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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第12章 返事をしなかった子
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第49話 背中の声を断つ

挿絵(By みてみん)

遠い鐘の余韻が、庭の石壁に残った。


エリオは乱れた息を一度だけ整え、まだ伝えていないことを続けた。


ノラ・ヴェイルは封じ布を握り直した。


奥の物置だった部屋は、もう物置の形だけを残している。床板の隙間から白い筋が這い、壁の内側で何かが息をしていた。柔らかい布と甘い薬の匂い。その下に、冷えた声の気配がある。


扉の前には、サイラスが膝をついていた。


倒れたのではない。離れられないでいる。片手は戸板に添えられ、もう片方の手は、落ちた髪飾りのそばで床についていた。


人の流れを読んでいた男の顔ではなかった。


戸の向こうだけを見ている父親の顔だった。


「倒れた門番は二人。一人はまだ意識が戻っていません。命はあります。けれど、石畳が焼けていて、神殿側は灰鷹を奥へ入れようとしません。内部で確認すると言うばかりで、人数も出しません」


エリオはそこまで言って、奥の扉を見た。


戸板の隙間から、小さな指がのぞいている。


子どもの指に見えた。細く、白い。けれど、生きている重さはない。白い筋が絡み、部屋の中へ引き戻している。


エリオの声が少し落ちた。


「ここも、まだ終わっていないんですね」


「終わってない」


ノラは短く答えた。


テオが神殿区の方へ足を向けた。


その時だった。


奥の部屋から、ラウルの声がした。


「神殿だ」


テオの肩が跳ねる。


声は似ていた。低く、焦げた石の底から出てくるような響きまで拾っている。けれど、そこにラウルの息はなかった。命令だけを戸板の裏へ貼りつけた音だった。


続いて、今度はテオの声がした。


「急げ」


ノラは足を止めた。


ヨルが低く唸る。小さな黒い体を床すれすれまで沈め、扉の下から伸びてくる白い筋を見ていた。


「今のは」


エリオが息を飲む。


「真似てる」


ノラは答えた。


さっきまでの部屋は、サイラスを呼んでいた。けれど今は違う。神殿へ向かいたい焦りを拾い、外へ出る道を作ろうとしている。


置いていけば、背中から呼ばれる。


神殿へ行くためにも、ここを残しては行けない。


サイラスが戸板へ顔を寄せた。


「この子を置いていくな」


声はかすれていた。けれど、責める力だけは残っている。


ノラはサイラスを見る。


「置いていくんじゃない。ここから外へ出さない。あなたの声で次を呼ばせない」


「外へ出たがっているんじゃない。寒いんだ。ずっと、寒いと」


戸の向こうから、小さな声が重なった。


「寒い」


サイラスの手が戸板を押した。


白い筋が、その指に寄る。


ノラは短剣の先で床を叩いた。硬い音に、白い筋が一瞬だけ縮む。


「触らない」


サイラスは振り返らない。


「お前はいつも止める。救うふりをして、奪う」


「奪ったのはあなた」


ノラの声は荒くならなかった。


「声も、道も、人の手も。小さな靴を運んだ子も、薬を渡した手も。あの子の部屋を保つために使った」


サイラスの肩が震えた。


エリオは二人の間を見た。疑問を抱えたまま、いまは問い詰めずに飲み込んだ。


「俺は神殿へ戻ります」とエリオは言った。


「黒い焦げ跡を残す男を追うなら、何を見ればいいですか」


ノラは奥の扉から目を離さない。


「黒い焼け跡」


「はい」


「門番を一人にしないで。声を真似られた人も、一人にしないで」


エリオはそこで、はっきり頷いた。


「声が似ていても、ですか」


「似ているほど危ない。本人なら、返事を急がせない」


エリオは短く息を吸った。


「神殿側が拒んだら」


