第40話 空の包み
「怪我人を先に見ます。荷は動かさないでください。押した人間も、拾った人間も、あとで話を聞きます」
エリオ・カーンの声が、荷抜け道を通った。
灰鷹の隊員たちがすぐに動く。壁際の使い走りの少年を座らせ、肩と腕を確認する者。足をくじいた女を荷車から離す者。荷主の男たちを道の端へ寄せ、荷の中身に触らせないよう立つ者。
手順は崩れていない。
少年は青い顔で肩を押さえていた。さっきノラが吊った布はずれていない。指は動く。骨は折れていない。
ノラ・ヴェイルは少年の前に膝をついた。
「腕、上げようとしないで。今日は荷も拾わない」
「俺、邪魔したんですか」
「君が邪魔したんじゃない。君に拾わせる位置へ落とした人間がいる」
少年は唇を引き結んだ。
「次、落ちた荷を見たら」
少年は肩を押さえたまま、言葉を探した。
「拾いません。困ってる人の荷でも」
ノラは吊り布の結び目を直した。
「今は決めなくていい。腕を上げないで」
ノラは立ち上がる。
壁際の女は、足を押さえて座っていた。灰鷹の隊員が足首へ布を巻いている。
「きつすぎる。靴紐は緩めて」
それだけ確かめて、ノラは荷車へ向かった。
道の真ん中で斜めになっていた荷車は、いつの間にか車輪を戻されていた。完全には動かしていない。だが、さっきまで道を塞いでいた角度からずれている。荷車の下に落ちていたはずの車輪止めも、壁際の木箱の隙間へ蹴り込まれている。
荷主の男の一人が、灰鷹の隊員へ説明していた。
「車輪が外れかけて、荷が崩れました。危ないので、先に押さえたんです」
声は慌てていた。だが、拾ったものを確かめず包んだ手は落ち着いている。
エリオもその手を見ていた。まだ責めない。責めれば、相手は言葉を整える。
「荷は確認します。持ち主の札を出してください」
「急ぎの荷でして」
「急ぎなら、なおさら今ここで確認します。急ぎの荷ほど、持ち主を曖昧にしない」
エリオの声は荒くなかった。荒くない分、相手が逃げる隙も少なかった。
ノラは石畳に目を落とした。
黒い包みも、煤釘の耳飾りもない。
代わりに、荷車の車輪の近くに、柔らかい白布の繊維が貼りついていた。清潔すぎて、荷抜け道の泥に合わない。
ノラは指先でそれをつまんだ。
ヨルが近づき、鼻先を寄せる。
甘い薬の匂い。靴屋の油。湿った物置で、小さな靴にまとわりついていた匂い。
ノラは布を握った。
「サイラスの手が触った匂いだね」
ヨルは短く鼻を鳴らし、ノラの足元へ寄った。
「ノラさん」
近づいてきたエリオの顔には、止めるべきものを止めながら何かを取り落とした疲れが出ていた。その視線が、ノラの指先に落ちる。
「それが、落とし物を包んだ布ですか」
ノラは布を握った。遺品ではなく煤釘の核だとは、エリオに言えない。
「遺品だと思うなら、なおさら包みを開けさせないで」
ノラは言った。
エリオは眉を寄せた。
「中身を知っているんですね」
「知ってるかどうかより、開けないで。雑に触らせないで」
エリオの目が、ほんの少し細くなる。
「危険の指示は通します。あなたの説明は、まだ受け取っていません」
荷車の方で、隊員が荷主の男に名前を聞いている。男は答えの前に、必ず一拍だけ荷車を見る。その一拍を、エリオも見逃していなかった。
「通報した側が、荷主の顔で先に消えるなんて」
「消えたんじゃない。荷主の顔で帰った」
「サイラスさんですね」
ノラは答えなかった。
ここで肯定すれば、次は何を持っていったのかを聞かれる。ノラの沈黙を、エリオは重く受け取った。
「俺は、あの人をこの場では止められませんでした。預かり札もある。荷主側として来た形もある。落ちたものを、踏まれないよう拾ったと言われれば、今すぐ拘束する理由が弱い」
「理由を作られてた」
「ええ。腹が立つくらい、きれいに」
