第42話 使われた核
古い石橋の下には、水がなかった。川だった場所には、乾いた泥と苔の匂いだけが残っている。橋脚の根元では、泥を吸いすぎて色も来歴も分からなくなった布切れが一つ絡んでいた。
ノラ・ヴェイルが橋の上から見下ろす間に、ヨルは先に石段を下り、乾いた泥ではなく石の隙間へ黒い鼻先を寄せた。マルヤ・センドも灯口の記録帳を抱えたまま、橋の欄干に手を置いた。
「井戸へ向かったはずなのに、ここまで来ていたそうよ」
「誰が止めた」
「息子夫婦。けれど、一度家へ戻した後で、また出た。今度は井戸じゃなく、橋の下へ」
マルヤの声は早くない。怒っている時ほど、彼女は記録を読み上げるように話す。
橋の下では、背の曲がった老婆が泥の上に立ち尽くし、両手で胸元の布を握っていた。本来なら足取りはしっかりしている人なのだろう。だが今は、橋の奥ではなく橋脚の陰だけを見ている。ノラは視線の先を横切らないように石段を下りた。
「聞こえますか」
老婆は振り向かなかった。
「聞こえるよ。さっきまで、井戸の中からだった。あの人の声だった」
「亡くなった旦那さん?」
マルヤが問いを急かさない声で確かめると、老婆は橋脚の陰から目を離さないままうなずいた。
「先に逝った人だよ。名前を呼ばれて、まさかと思った。井戸にいるはずがないのに、声だけは間違えようがなかった」
ヨルが橋脚の根元で足を止める。老婆はその変化にも気づかず、家を出た経緯を続けた。
「息子に止められた。戸に鍵もかけられた。でも今度は、息子の声がした。母さん、ここだって。ここにいるからって」
「息子さんは家にいる」
「分かってる。分かってるんだよ」
分かっていても足を止められなかった、その悔しさに老婆の声が揺れた。
「でも、橋の下へ来たら、今度は私の声がした」
泥の奥から、やわらかい音がした。
水が動いた音ではなかった。乾いた場所で、濡れた喉だけが鳴るような音だった。
「ここにいるよ」
老婆自身が喋ったのではない。口は閉じている。けれど橋脚の陰から、老婆と同じ声がした。
「ここにいるよ。声を出して」
自分の声に呼ばれた老婆の肩が震え、返事が漏れる前に間を詰めようと、ノラは一歩近づいた。
「返事をしないで」
老婆は振り向いた。顔には怒りではなく、迷いがあった。
「私の声だよ」
「だから危ない」
「自分の声に返事をして、何が悪いんだい」
「次は、その声で家の人を呼ぶ」
老婆は口を開いた。
橋脚の陰から、今度は男の声が重なった。
「母さん」
それは、老婆の息子の声なのだろう。老婆の顔が崩れかけた。
「母さん、そこにいるなら声を聞かせて」
マルヤが一歩動くのを、ノラは手で制した。説明を重ねれば、その分だけ老婆の中で声を出したい理由まで育ってしまう。
ノラは腰の袋から清潔布を出した。
「噛んで」
老婆は布を見た。
「そんな、子どもみたいに」
「声を取られないため。次の人を呼ばせないため」
「私は、あの人に一言だけ」
「その一言で、次は息子さんが橋の下へ来る」
家族の姿を思い浮かべたのか、老婆の手が止まった。
泥の奥が、また老婆の声で言った。
「ここにいるよ」
老婆は布を受け取ってもすぐには噛めず、両手で胸元に握って皺にした末に、ようやく口へ当てた。歯が布を押さえた瞬間、橋脚の陰の声が少しだけ歪む。
「ここに——」
「クル……」
ノラが老婆の肩を支えて橋脚から引き離すと、もつれた足をマルヤが反対側から支えた。
泥の下から、老婆の声がまだ追ってきた。
「ここにいるよ」
