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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第9章 横取りの手
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第40話 空の包み

挿絵(By みてみん)

「怪我人を先に見ます。荷は動かさないでください。押した人間も、拾った人間も、あとで話を聞きます」


エリオ・カーンの声が、荷抜け道を通った。


灰鷹の隊員たちがすぐに動く。壁際の使い走りの少年を座らせ、肩と腕を確認する者。足をくじいた女を荷車から離す者。荷主の男たちを道の端へ寄せ、荷の中身に触らせないよう立つ者。


手順は崩れていない。


少年は青い顔で肩を押さえていた。さっきノラが吊った布はずれていない。指は動く。骨は折れていない。


ノラ・ヴェイルは少年の前に膝をついた。


「腕、上げようとしないで。今日は荷も拾わない」


「俺、邪魔したんですか」


「君が邪魔したんじゃない。君に拾わせる位置へ落とした人間がいる」


少年は唇を引き結んだ。


「次、落ちた荷を見たら」


少年は肩を押さえたまま、言葉を探した。


「拾いません。困ってる人の荷でも」


ノラは吊り布の結び目を直した。


「今は決めなくていい。腕を上げないで」


ノラは立ち上がる。


壁際の女は、足を押さえて座っていた。灰鷹の隊員が足首へ布を巻いている。


「きつすぎる。靴紐は緩めて」


それだけ確かめて、ノラは荷車へ向かった。


道の真ん中で斜めになっていた荷車は、いつの間にか車輪を戻されていた。完全には動かしていない。だが、さっきまで道を塞いでいた角度からずれている。荷車の下に落ちていたはずの車輪止めも、壁際の木箱の隙間へ蹴り込まれている。


荷主の男の一人が、灰鷹の隊員へ説明していた。


「車輪が外れかけて、荷が崩れました。危ないので、先に押さえたんです」


声は慌てていた。だが、拾ったものを確かめず包んだ手は落ち着いている。


エリオもその手を見ていた。まだ責めない。責めれば、相手は言葉を整える。


「荷は確認します。持ち主の札を出してください」


「急ぎの荷でして」


「急ぎなら、なおさら今ここで確認します。急ぎの荷ほど、持ち主を曖昧にしない」


エリオの声は荒くなかった。荒くない分、相手が逃げる隙も少なかった。


ノラは石畳に目を落とした。


黒い包みも、煤釘の耳飾りもない。


代わりに、荷車の車輪の近くに、柔らかい白布の繊維が貼りついていた。清潔すぎて、荷抜け道の泥に合わない。


ノラは指先でそれをつまんだ。


ヨルが近づき、鼻先を寄せる。


甘い薬の匂い。靴屋の油。湿った物置で、小さな靴にまとわりついていた匂い。


ノラは布を握った。


「サイラスの手が触った匂いだね」


ヨルは短く鼻を鳴らし、ノラの足元へ寄った。


「ノラさん」


近づいてきたエリオの顔には、止めるべきものを止めながら何かを取り落とした疲れが出ていた。その視線が、ノラの指先に落ちる。


「それが、落とし物を包んだ布ですか」


ノラは布を握った。遺品ではなく煤釘の核だとは、エリオに言えない。


「遺品だと思うなら、なおさら包みを開けさせないで」


ノラは言った。


エリオは眉を寄せた。


「中身を知っているんですね」


「知ってるかどうかより、開けないで。雑に触らせないで」


エリオの目が、ほんの少し細くなる。


「危険の指示は通します。あなたの説明は、まだ受け取っていません」


荷車の方で、隊員が荷主の男に名前を聞いている。男は答えの前に、必ず一拍だけ荷車を見る。その一拍を、エリオも見逃していなかった。


「通報した側が、荷主の顔で先に消えるなんて」


「消えたんじゃない。荷主の顔で帰った」


「サイラスさんですね」


ノラは答えなかった。


ここで肯定すれば、次は何を持っていったのかを聞かれる。ノラの沈黙を、エリオは重く受け取った。


「俺は、あの人をこの場では止められませんでした。預かり札もある。荷主側として来た形もある。落ちたものを、踏まれないよう拾ったと言われれば、今すぐ拘束する理由が弱い」


