第50話 返事をしなかった子
父が何度も呼んだ。
子は返事をしなかった。
答えたのは、奥の壁だった。
泣いたとも、父を嫌ったとも、助けを求めたとも書かれていない。返事をしなかった、という事実だけが残っていた。
娘の応答について残っているのは、その三行だけだった。
サイラスは戸ではなく、その字を見ていた。
ノラ・ヴェイルは短剣の先を床へ立てる。ヨルは白い筋を鼻で追い、テオは神殿区の鐘を背中で聞いていた。急いでも、ここを残せば同じ声に追われる。
「違う」
声は小さかった。
戸の向こうから、すぐに返った。
「違うよ」
それは子どもの声だった。やわらかく、聞いた者が何かを掛けてやりたくなる声だった。
サイラスの唇が動きかけ、握った紙の角が潰れた。
ノラは短剣の先で床を叩いた。
「返事をするな。取られる」
サイラスの口が閉じる。
その一瞬だけ、戸の下の白い筋が弱まった。ヨルが飛び込み、床の継ぎ目に伸びた一本へ爪を立てる。白い筋は濡れた綿のように裂け、すぐに戻ろうとした。
テオが戸口の横へ手をついた。
顔色は悪い。神殿区へ向かう足を、無理にこの場へ縫いつけているようだった。それでも、外へ伸びる道だけは押さえていた。
「早くしろ」
テオが言った。
「早く行くために、ここを残さない」
ノラは腰から、もう一枚の封じ布を抜いた。戸の下に噛ませた布へ重ねるためのものだ。煤釘の核を包んでいた布ではない。診療所で使う清潔布を、薬と灰で潰したものだ。完全な封じにはならない。それでも、声の筋を鈍らせるくらいはできる。
サイラスは紙から目を離さない。
「答えたのは、奥の壁だった」
唇だけで、その一文をなぞった。
娘が返事をしたのではない。
父が何度も呼び続けた声に、奥の壁が答えた。
戸の向こうの声が、そこで変わった。
子どもの声ではなくなった。
「ここにいる」
サイラス自身の声だった。
丁寧で、穏やかで、人に危険を渡す時でさえ荒げなかった男の声。それが戸板の裏から甘く響いた。
「ここにいるよ」
サイラスの顔がこわばった。
目の前の声を、自分のものだと認めたくない顔だった。
ノラは言った。
「あの子は、あなたに返事をしなかった」
サイラスがゆっくり顔を上げた。
「黙れ」
「答えたのは、奥にいたもの」
「黙れ」
声は荒くなった。戸板へ置いた手は動かない。指先だけが木目へ食い込んだ。
奥の部屋が、また別の声を出した。
「これで足りますか」
若い男の声だった。
続いて、別の声。
「戻れますか」
長くは続かなかった。その二つだけで、サイラスの指が紙を潰した。
ノラには分からない。けれど、サイラスには分かっている顔だった。
娘を呼ぶために燃やしたものが、娘の声だけではなかったと、今さら隠せなくなった顔だった。
「あなたは、娘だけを呼んだんじゃない」
ノラは言った。
「呼ぶために、人の声を燃やした。あの子が返さなかった沈黙を、他人の声で埋めた」
サイラスの手が、床に落ちた髪飾りを探った。指先が金具に触れ、割れた飾りを握る。
「私は、あの子を寒いままにしたくなかった」
「そのために、他人を寒い場所へ送った」
サイラスは言い返さなかった。
その沈黙を、奥の部屋が嫌がった。
戸の下から、白い筋が一気に伸びる。サイラスの足首へ絡み、靴の縫い目へ入り込もうとする。ヨルが低く跳び、筋へ噛みついた。白いものが裂け、床へ散った。
ノラはサイラスの腕を掴んだ。
「立って」
サイラスは動かない。
「立って。ここで返事を奪われたら、あなたの声で次を呼ばれる」
サイラスの口元が歪んだ。
「私の声など、もう使い物にならない」
「穴は、そういう声ほど残す。次の人間を引き止める」
その言葉で、サイラスは改めてノラを見た。
いつもの穏やかな目ではなかった。何年も同じ戸の前に立ち、同じ声を聞き、同じ嘘を自分へ言い聞かせてきた人間の目だった。
戸の向こうから、また子どもの声がした。
「寒い」
サイラスの手が戸へ伸びる。
ノラは腕を引いた。
「行くな」
「まだ寒いと言っている」
「それは娘じゃない。あの子は返事をしなかった」
サイラスは、そこで止まった。
ほんの短い間だった。けれど、白い筋が迷うには十分だった。戸板の下で、白いものが小さく波を打つ。
サイラスは低く言った。
「分かっている」
ノラの手に力が入った。
サイラスは続けた。
「分かっていても、手が離れない」
「分かっているなら、なおさら止める。あの子が返さなかったものを、あなたが返すな」
奥の部屋が、子どもの声をやめた。
「サイラス」
その声は、もう甘くなかった。
父を呼ぶ声ではない。人の弱いところを覚え、その名を使えばどこが裂けるか知っている穴の声だった。
サイラスの足が床を滑る。
