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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第11章 使用済みの核
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第48話 呼ばせない名

挿絵(By みてみん)

廊下の先へ、黒く焦げた石の匂いが流れていった。


火ではない。焼けたあとに残る熱でもない。石の内側だけを焦がし、冷めたものの匂いだった。ラウルが通った場所には、いつもそれが残る。


ヨルが追うように前へ出た。


けれど、すぐに戻る。


低く鳴き、戸口の下へ鼻先を向けた。


「クルッ」


ノラ・ヴェイルはそこを見た。


敷居の割れ目に、白い筋が絡んでいる。細い。けれど、その先はもう廊下へ出かけていた。倒れている男たちの方へ伸び、柱の根元を伝い、表の戸口へ向かおうとしている。


ラウルを追うなら、今だった。


焦げた匂いはまだ濃い。ヨルなら追える。テオも、廊下の奥を見たまま体を前へ傾けている。


「追うな」


ノラが言った。


テオの目だけが動いた。


「逃がすのか」


「今追えば、この部屋が背中から呼ぶ」


「あいつは神殿筋へ向かう」


「だから、人を下げる。追うのはそのあと」


「そのあとで間に合う相手じゃない」


ノラは敷居から目を離さなかった。


「ここを開けたまま走れば、神殿へ行く背中をこの声が追う」


テオは言い返さなかった。


右足だけが廊下へ出た。左足は敷居に残り、ラウルの名が口元で止まった。


その時、奥の部屋から声がした。


「名を呼ぶな」


ラウルの声だった。


テオの足が止まる。


さっきラウルが吐き捨てた言葉と重なる。けれど、今の声は廊下からではない。奥の部屋から来た。布の山のような影が、ラウルの声を薄く貼りつけている。


テオの顔から、わずかに色が引いた。


ノラは短く言う。


「返事をするな」


テオは口を閉じた。


奥のものは、すぐに声を変えた。


「お父さん」


サイラスの肩が揺れる。


彼は戸口の前に立ったまま、部屋の奥を見ていた。いつもの整った顔はない。袖口は裂け、手の甲には血が乾きかけている。追い詰められた人間というより、そこから離れれば自分の形まで崩れると思っている顔だった。