「理由を作られてた」


「ええ。腹が立つくらい、きれいに」


エリオは荷車を見る。


灰鷹の隊員は、荷車を囲んでいる。荷主の男たちは逃げていない。使い走りの少年は壁際にいる。女は足を巻かれている。表だけ見れば、現場は収まり始めていた。


だが、欲しかったものだけがない。


排水路側から、灰鷹の隊員が戻ってきた。


「ラウルは」


「逃げられました。古い水路側へ。黒く焼けた跡があります。追った隊員が一人、肩を打ちましたが、歩けます」


エリオの声が低くなる。


「殺す気はなかった、か」


ノラは排水路側を見た。


ラウルは殺さずに済む時だけ刃を止める。誰かを守っているわけではない。


「殺さなくても逃げられるなら、それで足りると思ってる」


エリオは短く息を吐いた。


「追います。灰鷹を増やして、水路と北の出口を押さえます」


「そのまま追えば、また道を選ばれる」


エリオはノラを見て、反論を飲み込んだ。ラウルを追いながらサイラス側の荷の流れも見るなら、別の目と手が要る。


「灰鷹へ戻って報告します」


エリオは言った。


「通報の紙を回した使い走り、荷車の持ち主、預かり札を出した倉庫を洗います。サイラスさんの名前を出すには、紙が要ります」


「正式に?」


「正式にやります。正式にやらないと、あとで報告書が三枚増えるだけです。紙で逃げた相手は、紙で追います」


「荷車の男を逃がさないで」


「逃がしません」


エリオは話を切り替えるように、ノラの裂けた腰袋へ目を向ける。


「そこも、あとで縫ってください。次に走る時、中身が全部落ちます。隠すにしても、穴の空いた袋では無理です」


事務的な指摘だった。


ノラは腰袋に触れた。


裂け目は、思ったより大きかった。針袋の角が布を押し上げている。傷止めも、清潔布も、縄の端も残っている。


けれど、冷たい重みはない。


「縫う」


ノラは答えた。


エリオはもう一度だけノラを見た。問いを残したまま、口を閉じた。


「現場を押さえます。ノラさんは、無理に追わないでください」


「無理はする」


「今はしないでください。せめて、俺が見ている前では」


エリオはそう言って、荷車の方へ戻った。


ノラは返さず、足元のヨルを見る。


ヨルは排水路側を外し、サイラスが消えた倉庫の角へ鼻を向けていた。すぐには追わず、足元の石畳と白い布の繊維を嗅いでから、また角へ向く。


匂いは続いている。


だが、途中から薄い。


サイラスはすべてを見通さずとも、当たった場所で迷わず拾える準備をしていた。


ノラは白い布の端を小さく畳んだ。


腰袋には入れない。


手の中に握ったまま、荷抜け道を見渡す。


使い走りの少年は、灰鷹の隊員に水を渡されていた。女は壁に背を預け、足を動かさないよう言われている。荷主の男たちは、預かり札を出している。エリオはその札を受け取り、紙の端と男の手を同時に見ていた。


ミミと小屋を守るために持ち出し、袋井戸では人を救うために手を空け、灰鷹の前では正体を言えなかった。どの場面にも、そこにいる人間がいた。その選択の隙間を、サイラスに拾われた。