ノラは腕を掴んだまま踏ん張った。床板の隙間から白い筋がさらに出る。薬包の紙が破れ、甘い匂いが散った。小さな靴の内側からも、細い白が伸びてサイラスの裾へ絡む。
長く呼びすぎた。返事のない場所へ、他人の声を足しすぎた。
今ここで一本切れば済む話ではなかった。
ヨルが喉の奥で鳴いた。怒りの低い音だった。床の筋へ爪を立て、噛み、また別の筋へ飛ぶ。それでも白いものは別の隙間から出てくる。
テオが歯を食いしばり、ノラへ手を伸ばしかけた。
「押さえて」
「神殿が」
「ここが外へ出たら、神殿へ行く道もなくなる」
テオは言葉を飲んだ。
遠くで、鐘が続けて鳴った。
サイラスが、その音を聞いた。
庭の向こう。町の屋根のさらに奥。神殿区の方角だった。
サイラスは、引かれながら顔を上げる。
その顔には、何度もその言葉にすがり、自分へ言い聞かせてきた者の疲れがあった。
「大司祭は、返事が続くかぎり形は冷えないと言った。足りないところは、核と声で補えると」
ノラは腕を引いたまま聞いた。
「何を隠してる」
白い筋が、サイラスの腰へ届いた。上着の布地がきしむ。髪飾りを握った手が、床へ押しつけられた。
サイラスは戸の向こうではなく、握り潰した相談記録を見た。
「私は、あの子を戻したんじゃない。返事をしなかった場所へ、他人の声を足した」
「神殿は戻す方法を隠しているんじゃない。戻らなかったものを奇跡と呼んで、残された人間に足し続けさせている」
テオの顔から色が引いた。
ノラはそれ以上聞けなかった。
白い筋が、サイラスを一気に奥へ引いた。ノラの手から腕が滑る。掴み直そうとした指先に、冷えた布のような感触が絡んだ。
奥の部屋が、最後に子どもの声を出した。
「お父さん」
サイラスの口が開いた。
返事になる。
ノラは前へ踏み出した。
「奪われる」
サイラスの唇が閉じた。
その目が一度だけ、戸の外を見た。ノラを見たのか、庭を見たのか、神殿の鐘を聞いたのかは分からない。ただ、声は出なかった。
白い筋がサイラスを包む。
扉の隙間が広がったように見えた。黒い穴ではない。子ども部屋の影でもない。湿った壁の奥に、何度も呼ばれた声だけが層になっている場所だった。
サイラスは声を出さないまま、戸の向こうへ引かれた。
髪飾りだけが、床に落ちた。
小さな金具が石に当たり、軽い音を立てる。
ノラは追わなかった。
追えば、自分の足も声も取られる。今するべきことは、奥へ踏み込むことではない。外へ伸びる道を断つことだった。
ノラは二枚目の封じ布を、先に噛ませた布へ重ねるように戸の下へ押し込んだ。
白い筋が暴れる。布の端が湿り、黒ずんでいく。ヨルが床の継ぎ目に噛みつき、白いものを引き裂く。テオが戸板を押さえた。板の内側で何かが息を吸い、戸全体が子どもの胸のように上下した。
奥から、サイラスの声がした。
「開けてくれ」
ノラは動かない。
「その声で、次を呼ばせない。死んだ子の代わりに、次の人間を返事させない」
テオも声を出さなかった。
「寒いんだ」
ノラは重ねた封じ布の結び目を締めた。
「寒い場所へ、次を呼ぶな」
戸板の隙間から、煤のような黒い粉が落ちた。甘い薬の匂いが薄れ、代わりに冷えた石の匂いが残る。白い筋はまだ床にあったが、さっきまでのように外へ探る力はなくなっていた。
完全に消えたわけではない。
けれど、町へ伸びようとしていた道は切れた。
封じ布の脇で、焼けた紙片が裏返った。
端に朱い印が残っている。治療所の奇跡認定、研究班の認識札、その二つにあったのと同じ、輪の中へ細い門を立てた印だった。
エルマン・オーリス。
サイラスが一人で作った部屋ではない。誰かが「戻す方法」を渡し、その失敗まで奇跡の名で包んだ。
奥の声は、もう庭の外へ届かない。
ヨルは髪飾りへ鼻を寄せると、すぐに顔を背けた。
「クル……」
「まだ触らない」
ノラは言った。
テオが髪飾りを見た。
「置いていくのか」
「今は遺品じゃない。呼ぶための道具にされている」
ノラは床に落ちた小さな金具から目を離さなかった。
「拾うのは、黙らせてから。名前を返すのは、そのあと」
戸の外では、人が走る足音がまだ続いていた。町の古い井戸や石橋から漏れた声は、全部止まったわけではない。
それでも、この部屋から伸びる声は断った。
ノラは封じ布の残りを確かめた。
多くない。
テオが神殿区の方を見た。
神殿区の鐘が、また鳴った。
今度は長かった。
テオは低く言う。
「あいつは、もう中だ」
ノラは短剣を握り直した。
床には髪飾りが落ちている。戸の向こうでは、もう父を呼ぶ声はしない。ただ、冷えた石の奥で、使われた声の残りが身じろぎしていた。
ノラは髪飾りを拾わなかった。
神殿区の鐘へ向かって、庭を出た。