エリオは荷車を見る。
灰鷹の隊員は、荷車を囲んでいる。荷主の男たちは逃げていない。使い走りの少年は壁際にいる。女は足を巻かれている。表だけ見れば、現場は収まり始めていた。
だが、欲しかったものだけがない。
排水路側から、灰鷹の隊員が戻ってきた。
「ラウルは」
「逃げられました。古い水路側へ。黒く焼けた跡があります。追った隊員が一人、肩を打ちましたが、歩けます」
エリオの声が低くなる。
「殺す気はなかった、か」
ノラは排水路側を見た。
ラウルは殺さずに済む時だけ刃を止める。誰かを守っているわけではない。
「殺さなくても逃げられるなら、それで足りると思ってる」
エリオは短く息を吐いた。
「追います。灰鷹を増やして、水路と北の出口を押さえます」
「そのまま追えば、また道を選ばれる」
エリオはノラを見て、反論を飲み込んだ。ラウルを追いながらサイラス側の荷の流れも見るなら、別の目と手が要る。
「灰鷹へ戻って報告します」
エリオは言った。
「通報の紙を回した使い走り、荷車の持ち主、預かり札を出した倉庫を洗います。サイラスさんの名前を出すには、紙が要ります」
「正式に?」
「正式にやります。正式にやらないと、あとで報告書が三枚増えるだけです。紙で逃げた相手は、紙で追います」
「荷車の男を逃がさないで」
「逃がしません」
エリオは話を切り替えるように、ノラの裂けた腰袋へ目を向ける。
「そこも、あとで縫ってください。次に走る時、中身が全部落ちます。隠すにしても、穴の空いた袋では無理です」
事務的な指摘だった。
ノラは腰袋に触れた。
裂け目は、思ったより大きかった。針袋の角が布を押し上げている。傷止めも、清潔布も、縄の端も残っている。
けれど、冷たい重みはない。
「縫う」
ノラは答えた。
エリオはもう一度だけノラを見た。問いを残したまま、口を閉じた。
「現場を押さえます。ノラさんは、無理に追わないでください」
「無理はする」
「今はしないでください。せめて、俺が見ている前では」
エリオはそう言って、荷車の方へ戻った。
ノラは返さず、足元のヨルを見る。
ヨルは排水路側を外し、サイラスが消えた倉庫の角へ鼻を向けていた。すぐには追わず、足元の石畳と白い布の繊維を嗅いでから、また角へ向く。
匂いは続いている。
だが、途中から薄い。
サイラスはすべてを見通さずとも、当たった場所で迷わず拾える準備をしていた。
ノラは白い布の端を小さく畳んだ。
腰袋には入れない。
手の中に握ったまま、荷抜け道を見渡す。
使い走りの少年は、灰鷹の隊員に水を渡されていた。女は壁に背を預け、足を動かさないよう言われている。荷主の男たちは、預かり札を出している。エリオはその札を受け取り、紙の端と男の手を同時に見ていた。
ミミと小屋を守るために持ち出し、袋井戸では人を救うために手を空け、灰鷹の前では正体を言えなかった。どの場面にも、そこにいる人間がいた。その選択の隙間を、サイラスに拾われた。
ヨルはノラの足首へ肩をつけ、倉庫の角へ鼻先を向けた。
ノラの手がヨルの角へ下りかけ、途中で白い布の端を握り込んだ。
「隠すだけじゃ足りない」
ヨルが顔を上げる。
ノラは荷車へ戻ったエリオを呼んだ。
「さっきの包みは、ただの遺品じゃない」
エリオが振り返る。
「人の声を覚える。死んだ人間の声でも呼ぶ。中身の名は、まだ言えない。でも、声がした家を一人にしないで。返事をさせないで」
エリオは理由を問わず、筆記板を返して灰鷹へ伝える手順だけを書いた。
「危険の形だけ、先に回します。出所は保留にする。あとで、保留の分は聞きます」
「うん」
危険の全貌はまだ伏せた。それでもノラは、その一部を自分の腰袋の外へ出した。
ノラは、倉庫の角の向こうに続く町を見た。
「取り返す。煤釘の声を、あいつのものにさせない」
ヨルは今度も鳴かなかった。
