第47話 空だったもの
ラウルは奥の部屋へ踏み出した。
サイラスがその前に立った。ラウルの重心はすでに奥へ移り、次の一歩もサイラスより速い。力で止められるはずはなかった。それでも戸口から退かないサイラスは、片方の袖口が裂け、手の甲には浅い傷の血がついていた。その色だけが、整えられた家の奥で妙に生きて見えた。
「中のものに触るな」
サイラスの声は荒れていた。
これまでノラが聞いたサイラスの声は、いつも薄く整えられていた。人を迷宮へ流す時も紙の隙間を使う時も、怒鳴らず急がず、相手自身に都合のよい言葉を言わせていた声が、今は戸板の前でひび割れている。
部屋の奥から、小さな声がした。
「お父さん」
サイラスの喉が動くのを見て、ノラは短く言った。
「返事にするな」
サイラスは振り向かなかった。
「この子は、私を呼んでいる」
「呼んでいるんじゃない。あなたが返事をするのを待ってる」
サイラスの肩が、わずかに強張った。
ラウルはその横を見ていた。サイラスではない。戸の隙間から漏れてくる白い筋と、床に落ちた焦げた粉と、部屋の奥で揺れるものを見ている。
「どけ」
「入れるわけにはいかない」
「お前に決める権利はない」
「私の部屋だ」
ラウルの手が動いた。
ラウルは刃を使わず、黒い熱で焼きもせず、ただ押しのけた。それだけでサイラスの体は戸枠へ叩きつけられ、背中が木に当たって息が抜ける。
棚から髪飾りが落ち、その脇を黒い筋が走った。
熱ではない。火も出ていない。けれど、石の内側が焦げたような匂いが立ち、白い筋が壁際へ逃げるように縮んだ。
ヨルが低く鳴く。
「クル……」
ノラは短剣を構えた。
ラウルと正面からぶつかるには場所が悪い。廊下には倒れた者がいて、部屋の奥には声を拾うものがいる。サイラスは返事をしかけ、テオも戸口の少し後ろで息を殺している。ここで力をぶつければ何かが裂け、その裂け目から町へ漏れる。
「壊すな」
ノラはラウルへ言った。
「ここで暴れたら、外へ伸びる」
ラウルは振り返らない。
「もう伸びている」
「だから止める」
テオが身を動かし、その口がラウルの名を作りかける。拾われる危険を察したノラは、視線を外さないまま制した。
「ここで呼ぶな」
テオは止まった。
ラウルの背中も、一瞬だけ固くなった。けれど、彼は何も言わず、奥の部屋へ入った。
部屋の中は、子どものための場所に見えた。脚の一本を新しい木で継いだ小さな椅子、底を何度も直した古い靴、欠けた石を細い金具で留めた髪飾り。壁際の棚には甘い薬と角を揃えた布が並び、食器は子どもの手が届く高さに置かれている。どれにも、傷んだ箇所を元の形へ戻そうとした手の跡ばかりが残っていた。
棚の端には、薬屋、靴屋、洗い場、古布の仕立て直しといった小さな仕事の受け取り札が何枚も挟まっていた。誰かが運び、誰かが受け取り、誰かがここへ置いたものだった。
サイラスの爪が、戸枠へ食い込んだ。
けれど薬は減らず、食器に食べた跡はなく、靴の外側には土がつかず、布に体温も残っていない。生きている子が使うためではなく、使われていた形を保つために置かれていた。
サイラスは、誰かを安心させる時に使っていた古い笑い方を一度だけ作ろうとした。口元は上がらず、代わりに手が小さな椅子へ伸びる。触れればそこに子どもの重さが戻ると信じたい指だったが、座面の手前で止まり、空をつかんだ。
部屋の奥に、何かがいた。
灯りを向ければ布の山に見え、少し外せば子どもが座っているようにも見える。輪郭があるのに目を凝らすほど薄くなり、小さな手に見えたものも白い筋の束だった。
「お父さん、寒い」
サイラスが戸口から身を起こし、その重心が声へ応えようと傾くのを見て、ノラは言った。
「今、返事をしたら取られる」
唇が震えた。
「寒いと言っている」
「その声に布を掛けても、生きている子には戻らない」
そこで初めてノラを見た。怒りより先に、拒絶があった。
「お前がそれを言うのか」
ラウルが部屋の中央で足を止めた。
床には、片方だけの耳飾りほどの焦げた輪があり、石に焼きついた黒い円の内側へ割れた小石の欠片が散っていた。煤釘の核だったものの痕跡だが、布に包まれていた時の冷たさも、壁を脈打たせていた重さもなく、使い終わった焦げだけが残っている。
