第48話 呼ばせない名
廊下の先へ、黒く焦げた石の匂いが流れていった。
火ではない。焼けたあとに残る熱でもない。石の内側だけを焦がし、冷めたものの匂いだった。ラウルが通った場所には、いつもそれが残る。
ヨルが追うように前へ出た。
けれど、すぐに戻る。
低く鳴き、戸口の下へ鼻先を向けた。
「クルッ」
ノラ・ヴェイルはそこを見た。
敷居の割れ目に、白い筋が絡んでいる。細い。けれど、その先はもう廊下へ出かけていた。倒れている男たちの方へ伸び、柱の根元を伝い、表の戸口へ向かおうとしている。
ラウルを追うなら、今だった。
焦げた匂いはまだ濃い。ヨルなら追える。テオも、廊下の奥を見たまま体を前へ傾けている。
「追うな」
ノラが言った。
テオの目だけが動いた。
「逃がすのか」
「今追えば、この部屋が背中から呼ぶ」
「あいつは神殿筋へ向かう」
「だから、人を下げる。追うのはそのあと」
「そのあとで間に合う相手じゃない」
ノラは敷居から目を離さなかった。
「ここを開けたまま走れば、神殿へ行く背中をこの声が追う」
テオは言い返さなかった。
右足だけが廊下へ出た。左足は敷居に残り、ラウルの名が口元で止まった。
その時、奥の部屋から声がした。
「名を呼ぶな」
ラウルの声だった。
テオの足が止まる。
さっきラウルが吐き捨てた言葉と重なる。けれど、今の声は廊下からではない。奥の部屋から来た。布の山のような影が、ラウルの声を薄く貼りつけている。
テオの顔から、わずかに色が引いた。
ノラは短く言う。
「返事をするな」
テオは口を閉じた。
奥のものは、すぐに声を変えた。
「お父さん」
サイラスの肩が揺れる。
彼は戸口の前に立ったまま、部屋の奥を見ていた。いつもの整った顔はない。袖口は裂け、手の甲には血が乾きかけている。追い詰められた人間というより、そこから離れれば自分の形まで崩れると思っている顔だった。
「お父さん、あの人も呼んで」
子どもの声は優しかった。
頼んでいるだけの声だった。
だから、余計に悪かった。
サイラスはかすれた声で言った。
「やめろ」
初めて、サイラスが奥のものに命じた。
奥の影は従わない。
「呼んで。ここにいるって、言って」
ノラは封じ布を取り出した。
煤と薬草を染み込ませた布だ。濡れてはいない。だが、指に取ると冷たい。小屋でミミを呼ぶ声が床から伸びた時と、同じ匂いが少しだけ残っている。
ノラは敷居の前に膝をついた。
白い筋が逃げる。声を取れなかったものが、別の隙間を探すように床を滑った。
床板と石の間を滑り、廊下の方へ伸びようとした。ヨルが先回りして、柱の根元へ爪を立てる。
「クルッ」
そこだ。
ノラは短剣の先を入れた。刃で切るだけでは足りない。切れば別の隙間から出る。小屋でもそうだった。完全に消せないなら、出口を潰す。
布の端を短剣で押し込み、床板と石の間へ噛ませた。
指の奥で、嫌な熱が小さく灯る。
使いすぎない。
ここで床ごと焼けば、部屋の奥にいるものが裂ける。裂ければ、声はどこへ漏れるか分からない。その熱を刃先ではなく、布の縁だけに集める。
焦げた匂いが強くなった。
すぐに、苦い薬草の匂いへ変わる。
白い筋が縮んだ。
奥の影が、子どもの声ではない音を立てた。濡れた布を喉の奥で絞るような、嫌な音だった。
「やめろ」
サイラスが言った。
ノラは手を止めない。
「廊下へ伸ばすな。人の声で外へ出るなと言ってる」
「その子に触るな」
「その子なら、あなたの声で人を呼ばない」
サイラスの口が開いた。
言葉は出なかった。
代わりに、奥からサイラスの声がした。
「ここにいる」
サイラス本人の口は動いていない。
部屋の空気が、そこで薄く冷えた。
「ここにいる。まだ、ここにいる」
サイラスはゆっくり奥を見た。
今まで聞きたがっていた声ではなかった。寒がる子どもの声でもない。自分自身の声が、自分を部屋へ縛ろうとしている。
サイラスの顔から、血の気が引いていった。
奥のものは、また子どもの声に戻る。
「お父さん」
サイラスの喉が動いた。
返事になる。
ノラは見た。
「返事にするな」
サイラスは唇を震わせた。
それでも、声は出さなかった。
歯が一度鳴った。返事は落ちず、膝だけが戸口の前へ折れた。
奥の白い筋が、ほんの少しだけ縮む。
廊下で、倒れていた男の一人が呻いた。
黒く焼けた腕を胸に抱えた男だった。意識が戻りきっていない。目は開いているが、見ているのはノラでもテオでもない。奥の部屋だ。
「いるの?」
奥から、その男に似た声がした。
男の口が開く。
ノラは腰の清潔布を投げた。
「噛んで。返事をするな」
