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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第12章 返事をしなかった子
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第50話 返事をしなかった子

挿絵(By みてみん)

父が何度も呼んだ。


子は返事をしなかった。


答えたのは、奥の壁だった。


泣いたとも、父を嫌ったとも、助けを求めたとも書かれていない。返事をしなかった、という事実だけが残っていた。


娘の応答について残っているのは、その三行だけだった。


サイラスは戸ではなく、その字を見ていた。


ノラ・ヴェイルは短剣の先を床へ立てる。ヨルは白い筋を鼻で追い、テオは神殿区の鐘を背中で聞いていた。急いでも、ここを残せば同じ声に追われる。


「違う」


声は小さかった。


戸の向こうから、すぐに返った。


「違うよ」


それは子どもの声だった。やわらかく、聞いた者が何かを掛けてやりたくなる声だった。


サイラスの唇が動きかけ、握った紙の角が潰れた。


ノラは短剣の先で床を叩いた。


「返事をするな。取られる」


サイラスの口が閉じる。


その一瞬だけ、戸の下の白い筋が弱まった。ヨルが飛び込み、床の継ぎ目に伸びた一本へ爪を立てる。白い筋は濡れた綿のように裂け、すぐに戻ろうとした。


テオが戸口の横へ手をついた。


顔色は悪い。神殿区へ向かう足を、無理にこの場へ縫いつけているようだった。それでも、外へ伸びる道だけは押さえていた。


「早くしろ」


テオが言った。


「早く行くために、ここを残さない」


ノラは腰から、もう一枚の封じ布を抜いた。戸の下に噛ませた布へ重ねるためのものだ。煤釘の核を包んでいた布ではない。診療所で使う清潔布を、薬と灰で潰したものだ。完全な封じにはならない。それでも、声の筋を鈍らせるくらいはできる。


