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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第11章 使用済みの核
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第45話 焦げた石の匂い

挿絵(By みてみん)

掛け金が落ちた音を背に、ノラ・ヴェイルは片手の灯りを下げ、ヨルの鼻先を追った。


ヨルの黒い背は、古い家並みへ向いたままだった。


風向きが変わった。


声漏れの場所に残る匂いは、冷えた煤に似ている。湿った石の隙間から、薄くしみ出すような匂いだ。けれど今、風の下に混じっているものは違った。


もっと黒い。


石を内側から焼いて、冷めたあとに残る匂い。


「町の漏れじゃない」


テオは答えなかった。


ノラは腰の封じ布を確かめ、短剣の柄に指を置く。


「黒く焦げた石の匂いがする」


ヨルの尾が下がり、鼻先だけが古い家並みの奥へ固定された。


袋井戸の出口で嗅いだ。灰鷹の網を抜けたあと、石畳に残っていた焦げ跡にもあった。ラウルが通った場所に残る、嫌な熱の名残。


「あの男は、もう中?」


テオが短く答えた。


「たぶん、もう入っている」


「あの家へ?」


「使った場所を見つけたんだろうな」


答えより先に、止めるものがある。


ノラは灯りの芯を確かめ、腰袋の清潔布を指先で数えた。


「行くよ」


ヨルが先に走り出した。


町へ入ると、朝の通りはいつもの形をしていなかった。


店は開きかけている。荷車も動いている。けれど、誰も声を大きく出さない。戸口に立った者は向かいの家を見て、すぐに顔を引っ込める。井戸の周りには桶が置かれたままで、人だけが離れていた。


遠くで戸を叩く音がした。


とん、とん、とん。


少し間を置いて、また。


「開けてくれ。父さんだ」


男の声だった。


そのすぐ後に、女が叫んだ。


「開けちゃだめ!」


子どもの泣き声が重なる。


「でも、父さんが外にいる」


ノラの足が止まった。


声のする方へ走れば、間に合うかもしれない。戸を押さえる手を増やせる。子どもの口に布を噛ませられる。声を出す前なら、まだ止められる。


灯口の使いが角を曲がってきた。息を切らし、ノラを見つけると足をもつれさせながら近づく。


「井戸近くの家です。昨日声を出した男の声が、隣の家の戸を叩いています。中に小さい子がいて、母親だけでは押さえきれないかもしれません」


ノラは井戸の方を見た。


ヨルは反対を向いている。


古い家並みの奥。サイラス側が借りていた、あの家の方角。黒く焦げた石の匂いは、そちらから濃くなっていた。


奥でラウルが何かを壊せば、町の古い割れ目から漏れている声は、さらに広がる。


迷ったのは一呼吸だけだった。けれど、その一呼吸の間にも、遠くの子どもが泣いている。


「お父さん、何か言ってよ」


「声を出しちゃだめ!」


女の声が割れた。


テオは角の手前で足を止め、マルヤから見えない壁際へ下がった。


通りの向こうで、マルヤ・センドが灯口の者へ指示を出していた。


「声を聞いた人を一か所に集めないで。家ごとに分けて。井戸の周りは二人以上で見るの。ひとりで近づかせないで」


彼女はノラに気づく前から動いていた。


記録帳を抱えている。けれど、紙を読む顔ではなかった。町のどこに人を置くか、誰を離すか、次にどの戸が開きそうかを見ている顔だった。


マルヤはノラの方へ来た。


「奥へ行くのね。あの子の戸口は、私に任せて」


ノラは答えなかった。


井戸から子どもの声がした。ノラの左手が、腰袋の口を塞いだ。


マルヤは待たず、灯口の使いへ手を伸ばした。


「布は」


ノラは腰袋から清潔布を数枚抜き、使いへ渡した。


「戸を開けさせない。返事しかけた人を一人にしない。井戸と壁の割れ目に近づけない。声を聞いた人を集めない。同じ声を、何人にも聞かせる場所を作らないで。泣いている子を叱らないで。叱られたら、次は隠れて返事をする」


使いは布を握りしめ、何度もうなずいた。マルヤが応じる。


「分かった。紙より先に、人を分ける。戸を押さえる人と、水を持つ人も分ける」


ノラはまだ井戸の方を見ていた。


また戸を叩く音がする。


今度は、男の声が少し近くなっていた。


「父さんだ。開けてくれ」


マルヤの声が低くなる。


「こっちは私が止める。あなたは奥へ行って」


「あの子が戸を開けたら」


「開けさせない。だから、あなたもここで止まらないで」


ノラはマルヤを見た。


マルヤの顔には恐れがあった。ないふりはしていない。怖いまま、町の方を向いて立っている。記録帳を抱えている手は白くなっていたが、灯口の使いたちへ向ける声は乱れない。


「紙に残すだけが灯口の仕事じゃない。今日は戸の前に人を置く」


マルヤはそう言って、使いに別の布束を渡した。


「全部を追ったら、原因を逃がすわ」


ノラは短く息を吐いた。


「こっちを頼む。戻るまで、戸を守って」


「戻る前提で言うのね」


「戻らないと、次の手順が渡せない」


マルヤは一瞬だけ、口元を引き結んだ。


「戻ったら、私の記録を直しなさい。あなたがいないと、分からないところは分からないまま残すから」


軽口にはしなかった。戻れと言っている声だった。


「なら、行きなさい」


ノラは頷いた。


布束が、マルヤの腕へ移った。


子どもの泣き声がもう一度した。ノラは一歩だけそちらへ出て、ヨルの背が角を曲がるのを見て足を戻した。


ヨルが走り出す。ノラはその後を追った。テオは少し遅れて続く。足音は軽いのに、距離は離れない。


古い家並みへ近づくほど、通りの音は薄くなった。


朝の光はあり、壁は白く塗り直され、窓枠も拭かれている。通りに面した家々は、昨日までと変わらない顔をしていた。


けれど、空気の底に甘い匂いがあった。


薬の甘さ。柔らかい布を長くしまった匂い。靴油。古い木。以前、あの物置の奥で嗅いだ匂いだった。


その上から、黒く焦げた石の匂いがかぶさっている。


ヨルが足を止めた。


サイラス側の古い家は、今日も表だけは整っていた。入口前の石は掃かれ、金具には油が差されている。窓の縁に埃もない。誰かが、見えるところだけを丁寧に保っている。


見えないところで何を保っているのかは、匂いがもう答えていた。


その奥で、何かが倒れる音がした。


続いて、短い怒鳴り声。言葉までは聞き取れない。すぐに壁の内側で石が砕ける音が響いた。


ヨルが門の隙間へ鼻を近づけ、すぐに体を低くした。


「クル……」


ノラは短剣へ手をかけた。


ラウルは、もう中にいる。


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