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第41話 窓の外の声

挿絵(By みてみん)

その夜が明ける前、小屋診療所に男が来た。ノラが荷抜け道から戻って数時間しか経っていない。戸を叩く音は弱く、眠っている家への遠慮ではなく、もう叩く力が残っていないことを伝えていた。


ノラ・ヴェイルが戸を開けると、町の職人らしい男が片手を布で押さえて立っていた。四十を少し越えた顔には汗が浮いているが、酒の匂いはなく、血の匂いも深手のものではない。


「切った」


男はそれだけ言った。


「入って」


灯りを増やして診療台の横へ座らせると、掌の傷は割れた硝子によるもので、出血こそあっても腱には届いていなかった。むしろ気になったのは、前腕に何本も走る木擦れの傷と、窓枠へ爪を立てたような指の腹の赤みだった。


ノラは洗浄用の湯を寄せ、前腕の木擦れが示す動きを頭の中でなぞった。


「落ちた?」


男は傷よりも落下寸前を思い出したように顔をしかめた。


「落ちる前に、息子が止めた」


「二階?」


「そうだ」


傷を洗うと、男は痛みに肩をこわばらせても声を上げず、傷口ではない何かを恐れるように目を伏せた。


「窓から身を乗り出した理由は」


男はすぐには答えなかった。


小屋の外では、まだ鳥も鳴いていない。戸の隙間から入る空気は冷たく、薬草の匂いが漂う診療台の上では、湯気が白く立っていた。


「女房が呼んだ」


男は、自分でその言葉を嫌がるように口元を歪めた。


「死んだ女房だ。三年前に熱で死んだ。なのに、夜中、窓の外から俺の名を呼んだ」


ノラの手は止まらなかった。傷の周りについた木屑を取り、硝子の小さな欠片が残っていないかを確かめる。


「見たの?」


「見てない。声だけだ。でも、あれは女房だった」


「声を出した?」


「出した」


湯の中に薄い血が広がる。


「寝ぼけていたのかもしれない。けど、あいつの声で呼ばれて、黙っていられる方が変だろ。声をかけたら、窓の外に立っている気がして……気づいたら、窓枠をつかんでいた」


男は傷のない方の手で、膝の布を握った。


「息子が腕をつかんだ。あいつが起きていなかったら、俺は落ちていた」


「息子さんは、どうして起きたの」


男はそこでノラを見た。その目の奥に、ようやく本当の怯えが出た。


「俺の声がしたんだと」


ノラの手が、そこで初めて止まった。


「どこで」


「隣の部屋の戸だ。俺は窓にいた。なのに、息子の部屋の戸を、俺の声が叩いた。『開けてくれ』って。息子は戸を開けかけて、俺が窓にいるのを見た」


小屋の奥で、紙が小さく鳴った。


ミミが薬包を作っている音だった。起きていたのだろう。いつもなら、紙を折る音はもっと軽い。今は、指先だけで紙を押さえているような音がした。


男の袖には迷宮の灰も魔物の爪痕もない。だが縫い目には、焚き火や窯とは違う、濡れた石の奥で冷えた煤のような匂いが薄く残っていた。それを拾ったのか、寝台の下から出てきたヨルが男の足元で袖口を嗅ぎ、一度きりで気に入らなそうに鼻先をそらす。


「煤の匂い?」


ヨルは戸口ではなく町の方へ鼻を向けた。尾を低くしても逃げようとはせず、そこに気に入らないものがあると告げる立ち方だった。ノラはその向きを覚えながら、男の手へ薬を置いて布を巻いた。