サイラスは紙から目を離さない。


「答えたのは、奥の壁だった」


唇だけで、その一文をなぞった。


娘が返事をしたのではない。


父が何度も呼び続けた声に、奥の壁が答えた。


戸の向こうの声が、そこで変わった。


子どもの声ではなくなった。


「ここにいる」


サイラス自身の声だった。


丁寧で、穏やかで、人に危険を渡す時でさえ荒げなかった男の声。それが戸板の裏から甘く響いた。


「ここにいるよ」


サイラスの顔がこわばった。


目の前の声を、自分のものだと認めたくない顔だった。


ノラは言った。


「あの子は、あなたに返事をしなかった」


サイラスがゆっくり顔を上げた。


「黙れ」


「答えたのは、奥にいたもの」


「黙れ」


声は荒くなった。戸板へ置いた手は動かない。指先だけが木目へ食い込んだ。


奥の部屋が、また別の声を出した。


「これで足りますか」


若い男の声だった。


続いて、別の声。


「戻れますか」


長くは続かなかった。その二つだけで、サイラスの指が紙を潰した。


ノラには分からない。けれど、サイラスには分かっている顔だった。


娘を呼ぶために燃やしたものが、娘の声だけではなかったと、今さら隠せなくなった顔だった。


「あなたは、娘だけを呼んだんじゃない」


ノラは言った。


「呼ぶために、人の声を燃やした。あの子が返さなかった沈黙を、他人の声で埋めた」


サイラスの手が、床に落ちた髪飾りを探った。指先が金具に触れ、割れた飾りを握る。


「私は、あの子を寒いままにしたくなかった」


「そのために、他人を寒い場所へ送った」


サイラスは言い返さなかった。


その沈黙を、奥の部屋が嫌がった。


戸の下から、白い筋が一気に伸びる。サイラスの足首へ絡み、靴の縫い目へ入り込もうとする。ヨルが低く跳び、筋へ噛みついた。白いものが裂け、床へ散った。


ノラはサイラスの腕を掴んだ。


「立って」


サイラスは動かない。


「立って。ここで返事を奪われたら、あなたの声で次を呼ばれる」


サイラスの口元が歪んだ。


「私の声など、もう使い物にならない」


「穴は、そういう声ほど残す。次の人間を引き止める」


その言葉で、サイラスは改めてノラを見た。


いつもの穏やかな目ではなかった。何年も同じ戸の前に立ち、同じ声を聞き、同じ嘘を自分へ言い聞かせてきた人間の目だった。


戸の向こうから、また子どもの声がした。


「寒い」


サイラスの手が戸へ伸びる。


ノラは腕を引いた。


「行くな」


「まだ寒いと言っている」


「それは娘じゃない。あの子は返事をしなかった」


サイラスは、そこで止まった。


ほんの短い間だった。けれど、白い筋が迷うには十分だった。戸板の下で、白いものが小さく波を打つ。


サイラスは低く言った。


「分かっている」


ノラの手に力が入った。


サイラスは続けた。


「分かっていても、手が離れない」


「分かっているなら、なおさら止める。あの子が返さなかったものを、あなたが返すな」


奥の部屋が、子どもの声をやめた。


「サイラス」


その声は、もう甘くなかった。


父を呼ぶ声ではない。人の弱いところを覚え、その名を使えばどこが裂けるか知っている穴の声だった。


サイラスの足が床を滑る。


ノラは腕を掴んだまま踏ん張った。床板の隙間から白い筋がさらに出る。薬包の紙が破れ、甘い匂いが散った。小さな靴の内側からも、細い白が伸びてサイラスの裾へ絡む。


長く呼びすぎた。返事のない場所へ、他人の声を足しすぎた。


今ここで一本切れば済む話ではなかった。


ヨルが喉の奥で鳴いた。怒りの低い音だった。床の筋へ爪を立て、噛み、また別の筋へ飛ぶ。それでも白いものは別の隙間から出てくる。


テオが歯を食いしばり、ノラへ手を伸ばしかけた。


「押さえて」


「神殿が」


「ここが外へ出たら、神殿へ行く道もなくなる」


テオは言葉を飲んだ。


遠くで、鐘が続けて鳴った。


サイラスが、その音を聞いた。


庭の向こう。町の屋根のさらに奥。神殿区の方角だった。


サイラスは、引かれながら顔を上げる。


その顔には、何度もその言葉にすがり、自分へ言い聞かせてきた者の疲れがあった。


「大司祭は、返事が続くかぎり形は冷えないと言った。足りないところは、核と声で補えると」


ノラは腕を引いたまま聞いた。


「何を隠してる」


白い筋が、サイラスの腰へ届いた。上着の布地がきしむ。髪飾りを握った手が、床へ押しつけられた。


サイラスは戸の向こうではなく、握り潰した相談記録を見た。


「私は、あの子を戻したんじゃない。返事をしなかった場所へ、他人の声を足した」


「神殿は戻す方法を隠しているんじゃない。戻らなかったものを奇跡と呼んで、残された人間に足し続けさせている」


テオの顔から色が引いた。


ノラはそれ以上聞けなかった。


白い筋が、サイラスを一気に奥へ引いた。ノラの手から腕が滑る。掴み直そうとした指先に、冷えた布のような感触が絡んだ。


奥の部屋が、最後に子どもの声を出した。


「お父さん」


サイラスの口が開いた。


返事になる。


ノラは前へ踏み出した。


「奪われる」


サイラスの唇が閉じた。


その目が一度だけ、戸の外を見た。ノラを見たのか、庭を見たのか、神殿の鐘を聞いたのかは分からない。ただ、声は出なかった。


白い筋がサイラスを包む。


扉の隙間が広がったように見えた。黒い穴ではない。子ども部屋の影でもない。湿った壁の奥に、何度も呼ばれた声だけが層になっている場所だった。


サイラスは声を出さないまま、戸の向こうへ引かれた。


髪飾りだけが、床に落ちた。


小さな金具が石に当たり、軽い音を立てる。


ノラは追わなかった。


追えば、自分の足も声も取られる。今するべきことは、奥へ踏み込むことではない。外へ伸びる道を断つことだった。


ノラは二枚目の封じ布を、先に噛ませた布へ重ねるように戸の下へ押し込んだ。


白い筋が暴れる。布の端が湿り、黒ずんでいく。ヨルが床の継ぎ目に噛みつき、白いものを引き裂く。テオが戸板を押さえた。板の内側で何かが息を吸い、戸全体が子どもの胸のように上下した。


奥から、サイラスの声がした。


「開けてくれ」


ノラは動かない。


「その声で、次を呼ばせない。死んだ子の代わりに、次の人間を返事させない」


テオも声を出さなかった。


「寒いんだ」


ノラは重ねた封じ布の結び目を締めた。


「寒い場所へ、次を呼ぶな」


戸板の隙間から、煤のような黒い粉が落ちた。甘い薬の匂いが薄れ、代わりに冷えた石の匂いが残る。白い筋はまだ床にあったが、さっきまでのように外へ探る力はなくなっていた。


完全に消えたわけではない。


けれど、町へ伸びようとしていた道は切れた。


封じ布の脇で、焼けた紙片が裏返った。


端に朱い印が残っている。治療所の奇跡認定、研究班の認識札、その二つにあったのと同じ、輪の中へ細い門を立てた印だった。


エルマン・オーリス。


サイラスが一人で作った部屋ではない。誰かが「戻す方法」を渡し、その失敗まで奇跡の名で包んだ。


奥の声は、もう庭の外へ届かない。


ヨルは髪飾りへ鼻を寄せると、すぐに顔を背けた。


「クル……」


「まだ触らない」


ノラは言った。


テオが髪飾りを見た。


「置いていくのか」


「今は遺品じゃない。呼ぶための道具にされている」


ノラは床に落ちた小さな金具から目を離さなかった。


「拾うのは、黙らせてから。名前を返すのは、そのあと」


戸の外では、人が走る足音がまだ続いていた。町の古い井戸や石橋から漏れた声は、全部止まったわけではない。


それでも、この部屋から伸びる声は断った。


ノラは封じ布の残りを確かめた。


多くない。


テオが神殿区の方を見た。


神殿区の鐘が、また鳴った。


今度は長かった。


テオは低く言う。


「あいつは、もう中だ」


ノラは短剣を握り直した。


床には髪飾りが落ちている。戸の向こうでは、もう父を呼ぶ声はしない。ただ、冷えた石の奥で、使われた声の残りが身じろぎしていた。


ノラは髪飾りを拾わなかった。


神殿区の鐘へ向かって、庭を出た。


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