第45話 焦げた石の匂い
掛け金が落ちた音を背に、ノラ・ヴェイルは片手の灯りを下げ、ヨルの鼻先を追った。
ヨルの黒い背は、古い家並みへ向いたままだった。
風向きが変わった。
声漏れの場所に残る匂いは、冷えた煤に似ている。湿った石の隙間から、薄くしみ出すような匂いだ。けれど今、風の下に混じっているものは違った。
もっと黒い。
石を内側から焼いて、冷めたあとに残る匂い。
「町の漏れじゃない」
テオは答えなかった。
ノラは腰の封じ布を確かめ、短剣の柄に指を置く。
「黒く焦げた石の匂いがする」
ヨルの尾が下がり、鼻先だけが古い家並みの奥へ固定された。
袋井戸の出口で嗅いだ。灰鷹の網を抜けたあと、石畳に残っていた焦げ跡にもあった。ラウルが通った場所に残る、嫌な熱の名残。
「あの男は、もう中?」
テオが短く答えた。
「たぶん、もう入っている」
「あの家へ?」
「使った場所を見つけたんだろうな」
答えより先に、止めるものがある。
ノラは灯りの芯を確かめ、腰袋の清潔布を指先で数えた。
「行くよ」
ヨルが先に走り出した。
町へ入ると、朝の通りはいつもの形をしていなかった。
店は開きかけている。荷車も動いている。けれど、誰も声を大きく出さない。戸口に立った者は向かいの家を見て、すぐに顔を引っ込める。井戸の周りには桶が置かれたままで、人だけが離れていた。
遠くで戸を叩く音がした。
とん、とん、とん。
少し間を置いて、また。
「開けてくれ。父さんだ」
男の声だった。
そのすぐ後に、女が叫んだ。
「開けちゃだめ!」
子どもの泣き声が重なる。
「でも、父さんが外にいる」
ノラの足が止まった。
声のする方へ走れば、間に合うかもしれない。戸を押さえる手を増やせる。子どもの口に布を噛ませられる。声を出す前なら、まだ止められる。
灯口の使いが角を曲がってきた。息を切らし、ノラを見つけると足をもつれさせながら近づく。
「井戸近くの家です。昨日声を出した男の声が、隣の家の戸を叩いています。中に小さい子がいて、母親だけでは押さえきれないかもしれません」
ノラは井戸の方を見た。
ヨルは反対を向いている。
古い家並みの奥。サイラス側が借りていた、あの家の方角。黒く焦げた石の匂いは、そちらから濃くなっていた。
奥でラウルが何かを壊せば、町の古い割れ目から漏れている声は、さらに広がる。
迷ったのは一呼吸だけだった。けれど、その一呼吸の間にも、遠くの子どもが泣いている。
「お父さん、何か言ってよ」
「声を出しちゃだめ!」
女の声が割れた。
テオは角の手前で足を止め、マルヤから見えない壁際へ下がった。
通りの向こうで、マルヤ・センドが灯口の者へ指示を出していた。
「声を聞いた人を一か所に集めないで。家ごとに分けて。井戸の周りは二人以上で見るの。ひとりで近づかせないで」
彼女はノラに気づく前から動いていた。
記録帳を抱えている。けれど、紙を読む顔ではなかった。町のどこに人を置くか、誰を離すか、次にどの戸が開きそうかを見ている顔だった。
マルヤはノラの方へ来た。
「奥へ行くのね。あの子の戸口は、私に任せて」
ノラは答えなかった。
井戸から子どもの声がした。ノラの左手が、腰袋の口を塞いだ。
マルヤは待たず、灯口の使いへ手を伸ばした。
「布は」
ノラは腰袋から清潔布を数枚抜き、使いへ渡した。
「戸を開けさせない。返事しかけた人を一人にしない。井戸と壁の割れ目に近づけない。声を聞いた人を集めない。同じ声を、何人にも聞かせる場所を作らないで。泣いている子を叱らないで。叱られたら、次は隠れて返事をする」
使いは布を握りしめ、何度もうなずいた。マルヤが応じる。
「分かった。紙より先に、人を分ける。戸を押さえる人と、水を持つ人も分ける」
ノラはまだ井戸の方を見ていた。
また戸を叩く音がする。
今度は、男の声が少し近くなっていた。
「父さんだ。開けてくれ」
マルヤの声が低くなる。
「こっちは私が止める。あなたは奥へ行って」
「あの子が戸を開けたら」
「開けさせない。だから、あなたもここで止まらないで」
ノラはマルヤを見た。
マルヤの顔には恐れがあった。ないふりはしていない。怖いまま、町の方を向いて立っている。記録帳を抱えている手は白くなっていたが、灯口の使いたちへ向ける声は乱れない。
「紙に残すだけが灯口の仕事じゃない。今日は戸の前に人を置く」
マルヤはそう言って、使いに別の布束を渡した。
「全部を追ったら、原因を逃がすわ」
ノラは短く息を吐いた。
「こっちを頼む。戻るまで、戸を守って」
「戻る前提で言うのね」
「戻らないと、次の手順が渡せない」
マルヤは一瞬だけ、口元を引き結んだ。
「戻ったら、私の記録を直しなさい。あなたがいないと、分からないところは分からないまま残すから」
軽口にはしなかった。戻れと言っている声だった。
「なら、行きなさい」
ノラは頷いた。
布束が、マルヤの腕へ移った。
子どもの泣き声がもう一度した。ノラは一歩だけそちらへ出て、ヨルの背が角を曲がるのを見て足を戻した。
ヨルが走り出す。ノラはその後を追った。テオは少し遅れて続く。足音は軽いのに、距離は離れない。
古い家並みへ近づくほど、通りの音は薄くなった。
朝の光はあり、壁は白く塗り直され、窓枠も拭かれている。通りに面した家々は、昨日までと変わらない顔をしていた。
けれど、空気の底に甘い匂いがあった。
薬の甘さ。柔らかい布を長くしまった匂い。靴油。古い木。以前、あの物置の奥で嗅いだ匂いだった。
その上から、黒く焦げた石の匂いがかぶさっている。
ヨルが足を止めた。
サイラス側の古い家は、今日も表だけは整っていた。入口前の石は掃かれ、金具には油が差されている。窓の縁に埃もない。誰かが、見えるところだけを丁寧に保っている。
見えないところで何を保っているのかは、匂いがもう答えていた。
その奥で、何かが倒れる音がした。
続いて、短い怒鳴り声。言葉までは聞き取れない。すぐに壁の内側で石が砕ける音が響いた。
ヨルが門の隙間へ鼻を近づけ、すぐに体を低くした。
「クル……」
ノラは短剣へ手をかけた。
ラウルは、もう中にいる。