それでも老婆は声を出さず、布を噛んだまま目だけで泣いた。唇の端からずれた布を震える手で歯へ押し戻すと、橋の下は次の言葉を作れず、息子の声も亡夫の声も少し遠くなった。
石段の上へ出ると空気が変わった。欄干の近くに座った老婆へマルヤは水袋を渡したが、布を外してよいとは言わず、老婆も自分からは外さなかった。
「家まで送らせるわ」
「黙らされた、って書かないで」
ノラが言うと、マルヤは老婆の手元を見た。布を握る指はまだ震えている。それでも、橋の下へ向かっていた時とは違う。誰かに止められているだけの手ではなかった。
「返事をしなかった、って書くわ。選んだところまで消さない」
マルヤは灯口の使いへ短く指示を出した。
「井戸と橋には、しばらく近づけないで。聞こえた声の名前を聞き出す時は、一人ずつ。集めないで。怖がらせて閉じ込めるだけにしないで。水と、そばに座る人を置いて」
使いが青い顔でうなずいて走るのを見送り、ノラはもう一度橋の下へ戻った。ヨルは橋脚の根元で石の隙間へ鼻を押しつけ、逃げるほど嫌がりはしないものの、すぐ別の継ぎ目へ鼻先をずらして嗅ぎ直している。
「煤釘に似てる?」
ヨルは乾いた泥の上を少し歩き、橋の奥ではなく町の方へ鼻を向けた。
ノラは触れないぎりぎりまで指を近づけた。そこにある冷えた煤の匂いは、煤釘の核を布で包んだ時の嫌な冷たさに似ているが、もう形を崩している。箱に収まっていた匂いではなく、核に残る声を誰かが使い、削って薄く延ばし、町の古い隙間へ流した気配だった。
さらに、甘い薬と柔らかい布、古い靴油、閉め切った部屋の湿り気が混じっている。ノラの中で、サイラス側が借りていた古い家、その奥の物置、外を歩いていない小さな靴、薬の包み、白い綿のようなものに縁取られた割れ目が一つにつながった。
マルヤが石段の上から記録帳を差し出した。
「声の場所、追加分よ。井戸、物置、石橋、古い塀の割れ目。ばらばらに見えるけど、中心を取ると、あの家の周辺から広がっている」
ノラは帳面を見た。
帳面の黒い点はいくつもあり、そのどれもが、水の涸れた場所、閉じ損なった物置、修繕で塞いだはずの壁といった町の古い傷だった。人がもう使わないと決めた場所から、声だけが出てきている。
「核を使ったんだね」
ノラは言った。
マルヤの目が細くなる。
「誰が」
ノラは答えなかった。
ここで名を言えば、問いが増える。どうして分かるのか。何を使ったのか。いつ奪われたのか。灰鷹には何を隠しているのか。
今、必要なのは名前ではない。
「煤釘の核を、迷宮の外で」
マルヤは帳面を閉じなかった。
「答えないなら、答えなかったと書くわ。あとで空欄に戻せとは言わないで」
ノラは返さなかった。
「灯口へ戻るわ。聞いた人を一か所に集めない。返事をした人は、井戸や物置に近づけない。聞き取りも戸別にする」
「声の真似をされても、確認に走らないように」
「分かった」
マルヤは一度、小屋の方を見た。
「小屋の子は?」
「戸を閉めてる」
「なら、私は町を止める。あなたは出どころを追って」
マルヤは記録帳を抱え直した。
「聞いた人を責める言い方はさせない。責められたら、次から隠す。隠せば、あの声に先を取られる」
「灯口の人間、そこまで聞く?」
「聞かせるわ。記録は、人を黙らせるためにあるんじゃない」
マルヤは迷わず踵を返した。灯口の使いが二人、彼女についていく。
橋の下にノラとヨルだけが残った時、橋の影から声がした。
「もう元には戻らない」
ノラは短剣の柄に手をかけた。
