第44話 返事をしない
ほんの少しだけ、口が開いた。
声になる前に、ミミは自分の舌を噛みそうになった。痛みで止めるつもりはなかった。ただ、口の中に何かを置かないと、そこから母の方へ言葉がこぼれていきそうだった。
机の端には、ノラが差し出した布がある。噛めば声は出ない。それは怖さを消す道具ではなく、声を取られないための手順だと分かっていても、それだけでは足りない気がした。
布がなければ声を出してしまうのなら、次に一人でいる時も同じことになる。もう声は戸の外だけにいない。ミミは布を取ったが、すぐには噛まなかった。
「ミミ」
棚の奥の声が、やわらかく呼んだ。
「寒いの。こっちへ来て」
ミミの足元で、ヨルが短く鼻を鳴らした。
ノラは一歩も近づかなかった。布を押しつけることも、ミミの口を塞ぐこともしない。短剣の柄で床板を押さえたまま、棚の奥とミミを交互に見ている。
外で石を押さえる音がした。戸の隙間から姿は見えなくても、土を擦る靴音で、テオが小屋の土台の外側にいると分かる。中へ入ってミミの顔を見ることもせず、声の逃げ道だけを外から塞いでいた。
「そこじゃない」
テオの声が、低く届いた。
「左の土台。白い筋が出ている」
ノラは視線だけを動かした。
棚の左下、床板と壁の継ぎ目。普段なら埃が溜まるだけの細い隙間から、綿でも灰でもない白く冷えたものが糸のように伸びていた。声そのものが細くなって床の割れ目から這い出し、ミミのいる机の脚へ向かっているように見えた。
ノラは短剣を抜いたが、声ではなくミミの選択を先に守るため、まだ刃を入れずに言った。
「聞こえてしまうことは止められない」
ミミは布を握ったまま、ノラを見た。
「聞こえたものを、なかったことにはできない」
棚の奥で、母の声が微かに笑った。
「そうよ。聞いて。ミミ」
ノラの目が細くなる。
「でも、向こうが欲しがる返事は取らせない」
ミミは、握った布を見下ろした。
布の端が、手の中でしわになる。薬草の匂いがした。洗ったばかりの布ではない。小屋の棚に置かれ、誰かの血を止めるために何度も畳まれた布だった。
母はよく布を畳み直し、角がずれれば薬包が漏れることも、道具は困る前に置く場所を決めることも教えてくれた。ミミが覚えているのは、声だけではない。働いていた母の手も残っている。
「母さんなら」
言いかけて、止まった。
言い切るのが怖かった。
母なら絶対にそんなことはしない、と言えば、今聞こえている声を完全に偽物にしなければならない。偽物だと決められれば楽かもしれない。でも、楽ではなかった。声は母のままで、ミミの指の冷え方まで知っている。
本物なのか、違うのか。
分からないまま、母へ返したい言葉を飲み込む。
それが、いちばん苦しかった。
「母さんなら、たぶん怒ります」
ミミは布を持ったまま言った。
声が止まる。
「戸を開ける前に、この子を見なさいって。水桶を伏せなさいって。薬包を床に落とすなって」
ミミは床に落ちた紙を片足で引き寄せた。拾う余裕はなくても、白い筋に触れないよう机の脚の影から外すことはできる。
ヨルが短く鳴いた。
「クル」
「鳴く時だけは素直なんだから」
ミミの声は震えていた。けれど、言葉は途切れなかった。
棚の奥の声が、もう一度やわらかくなった。
「いい子ね」
ミミの胸の内側が、きつく痛んだ。
その言い方を、覚えている。
熱を出して寝台から起きられなかった朝も、包み紙を何枚も駄目にして泣いた昼も、怖い夢を見て母の寝床へ潜り込んだ夜も、その「いい子ね」だけで全部を許された気がした。
だから、今は許されてはいけない。
「それは、ずるいです」
ミミは言った。
白い筋が机の脚へ絡んだ。
薬包の紙が一枚、床で震えた。中の粉がわずかに漏れる。薬草の匂いに、冷えた煤の匂いが混じった。
ノラは短剣を構えたものの、ミミから選択を奪わないよう、まだ刃を入れない。その猶予を嗅ぎつけたように、声が今度は少しだけ近づいた。
「ミミ、声を聞かせて」
喉が動いた。母さん、と言いたい。会いたかった、と言いたい。
母の声がする場所へ行けば、温かい手が本当にあるかもしれない。そんなはずがないと分かっていても、分かっていることだけで足は止まらない。
口が開いた。
