第49話 背中の声を断つ
遠い鐘の余韻が、庭の石壁に残った。
エリオは乱れた息を一度だけ整え、まだ伝えていないことを続けた。
ノラ・ヴェイルが封じ布を握り直す。奥の物置だった部屋はもう形だけを残し、床板の隙間から白い筋が這い、柔らかい布と甘い薬の匂いの下で、冷えた声の気配が壁の内側で息づいていた。
扉の前には、サイラスが膝をついていた。
サイラスの膝は崩れたまま石へ沈んでいた。片手は戸板に貼りつき、もう一方は落ちた髪飾りの脇で床をつかむ。立ち上がる力を使うたび、戸板を押す指だけが深く曲がった。人の流れを読んでいた目は、ノラたちが来ても動かず、戸の向こうだけを見ていた。
「倒れた門番は二人。一人はまだ意識が戻っていません。命はあります。けれど、石畳が焼けていて、神殿側は灰鷹を奥へ入れようとしません。内部で確認すると言うばかりで、人数も出しません」
エリオはそこまで言って、奥の扉を見た。
戸板の隙間からのぞく細く白い指は子どものものに見えても、生きた重さがない。絡みつく白い筋に、部屋の中へ引き戻されていた。
エリオの声が少し落ちた。
「ここも、まだ終わっていないんですね」
「終わってない」
ノラが短く答えると、テオは神殿区へ足を向けた。その一歩が落ちるより先に、奥の部屋からラウルの声がした。
「神殿だ」
テオの肩が跳ねる。
低く、焦げた石の底から出るような響きまで似ていても、そこにラウルの息はない。命令だけを戸板の裏へ貼りつけた音だった。
続いて、今度はテオの声がした。
「急げ」
ノラは足を止めた。
ヨルが低く唸る。小さな黒い体を床すれすれまで沈め、扉の下から伸びてくる白い筋を見ていた。
「今のは」
エリオが息を飲む。
「真似てる」
ノラは答えた。
娘の声でサイラスを引き留めながら、部屋は弟を追うテオの焦りまで拾い、外へ出る道を作ろうとしている。置いていけば背中から呼ばれる以上、神殿へ行くためにも、ここを残しては行けなかった。
サイラスが戸板へ顔を寄せた。
「この子を置いていくな」
声はかすれていた。けれど、責める力だけは残っている。
ノラはサイラスを見る。
「置いていくんじゃない。ここから外へ出さない。あなたの声で次を呼ばせない」
「外へ出たがっているんじゃない。寒いんだ。ずっと、寒いと」
戸の向こうから、小さな声が重なった。
「寒い」
サイラスの手が戸板を押した。
白い筋が、その指に寄る。
ノラは短剣の先で床を叩いた。硬い音に、白い筋が一瞬だけ縮む。
「触らない」
サイラスは振り返らない。
「お前はいつも止める。救うふりをして、奪う」
「奪ったのはあなた」
ノラの声は荒くならず、その代わり一つずつ事実を置いた。
「声も、道も、人の手も。小さな靴を運んだ子も、薬を渡した手も。あの子の部屋を保つために使った」
サイラスの肩が震えた。
エリオは二人の間を見ながら、疑問を抱えたまま、今は問い詰めずに飲み込んだ。
「俺は神殿へ戻ります」とエリオは言った。
「黒い焦げ跡を残す男を追うなら、何を見ればいいですか」
ノラは奥の扉から目を離さない。
「黒い焼け跡。それと、門番も声を真似られた人も、一人にしないで」
エリオはそこで、はっきりうなずいた。
「声が似ていても、ですか」
「似ているほど危ない。本人なら、返事を急がせない」
エリオは短く息を吸った。
「神殿側が拒んだら」
「奥で揉めず、まず外で人を数えて。消えた人と、返事を取られた人を探して」
エリオは唇を結んだ。
納得ではない。だが、受け取った。
「外門から押さえます」
彼は庭を出ようとして、一度だけサイラスを見た。
サイラスはエリオを見なかった。
戸の向こうだけを見ている。部下の怪我も、町へ伸びた声も、今の彼の目には入っていなかった。
エリオは何か言いかけても口にせず、踵を返した。通路の先へ走る足音が遠ざかる。
奥の部屋が、エリオの声を真似た。
「外門から押さえます」
