第38話 灰鷹の網
走り出したヨルは細い荷道を十歩ほど先行し、ノラ・ヴェイルもその黒い背を追う。
表通りを外れた、荷車が朝早く通るための裏道だ。石畳は一部だけ沈み、壁際には古い縄と割れた木箱が寄せられている。雨も降っていないのに、道の端だけが湿っていた。
灰鷹の足音は、右へ流れている。
北門、石橋、倉庫口へ。
通報が早すぎた。
灰鷹が走れば、人は道を空ける。道が空けば、別の場所が詰まる。その詰まりを待っている人間がいる。
灰鷹を正しく走らせ、その手順ごと利用する罠だった。
薬屋の包みに似た甘さは、荷車の油と古い布を割って奥へ続いている。
ノラは足を速めた。
今、追うべきものは一つだ。
煤釘の耳飾り。
ノラの箱にも、手にも、もうないもの。
角を曲がると、灰鷹の若い隊員が一人、こちらへ走ってきた。息を切らしているが、足は乱れていない。ノラを見つけると、一瞬だけ顔を明るくし、すぐに引き締めた。
「ノラさん。エリオさんが、倉庫口を押さえています」
「ラウルは」
「見た者がいます。暗い外套で、右手を押さえていたと」
ノラは足を止めずに聞いた。
「右手?」
「指が動きにくいみたいだった、と。あと、黒い包みを何度も持ち替えていたそうです」
ヨルが短く鳴いた。
ラウルは強い。
だが、右手はまだ戻りきっていない。
袋井戸の出口で見せた黒い熱。あれは、ただの力ではなかった。使えば、体のどこかを削る。ラウルの指先にも、その鈍りが残っている。
なら、取り返せる隙はある。
隊員が、走りながらノラを見る。
「あの男、何を持ってるんですか」
煤釘の迷宮の核だ。
そう言えば、次に問われる。
なぜ知っている。
なぜ持っていた。
なぜ灰鷹へ渡していなかった。
「素手で触らないで。広げないで」
ノラはそれだけ言った。
隊員は眉を寄せる。
「盗まれた遺品だと聞いています」
「遺品なら、なおさら」
「中身を知っているんですか」
ノラは隊員を見た。
「知らないものを開けて、無事で済むとは限らない。触るなら、布越し。広げない」
隊員の顔が変わった。
納得はしていない。それでも、ただの脅しではないと理解した。
「エリオさんにも、そう伝えます」
「伝えるだけでいい。止める相手より、包みを開けないことを先に覚えて」
「はい」
隊員は先へ走った。
ノラは、その背中を追いながら壁際を見た。
黒い擦り跡がある。
石が焦げたように、壁の角が少しだけ黒くなっていた。血も火もなく、指先の熱だけが体から漏れて石へ触れた跡だった。
その横で、黒い布の繊維が石角に一本引っかかっていた。
ヨルが鼻先を近づけ、すぐ顔を背けた。
「嫌だね」
ヨルは顔を戻さず、道の奥へ進む。
倉庫街の中心に近づくほど、人の声が増えた。だが、混乱はしていない。灰鷹の隊員が通行人を壁際へ下がらせ、荷を積んだ男たちを道の端へ誘導している。
エリオの声が聞こえた。
「押さないでください。走る人を増やさない。荷はそこへ置いて、通りを空けて」
若いのに、声は通る。
灰鷹の外套を着た隊員たちが、倉庫口の前に広がっていた。剣を抜いている者は少ない。抜けば、周りの人間も固くなる。エリオはそれを分かっている。
ノラが近づくと、エリオが振り向いた。
「こっちです。北門は塞ぎました。石橋にも回しています」
「早いね」
「早すぎます」
エリオは苦い顔をした。
「俺たちは通報で動きました。危険人物を追う判断は間違っていません。でも、動かされた感じがします」
ノラは倉庫口の奥を見た。
細い荷抜け道が続いている。人が二人並ぶには狭い。荷車なら一台で道をふさぐ。逃げるには使えるが、追う側は隊列を組みにくい。
「網だね」
エリオがノラを見る。
「誰の」
ノラは答えなかった。
言えば、サイラスの名が出る。
けれど、まだ確証はない。
エリオは一度だけ目を閉じ、すぐ開けた。
「分かりました。今の沈黙は、まだ言えない情報として扱います。なかったことにはしません」
「便利な処理だね」
「不便です。けれど、現場では不便な処理の方が後で残ります。便利に流すと、誰かの都合だけが残る」
ヨルが足元で身を低くした。
倉庫口の向こう、古い縄橋の手前に、暗い外套が見えた。
ラウルだった。
黒い布包みは左手にある。
右手は体の脇に落ち、指だけがわずかに曲がったまま戻らない。包みを持つ左手の力も、強いのに少し遅い。
ノラの中で、耳飾りの冷たさが戻った。あの黒ずんだ輪。割れた小石。売っても銅貨一枚になるか分からないもの。けれど、煤釘の壁を脈打たせていたもの。
ラウルは自分で止まった。
前方に、灰鷹がいた。
古い縄橋は、浅い排水路の上に渡された短い橋だった。落ちても死にはしない。だが、足を取られれば走れなくなる。橋の左右は低い石壁で、抜け道は細い。
エリオが一歩、前へ出た。
「止まってください。呼び石の件で話を聞きます」
剣を向けるより先に、エリオは言葉を置き、周りの人間へまだ会話の余地があると見せた。
ラウルは、エリオを見た。
見下してはいない。だが、相手にしていない目だった。