「お母……」
そこまで出た。
ノラの指が、短剣の柄を強く握った。
けれど、ミミの口は塞がなかった。
ヨルも飛びつかなかった。足元で身を低くしたまま、白い筋を睨んでいる。
外のテオも黙っていた。
誰も代わりには止めなかったから、ミミは自分で布を口に当てた。
まだ噛まない。
声が甘くなる。
「いい子ね」
ミミは首を横に振った。
「違います」
声が止まった。
「いい子だから、呼ばれた方へ行くんじゃありません」
涙が一つ落ちた。
机の端に当たり、薬包の紙を小さく濡らした。
「私は、ここの助手だから、手順を守ります」
言い終えてから、ミミは布を噛んだ。
布の味がした。薬草と、灰と、乾いた日なたの匂い。ノラの小屋の匂いだった。
白い筋が震えた。
ミミから欲しい言葉を取りきれなかったものが、床の隙間へ戻ろうとする。ノラがその一瞬を逃さなかった。
短剣の刃が床板の継ぎ目へ入り、木の割れる音ではなく、濡れた布を針で裂くような音がした。ノラは力任せに抉らず、刃先で白い筋の縁だけを剥がして封じ布を押し当てる。
ヨルが棚の下へ飛び込んだ。
小さな爪が床板を掻く。白い筋の一本が逃げようとして、ヨルの前足に絡みかけた。ヨルは嫌そうに耳を伏せ、それでも退かなかった。
ミミは布を噛んだまま、ヨルの皿を見た。さっき裏返した皿だ。いつもの場所にないだけで、ヨルはあとで必ず文句を言う。そう思えたことが、ミミを小屋へ引き戻した。
「クルルッ」
「そこを押さえて」
ノラの声が短く飛んだ。
ヨルは床に爪を立てる。白い筋が、細くほどけた。
外から、石が軋む音がした。
テオの声が入る。
「まだ残る」
「どこ」
「戸の下じゃない。棚の裏だ」
ノラは視線だけで位置を拾った。
棚の裏板には、布ではなく声の膜らしい白いものが薄く張りついている。ノラは封じ布の端をそこまで伸ばし、短剣の柄で押し込んだ。黒い熱で小屋の柱に焼けを残せば、ここで眠るミミが毎晩それを見ることになる。
棚の奥が低く鳴った。
母の声ではなかった。
「声をよこせ」
湿った口の奥で、言葉だけが残っていた。
ミミは布を噛んだまま、首を横に振った。
声は出さない。
ミミの声は拾われていた。それでも白い筋は次を呼ぶ前に、封じ布へ落ちた。
ノラは封じ布を押し込み、刃をひねる。床板の隙間から冷えた煤の匂いが噴き、それから急に細くなった。ヨルが棚の下から飛び退く。白い筋が、切れた糸のように床へ落ち、封じ布に吸い込まれる。
薬瓶の栓が、一度だけ鳴った。
水桶の下で、空気が抜ける音がした。
それきり、小屋は静かになった。
遠くでは、まだ町の声がした。戸を閉める音。灯口の使いが走る足音。誰かが誰かへ、声を出すなと叫ぶ声。
けれど、小屋の中からその声が消えたことを耳で確かめてから、ミミは布を口から外した。
すぐには息が吸えず、噛みしめていた顎が痛み、舌の奥が震えていた。声を出せば、さっき飲み込んだものが全部こぼれそうだった。
ノラはミミを抱き寄せず、代わりに椅子を足で寄せた。
「座って」
ミミはうなずき、椅子に腰を落とした。膝の上で布を広げる。小さな歯の跡が、白い布に残っていた。
ノラは棚の下をもう一度確認した。封じ布は黒ずみ、冷えている。煤釘の核を包んでいた時の匂いに似ているが、同じではない。形が薄く伸ばされ、いくつもの隙間を通った後の匂いだった。
木箱の底をずらして薄い箱の蓋を開けると、残した灰喉と赤錆の包みは位置もずれず、結び目も乾いたままだった。ヨルも一つずつ嗅いだ末に、箱ではなく床板の隙間へ牙を見せる。白い筋がそこまで届いていないことを確かめ、ノラは蓋を閉じて木箱の底を戻した。
ヨルがミミの膝へ鼻先を寄せた。
ミミは片手でヨルの頭を撫でた。指先はまだ冷えていた。ヨルの角の根元は、少しだけ温かかった。
「鳴いてくれてよかった」
「クル」
ヨルが少し不満そうに鼻を鳴らす。そのいつもの反応に小屋の時間が戻り、ミミの目から涙が落ちた。
大きな声では泣かなかった。泣けばまた何かが聞きつける気がして、涙だけがヨルの背と布の上に落ちた。
ノラが言った。
「言った言葉は覚えられた。ほかの筋へ渡っていれば、次は君の声で呼ぶかもしれない」
ミミの指が、布の歯形で止まった。