「死んだ女房の声に、返事をするなって言うのか」


男の声はかすれていた。


「それが本当に奥さんなら、息子さんの戸をあなたの声で叩かない」


男は言葉を失った。妻の声を疑えば、大事な思い出まで汚す気がするのだろう。否定したい色が顔に浮かんでも、息子が別の戸を開けかけた事実までは消せなかった。


ノラは結び目を締める。


「次に聞こえても、返事をしないで。窓も戸も開けない。できないと思うなら、先に息子さんに言って。自分が窓へ行こうとしたら止めろって」


「息子に、そんなことを」


「止めたのは、その子でしょ」


男は傷を巻かれた手を見下ろした。


「灯口へ行って」


ノラは薬包を一つ出した。


「聞こえた場所、声にした言葉、息子さんが聞いた声。忘れたいところほど、紙に残して」


「女房の名前も?」


「書けるなら」


男は苦い顔で笑おうとして、失敗した。


「死んでから、こんな形で書くとは思わなかった」


「書かずに隠すと、あの声に先に使われる」


男はもう反論しなかった。


ミミが奥から薬包を持ってきた。髪は少し乱れている。顔は眠そうなのに、目は覚めていた。男の話を聞いた顔だった。


「朝と夜です。水で飲んでください。お酒は、今日はだめです」


ミミは薬包を男の手元へ置き、少し迷ってから付け足した。


「息子さんにも、同じ話をしてください。隠すと、次に止められません」


男はミミを見た。子どもに言われると思っていなかった顔だった。


「……あいつに叱られるな」


「叱れるなら、起きているってことです」


男の口元が、今度は少しだけ本当に動いた。


「ありがとう」


戸口まで見送ると、男はまだ薄暗い道を町の方へ歩き、途中で一度だけ空を見た。窓を探したのか、もういない妻を探したのかは、遠目には分からない。ノラが戸を閉めると、ミミは薬包の残り紙を揃えながら、こちらを見ないふりをしていた。


「ミミ」


呼ばれて、紙の角を押さえていた指が止まる。


「はい」


「今日は、声だけでは戸を開けないで」


ミミの指が、揃えた紙の角を強く押さえた。


「まずヨルを見ます」


「ヨルがいない時は、私の声でも開けない」


そこでようやく顔を上げた。


「ノラさんの声でも?」


「声だけなら、私でも疑って」


足元のヨルが、自分なら見分けられると言いたげに鼻を鳴らす。ミミはその顔と戸を見比べ、少し考えてから机を指で軽く叩いた。


「じゃあ、怪我をしていない時の合図も決めてください。声だけじゃないやつ」


ノラは戸を見る。


「三回。間を置いて、もう一回」


ミミは机を叩いた。


とん、とん、とん。


少し置いて、とん。


「これですね」


「それ以外は開けない」


「忘れたら?」


「もう一度、手で確認する。声だけで決めない」


ミミはもう一度、机の端に指を置いた。怖さを消すためではなく、怖くなった時に手が先に動くように。


「ヨルが、外で変な顔をしていたら?」


「開けないで、奥の棚の後ろへ」


ミミは、包帯と薬瓶と乾いた布しかない棚を見た。逃げ場所としては頼りなくても、小屋の中では外の戸から一番遠い。


「覚えました」


その声は小さかったが、震えてはいなかった。


ノラは診療台を拭き直した。硝子の欠片を布に包み、血のついた水を外へ捨てようとしたところで、また戸が叩かれた。


今度は、遠慮のない叩き方だった。


「ノラ、いる?」


マルヤ・センドの声だった。


ノラは返事をせず、戸脇の窓へ回って布を指一本分だけめくった。紙束を抱えたマルヤの姿が窓越しに見え、ヨルも戸の下から入る匂いを確かめて唸らない。


ノラは窓枠を三回叩いた。間を置いて、もう一回。ミミが奥で小さく息を吸ったのが分かった。


それから戸を開ける。


マルヤは外套の襟を立て、片腕に灯口の紙束を抱えていた。夜明け前から歩き回った顔だった。寒さより、聞いた話の方で頬が固くなっている。


「怪我人が来た?」


「来た。窓から落ちかけた」


「こっちにも来てるわ」


マルヤは机へ紙束を置き、その角をそろえた。


「全部読むと長くなる。今いる分だけ」


「責めるための紙じゃないわ。次に同じ声で呼ばれないように、どこで何が聞こえたかを残すための紙」


彼女は一枚目を広げた。


「古い井戸のそばで、死んだ弟の声を聞いた女がいた。名前を呼ばれて、声を出しかけたところを近所の者が止めている」


一枚目を脇へずらし、マルヤは次の紙を示した。


「路地の角で、井戸の中から亡くなった夫の声を聞いた老婆。家族が連れ戻した。けれど、その後、老婆の声が別の家の雨戸を叩いた。本人は家の中にいたのに」


ノラが受け取った紙の字は、灯口の記録係の整った筆跡ではない。相談を受けた者が、まず消さずに残そうと急いで書いたものだった。


「声は」


「女は出していない。老婆は、短く出したらしいわ。『いるよ』と」


「それだけで、声が移った」


ノラは朝の男の袖口を思い出した。冷えた煤の匂い。ヨルが鳴かなかった沈黙。窓にいた男の声が、隣室の戸を叩いたこと。


「場所に偏りがある?」


マルヤは古い地図の写しを広げた。


「井戸、物置、石橋の下、壁の割れ目。どれも古い閉じ損ないか、枝口の近くにある。記録が正しければ、だけど」


「全部ずれてはいない」


「ええ。嫌な当たり方をしてる」


ヨルが机の下で低く喉を鳴らした。


ノラは地図の上で、古い井戸から使われていない物置、石橋の影へと指を移した。どれも普段なら人が見向きもしない、道の脇に残った傷のような場所で、塞がっているように見えて完全には塞がっていない。