「奥で揉めない。外で人を数えて。消えた人と、返事を取られた人を探して」


エリオは唇を結んだ。


納得ではない。だが、受け取った。


「外門から押さえます」


彼は庭を出ようとして、一度だけサイラスを見た。


サイラスはエリオを見なかった。


戸の向こうだけを見ている。部下の怪我も、町へ伸びた声も、今の彼の目には入っていなかった。


エリオは何か言いかけた。だが、言わなかった。


エリオは踵を返した。


通路の先へ走る足音が遠ざかる。


奥の部屋が、エリオの声を真似た。


「外門から押さえます」


庭の空気が冷えた。


通路の手前で、誰かの足が止まりかけた。


灯口の使いだった。紙を抱えた若い女が、今の声に反応して振り向こうとしている。エリオはもう走り去っている。それでも、声だけは庭に残っていた。


ノラは床を蹴った。


「聞くな。本人はもう行った」


使いの肩が跳ねる。彼女は紙を胸に抱え直し、扉から距離を取った。顔色は悪い。だが、声は出さなかった。


今の声は、さっきより近かった。


ヨルが白い筋へ飛びかかる。爪を立てると、筋は細くほどけた。床の隙間へ戻る前に、ノラが封じ布を押し当てる。布の端が湿り、灰色に変わった。


テオは戸口近くに立ったまま、神殿区の方を見ていた。


行きたくてたまらない顔だった。けれど、足は動いていない。さっきの声で自分が呼ばれかけたことを、まだ体が覚えているのだろう。


ノラは言う。


「行くなら、ここを断ってから」


テオは顔だけをこちらへ向けた。


「遅れる」


「このまま行けば、後ろから声を奪われる」


「あいつは待たない」


「この部屋も待たない」


テオは黙った。


答えを探している沈黙ではなかった。どちらも正しいと分かっている沈黙だった。


サイラスが戸板を撫でた。


乾いた木を撫でる手ではない。熱を出した子どもの額に触れるような、壊れそうな手つきだった。


「神殿へ行くのか」


ノラは戸板の隙間へ目を戻した。


サイラスは、もうエリオもテオも見ていない。戸の向こうへ顔を向けたまま、ノラにだけ届く低さで言った。


「あそこへ行けば、戻らなかったものまで言葉で飾る。お前も、そういう言葉が欲しいのか」


テオの手がわずかに動いた。


ノラはそれを見た。今、追及すればテオもサイラスも何かを言うかもしれない。


けれど、戸の下で白い筋が増えている。今拾うべきなのは、神殿の話ではない。


サイラスは戸板へ手を置き直した。


「この子を冷やしたまま、どこへも行かせない」


「その子が本当にここにいるなら、あなたの声であなたを呼ばない」


その顔が歪んだ。


奥から、また小さな声がする。


「お父さん」


その声に、目の色が変わる。


それだけで、白い筋が伸びた。


ノラは前へ踏み込んだ。サイラスの肩を掴む。彼は思ったより軽くなっていた。いつも整えていた上着は乱れ、袖口には白い筋が細く絡みついている。


「離れて」


「嫌だ」


サイラスは初めて、はっきりノラを見た。


「あの子が一人で泣いていた時、お前はいなかった。誰もいなかった」


ノラの手は、サイラスの肩から離れなかった。


だから、ノラは言葉ではなく、袖口の白い筋を切った。


筋は嫌な音を立てて縮む。サイラスが腕を押さえた。その指は、失ったものに触れた手を払われたように宙で止まった。


灯口の使いが、通路の手前で紙束を抱え直した。


「救助屋。灯口の記録係からです」


使いはそこまで言って、はっと口を閉じた。自分で気づいたのだろう。声を出せば、この部屋が拾う。


ノラは目だけを向けた。


「返事にするな」


使いはうなずいた。


すぐに折った紙を差し出す。近づきすぎない。戸の方も見ない。足の置き方まで慎重だった。


ノラは自分から近づき、紙を受け取った。


灯口の記録印が押されている。古い相談記録の写しだった。端は褪せているが、急いで写した字は新しい。


紙の端に、別の筆跡で小さく書き添えてあった。


読ませる。言わせない。


返事をさせない。


マルヤの字だった。


