第46話 守っている部屋
サイラス側の古い家は、通りから見ると何も変わっていなかった。
窓は拭かれている。入口の石も掃かれている。扉の金具には油が差してあり、外壁の下に積もるはずの土ぼこりも払われていた。
見える場所だけは、いつも通りだった。
ただ、庭奥へ回ると、灯口の封鎖縄には、切り口を結び目の陰へ隠して掛け直した跡があった。今はその継ぎ目ごと黒く焼き切られ、ノラが戸へ結ばせた白布も切られて、泥へ踏みつけられていた。
その戸口の内側で、男が一人倒れている。
ノラ・ヴェイルは、門柱の影に入ってすぐ足を止めた。ヨルが先に低く鼻を寄せ、すぐに顔を横へずらす。
「クル……」
男の肩から腕にかけて、黒く焼けた跡が走っていた。服の布は焦げているのに、周囲へ火が移った跡はない。石畳の一枚だけが、内側から焼かれたように黒く沈んでいる。
ノラは膝をつき、男の首筋に指を当てた。
脈はある。弱いが、途切れてはいない。
「あいつだね」
テオは家の奥を見ていた。
「中にいる」
「この人は」
「死んではいない」
「だから見る」
ノラは腰袋から布を抜いた。肩の焦げた裂け目の下に、刃で切られた傷がある。黒く焼かれたあとに、逃げようとして床へ倒れたのだろう。血は多いが、深い動脈までは届いていない。
布を当て、押さえる。
テオが低く言った。
「遅れる」
「死なせたら、あの部屋が声を拾う」
テオはそこで口を閉じた。
男のまぶたがわずかに動いた。視線はノラを素通りし、家の奥、廊下の暗がりへ向かう。意識の半分が、まだそこに残っていた。
奥から、小さな声がした。
「そこにいるの?」
子どもの声だった。
ヨルの背中の毛が立つ。
男の喉が動いた。
ノラはすぐに男の口元へ清潔布を当てた。
「噛んで。返事にするな」
男は意味が分からない顔をした。血で濡れた手が、布を押し返しかける。
もう一度、奥から声がした。
「そこにいるの?」
責めていない。急かしてもいない。ただ、戸の向こうで待っているような声だった。
男の目が揺れる。
布の奥で、喉がかすかに鳴った。
声になる前の、湿った音だった。けれど、声を出しかけた息だけは漏れた。
その音を拾ったように、戸口の柱の隙間から、男の声に似たものが漏れた。
「……いる」
男の目が見開かれた。
ノラは短剣を抜き、柱の隙間へ刃先を入れた。
白い筋のようなものが、焦げ跡の下から細く伸びている。糸にも綿にも見えず、声が冷えて形だけ持ったようだった。それは男の喉へ向かっていたが、刃に触れた瞬間、ぬるく縮んだ。
ヨルが柱の根元へ爪を立てる。
白い筋はほどけ、焦げた石の匂いが強くなった。
ノラは布を男の歯へ押し込む。
「生きたいなら、今は噛んで。返事をするな」
男は布を噛んだ。
ノラは傷をもう一度押さえ、血が勢いよく出ないことを確認した。ここで時間を使い切るわけにはいかない。けれど、返事にされる人間を後ろに残して進めば、背中から呼ばれる。
「部屋の外まで、触りに来てる」
テオの顔が、少しだけ変わった。
「急げ」
今度は、ノラも否定しなかった。
家の中へ入ると、表の部屋は整っていた。
帳面は机の端でそろえられている。椅子は倒れていない。来客用の茶器は棚にしまわれ、床には掃いた跡が残っている。誰かに見せるための場所だった。
奥へ進むほど、匂いが変わる。
棚の上に、小さな髪飾りが置かれている。
ノラは足を止めた。
髪飾りは前に見たものと似ていたが、欠けた飾りを直した跡があり、金具の曲がりを新しく押し戻した線がある。壁際には子ども用の椅子。箱の中には、布に包まれた小さな靴が見えた。
「あれから、増えてる」
テオは答えず、箱の中の小さな靴を一度見た。
ヨルは髪飾りにも靴にも寄らない。鼻先を低くしたまま、奥の廊下へ向かう。そこに、家の形とは違う冷たさがあった。
廊下には、サイラス側の人間が何人か倒れていた。
全員、殺されてはいない。腕を焼かれた者。壁に叩きつけられた者。膝を押さえたまま、歯を食いしばっている者。誰も、この部屋のために返事を取られるつもりで働いていた顔ではなかった。
刃の傷は一つもない。壁にこすれた血の跡だけが、奥へ続いていた。
ノラは一番近い男の呼吸を確認した。口が動きかけている。奥の声を聞いているのか、痛みに反応しているのかは分からない。
布を渡す。
「噛んで。理由は後で」
男は反論しようとして、奥を見た。
その瞬間、天井の板の隙間から白い筋が垂れた。細く、冷たく、男の口元を探るように揺れる。
男の顔色が変わった。
ノラは短剣の背で筋を払った。白いものは刃を避けるように縮み、壁の割れ目へ逃げる。
「全部は治さない。死なないところまで」
テオは奥を見たまま言った。
「あいつは止まらない」
「止まらないなら、なおさら周りを増やさない」
ノラは男の手に布を握らせた。
「誰の声でも、返事をするな。自分の声が聞こえても」
男は震えながらうなずいた。
ノラは、男の手首に残る紐の跡を見た。荷を運ぶ時についた、硬い縄の擦れだった。