「迷宮の中じゃないのに、人を呼んでる」


マルヤは窓の外を見た。


「町の中で?」


「町の古い傷から漏れてる」


言い切った瞬間、小屋の外を走る足音がした。


足音は戸の前で止まらず、一度通り過ぎかけた。すぐに戻ってくる。息の荒い若い声が、戸越しに叫んだ。


「灯口からです! マルヤさん、ここにいますか!」


マルヤが戸へ向かった。


「入って」


駆け込んできたのは、灯口の使いだった。頬が赤く、肩で息をしている。手には半分折れた紙を握っていた。


「井戸の件です。さっきの老婆の」


マルヤが紙を受け取るより先に、使いは言った。


「本人は家に戻したはずでした。でも、また出ました。家族が目を離した隙に」


「井戸へ?」


「最初はそう思われていました。でも違います。古い石橋の方です。橋の下から、自分の声が聞こえるって」


紙束の端が、マルヤの手の中で歪んだ。返事を得た声は別の場所へ移り、呼ぶ場所そのものを増やしている。


橋の下では足場が悪いと見込み、ノラは両手を空けておけるよう薬瓶を減らし、封じ布、縄、灯り、水袋、清潔な口布を診療鞄へ詰め直した。その物音を聞きつけて、ミミはもう奥から出てきており、鞄からノラの顔へ視線を上げていた。


「小屋にいて」


「私も行けます」


「今日は留守番」


ミミは言い返しかけて口を開き、それでも止まった。代わりに、さっき決めたばかりの合図を自分の指で机へ打つ。


とん、とん、とん。


少し置いて、とん。


「これ以外は、開けません」


ミミは指を机に置いたまま、声を少し落とした。


「怖くないわけじゃないです。でも、決めたことがある方が、怖い時に手が動きます」


ノラは鞄の紐を締めた。


「私の声でも」


「この子がいなくても」


それを聞いたヨルはミミの足元へ寄り、袖の匂いを確かめてから町へ向いた。その後、一度だけ小屋の奥へ鼻を向ける。


ノラは見逃さなかった。


奥にあるのは棚と薬草の束、乾いた包帯だけで、今は母の声も誰かの名を呼ぶ声も聞こえない。それでもヨルは、何かの通り道を探すように鼻を低くしていた。


ノラが手を差し出すと、ヨルは探るのを打ち切ってすぐ足元へ戻った。その従い方がかえって何かの気配を認めたように見え、ミミは不安そうに眉を寄せる。


「今、何かいました?」


「まだいない」


ノラはそう答えた。


安心させるための言葉ではない。今は、という確認だった。


「戸を閉めて。奥の棚の後ろ。何か聞こえたら、紙を折っていて。声を出さない」


ミミは机から棚までを自分の足で測った。一歩、二歩。二歩目で背中が木板へ触れる。怖くなった時に数え直さなくて済むよう、踵で床の継ぎ目を踏み、その感触を覚えた。


「はい」


マルヤは使いへ向き直る。


「橋の周りに人を近づけないで。特に子ども。怖い話として広めないで。見に行く子が出る。名を呼ばれても声を出すな、と短く伝えて。理由の説明は後でいい」


「分かりました」


使いを先に走らせ、ノラとマルヤも小屋を出た。夜明け前の空はまだ薄い灰色で、昨日の雨を残した石畳が、冷えた町の屋根の下でところどころ鈍く光っている。


灯口の使いが、老婆を見た者から聞いた道を先に走った。井戸へ曲がる角を越え、通りの先にある古い石橋へ向かう。マルヤも紙の地図ではなく、その背を見て道を決めた。


ヨルは二人を追い越さず、石橋が見えてから鼻を低くした。そこから流れてくるのは、朝の男の袖口に残っていたものと同じ、湿った石の奥で冷えた煤の匂いだった。


マルヤが並んで歩きながら言った。


「亡くなった人だけじゃないわ。返事をした人の声まで、別の場所で聞こえている」


ノラは封じ布の入った腰袋を押さえた。


「なら、呼ぶ場所が増えてる」


ヨルが低く鳴いた。


冷えた煤の匂いは、町の石畳の下から上がっていた。



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