「でも、あれの呼びかけを受け入れる返事はしなかった。覚えられたのは、君が言った分だけだ」
「本物かどうか、分からないんですよね」
「分からない」
「分からないまま、名前を呼ばないの、嫌です」
「うん」
ノラはその先を足さなかった。
ミミは待った。何も来ないので、布の歯形を爪でなぞった。
「それだけですか」
「今は」
ミミは歯形の残った布を、ノラから遠い方の膝へ移した。
「ノラさんには、母さんの声じゃないから、そう言えるんです」
ノラは答えなかった。
「昨日じゃなくて、もっと前に知りたかったです。亡くした人の声で、呼ばれるかもしれないって」
「うん」
棚の下の封じ布を押すノラの指に、床板のささくれが刺さった。
「次は、危険の名前まで先に渡す」
ミミはノラを見た。
「いい子だからじゃありません。助手だから、聞きます」
「分かってる」
外で、テオが短く息を吐く音がした。
戸の向こうにいるのに、疲れた音だけが小屋へ入ってきた。
「広がりは止まっていない」
ノラは戸の方を見た。
「ここは止めた」
「一つだけだ」
「それでも、一つ止めた」
テオは何も返さなかった。
ミミは涙を袖で拭い、布の端と端を合わせて角を押さえた。震えはまだ残っていたが、今度は自分の手で畳み直せた。
「この布、洗います」
「今は置いて」
ノラが手を伸ばすと、ミミは布を胸元へ引いた。
「まだ、触らないでください」
ノラの手が止まった。
「記録に残すなら、君が持っていて」
ミミは答えず、布を両手で抱えた。
ノラは棚の下へ布をもう一枚詰め、薬瓶を元には戻さなかった。空の器は横に、水桶は伏せたまま、ヨルの皿もまだ裏返しておく。
ミミはその一つ一つを見た。
「ノラさん」
「何」
「今日は、ノラさんの声でも開けません」
ノラがミミを見る。
「ヨルが鳴いても?」
「鳴いても。ノラさんが、戸の前で合図をして、私が窓から見て、それでも変だったら開けません」
ミミは口を結んだ。
「ヨルは信じます。でも、戸は別です。信じることと、開けることは別にします」
ノラは戸の閂を見た。
「分かった」
ヨルが不満そうに鳴いた。
「ヨルだけで開けるって言ってないでしょ。皿を伏せたまま文句を言わないで」
ミミの口元が一度動いた。笑いにはならず、涙だけがまた出そうになったので、ヨルの角を両手で挟んだ。
「勝手に先へ行かないでよ」
「クル」
ノラは腰袋へ封じ布をしまい、戸を開ける前にミミを見た。
「奥の棚の後ろへ。灯りは一つだけ。水桶は伏せたまま。紙は折らなくていい。手を休めて」
ミミはうなずく。
「休めます」
少し間を置き、ミミは付け足した。
「でも、薬包の紙は片づけます。粉が漏れるので」
「それは頼む」
ミミは立ち上がった。足元はまだ頼りない。けれど、机へ向かう足だった。逃げる足ではない。
ノラは戸を細く開けた。
外の冷えた空気が入る。テオは少し離れた場所に立っていた。こちらを見ない。小屋の土台の左側、古い石の継ぎ目に片手を当てている。その周りの土が、薄く黒ずんでいた。
「ここから入った」とテオは言った。
「見えた?」
「石の隙間が白く鳴っていた」
ノラはそれ以上聞かなかった。
テオが何をどう見ているのか。なぜ小屋へ入らないのか。なぜ声の筋を知っているのか。今は、そこを開く時ではない。
戸口へ出たヨルは小屋の外で一度鼻を低くし、その鼻先を町の中心や井戸、石橋、灯口ではなく、サイラス側が借りていた古い家の方角へ向けた。
ヨルの尾が低くなる。
「クル……」
ノラは封じ布を握ったまま、足を止めた。
その匂いには冷えた煤だけでなく、石が黒く焦げたような、ラウルの黒い熱の残りに似たものが混じっていた。
テオも同じ方角を見ていた。
「あいつも気づいた」
ノラはミミを振り返った。
ミミは机の前で薬包の紙を拾い、まだ少し震える手で、粉をこぼさないよう二つに畳んでいた。
「ミミ」
「開けません」
顔を上げずに、ミミは言った。
「ノラさんの声でも、今日は開けません」
ノラはうなずいた。
ヨルが戸口で短く鳴く。
外の空は、まだ夜明け前の色をしていた。
ノラは戸を閉める。
掛け金が内側から落ち、その後で椅子を引く音がした。
ノラは初めて、自分には開けられない戸を背中に置いた。




