表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第9章 横取りの手
PR
38/61

第38話 灰鷹の網

挿絵(By みてみん)

走り出したヨルは細い荷道を十歩ほど先行し、ノラ・ヴェイルもその黒い背を追う。


表通りを外れた、荷車が朝早く通るための裏道だ。石畳は一部だけ沈み、壁際には古い縄と割れた木箱が寄せられている。雨も降っていないのに、道の端だけが湿っていた。


灰鷹の足音は、右へ流れている。


北門、石橋、倉庫口へ。


通報が早すぎた。


灰鷹が走れば、人は道を空ける。道が空けば、別の場所が詰まる。その詰まりを待っている人間がいる。


灰鷹を正しく走らせ、その手順ごと利用する罠だった。


薬屋の包みに似た甘さは、荷車の油と古い布を割って奥へ続いている。


ノラは足を速めた。


今、追うべきものは一つだ。


煤釘の耳飾り。


ノラの箱にも、手にも、もうないもの。


角を曲がると、灰鷹の若い隊員が一人、こちらへ走ってきた。息を切らしているが、足は乱れていない。ノラを見つけると、一瞬だけ顔を明るくし、すぐに引き締めた。


「ノラさん。エリオさんが、倉庫口を押さえています」


「ラウルは」


「見た者がいます。暗い外套で、右手を押さえていたと」


ノラは足を止めずに聞いた。


「右手?」


「指が動きにくいみたいだった、と。あと、黒い包みを何度も持ち替えていたそうです」


ヨルが短く鳴いた。


ラウルは強い。


だが、右手はまだ戻りきっていない。


袋井戸の出口で見せた黒い熱。あれは、ただの力ではなかった。使えば、体のどこかを削る。ラウルの指先にも、その鈍りが残っている。


なら、取り返せる隙はある。


隊員が、走りながらノラを見る。


「あの男、何を持ってるんですか」


煤釘の迷宮の核だ。


そう言えば、次に問われる。


なぜ知っている。


なぜ持っていた。


なぜ灰鷹へ渡していなかった。


「素手で触らないで。広げないで」


ノラはそれだけ言った。


隊員は眉を寄せる。


「盗まれた遺品だと聞いています」


「遺品なら、なおさら」


「中身を知っているんですか」


ノラは隊員を見た。


「知らないものを開けて、無事で済むとは限らない。触るなら、布越し。広げない」


隊員の顔が変わった。


納得はしていない。それでも、ただの脅しではないと理解した。


「エリオさんにも、そう伝えます」


「伝えるだけでいい。止める相手より、包みを開けないことを先に覚えて」


「はい」


隊員は先へ走った。


ノラは、その背中を追いながら壁際を見た。


黒い擦り跡がある。


石が焦げたように、壁の角が少しだけ黒くなっていた。血も火もなく、指先の熱だけが体から漏れて石へ触れた跡だった。


その横で、黒い布の繊維が石角に一本引っかかっていた。


ヨルが鼻先を近づけ、すぐ顔を背けた。


「嫌だね」


ヨルは顔を戻さず、道の奥へ進む。


倉庫街の中心に近づくほど、人の声が増えた。だが、混乱はしていない。灰鷹の隊員が通行人を壁際へ下がらせ、荷を積んだ男たちを道の端へ誘導している。


エリオの声が聞こえた。


「押さないでください。走る人を増やさない。荷はそこへ置いて、通りを空けて」


若いのに、声は通る。


灰鷹の外套を着た隊員たちが、倉庫口の前に広がっていた。剣を抜いている者は少ない。抜けば、周りの人間も固くなる。エリオはそれを分かっている。


ノラが近づくと、エリオが振り向いた。


「こっちです。北門は塞ぎました。石橋にも回しています」


「早いね」


「早すぎます」


エリオは苦い顔をした。


「俺たちは通報で動きました。危険人物を追う判断は間違っていません。でも、動かされた感じがします」


ノラは倉庫口の奥を見た。


細い荷抜け道が続いている。人が二人並ぶには狭い。荷車なら一台で道をふさぐ。逃げるには使えるが、追う側は隊列を組みにくい。


「網だね」


エリオがノラを見る。


「誰の」


ノラは答えなかった。


言えば、サイラスの名が出る。


けれど、まだ確証はない。


エリオは一度だけ目を閉じ、すぐ開けた。


「分かりました。今の沈黙は、まだ言えない情報として扱います。なかったことにはしません」


「便利な処理だね」


「不便です。けれど、現場では不便な処理の方が後で残ります。便利に流すと、誰かの都合だけが残る」


ヨルが足元で身を低くした。


倉庫口の向こう、古い縄橋の手前に、暗い外套が見えた。


ラウルだった。


黒い布包みは左手にある。


右手は体の脇に落ち、指だけがわずかに曲がったまま戻らない。包みを持つ左手の力も、強いのに少し遅い。


ノラの中で、耳飾りの冷たさが戻った。あの黒ずんだ輪。割れた小石。売っても銅貨一枚になるか分からないもの。けれど、煤釘の壁を脈打たせていたもの。


ラウルは自分で止まった。


前方に、灰鷹がいた。


古い縄橋は、浅い排水路の上に渡された短い橋だった。落ちても死にはしない。だが、足を取られれば走れなくなる。橋の左右は低い石壁で、抜け道は細い。


エリオが一歩、前へ出た。


「止まってください。呼び石の件で話を聞きます」


剣を向けるより先に、エリオは言葉を置き、周りの人間へまだ会話の余地があると見せた。


ラウルは、エリオを見た。