ただ、ノラの横へ並んだ。
荷抜け道の騒ぎは、少しずつ小さくなっていった。灰鷹の声は残っている。荷主の男たちの弁明も残っている。石畳には、黒く焦げた跡と、木箱が落ちた傷が残った。
けれど、耳飾りの冷たさだけは、どこにもなかった。
小屋へ戻ったのは、夜になってからだった。
戸は閉まっている。窓枠の内側には、青い糸入りの布が朝のまま挟まっていた。誰かの声に誘われて外された跡はない。
ミミは約束を守っている。
ノラは声をかけず、戸を二度、短く叩いた。
「ヨルは」
戸の内側から、ミミの声がした。怖くても、手順を飛ばさない声だった。
「いる」
「鳴いて」
ヨルは不満そうに鼻を鳴らし、それからはっきり鳴いた。
「クルッ」
掛け金が外れる。ミミは隙間からまずヨルを見て、次にノラの顔を見た。最後に、裂けた腰袋へ目を止める。
「また破いたんですか」
軽く言おうとした声は、ノラの肩の擦り傷と袖の灰を見て止まった。
ノラは中へ入った。
「破いたんじゃない。破られた。中身も取られた」
ミミは戸を閉め、掛け金を落とした。
その手つきは少し早かった。外へ顔を出さない。通りをのぞかない。誰かが近くにいないか確かめたくても、今は戸を閉める方を選んだ。
ノラはその手を見て、何も言わなかった。
ミミは腰袋を指さした。
「中身は」
ノラは荷を下ろした。
水袋。短剣。残った布。傷止め。針袋。
それから、空いた場所。
ミミはそこを見た。中身を知らなくても、大事な場所だったことは分かったのだろう。
「なくしたんですか」
「取られた」
ノラはそこで言葉を止めなかった。
「煤釘を閉じた耳飾り。人の声を覚えるもの。今夜から、外で知っている声がしても、声だけでは開けないで」
ミミは、どうして今まで言わなかったのかとは聞かなかった。
代わりに、棚から針箱を出し、裂けた腰袋を受け取る。
「先に縫います。穴が空いたままだと、次も落ちます」
「それ、取り返しに行くんですよね」
「行く」
「じゃあ、ほどけないように縫います。隠すなら、まず落ちない袋にしてください。今度落としたら、私が怒ります」
「もう怒ってる?」
「怒る準備をしています」
ミミは針に糸を通し、膝の上で腰袋を押さえた。子どもの手だが、布を扱う手つきは前よりずっと早い。
ヨルが縫い糸の端へ鼻を近づける。
「食べないで」
ヨルは少し不服そうに顔を背けた。
ノラは戸口から離れて椅子に座り、そこで初めて体の重さに気づいた。肩も腕も痛む。袋井戸で使った力の名残が、まだ指先に沈んでいた。
ミミは縫いながら、ちらりとノラを見る。
「縫い終わったら傷です。逃げてもヨルに追わせます」
ヨルが、同意するように短く鳴いた。
「ほら、契約しました」
「いつの間に」
「鳴いた時です」
ミミは針を通した。
糸が裂け目を寄せる。縫えば閉じる穴はある。縫っても戻らない中身もある。
その時、ヨルが戸の方を向いた。
さっきまで糸に気を取られていた耳が、ぴたりと立つ。小さな体が低くなり、喉の奥で音が鳴った。
「クル……」
ミミの手が止まる。
針先が布から抜けかけたまま、空中で止まった。
「外?」
ノラは立ち上がらなかった。
まず、音を聞いた。
夜風が戸板をなでている。遠くの通りで、誰かが戸を閉める音がする。荷車の車輪が一つ、石の継ぎ目を越える。どれも町の音だった。
その奥で、誰かの名を呼ぶ短い声がした。
名も性別も聞き取れない。だが、返事だけを待ち、生きた人間の喉から出た声ではないことは分かった。
ミミが針を握ったまま、戸を見る。
「今の、誰ですか」
ノラはもう一度、声の消えた方角を聞いた。音色さえ、もう残っていない。
町のどこかで、死んだはずの声が一つ、誰かの名を呼んだ。
煤釘の耳飾りは、もう箱の中にない。
小屋の掛け金は、落ちたままだった。