「お父さん、あの人も呼んで」


子どもの声は優しかった。


頼んでいるだけの声だった。


だから、余計に悪かった。


サイラスはかすれた声で言った。


「やめろ」


初めて、サイラスが奥のものに命じた。


奥の影は従わない。


「呼んで。ここにいるって、言って」


ノラは封じ布を取り出した。


煤と薬草を染み込ませた布だ。濡れてはいない。だが、指に取ると冷たい。小屋でミミを呼ぶ声が床から伸びた時と、同じ匂いが少しだけ残っている。


ノラは敷居の前に膝をついた。


白い筋が逃げる。声を取れなかったものが、別の隙間を探すように床を滑った。


床板と石の間を滑り、廊下の方へ伸びようとした。ヨルが先回りして、柱の根元へ爪を立てる。


「クルッ」


そこだ。


ノラは短剣の先を入れた。刃で切るだけでは足りない。切れば別の隙間から出る。小屋でもそうだった。完全に消せないなら、出口を潰す。


布の端を短剣で押し込み、床板と石の間へ噛ませた。


指の奥で、嫌な熱が小さく灯る。


使いすぎない。


ここで床ごと焼けば、部屋の奥にいるものが裂ける。裂ければ、声はどこへ漏れるか分からない。その熱を刃先ではなく、布の縁だけに集める。


焦げた匂いが強くなった。


すぐに、苦い薬草の匂いへ変わる。


白い筋が縮んだ。


奥の影が、子どもの声ではない音を立てた。濡れた布を喉の奥で絞るような、嫌な音だった。


「やめろ」


サイラスが言った。


ノラは手を止めない。


「廊下へ伸ばすな。人の声で外へ出るなと言ってる」


「その子に触るな」


「その子なら、あなたの声で人を呼ばない」


サイラスの口が開いた。


言葉は出なかった。


代わりに、奥からサイラスの声がした。


「ここにいる」


サイラス本人の口は動いていない。


部屋の空気が、そこで薄く冷えた。


「ここにいる。まだ、ここにいる」


サイラスはゆっくり奥を見た。


今まで聞きたがっていた声ではなかった。寒がる子どもの声でもない。自分自身の声が、自分を部屋へ縛ろうとしている。


サイラスの顔から、血の気が引いていった。


奥のものは、また子どもの声に戻る。


「お父さん」


サイラスの喉が動いた。


返事になる。


ノラは見た。


「返事にするな」


サイラスは唇を震わせた。


それでも、声は出さなかった。


歯が一度鳴った。返事は落ちず、膝だけが戸口の前へ折れた。


奥の白い筋が、ほんの少しだけ縮む。


廊下で、倒れていた男の一人が呻いた。


黒く焼けた腕を胸に抱えた男だった。意識が戻りきっていない。目は開いているが、見ているのはノラでもテオでもない。奥の部屋だ。


「いるの?」


奥から、その男に似た声がした。


男の口が開く。


ノラは腰の清潔布を投げた。


「噛んで。返事をするな」


男は布を見た。意味が分からない顔だった。血と焦げた匂いの中で、言葉を理解する余裕がない。


テオが動きかけて、止まる。


ノラは言った。


「説明より布。今は声を残すな」


テオは男のそばへ行き、布を口元へ押し当てた。


男は抵抗しかけた。だが、奥からもう一度、自分に似た声が聞こえると、目を見開いた。テオの手から布を受け取り、歯で噛む。


声は出なかった。


ノラは敷居の白い筋をもう一度押さえた。


ヨルが壁際へ回る。棚の下、柱の裏、石の継ぎ目。鼻先が次々に動く。嫌がっているのではない。探している。


「クル」


ノラは刃を入れる場所を変えた。


床板の隙間の奥に、小さな歯のようなものが並んでいる。ニカを助けた物置で見たものに似ていた。短い声の残りだ。誰かの「いる」。誰かの「はい」。誰かの「ここ」。言葉になるには小さすぎる声が、床の裏で薄く震えている。


ノラは息を詰めた。


全部を潰す時間はない。


今、外へ出ようとしているものだけを止める。


布を押し込み、刃の腹で押さえる。嫌な熱を通す。白い筋が細く焼け、湿った音を立てて縮んだ。


奥の影が、またラウルの声で言った。


「名を呼ぶな」


テオの肩が固まる。


ノラは視線だけ向けた。


「聞いても、返事をするな」


奥を見ないまま答えた。


「分かっている」


「分かっていても、声が出る時はある」


苦く息を吐いた。


「そうだな」


長い説明はなかった。ラウルとの関係も、神殿のことも、今は出てこない。出せば、この部屋が拾う。名前も、焦りも、後悔も、全部。


廊下の先で、遠く扉が軋んだ。


ラウルの気配は薄くなっている。


ヨルが戸口へ走り、外へ鼻を向けた。焦げた石の匂いは、町の井戸や橋の方ではない。真っ直ぐ、神殿区へ伸びている。


テオが言った。


「神殿へ向かった」


「灰鷹へ知らせる。灯口には町の声漏れを押さえてもらう」


「神殿は、知らせてもすぐには動かない」


「隠す前に、人を下げる。声を取られる人を増やさない」


「お前は、あそこを知らない」


「知っている人間が黙るなら、知らないままでも走る」


テオは返事の代わりに、布を噛んでいる男の肩を支え直した。


廊下の先を二度見た。二度目には、男の足が床を擦って前へ出た。


ノラは布をさらに押し込んだ。指先が熱で痛む。嫌な熱を小さく使っているだけでも、骨の内側が重くなる。ここで倒れれば、封じ布を押さえる手がなくなる。


膝が一度床へ触れた。ノラは封じ布を押さえたまま、空いた手で敷居をつかみ、体を引き戻した。


倒れている男が、布を噛んだまま体を起こした。


ノラは短く言う。


「動ける?」


男はうなずいた。


「外へ。灰鷹に伝えて。黒く焼けた跡を残す男が神殿筋へ向かった。人を近づけるな」


男は声を出せない。布を噛んでいるからだ。


そのまま膝をつき、壁を支えに立つ。


テオが肩を貸し、男を廊下の外まで送った。


ノラは敷居へ視線を戻す。


白い筋は完全には消えていない。布の下で、まだ細く震えている。奥の声も消えない。サイラスは膝をついたまま、部屋の奥を見ている。手放したわけではない。


それでも、廊下へ伸びていた一本は止まった。


外で、灰鷹の笛が短く鳴った。


それに続いて、複数の足音が門を越えてくる。倒れている男を外へ出した者が、すでに人を呼んだのだろう。戸口の向こうで、外套の裾が石を擦る音がした。


エリオが駆け込んできた。外套に朝露と灰がついている。息が乱れているが、目はすでに廊下の倒れた人間と焦げ跡を数えていた。


ノラが先に言う。


「奥へ近づかないで。必要な指示以外は声を出さない。倒れてる人を先に外へ」


エリオは聞き返さなかった。


疑う顔はした。だが、ここで説明を求める顔ではなかった。焦げた床、布を噛む男、膝をつくサイラス、敷居を押さえるノラ。それだけで、今聞く順番ではないと判断したのだろう。


「分かりました」


「神殿筋へ人を回して。黒く焼けた跡を残す男が向かった」


エリオの顔が変わる。


「その件で来ました」


ノラの手が止まりかける。


止めない。


白い筋が布の下で動いたからだ。ノラはもう一度、布を押さえた。


エリオは続けた。


「神殿の外門で、黒く焼けた跡が見つかりました。門番が二人倒れています。死者はまだ出ていませんが、内側へ入られた可能性があります」


テオの顔から色が消えた。


ヨルが戸口で低く鳴く。


「クル……」


奥の部屋から、サイラスの声がした。


「ここにいる」


今度も、サイラス本人の口からではない。


ノラは敷居を押さえたまま、戸口の外を見た。


「あいつが先に着く。ここを残したままでは追えない」


神殿区の鐘が、遠くで一つ鳴った。


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