第43話 母さんの声
小屋診療所の戸は内側から閉まり、そのいちばん奥で、ミミは薬包の紙を折っていた。角を合わせて指の腹で押さえ、薬草の粉が漏れないよう最後の端を爪でなぞる。
外では、町の音がいつもと違っていた。
荷車の音ではない。朝市の呼び声でもない。遠くで戸が閉まる音がし、誰かが短く名前を呼び、すぐに別の声が「声を出すな」と叱った。灯口の使いが走っているのか、石畳を蹴る足音が何度も通り過ぎる。
窓を見れば、ノラがどこにいるのか、ヨルが何を嗅いでいるのか、町で誰が呼ばれているのかと考えてしまい、一つを追ううちに全部が頭の中で散らばる。だから見ない。何か聞こえたら紙を折り、声を出さない。ノラに言われた通り、手だけを動かす。
ミミは畳んだ薬包を端へ寄せ、水桶を戸から離した。ヨル用の皿は、いつもの場所に置いてある。薬瓶の栓は確かめた。棚の下には清潔布がある。奥の棚の後ろへ逃げるなら、机を回って二歩。戸から一番遠い場所だ。
並べた物の位置まで確かめてから、ミミは机の端をそっと指で叩いた。
とん、とん、とん。
少し置いて、とん。
これ以外は開けない。その決まりは声にはせず、自分の指にだけ覚えさせた。一人でいる時に口へ出せば、誰かに聞かせているようで嫌だった。
その時、戸の外から声がした。
「ミミ」
指先が止まった。
ノラの声ではない。マルヤの声でもない。ヨルの鳴き声もない。戸板を叩く音も、合図ではなかった。
ミミは戸へ行かず、紙を一枚取って角を合わせ、指で押さえた。たとえ母の声が聞こえても、この戸が外へ開くことは変わらない。
「ミミ」
二度目は、少し近かった。
薬包の紙が、指の下でずれた。
「寒いの」
ミミは息を止めた。
母の声だった。
忘れていたのではなく、思い出さないようにしていただけだ。朝の湯気の向こうから呼び、洗った布を絞りながら手を拭きなさいと言い、夜には戸口の隙間風を嫌ってミミを寝台の内側へ寄せた声。その同じ声が、戸の向こうにいた。
「ミミ。母さんよ」
ミミは立ち上がり、戸の方へ一歩だけ進んだ。
掛け金は、目の高さより少し下にある。いつもなら、手を伸ばせばすぐ外せる。ノラが帰ってきた時も、ヨルが爪で戸をかいた時も、ミミはその金具を何度も外してきた。
それでも掛け金には触らず、ミミは机へ戻った。母なら、決めた合図を自分のために破らせはしない。
その問いだけが、頭の中で震えていた。母は、ミミが約束を守ろうとする時に、笑って破らせる人ではなかった。けれど声は母のままで、そのことだけが考えを途中でほどいていく。
分からない時は決めた場所を見る。机、紙、戸の掛け金、ヨルの皿。母の声ではなく、自分の手が届くものを順に目でたどった。
「開けて」
手が止まった。
「手、冷えてるでしょう」
指先が、紙から離れかける。
「紙を折る時、いつも指先から冷える子だったね」
それは、知らない人が言う言葉ではなかった。誰にでも当てはまる慰めでもない。小さい頃、冬になると指が動かなくなり、包み紙をくしゃくしゃにして母に直されたことがある。
でも、その記憶はミミ自身の中にもある。
声は、母の記憶を外から持ってきたのではなく、ミミの中から引っ張っているのかもしれない。
「いい子だから」
喉が動き、はい、と言いかけた。
その瞬間、遠くからヨルの鳴き声がした。
「クル」
一度だけ。
ミミは動かなかった。
続いて、戸板を叩く音がした。
とん、とん、とん。
少し置いて、とん。
ミミはまだ掛け金へ手をかけない。
もう一度、ヨルが鳴いた。
「クルッ」
そこで初めてミミは戸へ近づき、掛け金を外す前に戸板へ耳を寄せた。外にはノラの息と、ヨルの爪が石を擦る音、それにもう一人、戸口から少し離れて立つ者の気配がある。
ミミが掛け金を外すと、ノラが入ってきた。外套の裾に石橋の泥がついている。ヨルは先に小屋へ滑り込み、すぐに戸口を離れて奥の棚へ鼻を向けた。
テオは外に残り、中をのぞこうともせず、戸から少し離れた場所でこちらに背を向けていた。
ノラは戸を閉める前に外を見た。
「中には入らないの」
「入らない」
「なら、そこで聞いて」
短い言葉だけを交わしてノラが戸を閉めても、ミミは机の前へ戻れなかった。
「聞こえた?」
ノラの問いに、ミミは揺れる指を隠すように机の縁を握った。
「母さんの声でした」
ノラは否定しなかった。
「君を戸の外へ出そうとしていた」
胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。
「母さんを、使ってるんですか」
「そう見える」
「そんな言い方、嫌です」
思ったより強い声が出た。泣くより先に、母を道具のように言われたことにも、そう言わせるものが本当に外にいたことにも腹が立った。
言い直す言葉を探すように、ノラの目が一度、棚の下へ逃げた。ミミは追及せず、その視線が戻るのを待った。
