第39話 横取りの手
ノラ・ヴェイルは、外れかけた車輪から目を上げた。
荷抜け道は、倉庫の壁と排水路の石垣に挟まれている。朝の荷車の道で、人が走るには狭い。壁際には古い縄、割れた木箱、湿った麻袋が寄せられていた。
その先でラウルの外套が一度揺れた。黒い布包みは左手へ移り、右手は体の脇に落ちたまま、指だけがわずかに曲がっている。袋井戸の反動が抜けていない今なら、まだ届く。取り返せる。
「クルッ」
ヨルが荷車へ鼻先を向けた。
斜めの荷車は車輪を外しかけ、崩れた荷の脇に一人分の隙間だけを残していた。走れば抜けられる。だが、追跡と避難を同時には通せない。
エリオ・カーンは荷車の脇で周囲を見回していた。
「持ち主から返事がない」
その静けさは、一拍遅れて崩れた。
倉庫の角から、男が二人出てきた。
「すみません、車輪が外れまして」
「すぐどかします。中に割れ物があるので、乱暴には動かせなくて」
灰鷹の隊員が前へ出る。
「危険人物を追っています。道を空けてください」
「分かっています。でも、押せば荷が落ちます。人に当たったら困るでしょう」
荷車の横には通行人がいて、無理に押せば木箱が落ちる。灰鷹が乱暴に動けば、悪いのは灰鷹になる。
エリオが声を張った。
「荷を壁側へ。通行人を先に下げてください。走らないで、押さないで」
隊員たちはすぐに動いた。通行人を壁際へ寄せ、荷車から距離を取らせる。剣を抜く者はいない。ここで刃を見せれば、狭い道が固まる。
エリオは場を崩さずに収めている。だからこそ、ラウル一人を止めるためには動けず、その間に本人は荷車の横を抜けようとしていた。
左手の黒い布包みが、車体の金具に触れる。布の端が引っかかった。ラウルはすぐに引いたが、右手は動かない。左手だけで持ち替えたせいで、包みが一度、指の中で泳いだ。
ノラは踏み込んだ。
「ラウル」
ラウルがこちらを見る。
ラウルの視線はノラの足元へ落ちた。踏み込みの角度。灰鷹との距離。誰がどこまで見ているか。全部を測っていた。
「まだ追うのか」
「返して」
「お前の物じゃない」
「持っていい物でもない」
言った瞬間、ノラは自分の言葉の弱さを分かっていた。核も、煤釘も、自分が抜いたことも言えない。ここで危険だと言えば、その理由まで問われる。
ラウルの口元が、少しだけ動いた。
「言えないものを返せと言うのか」
灰鷹の隊員が、背後へ回ろうとする。
「包みを足元に置いてください。抵抗すれば拘束します」
ラウルは隊員を見なかった。
黒い熱が左手の甲に灯り、石畳の端を焦がした。通行人には火にしか見えない小さな欠片が跳ね、狙いが牽制だと分かっていても、当たれば怪我をする距離にいた隊員は一歩下がった。
エリオの声が飛ぶ。
「詰めない! 足元を見て、距離を取れ!」
灰鷹が下がる。若い隊員は悔しさで頬を赤くしながらも、背後の通行人を巻き込むと分かって歯を食いしばった。
ノラだけは下がらず、ラウルが布包みを握り直す左手を見た。指の動きが、わずかに遅い。
ノラは腰を落とし、荷車の側面を蹴って体を滑り込ませた。肩が木箱に当たる。布包みまで、あと半歩。
ラウルの膝が動く。
黒い熱を使わない、ただの蹴り。それでも速い。ノラは腕で受ける。骨に響く。受けた腕の奥に、袋井戸で使った力の名残が鈍く返った。
受けた腕に痺れが走るのと同時に、黒い布包みが車輪止めのそばへ落ちた。ほどけかけた布の間から、割れた小石を下げた黒ずんだ輪――煤釘の耳飾りがのぞく。ノラの視界が、そこだけ狭くなった。
灰鷹には、盗まれた古い遺品にしか見えない。隊員の手が伸びる。
「その耳飾りに触るな」
ノラの声が出た。
隊員の手が止まった。ノラから聞いた危険を覚えていた一方で、なぜ耳飾りの正体を知るのかという疑いも目に浮かぶ。その問いが声になる前にラウルが手を伸ばし、ノラも追った。止まった手を戻せない隊員まで二人の間へ入ろうとし、三つの手が同じ小さな物へ向かう。