ヨルは唸らない代わりに、尻尾を低くしたまま近づこうともしない。その先に、古い神殿の外套に似た服の男が立っていた。足音はあったはずなのに乾いた泥に深い跡はなく、影に半分隠れた顔はテオのものだった。
「知ってた?」
問いを向けられても、テオはノラではなく橋脚の隙間を見た。答えより先に、そこに残る声の状態を測る横顔だった。
「使えば、こうなる」
「知っていて、止めなかった」
「持っていたのは、お前じゃない」
「奪われた」
「なら、使った奴を止めろ」
「簡単に言うね」
「難しく言えば、止まるのか」
ノラはテオを睨んだ。
「何が起きてる」
「核に残っていた声が、町の古い隙間を探している」
「迷宮の口が開いてるわけじゃない」
「口じゃない。漏れだ」
橋の下で、さっきの老婆の声がかすかに響いた。
ノラはそちらを見ずに聞く。
「塞げる?」
「少しなら」
「全部は」
テオの視線が、橋脚のさらに奥へ動いた。
答えの代わりに落ちた沈黙で足りた。
ノラは封じ布を取り出し、薬を染み込ませた。橋脚の根元へ詰めようとすると、テオが短く言った。
「そこじゃない」
ノラの手が止まる。
テオは橋脚の下、泥に半分隠れた石の継ぎ目を指した。
「声が出ているのは下だ」
ノラはテオを見た。
すぐには従わなかった。ヨルを見る。
ヨルは指された継ぎ目へ鼻を近づけ、低く鳴いた。
「クルッ」
確かな合図を得て、ノラは封じ布を細く折り、石の継ぎ目へ差し込んだ。薬が泥に滲むにつれて橋の下の老婆の声は薄く震え、完全には消えなくても、すぐ耳元にいるような近さだけは削れていった。
ノラは立ち上がった。
「信用したわけじゃない」
「するな」
「邪魔をしたら置いていく」
「置けるならな」
テオの返しに、ノラは何も言わなかった。
ヨルが追う次の匂いは、使われなくなった井戸へ続いた。ノラは水桶を伏せて縄を外し、亡夫の声を聞いた男を灯口の者が来るまで一人にしないよう頼む。縄をなくすだけでは、その声へ戻りたい理由まで消せないからだ。
古い物置では壁の割れ目へ薬布を詰める間、中から若い女の声が「開けて」と繰り返した。声を塞ぎきれなくても、近づく者が呼び声より先に危険を判断できるよう、ノラは返事の代わりに白い布を戸へ結ばせた。
石橋の下へ戻る頃には、町の音が少し変わっていた。
騒ぎにはなっていない。それでも戸を閉める音は増え、井戸端の声が減った代わりに灯口の使いが路地を走っている。ノラが息を整えようとした時、足元のヨルが町の古い傷ではなく、小屋の方を向いて止まった。
「小屋?」
ヨルは耳を伏せ、黒い鼻先を上げる。嫌なものを見つけた時ではない。まだ遠いものが、こちらへ向きを変えた時の反応だった。
テオも同じ方を見た。
「近い」
「小屋へ?」
「漏れた声は、穴からだけ出るわけじゃない。帰る場所を探す」
朝の小屋で、ミミが薬包の紙を押さえ、ヨルがいなくても声だけでは戸を開けない、ノラの声でも疑うと答えた姿が浮かんだ。手順は決めた。だが、あれが真似るのはノラだけとは限らない。
橋の下から、かすかな音がした。
老婆でも、亡夫でも、息子でもない。
まだ誰のものとも言えない、人の名を呼ぶための形を探している音だった。それが町の石の隙間を伝い、小屋の方へ伸びている。
テオが低く言った。
「その声を、家の中へ入れるな」
ノラが走り出すと、ヨルの黒い体が先に路地の影を抜け、テオの足音が少し遅れて続いた。
町のどこかで、閉めたばかりの戸が一枚、内側から震えた。
ノラは振り返らない。
小屋の方角から、ミミの名を呼ぶ声が、まだ遠くで形を作ろうとしていた。