「嫌な言い方だった」
それから、少しだけ言葉を変えた。
「あの声は、君のために来たんじゃない。君に返事をさせるために来た」
ミミが答えを見つけられないままでいると、その沈黙を切るように、ヨルが小屋の奥で低く喉を鳴らした。
音の出どころは、薬草の束と乾いた包帯、空の瓶が並ぶ棚の下だった。ノラが出かける前にヨルが一度だけ鼻を向けた、床板の古い継ぎ目がある。
ノラはすぐに気づいた。
「奥?」
ヨルは棚の下へ鼻を近づけ、すぐ横へずらす。それから水桶の方を見た。
その時、水が揺れたのではなく、空の器を爪で内側から弾くような小さな音がして、水桶の底から声がした。
「ミミ」
ミミは振り向いた。
水面はほとんど動いていない。声は水桶から生まれたのではなく、床の古い隙間から漏れたものが丸い桶の腹で形を得て、水の底から上がってきたのだ。
ノラが声の響く器を伏せようと水桶へ動くと、戸越しに異変を察したテオの低い声が入った。
「響く場所を減らせ」
指示はそれだけだった。ノラがヨルを見ると、桶の縁を嗅いだ鼻が嫌そうにそれた。
「伏せて」
ミミは桶へ手を伸ばした。
「返事を聞かせて」
母の声が、すぐ近くで言った。
手が止まる。
ノラが取った布は、噛んで声を止めるためのものだとミミにも分かった。それでも、まだこちらへは差し出されない。
ミミは水桶からヨルへ目を移した。ヨルが睨んでいるのは桶ではなく、その下にある床板の細い隙間だった。
「この子が、嫌がってます」
「この子が?」
「はい。怒ってる時と、嫌がってる時は違います」
ミミも桶ではなく、ヨルが見ている床の隙間を見た。怖い声より、嫌がっている相棒の目を信じる方が、まだ自分の手を動かせる。
「ミミ」
母の声が、名前を呼んだ。
ミミは桶の縁をつかんだ。
「だから、欲しがる返事はしません」
ミミが水桶を伏せると、声が歪んだ。
母の声だったものが、一瞬だけ、濡れた壁をこすったような音に戻る。床の隙間へ逃げようとするそれを、ノラが封じ布で押さえた。
ヨルが棚の下へ回り込み、前足を低くして爪を立てる。
白い布の端が床板の継ぎ目に吸い込まれそうになる。ノラは短剣を抜かず柄で浮いた板を押さえ、黒い熱にも頼らなかった。ここは力任せに割ってよい迷宮ではなく、ミミが眠り、薬包を折り、ヨルの皿が置かれる小屋だった。
棚の奥で、薬瓶の栓がかすかに鳴った。
ミミはそちらを見た。
「空の瓶を横にして。皿も伏せて。声を響かせない」
ノラの声は早くない。けれど迷ってはいなかった。
ミミは返事の代わりに、震える手を動かした。薬瓶を倒し、空の瓶を横にして、ヨルの皿を裏返し、水桶をもう一度床へ強く伏せる。診療の時も迷宮帰りの人が担ぎ込まれた時も、ノラの手順を見てきた。怖い時ほど物の場所を決め、倒れやすい灯りは石で囲い、水袋は手の届くところへ置く。声を出せないなら、口ではなく手を動かす。次にすることが決まっていれば、怖さに先を取られずに済む。
助手なら、怖いと言う前に一つ片づける。教わったのではなく、ノラを見ているうちにミミの中へ残った順番だった。
母の声は、止まらなかった。
「ミミ」
薬瓶の腹で、細く響く。
「寒いの」
棚の奥で、少し遠くなる。
「母さんよ」
戸の外ではない。小屋の奥に残っている。
ミミは唇を結んだ。
声は出さない。
ノラは床の隙間へ封じ布を詰め、ヨルが押さえている棚の下を見た。小さな黒い魔物の耳は伏せられている。逃げ出したいのではない。そこにあるものを、嫌いながら見張っている。
外のテオは、説明も慰めも急かす言葉も挟まずに黙っていた。小屋の外側で石の隙間を押さえているのか、時折、靴が土をこする音だけがする。
ミミは薬包の紙へ手を戻した。
もう折る必要はないのに、母の声へ顔を向けないため、指は紙を探し、角を合わせて押さえた。
最後に、棚の奥から、はっきりと声がした。
「ミミ、声を聞かせて」
手が止まった。
今度の声は、桶の中で歪んでいなかった。瓶の腹で響いてもいなかった。棚の奥に、母がしゃがんでいるような近さだった。
「手、冷えてるでしょう」
ミミの指が、薬包の紙から離れた。
「紙を折る時、いつも指先から冷える子だったね」
喉の奥が痛くなる。
言い返したかった。違う、とも言いたかった。違わない、とも言いたかった。寒い。怖い。そこにいるなら、どうしていなくなったのか。どうして今だけ声がするのか。
言葉が、喉の手前まで来た。
ノラは布を差し出した。
噛め、とは言わなかった。
ヨルがミミの足元へ寄る。小さな鼻先が、ミミの袖に触れる。それだけで、ミミは自分が小屋の中にいることを思い出した。
棚の奥の声が、もう一度呼ぶ。
「こっちへおいで。母さんが温めてあげる」
ミミは布を見なかった。
棚の奥を見た。
返事になる前の息だけが、喉の奥で熱くなった。