その瞬間、小さな木片が靴裏に弾かれた。誰かが車輪止めを蹴り外したのだ。傾いた荷車から積み荷が崩れ、木箱が一つ、道へ落ちた。
通行人が悲鳴を上げる。壁際にいた使い走りの少年が、逃げる方向を間違えた。大人の腰の間を抜けようとして、荷車の影へ入ってしまう。
木箱が少年の肩へ落ちる。その軌道を見た途端、ノラの手は耳飾りを離れていた。少年の襟をつかんで壁側へ引き倒すと、木箱は背を外れ、代わりにノラの肩をかすめて石畳へ落ちた。
中身は乾いた布と軽い木枠だった。壊れはするが、割れ物ではない。荷主は人を止めるため、嘘と言い切れない言葉を選んでいた。
ラウルがもう一度耳飾りへ手を伸ばすより先に、白い荷受け布が差し入れられた。荷抜け道には不自然なほど清潔な布で、荷主の男は落ちた黒い包みをそれごとすくい上げた。
「踏まれます」
声も顔も慌てているのに、手だけが違った。少年を壁へ押しやりながら、ノラは、包みの落ちる場所を知って先回りしていた動きを見逃さなかった。
「置いて」
ノラが命じると、男は白い布を抱えたまま振り向いた。その反応を追ったノラの目に、男の肩越しから倉庫口を歩いてくる一人の姿が入る。
上着に乱れはなく、裾だけに少し埃がついている。通行止めに巻き込まれた荷主の一人として、周囲に馴染む姿だった。倉庫街の者が持つ預かり札を手にしている。
歩いてきたのはサイラスだった。足取りは穏やかなままでも、視線は真っ先に荷主の白い布へ向かい、その下の黒い包みと男の手の位置を確かめていた。視線の先を辿ったエリオも、ただの荷崩れではないと気づく。
「サイラスさん。下がってください。ここは灰鷹が処理します」
「もちろんです。荷が崩れたと聞いて、確認に来ただけですよ」
サイラスは穏やかに答えた。
その目はラウルから外れ、ノラに据えられていた。
荷主の男が白い布を差し出したが、サイラスは受け取らず、帳面を開いた。受け取れば、奪ったことになる。
「落とし物なら、ここに置いてください。誰の物か、あとで照合しましょう」
灰鷹の前で、自然な言い方だった。
落とし物、照合、預かり。どれも倉庫街で使われる普通の言葉だからこそ、その場では疑う理由にならない。
荷主の男は白い布を帳面の端へ置いた。
灰鷹には、預かり帳へ落とし物を置いただけに見える。
だが、布は紙の上では止まらなかった。帳面を閉じる動きに合わせて、黒い包みごと下へ滑り込む。
ラウルが踏み込んだ。
「それを渡せ」
抑えた声とは逆に、黒い熱がラウルの左手へ集まる。その気配を捉えたエリオは、即座に隊員へ合図した。
「対象を止めろ。荷主側は下がってください」
灰鷹が見るのはラウルだった。神殿関係者を襲い、今も人のいる道で黒い熱を使おうとしている。
ノラは立ち上がろうとした。
足元で、さっき引いた少年が咳き込んだ。木箱の角に裂かれた袖からの血は多くないが、腕をついて立とうとしても指がうまく動かない。
その一瞬にラウルは隊員を振りほどき、肩をつかんだ相手を石畳へ転がしてサイラスへ向かった。ノラも追おうとしたが、荷車の反対側では別の木箱がずれ、その下に、恐怖で座り込んだ女の足があった。ラウルではなく木箱を蹴ると、箱は女の膝を外れて石壁で割れ、中から柔らかい布がこぼれた。
甘い薬の匂いが広がる。
ヨルが低く唸った。
甘い匂いの中でサイラスは一歩下がった。混乱から距離を取る荷主にしか見えず、ラウルと荷崩れへの対応で手を塞がれた灰鷹は彼を押さえない。
ノラはサイラスを見た。
「それを渡せ」
サイラスは立ち止まった。
ほんの少しだけ首を傾ける。
「落とし物にしては、声が多い」
ノラの背中が冷える。
サイラスは核とも耳飾りとも言わない。灰鷹には比喩で通る言葉だった。
ラウルが低く言う。
「お前には扱えない」
サイラスはラウルを見た。