ノラは全部を読まなかった。


最後の数行で、指が止まる。


庭の奥で、白い筋が動きを止めた。


サイラスがゆっくり振り向く。


「何を持っている」


ノラは紙を畳まなかった。


隠しても、この部屋は隠したことを食う。読んでも、声にすれば拾われる。紙のままなら、まだ渡らない。


ノラは使いへ言った。


「灯口へ伝えて。町の声は、家ごとに分けて。戸を叩く声が減っても、一人にしない」


使いは頷いた。


「小屋の方は」


「戸は開けていません。中の子も無事です」


ノラは一度だけ目を閉じた。


小さな報せでいい。今は、それで十分だった。


「ありがとう」


使いがすぐに戻っていくと、庭にはノラ、ヨル、テオ、サイラスと、戸の向こうで息を潜めるものだけが残った。


サイラスが立ち上がろうとした。


膝がうまく伸びない。それでも、彼は紙へ手を伸ばす。


「見せろ」


ノラは紙を下げなかった。


「読むなら、声に出さずに読んで。返事もするな」


サイラスの目が、紙ではなくノラの顔へ向いた。


「あの子のことか」


「だから声にしない」


サイラスの手が止まる。


ノラは紙を差し出した。


その紙は、サイラスを許すためのものではなかった。扉の向こうの声と、紙に残った事実を同じ場所に置くためのものだった。声にすれば部屋が拾う。だから、紙のまま突きつける。


娘の名を呼ばず、返事をしなかった事実だけを見せるために。


サイラスは奪うように取らなかった。受け取る指だけが震えていた。


目が文字を追う。最初は早く。途中で遅くなり、最後の数行で止まった。


怒りが、顔から抜けた。


代わりに入ってきたのは、理解ではなかった。まだそこまで届かない。けれど、扉の向こうから聞こえる声と、紙の上の文字が同じ場所に立てなくなった顔だった。


奥の部屋が、また声を出した。


「お父さん」


サイラスは紙を握りしめた。


声を出さなかった。


その一瞬だけ、戸板の白い筋が弱まった。


ヨルが前足で、弱った白い筋を一度叩く。


ノラは封じ布を広げた。


「今」


テオが動いた。戸口の横へ回り、伸びていた白い筋を押さえる。床の白い筋が、テオの足元だけを避けるように震えた。


ノラは扉の下へ布を押し込む。白い筋が布へ絡む。絡んだ瞬間、布の内側で湿った声が小さく鳴った。


誰の声にもなれない音だった。


奥の子どもの声が震える。


「寒い」


サイラスの喉が動いた。


ノラは彼を見る。


「返事をするな。取られる」


サイラスの目は奥の戸を見ていた。


泣いてはいなかった。


ただ、紙を握る指が白くなっている。


紙の縁が、サイラスの指の中でさらに折れた。


その間に、白い筋はさらに弱まった。消えたわけではないが、外へ伸びる道は細くなった。


神殿区の鐘が、遠くでもう一度鳴った。


テオがそちらを見る。


今度は、奥の部屋は真似なかった。


ノラは布の結び目を確かめた。


白い筋は、まだ床板の奥で脈を打っている。


テオが低く言う。


「残ってる」


「分かってる」


ノラは扉を見る。


「次は、奥を止める」


サイラスが紙の端を折り潰し、かすれた声で言った。


「その紙は間違っている」


ノラの視線が、紙からサイラスの目へ上がる。


サイラスの目は、まだ壊れていない。壊れないように、必死で戸板の向こうを見ている。


「あの子は、私を呼ぶ」


奥から、小さく声がした。


「お父さん」


サイラスの唇が動く。


ノラは短剣を握った。


サイラスの唇は、名の形になる前に閉じた。


けれど、今度は沈黙だけでは勝ちにならなかった。


彼は、まだ手を離していない。


戸板の向こうで、同じ声がもう一度ささやいた。


「お父さん」


サイラスは紙を握ったまま、戸から目を離せずにいた。


その紙に何が書かれていたのか。


ノラは、まだ声にしなかった。


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