男は布を見た。意味が分からない顔だった。血と焦げた匂いの中で、言葉を理解する余裕がない。
テオが動きかけて、止まる。
ノラは言った。
「説明より布。今は声を残すな」
テオは男のそばへ行き、布を口元へ押し当てた。
男は抵抗しかけた。だが、奥からもう一度、自分に似た声が聞こえると、目を見開いた。テオの手から布を受け取り、歯で噛む。
声は出なかった。
ノラは敷居の白い筋をもう一度押さえた。
ヨルが壁際へ回る。棚の下、柱の裏、石の継ぎ目。鼻先が次々に動く。嫌がっているのではない。探している。
「クル」
ノラは刃を入れる場所を変えた。
床板の隙間の奥に、小さな歯のようなものが並んでいる。ニカを助けた物置で見たものに似ていた。短い声の残りだ。誰かの「いる」。誰かの「はい」。誰かの「ここ」。言葉になるには小さすぎる声が、床の裏で薄く震えている。
ノラは息を詰めた。
全部を潰す時間はない。
今、外へ出ようとしているものだけを止める。
布を押し込み、刃の腹で押さえる。嫌な熱を通す。白い筋が細く焼け、湿った音を立てて縮んだ。
奥の影が、またラウルの声で言った。
「名を呼ぶな」
テオの肩が固まる。
ノラは視線だけ向けた。
「聞いても、返事をするな」
奥を見ないまま答えた。
「分かっている」
「分かっていても、声が出る時はある」
苦く息を吐いた。
「そうだな」
長い説明はなかった。ラウルとの関係も、神殿のことも、今は出てこない。出せば、この部屋が拾う。名前も、焦りも、後悔も、全部。
廊下の先で、遠く扉が軋んだ。
ラウルの気配は薄くなっている。
ヨルが戸口へ走り、外へ鼻を向けた。焦げた石の匂いは、町の井戸や橋の方ではない。真っ直ぐ、神殿区へ伸びている。
テオが言った。
「神殿へ向かった」
「灰鷹へ知らせる。灯口には町の声漏れを押さえてもらう」
「神殿は、知らせてもすぐには動かない」
「隠す前に、人を下げる。声を取られる人を増やさない」
「お前は、あそこを知らない」
「知っている人間が黙るなら、知らないままでも走る」
テオは返事の代わりに、布を噛んでいる男の肩を支え直した。
廊下の先を二度見た。二度目には、男の足が床を擦って前へ出た。
ノラは布をさらに押し込んだ。指先が熱で痛む。嫌な熱を小さく使っているだけでも、骨の内側が重くなる。ここで倒れれば、封じ布を押さえる手がなくなる。
膝が一度床へ触れた。ノラは封じ布を押さえたまま、空いた手で敷居をつかみ、体を引き戻した。
倒れている男が、布を噛んだまま体を起こした。
ノラは短く言う。
「動ける?」
男はうなずいた。
「外へ。灰鷹に伝えて。黒く焼けた跡を残す男が神殿筋へ向かった。人を近づけるな」
男は声を出せない。布を噛んでいるからだ。
そのまま膝をつき、壁を支えに立つ。
テオが肩を貸し、男を廊下の外まで送った。
ノラは敷居へ視線を戻す。
白い筋は完全には消えていない。布の下で、まだ細く震えている。奥の声も消えない。サイラスは膝をついたまま、部屋の奥を見ている。手放したわけではない。
それでも、廊下へ伸びていた一本は止まった。
外で、灰鷹の笛が短く鳴った。
それに続いて、複数の足音が門を越えてくる。倒れている男を外へ出した者が、すでに人を呼んだのだろう。戸口の向こうで、外套の裾が石を擦る音がした。
エリオが駆け込んできた。外套に朝露と灰がついている。息が乱れているが、目はすでに廊下の倒れた人間と焦げ跡を数えていた。
ノラが先に言う。
「奥へ近づかないで。必要な指示以外は声を出さない。倒れてる人を先に外へ」
エリオは聞き返さなかった。
疑う顔はした。だが、ここで説明を求める顔ではなかった。焦げた床、布を噛む男、膝をつくサイラス、敷居を押さえるノラ。それだけで、今聞く順番ではないと判断したのだろう。
「分かりました」
「神殿筋へ人を回して。黒く焼けた跡を残す男が向かった」
エリオの顔が変わる。
「その件で来ました」
ノラの手が止まりかける。
止めない。
白い筋が布の下で動いたからだ。ノラはもう一度、布を押さえた。
エリオは続けた。
「神殿の外門で、黒く焼けた跡が見つかりました。門番が二人倒れています。死者はまだ出ていませんが、内側へ入られた可能性があります」
テオの顔から色が消えた。
ヨルが戸口で低く鳴く。
「クル……」
奥の部屋から、サイラスの声がした。
「ここにいる」
今度も、サイラス本人の口からではない。
ノラは敷居を押さえたまま、戸口の外を見た。
「あいつが先に着く。ここを残したままでは追えない」
神殿区の鐘が、遠くで一つ鳴った。