見下してはいない。だが、相手にしていない目だった。


「話を聞く相手を間違えている」


「あなたが傷を負わせた検分役は生きています。だから、まだ聞けることがあります」


ラウルの顔が、ほんの少しだけ動いた。


レド。


呼び石で布を噛み、自分の声を取らせなかった男。


ラウルは殺意より先に、呼び石で何を見たのか、神殿が何を隠していたのかを聞き出そうとしていた。


その答えを、ラウルは取り損ねた。


ラウルの目的は殺人だけで終わらない。


けれど、人を傷つけても構わない男だった。


エリオは、声を崩さない。


「武器を下ろしてください。手元の包みも、こちらで確認します。素手では触りません。広げもしません。あなたを止めることと、包みを乱暴に扱うことは別です」


ラウルの視線が、ノラへ移った。


ノラは動かなかった。


ここで踏み込めば、灰鷹の前で煤釘の耳飾りに手を伸ばすことになる。


なぜ、それを狙うのか。


なぜ、それが危険だと知っているのか。


聞かれれば、答えられない。


ラウルは、その一拍を見た。


口元が、笑いに届かないほど薄く緩んだ。


ただ、測った。


「灰鷹に守られる救助屋か」


「守られてるなら、もっと楽な仕事を選ぶ」


「なら、どけ」


「それは無理」


ラウルの右手に、黒い熱が灯った。


火ではなかった。


光らない。燃えない。ただ、指の骨の奥から熱が滲み、空気の端を黒く歪ませる。石畳が小さく鳴り、橋の手前の敷板にひびが入った。


エリオが叫ぶ。


「下がって!」


灰鷹が動いた。


遅くはない。通行人を巻き込まない位置へ引き、隊員同士がぶつからないように広がる。だが、足元の敷板が割れたことで、隊列の前だけが崩れた。


若い隊員が膝をつく。


灯りが揺れる。


剣を抜きかけた隊員が、踏み場を探して一歩遅れる。


ラウルはその乱れを作っただけだった。


橋を落とさない。


人を殺さない。


だが、怪我をしても構わない崩し方。


ノラは踏み込んだ。


ヨルが左へ抜け、布包みを持つ左手の下へ回って、ラウルの視線をそらした。


ラウルの指先が、一瞬だけ遅れた。


黒い布包みが浅く握られる。


今なら届く。


ノラは腕を伸ばしかけた。


その瞬間、灰鷹の隊員が叫んだ。


「布越しに確保します!」


さっきノラが言った危険を、きちんと守っている。素手で触らず、広げず、灰鷹の手順で押さえようとしている。


だからこそ、ノラの足が止まった。


灰鷹が触れば危ない。だが、ノラが先に奪えばもっと問われる。


その一拍を、ラウルは逃さなかった。


黒い熱が足元へ落ちる。


石畳の欠片が跳ね、ノラの膝を打った。痛みは浅い。だが、踏み込みは切れる。ラウルは布包みを抱え直し、細い荷抜け道へ体を滑らせた。


すれ違いざま、ラウルが低く言った。


「お前も、こいつらに見られたくないんだな」


ノラは返さなかった。


返せば、認めることになる。


ラウルは橋を渡らず、脇の細道へ入った。倉庫の壁と古い排水路の間を抜ける、荷運びだけが知っている道だ。


エリオがすぐに指示を飛ばす。


「二人は石橋へ回ってください。北門の班へ伝達。倉庫口は閉じない、通行人を外へ」


「追います!」


「人を押すな。道が細い! 包みを見た者は、拾わず位置だけ押さえて!」


灰鷹は人を散らさず、包みを素手で拾わず、通りを塞がない。


だが、正しい手順ほど、狭い道では時間を食う。


その隙へ、ラウルは入った。


ノラは膝についた石の粉を払った。出血はない。走れる。


ヨルが戻ってきた。


ラウルの匂いを追うはずだった。


けれど、ヨルは細道の入口で一度だけ止まり、石畳を外して道の端に残った車輪跡を嗅いだ。


「ラウルは?」


ヨルは顔を上げない。


代わりに、喉の奥で低く鳴った。


ノラは細道を見た。


奥で、ラウルの外套が曲がる。まだ追える。黒い布包みも見えている。けれど、道の端には、さっきの甘い匂いが濃くなっていた。


薬屋の棚。


柔らかい布。


小さな靴の奥。


ノラの足が、今度は別の理由で速くなる。


「エリオ」


「何ですか」


「この道、誰かが先に触ってる」


エリオの目が細くなる。


「通報者ですか」


「分からない。でも、ラウルだけじゃない」


エリオは追跡の指示を出しながら、ノラの視線を追った。


細道の先に、荷車があった。


斜めに止まっている。


道には人一人分の隙間が残る。歩けば抜けられるが、走れば必ず足を止める幅だった。車輪の一つが外れかけ、荷台の麻袋が崩れかけていた。


近くに持ち主の姿はない。


灰鷹の若い隊員が息を切らしながら言った。


「こんなところで荷車か」


エリオが周囲を見る。


「誰の荷ですか。持ち主は」


返事はない。


奥で、ラウルの足音が一度止まった。


ノラは荷車へ近づいた。


ヨルが先に潜り込むように、車輪の下へ鼻を向けた。ラウルの焦げ、灰鷹の革靴、荷車の油、麻袋。そのどれにも重ならない匂いがある。


甘い。


薬包に染みたような、柔らかい匂い。


「クル……」


ノラは、外れかけた車輪の奥を見た。


甘い薬の匂いの下で、車軸を留める木栓だけが半分まで切られていた。


荷車は、ここで止まるように壊されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