庭の空気が冷え、通路の手前で誰かの足が止まりかけた。紙を抱えた灯口の若い使いが、今の声へ反応して振り向こうとしている。エリオ本人はもう走り去ったのに、声だけが庭に残っていた。
ノラは床を蹴った。
「聞くな。本人はもう行った」
使いは肩を跳ねさせ、紙を胸に抱え直して扉から距離を取った。顔色は悪くても声は出さない。今の声は、さっきより近かった。
ヨルが白い筋へ飛びかかって爪を立て、細くほどいたところへ、床の隙間へ戻る前にノラが封じ布を押し当てた。湿った布の端が灰色に変わる。
テオは戸口近くに立ったまま、神殿区の方を見ていた。
行きたくてたまらない顔なのに足は動かない。さっきの声で自分が呼ばれかけたことを、まだ体が覚えているのだろう。
ノラは言う。
「行くなら、ここを断ってから」
テオは顔だけをこちらへ向けた。
「遅れる」
「このまま行けば、後ろから声を奪われる」
「あいつは待たない」
「この部屋も待たない」
テオは黙った。
神殿へ向いた踵はそのままなのに、肩だけが奥の戸へ残っている。握った手が一度開き、また閉じた。ノラを見ても、どちらへ動くとも言わなかった。
サイラスが戸板を撫でた。
乾いた木を撫でる手ではない。熱を出した子どもの額に触れるような、壊れそうな手つきだった。
「神殿へ行くのか」
ノラは戸板の隙間へ目を戻した。
サイラスは、もうエリオもテオも見ていない。戸の向こうへ顔を向けたまま、ノラにだけ届く低さで言った。
「あそこへ行けば、戻らなかったものまで言葉で飾る。お前も、そういう言葉が欲しいのか」
テオの手がわずかに動いた。
ノラはその手を見た。今追及すればテオもサイラスも何かを言うかもしれないが、戸の下では白い筋が増えている。いま拾うべきは神殿の話ではなかった。
サイラスは戸板へ手を置き直した。
「この子を冷やしたまま、どこへも行かせない」
「その子が本当にここにいるなら、あなたの声であなたを呼ばない」
サイラスの顔が歪み、奥からまた小さな声がした。
「お父さん」
その声で目の色が変わっただけで、白い筋が伸びた。
ノラは前へ踏み込んだ。サイラスの肩をつかむ。彼は思ったより軽くなっていた。いつも整えていた上着は乱れ、袖口には白い筋が細く絡みついている。
「離れて」
「嫌だ」
サイラスは初めて、はっきりノラを見た。
「あの子が一人で泣いていた時、お前はいなかった。誰もいなかった」
ノラの手は、サイラスの肩から離れなかった。
だからノラは言葉で返さず、袖口の白い筋を切った。嫌な音を立てて筋が縮むと、サイラスは腕を押さえ、失ったものに触れた手を払われたように指を宙で止めた。
灯口の使いが、通路の手前で紙束を抱え直した。
「救助屋。灯口の記録係からです」
使いはそこまで言ってはっと口を閉じた。声を出せばこの部屋が拾うと、自分で気づいたのだろう。
ノラは目だけを向けた。
「返事にするな」
使いはうなずいた。
折った紙を差し出す時も近づきすぎず、戸の方も見ず、足の置き方まで慎重だった。
ノラは自分から近づき、紙を受け取った。
灯口の記録印が押されている。古い相談記録の写しだった。端は褪せているが、急いで写した字は新しい。
紙の端には別の筆跡で、〈読ませる。言わせない。返事をさせない〉と小さく書き添えてあった。
書き添えはマルヤの字だった。ノラが全部を読みきる前に最後の数行で指を止めると、部屋の敷居の白い筋も動きを止め、その変化を察したサイラスがゆっくり振り向いた。
「何を持っている」
ノラは紙を畳まなかった。
隠せば、この部屋は隠したことまで食う。読んでも声にすれば拾われるが、紙のままならまだ渡らない。
ノラは使いへ言った。
「灯口へ伝えて。町の声は、家ごとに分けて。戸を叩く声が減っても、一人にしない」
使いはうなずいた。
「小屋の方は」
「付き添いは中に入れました。窓で顔と薬包を確かめてもらってからです。今は二人で戸を閉めています。あの子も無事です」
ノラは一度だけ目を閉じた。
今は、その小さな報せだけで十分だった。