ラウルは膝をついたが、焦げた欠片を拾わなかった。伸ばしかけた指先も途中で止まり、もう触れる意味がないと知った。
ヨルが焦げ跡へ鼻を近づけ、すぐに顔をそらした。核そのものへの嫌悪より、残り香だけを嗅がされた不快さが勝っていた。
「これに使ったのか」
ラウルの声が静かすぎて、部屋の奥の甘い声が一瞬遠くなった。
サイラスは戸枠につかまりながら答えた。後ろの廊下で倒れている男たちを、見なかった。
「この子を保つためだ」
「戻したんじゃない」
「ここにいる」
「違う」
サイラスの顔が歪んだ。
「お前に何が分かる」
ラウルは焦げ跡から顔を上げた。
伸ばしかけた指が焦げ跡を掻き、爪の間へ黒い粉が入った。
「戻った子なら、そんな声で父親を縛らない」
「あの子は私を呼ぶ」
「父親を呼ぶ声なら、ほかの声を探らない」
その言葉に、奥の影が少し揺れた。
白い筋が床を這い、サイラスへ向かう一本のほかにも、廊下で倒れる部下、ノラの足元、テオの立つ戸口、ラウルの影へと細いものをいくつも広げていた。次に使う声を選んでいる。
奥から、ノラの声に似たものがした。
「返事をするな」
似ていても薄く、息の置き方も言葉の重さも足りない。ノラの言葉の表面だけを、濡れた布へ押し当てて写したような声だった。
ヨルが牙を見せた。
「クルル……」
次に、サイラスの声が混じった。
「ここにいる」
サイラスの顔から色が引いた。
自分の声を聞いたのだと、顔を見ればノラにも分かった。
ラウルは焦げ跡を見下ろしたまま、低く言った。
「空だ」
サイラスは答えない。
「お前が、空にした」
「冷えていくのを、もう見ていられなかった」
サイラスの舌が、乾いた上唇を一度なぞった。廊下の呻きには顔を向けなかった。
ノラは受け取り札の束を見た。
「寒い子のために、温かい部屋を作った。そこまでは分かる」
サイラスは黙ったまま、視線だけを奥へ残している。
「でも、その部屋の壁が、運んだ人の声まで探ってる」
奥の影が薄く揺れ、その動きを追っていたラウルは、責める相手を定めたように立ち上がる。
「だから、人の声を燃やしたのか」
ノラは前へ出た。
サイラスの前ではない。ラウルの前でもない。焦げ跡と奥の白い筋の間へ、足を置いた。
「責めるのは外でやれ。ここで壊せば、町へ漏れる」
ラウルがノラを見た。
「お前も止められなかった」
ノラは傷んだ肩を引き、半歩ぶん焦げ跡を踏み崩した。空いた隙間へ短剣を差し出した。
「だから今止める」
ラウルは短く息を吐いた。
笑いではなく、折れた何かが喉から漏れたような音だった。
「ここには、もうない。核は空だ」
テオが、戸口で小さく動いた。
「ラウ――」
ラウルはそちらを見ない。
「俺の名を呼ぶな」
テオの口が閉じた。
部屋の奥のものが、その一拍を拾うように白い筋を揺らした。だが、声にはならなかった。名が形にならなければ、まだ使えない。
ラウルは焦げた輪の跡を一度だけ見て、残った核の行き先を定めたように戸口へ向く。
「残っているなら、神殿だ」
ノラは顔を上げた。
「そこなら、まだ間に合うの」
ラウルは足を止めた。
布の山も、薄い子どもの影も、サイラスの声を真似たものも、床に伸びる白い筋も、焦げた輪の跡も見ずにラウルは言った。
「ここよりは」
それ以上は言わなかった。
ノラも追って聞かなかった。ここで言わせれば知りすぎ、その言葉まで拾われる。今のこの部屋は、答えだけでなく名前も焦りも願いも拾う。
「神殿へ行く気」
「ここで空を眺めているよりは、ましだ」
サイラスが、喉の奥から声を絞った。
「神殿は、そんな簡単な場所じゃない」
ラウルは初めて、サイラスをまっすぐ見た。
「お前より、ましだ」
サイラスは言い返さなかった。
部屋の奥から、小さな声がした。
「お父さん」
サイラスの足が動きかける。
ノラは短剣の柄で床を叩いた。
サイラスの靴先には、子どもの手ではなく白い筋が絡みかけていた。柄の音で足元を見たサイラスは、それを踏まずに足を引いた。
止まっただけで、伸びかけた手の指先は震えている。サイラスはまだ手放さず、これを自分の子だと思っていた。
ラウルは振り返らなかった。
彼の背中から、黒く焦げた石の匂いだけが強く残った。