ヨルはノラの足首へ肩をつけ、倉庫の角へ鼻先を向けた。


ノラの手がヨルの角へ下りかけ、途中で白い布の端を握り込んだ。


「隠すだけじゃ足りない」


ヨルが顔を上げる。


ノラは荷車へ戻ったエリオを呼んだ。


「さっきの包みは、ただの遺品じゃない」


エリオが振り返る。


「人の声を覚える。死んだ人間の声でも呼ぶ。中身の名は、まだ言えない。でも、声がした家を一人にしないで。返事をさせないで」


エリオは理由を問わず、筆記板を返して灰鷹へ伝える手順だけを書いた。


「危険の形だけ、先に回します。出所は保留にする。あとで、保留の分は聞きます」


「うん」


危険の全貌はまだ伏せた。それでもノラは、その一部を自分の腰袋の外へ出した。


ノラは、倉庫の角の向こうに続く町を見た。


「取り返す。煤釘の声を、あいつのものにさせない」


ヨルは今度も鳴かなかった。


ただ、ノラの横へ並んだ。


荷抜け道の騒ぎは、少しずつ小さくなっていった。灰鷹の声は残っている。荷主の男たちの弁明も残っている。石畳には、黒く焦げた跡と、木箱が落ちた傷が残った。


けれど、耳飾りの冷たさだけは、どこにもなかった。


小屋へ戻ったのは、夜になってからだった。


戸は閉まっている。窓枠の内側には、青い糸入りの布が朝のまま挟まっていた。誰かの声に誘われて外された跡はない。


ミミは約束を守っている。


ノラは声をかけず、戸を二度、短く叩いた。


「ヨルは」


戸の内側から、ミミの声がした。怖くても、手順を飛ばさない声だった。


「いる」


「鳴いて」


ヨルは不満そうに鼻を鳴らし、それからはっきり鳴いた。


「クルッ」


掛け金が外れる。ミミは隙間からまずヨルを見て、次にノラの顔を見た。最後に、裂けた腰袋へ目を止める。


「また破いたんですか」


軽く言おうとした声は、ノラの肩の擦り傷と袖の灰を見て止まった。


ノラは中へ入った。


「破いたんじゃない。破られた。中身も取られた」


ミミは戸を閉め、掛け金を落とした。


その手つきは少し早かった。外へ顔を出さない。通りをのぞかない。誰かが近くにいないか確かめたくても、今は戸を閉める方を選んだ。


ノラはその手を見て、何も言わなかった。


ミミは腰袋を指さした。


「中身は」


ノラは荷を下ろした。


水袋。短剣。残った布。傷止め。針袋。


それから、空いた場所。


ミミはそこを見た。中身を知らなくても、大事な場所だったことは分かったのだろう。


「なくしたんですか」


「取られた」


ノラはそこで言葉を止めなかった。


「煤釘を閉じた耳飾り。人の声を覚えるもの。今夜から、外で知っている声がしても、声だけでは開けないで」


ミミは、どうして今まで言わなかったのかとは聞かなかった。


代わりに、棚から針箱を出し、裂けた腰袋を受け取る。


「先に縫います。穴が空いたままだと、次も落ちます」


「それ、取り返しに行くんですよね」


「行く」


「じゃあ、ほどけないように縫います。隠すなら、まず落ちない袋にしてください。今度落としたら、私が怒ります」


「もう怒ってる?」


「怒る準備をしています」


ミミは針に糸を通し、膝の上で腰袋を押さえた。子どもの手だが、布を扱う手つきは前よりずっと早い。


ヨルが縫い糸の端へ鼻を近づける。


「食べないで」


ヨルは少し不服そうに顔を背けた。


ノラは戸口から離れて椅子に座り、そこで初めて体の重さに気づいた。肩も腕も痛む。袋井戸で使った力の名残が、まだ指先に沈んでいた。


ミミは縫いながら、ちらりとノラを見る。


「縫い終わったら傷です。逃げてもヨルに追わせます」


ヨルが、同意するように短く鳴いた。


「ほら、契約しました」


「いつの間に」


「鳴いた時です」


ミミは針を通した。


糸が裂け目を寄せる。縫えば閉じる穴はある。縫っても戻らない中身もある。


その時、ヨルが戸の方を向いた。


さっきまで糸に気を取られていた耳が、ぴたりと立つ。小さな体が低くなり、喉の奥で音が鳴った。


「クル……」


ミミの手が止まる。


針先が布から抜けかけたまま、空中で止まった。


「外?」


ノラは立ち上がらなかった。


まず、音を聞いた。


夜風が戸板をなでている。遠くの通りで、誰かが戸を閉める音がする。荷車の車輪が一つ、石の継ぎ目を越える。どれも町の音だった。


その奥で、誰かの名を呼ぶ短い声がした。


名も性別も聞き取れない。だが、返事だけを待ち、生きた人間の喉から出た声ではないことは分かった。


ミミが針を握ったまま、戸を見る。


「今の、誰ですか」


ノラはもう一度、声の消えた方角を聞いた。音色さえ、もう残っていない。


町のどこかで、死んだはずの声が一つ、誰かの名を呼んだ。


煤釘の耳飾りは、もう箱の中にない。


小屋の掛け金は、落ちたままだった。


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