「何を運んだ」
男は布を噛んだまま、首を横に振った。その目に答えはなかった。そもそも何も知らされていない。
扉の奥から、小さく笑うような声がした。
男の肩が跳ねる。
ノラはその反応だけで足りた。ここで働いていた者たちも、守っていたものの正体を知らない。ただ、声を聞かされ、荷を運ばされ、返事をすれば次の餌にされる場所に置かれていた。
ヨルが廊下の先で短く鳴く。
「クルッ」
ノラは立ち上がった。
奥の戸の向こうから、子どもの笑うような声がした。
「あったかい」
廊下の壁にもたれていた別の男が、反射的に顔を上げた。
「よかっ……」
声になりきる前に、壁の白い筋が伸びる。
ノラは男の顎を押さえた。
「その声に返事をするな」
男は青ざめた。
壁の奥から、今度は男の声に似たものが聞こえた。
「……よかっ」
途中で切れた声だった。声を奪いきれていない。けれど、喉の形だけはなぞられている。
ヨルが壁へ爪を立てた。白い筋が震え、焦げた石の匂いを濃くする。
ノラは奥の戸を見てから、テオへ顔だけを向けた。
「奥で暴れさせたら、町へ広がる」
テオは答えず、奥の戸へ体を向けた。否定する動きではなかった。
二人と一匹は、奥の部屋へ向かった。
扉は半分壊れていた。
板の端が黒く焦げ、金具が歪んでいる。鍵は役に立っていない。通ったのはラウルだ。焼いて、曲げて、必要な幅だけを開けた跡だった。
その手前に、サイラスが立っていた。
手に血がついている。袖口は裂け、肩にも黒い焦げ跡がある。顔色は悪い。逃げようと思えば、逃げられたはずだった。
それでも、サイラスは部屋の前から動いていなかった。
ラウルはその正面にいる。
床には、黒く焦げた跡が走っている。白い筋が何本も扉の隙間へ戻ろうとしていた。ラウルの右手には、黒い熱の名残が薄く残り、指先がわずかに震えている。
ノラはその震えを見た。
ラウルも無傷ではない。
だが、止まるつもりもない。
ラウルが低く言った。
「持っていっただろう。煤釘を出せ」
サイラスは答えない。
「隠したなら、まだ間に合う。どこへやった」
サイラスの目は、ラウルではなく、扉の板の隙間を見ていた。
「乱暴に触るな」
ラウルの顔が歪んだ。
「触るな? お前がそれを言うのか」
「ここで壊せば、あの子が起きる」
「起きる?」
ラウルはさらに踏み込んだ。
サイラスが扉を背にする。
「あの子に近づくな」
ノラは、扉の隙間を見た。
小さな手が見えた。
生きている子どもの手に見える。けれど、影が薄い。指先には白い筋が絡み、部屋の内側へ何度も引き戻されている。手の形だけがそこにあり、重さが足りない。
奥から声がした。
「お父さん」
サイラスの顔が変わった。
それは、ノラが外で見たどの顔とも違っていた。穏やかに人を送り出す顔でも、人の流れを組む顔でも、追い詰められて言い訳を探す顔でもない。
失くしたものに呼ばれたように、男はそちらを見た。
ノラは短剣を握り直した。
父親を呼ぶための声に聞こえる。
だが、生きている子が父親へ返した声ではない。
奥の空気が、ひどく温かいふりをしている。甘い薬の匂いがある。布を干したような匂いもある。けれど、そこに子どもが暮らしている匂いは薄かった。食べたものの匂いも、走った足の土も、汗の温度もない。
あるのは、形を保つために集められたものだけだった。
その形を保つために、薬も靴も布も運ばれた。運んだ者の返事まで、壁はもう探り始めている。
ラウルも、扉の隙間を見ていた。
怒りの色が、一瞬だけ変わる。
探していたものを見つけた喜びはない。見つけてはいけない形を前に、目だけが固まっていた。
「どこへやった」
サイラスは答えない。
ラウルがさらに踏み込む。
「煤釘の核を、どこへやった」
奥の小さな手が、扉の隙間で震えた。
「寒い」
その声で、サイラスが初めて声を荒げた。
「近づくな」
ラウルは止まらない。
床の白い筋が、ラウルの靴先へ伸びる。ラウルはそれを踏み潰そうとして、途中でやめた。踏めば、何かが奥で裂ける。そう分かったのだろう。
サイラスは扉を背にして、低く言った。
「剥がすな。あの子がまた寒がる」
ノラは廊下の倒れた男たちを見た。
「その子を温めるために、何人をここへ運ばせた」
サイラスの目が廊下の男たちから逃げ、それが答えになった。
ラウルの足が止まった。
ノラの目は廊下に倒れた男たちへ戻った。テオは、奥の戸から目を離さなかった。
その一言で、廊下に倒れている男たちの意味が変わった。
サイラスは扉を背にした。
廊下の男が呻いた。サイラスは振り返らなかった。
ラウルの指先から、黒い熱の名残が引いた。体の奥へ押し込めたように見えた。
彼はサイラスを見ていなかった。扉の隙間、その奥にある薄い手、その指先へ絡む白い筋を見ていた。
「……使ったのか。あの核を」
サイラスは、扉の奥の小さな手から目を離さなかった。
奥の部屋で、小さな声だけがもう一度言った。
「寒い」