「ありがとう」
使いがすぐに庭へ戻っていくと、その場にはノラ、ヨル、テオ、サイラスと、戸の向こうで息を潜めるものだけが残った。
サイラスが立ち上がろうとした。
膝がうまく伸びなくても、サイラスは紙へ手を伸ばした。
「見せろ」
ノラは紙を下げなかった。
「読むなら、声に出さずに読んで。返事もするな」
サイラスの目が、紙ではなくノラの顔へ向いた。
「あの子のことか」
「だから声にしない」
サイラスの手が止まる。
ノラが紙を差し出すと、サイラスは刃を向けられた時より深く身を引いた。娘の名がある行はノラの親指の下に隠れ、呼びかけへの応答が一度もなかった三行だけが彼へ向いている。その押さえ方を、サイラスは哀れみより罪状を読む指だと思ったらしい。頬の筋が硬くなり、紙より先にノラを睨んだ。ノラにも、娘の名を守ったのか、自分が口にするのを怖がっただけなのか、まだ分からなかった。指を離しかけると、戸の奥で白い筋が紙の擦れる音へ寄った。二人とも声を出さないまま、折れた紙角を挟んで睨み合った。
サイラスは奪うように取らなかった。受け取る指だけが震えていた。
目は最初こそ早く文字を追い、途中で遅くなって、最後の数行で止まった。顔から怒りが抜けても、代わりに理解が入ったわけではない。まだそこまでは届かず、ただ扉の向こうの声と紙の文字が、同じ場所には立てなくなった顔だった。
奥の部屋が、また声を出した。
「お父さん」
サイラスは紙を握りしめた。
サイラスが声を出さなかった、その一瞬だけ戸板の白い筋が弱まった。
ヨルが前足で弱った白い筋を一度叩いて動きを鈍らせ、その合図を受けたノラは封じ布を広げた。
「今」
テオが戸口の横へ回り、伸びていた白い筋を押さえると、床の筋はその足元だけを避けるように震えた。
ノラが扉の下へ押し込んだ布へ白い筋が絡み、その内側で、誰の声にもなれない湿った音が小さく鳴った。
奥の子どもの声が震える。
「寒い」
サイラスの喉が動いた。
ノラは彼を見る。
「返事をするな。取られる」
サイラスは泣かずに奥の戸を見たまま、紙を握る指だけが白くなっていた。
紙の縁が、サイラスの指の中でさらに折れた。
その間に、白い筋はさらに弱まった。消えたわけではないが、外へ伸びる道は細くなった。
神殿区の鐘が遠くでもう一度鳴り、テオはそちらを見たが、今度は奥の部屋が真似ることはなかった。その沈黙のあいだに、ノラは布の結び目を確かめる。
それでも白い筋は床板の奥でまだ脈を打っており、その動きを見たテオが低く言う。
「残ってる」
「分かってる」
ノラは扉を見る。
「次は、奥を止める」
サイラスが紙の端を折り潰し、かすれた声で言った。
「その紙は間違っている」
ノラの視線が、紙からサイラスの目へ上がる。
サイラスの目は、まだ壊れていない。壊れないように、必死で戸板の向こうを見ている。
「あの子は、私を呼ぶ」
奥から、小さく声がした。
「お父さん」
サイラスの唇が動く。
ノラは短剣を握った。
サイラスの唇は、名の形になる前に閉じた。
けれど、今度は沈黙だけでは勝ちにならなかった。
彼は、まだ手を離していない。
戸板の向こうで、同じ声がもう一度ささやいた。
「お父さん」
サイラスは紙を握ったまま、戸から目を離せずにいた。
サイラスは初めて戸板から目を離し、ノラを見た。
「分かっている」
戸の向こうの少女は泣かず、怒らず、次の言葉を探す間もなく同じ調子で父を呼ぶ。生きた娘ではないと理解した目で、それでもサイラスは相談記録を握ったまま、戸の下へ指をかけた。
「なら離れて」
「あの子でなくても、あの子の声だ」
サイラスが板を持ち上げようとし、ノラは短剣の腹を指と敷居の間へ差し入れた。刃を向けられても、サイラスは手を引かない。娘がいないと知った上で、その声だけは残そうとしている。次の人間を呼ばせまいとするノラと、戸板一枚を挟んで押し合った。
その紙に何が書かれていたのか。
ノラは、まだ声にしなかった。




