体のある者へ届く道を自分で選んだ。
エリオが一歩、内門の前に立った。
「本人確認が先です。内側からの声には、こちらから声を出しません」
神殿側の男が低く言う。
「灰鷹が神殿の門で指図をするな」
「倒れている人間の声が、門の向こうから聞こえています。これはもう、神殿だけの話ではありません」
エリオは声を荒らげず、それでも神殿側へ判断を譲らなかった。内門が同じ門番の声でまた開放を求めると、神殿側の男は外門脇で布を噛む本人と見比べ、ようやく口を閉じた。
ノラはそこで、外門の周囲を見直した。
「外門番は何人」
エリオがすぐに手帳を開く。
「神殿側の記録では四人です。今ここに二人」
「残りは」
神殿側の男の視線は、内門へ逃げた。
代わりに、さっきの見習いが口を開きかけた。すぐに閉じる。布を噛んでいる門番を見て、自分の喉へ指を当てる。
ノラは見習いへ向き直った。
「短く。名前じゃなく、場所だけ」
見習いは喉を押さえたまま言った。
「内門の裏に、交代待ちが二人いました」
神殿側の男が見習いを見る。
見習いは身を縮めたが、もう言葉を引っ込めなかった。
「その人たちの声も、さっき聞こえました。でも、本人かどうかは分かりません」
ノラは内門ではなく、焼けた排水路を見る。
ラウルは正面から内門を開けていない。狭い道を通って奥へ入った。
けれど、ラウルが通ったことで、奥にあるものの声が外門まで届いた。いま内門を開ければ、閉じていたものがもっと広い場所へ出る。
「内門は開けない」
ノラが言うと、神殿側の男が唇を強く結んだ。
「外の者が決めることではありません」
「開けるなら、先に外門の人を離す。声を奪われかけた人を分ける。倒れた人の口を守る。そこまでしてから」
男は言い返しかけたが、門番の声が先ほどより近い場所から響いたため、その言葉を飲み込んだ。
男はその声を聞き、外門の脇に横たえられた門番を見た。順番を間違えれば、自分も門を開ける側になる。その理解に、口元が強張った。
男がようやく危険の順番を受け入れたと見て、エリオは灰鷹の隊員へ短く指示を出した。
「倒れている門番を外門から離せ。布は外すな。声を聞いた者を一か所に集めるな。見習いは門番たちから離して立たせる。声を出させるな」
隊員たちが一斉に動いても、神殿側の男はもう止めなかった。対立が一つ減ったことを確かめたノラは、排水路を知るテオへ次の判断を渡した。
「通れる?」
テオは排水路の奥へ目を向けた。
「昔のままなら」
「今は昔じゃない」
「なら、なおさら急いだ方がいい」
テオの声には焦りが戻っていた。
テオがあの道を知っている。それで今は足りる。
内門の奥から、今度は門番でも見習いでも、ラウルでもテオでもない声がした。
「戻された者を、乱すな」
穏やかな神官の声だった。神殿側の男の顔から血の気が引き、テオも焼けた石の縁に触れたまま指先を白くする。二人とも、その声を知っていた。
ノラはテオを見た。
「誰」
テオの爪が焦げた石の表面をわずかに削った。知らないのではない。今ここで名を口にすれば、声だけでなく、自分が恐れてきた帰還まで本物と認めてしまう。ノラはその沈黙を急かさなかった。
ヨルが外門の左脇へ鼻を向け、低く鳴いた。
ノラは灯りを持ち直した。
「声を追わない。跡を見る」
誰の言葉も待たなかった。
ノラは、黒く焼けた格子の前へ戻った。
内門を開けない手順を灰鷹に預け、今度は、通るための幅と奥へ続く跡を確かめる。
底には水がなかった。薄い泥の上の足跡は、外から中へ続いている。戻った跡はない。人が腰を落とせば通れる幅だった。
ヨルは今度は格子ではなく、溝の奥へ鼻を向けた。尾を低くし、戻らない足跡の先を見ている。
テオは格子の向こうを見たまま、顔色を悪くしていた。
「道具だけじゃない。私たちも通れる?」
「通れないことにしてあった」
ノラは、内側へ曲がった格子と奥へ続く足跡を見た。
「でも、一人は通った。今度は跡を追う」
外門では、指示を受けた灰鷹が門番を運び出していた。
神殿側の男は止めなかった。
止めれば、門の奥から聞こえた声を認めることになる。その迷いが、上げかけた手を鈍らせていた。
若い見習いは、選んだ細い鍵を胸元で握り、焼けた排水路の前に立った。
「途中の内鍵まで案内します。内門は開けません」
神殿側の男が見習いを睨んだ。
見習いは鍵を戻さなかった。