恐れはない。侮りもない。相手の強さを知ったうえで、戦う場所を選ばない者の目だった。
「扱える人が、道端で落とすとは思いませんでした」
ラウルの顔が変わる。
黒い熱が、今度は強く灯った。
だが、右手の指はまだ戻っていない。左手だけで力を集めれば、動きは大きくなる。灰鷹はそれを危険と見る。
エリオが叫んだ。
「下がれ! 壁から離れるな!」
隊員が盾を上げ、逃げ道ではなくラウルの踏み込み先を塞いだ。舌打ちひとつしないまま、ラウルは行き先を奪われた足を止める。
灰鷹が止めるのはラウルだが、ノラが止めたいのはサイラスだった。けれど黒い布の中身は叫べず、負傷者を踏み越えて包みへ飛びつくこともできない。
サイラスは帳面を閉じた。
「あなたが隠していても、守れなかった」
ノラは使い走りの腕を見た。骨は折れていない。肩を打っている。指先は動く。少年の袖を裂き、布で腕を吊った。
「壁から離れないで。誰が呼んでも、荷車の下へ戻らない」
少年は青い顔でうなずいた。
「もう拾いません。……あの人がまた銅貨を出しても」
言い終わる前に声が裏返った。
「拾えって言ったくせに、あの人は逃げた。銅貨をくれるって」
ノラの手が止まる。
少年は肩を押さえながら、落ちた木箱から荷主たちへ目を移した。さっきまで銅貨を追っていた目が、今は手を探している。
「誰に」
少年は通りの奥を見た。
もう、そこには誰もいない。
「荷が落ちたら、拾えば銅貨をくれるって。名前は聞いてない。荷受けの人だと思った」
ヨルが倉庫口へ走った。
サイラスはまだ見える。
荷主の男たちが作った人の流れの向こう、倉庫の戸口から別の通りへ抜けるところだった。走らない。隠れもしない。荷主の一人として、確認を終えて戻る足取りだった。
ノラは立ち上がった。
ラウルもそれを見た。
二人の視線が一瞬だけ合った。同じものを追っていても、同じ方向へは走れない。
ラウルは灰鷹の囲みを破るため、排水路側の低い石壁へ足をかけた。黒い熱が足元の石を焦がす。隊員が止めに入る。ラウルは肩で受け、壁を越えた。
「追います!」
隊員の一人が叫ぶ。
エリオが短く返す。
「二人だけ。深追いするな。人を残せ!」
灰鷹は危険人物のラウルを追う。ノラも、煤釘の耳飾りを持つサイラスを追わなければならない。
だが足元では使い走りの少年がまた咳き込み、通行人の女もまだ立てない。荷車の下に散った木箱と布をこのまま放れば、次に足を取られる者が出る。薬の甘さが残る石畳の上で、ノラは追うより先に場を引き渡す相手を呼んだ。
口の中に、鉄の味が広がった。
呼んだ声は、自分でも驚くほど低かった。
「エリオ」
エリオが振り向く。
「この荷車、動かす前に荷主を分けて。全部同じ荷じゃない。白い布を持っていた男を離さないで」
エリオの目が変わる。意味は分からなくても、ただの荷崩れではないと受け取った。
「分けます。あなたは」
「追う」
「一人で?」
ノラは倉庫口へ踏み出した。
ヨルが倉庫口で振り返っている。鼻先は、サイラスの消えた通りへ向いていた。
まだ追える。
けれど、もう近くはない。
サイラスは人混みの向こうで、一度だけ振り返った。表情は読めない。胸元に触れた手が、黒い布包みを押さえている。
遠くで唇が動く。
預かります。
そう言ったように見えた。人の声を食ったものを荷のように扱う、ふざけた言葉だった。
ノラは一歩踏み出した。
その時、排水路の向こうで黒い熱がはじけた。ラウルが灰鷹の追跡を振り切る音だった。別方向で隊員の声が上がる。エリオがそちらを向く。
サイラスは倉庫の角を曲がり、ラウルは排水路の影へ消えた。二つの影が別々の方向へ離れていくのを見ながら、ノラはどちらにも届かなかった。
ノラは石畳に落ちた黒い布の切れ端を拾った。煤釘の耳飾りは、ノラにもラウルにも戻らない。甘い薬の匂いだけが、その端に薄く染みていた。