「話を聞く相手を間違えている」
「あなたが傷を負わせた検分役は生きています。だから、まだ聞けることがあります」
ラウルの顔が、ほんの少しだけ動いた。
レド。
呼び石で布を噛み、自分の声を取らせなかった男。
ラウルは殺意より先に、呼び石で何を見たのか、神殿が何を隠していたのかを聞き出そうとしていた。
その答えを、ラウルは取り損ねた。
ラウルの目的は殺人だけで終わらない。
けれど、人を傷つけても構わない男だった。
エリオは、声を崩さない。
「武器を下ろしてください。手元の包みも、こちらで確認します。素手では触りません。広げもしません。あなたを止めることと、包みを乱暴に扱うことは別です」
ラウルの視線が、ノラへ移った。
ノラは動かなかった。
ここで踏み込めば、灰鷹の前で煤釘の耳飾りに手を伸ばすことになる。
なぜ、それを狙うのか。
なぜ、それが危険だと知っているのか。
聞かれれば、答えられない。
ラウルは、その一拍を見た。
口元が、笑いに届かないほど薄く緩んだ。
ただ、測った。
「灰鷹に守られる救助屋か」
「守られてるなら、もっと楽な仕事を選ぶ」
「なら、どけ」
「それは無理」
ラウルの右手に、黒い熱が灯った。
火ではなかった。
光らない。燃えない。ただ、指の骨の奥から熱が滲み、空気の端を黒く歪ませる。石畳が小さく鳴り、橋の手前の敷板にひびが入った。
エリオが叫ぶ。
「下がって!」
灰鷹が動いた。
遅くはない。通行人を巻き込まない位置へ引き、隊員同士がぶつからないように広がる。だが、足元の敷板が割れたことで、隊列の前だけが崩れた。
若い隊員が膝をつく。
灯りが揺れる。
剣を抜きかけた隊員が、踏み場を探して一歩遅れる。
ラウルはその乱れを作っただけだった。
橋を落とさない。
人を殺さない。
だが、怪我をしても構わない崩し方。
ノラは踏み込んだ。
ヨルが左へ抜け、布包みを持つ左手の下へ回って、ラウルの視線をそらした。
ラウルの指先が、一瞬だけ遅れた。
黒い布包みが浅く握られる。
今なら届く。
ノラは腕を伸ばしかけた。
その瞬間、灰鷹の隊員が叫んだ。
「布越しに確保します!」
さっきノラが言った危険を、きちんと守っている。素手で触らず、広げず、灰鷹の手順で押さえようとしている。
だからこそ、ノラの足が止まった。
灰鷹が触れば危ない。だが、ノラが先に奪えばもっと問われる。
その一拍を、ラウルは逃さなかった。
黒い熱が足元へ落ちる。
石畳の欠片が跳ね、ノラの膝を打った。痛みは浅い。だが、踏み込みは切れる。ラウルは布包みを抱え直し、細い荷抜け道へ体を滑らせた。
すれ違いざま、ラウルが低く言った。
「お前も、こいつらに見られたくないんだな」
ノラは返さなかった。
返せば、認めることになる。
ラウルは橋を渡らず、脇の細道へ入った。倉庫の壁と古い排水路の間を抜ける、荷運びだけが知っている道だ。
エリオがすぐに指示を飛ばす。
「二人は石橋へ回ってください。北門の班へ伝達。倉庫口は閉じない、通行人を外へ」
「追います!」
「人を押すな。道が細い! 包みを見た者は、拾わず位置だけ押さえて!」
灰鷹は人を散らさず、包みを素手で拾わず、通りを塞がない。
だが、正しい手順ほど、狭い道では時間を食う。
その隙へ、ラウルは入った。
ノラは膝についた石の粉を払った。出血はない。走れる。
ヨルが戻ってきた。
ラウルの匂いを追うはずだった。
けれど、ヨルは細道の入口で一度だけ止まり、石畳を外して道の端に残った車輪跡を嗅いだ。
「ラウルは?」
ヨルは顔を上げない。
代わりに、喉の奥で低く鳴った。
ノラは細道を見た。
奥で、ラウルの外套が曲がる。まだ追える。黒い布包みも見えている。けれど、道の端には、さっきの甘い匂いが濃くなっていた。
薬屋の棚。
柔らかい布。
小さな靴の奥。
ノラの足が、今度は別の理由で速くなる。
「エリオ」
「何ですか」
「この道、誰かが先に触ってる」
エリオの目が細くなる。
「通報者ですか」
「分からない。でも、ラウルだけじゃない」
エリオは追跡の指示を出しながら、ノラの視線を追った。
細道の先に、荷車があった。
斜めに止まっている。
道には人一人分の隙間が残る。歩けば抜けられるが、走れば必ず足を止める幅だった。車輪の一つが外れかけ、荷台の麻袋が崩れかけていた。
近くに持ち主の姿はない。
灰鷹の若い隊員が息を切らしながら言った。
「こんなところで荷車か」
エリオが周囲を見る。
「誰の荷ですか。持ち主は」
返事はない。
奥で、ラウルの足音が一度止まった。
ノラは荷車へ近づいた。
ヨルが先に潜り込むように、車輪の下へ鼻を向けた。ラウルの焦げ、灰鷹の革靴、荷車の油、麻袋。そのどれにも重ならない匂いがある。
甘い。
薬包に染みたような、柔らかい匂い。
「クル……」
ノラは、外れかけた車輪の奥を見た。
甘い薬の匂いの下で、車軸を留める木栓だけが半分まで切られていた。
荷車は、ここで止まるように壊されていた。




