第37話 早すぎる通報
ノラ・ヴェイルがダナンを通りへ送り出した時、灰鷹の靴音はもう角を曲がっていた。
早すぎる。
裂けた腰袋から煤釘を奪ったラウルは消えたばかりで、土の焦げた匂いさえまだ薄れていない。それなのに灰鷹は隊列を組み、逃げた先を塞ぐように広がっていた。
ラウルがここに現れる前に、誰かが知らせたのか。
先頭の二人は剣へ手をかけ、石垣の陰と井戸の裏へ分かれた。一人が担ぎ手と石垣の間を無理に抜け、鞘の金具を担架代わりの布へ引っかける。ダナンの傷ついた踵が木枠を打ち、足を持つ男が体ごとよろめいた。その後ろから入ったエリオ・カーンも、最初の一歩はラウルが消えた道へ向いた。
「そっちじゃない!」
ダナンの肩を持つ男が怒鳴った。
「刃物の男は逃げた。こっちはまだ足がついてる!」
足を持つ男が、剣の柄にかかったエリオの手を叩き落とした。
「先にこの足を見ろ!」
エリオは言い返しかけ、木枠へ当たった踵から血が増えたのを見て口を閉じた。道へ向いた足を戻し、外れかけた布の横木を両手で押さえる。
「生きていますか」
「生きてる。足は悪い。井戸には言葉を返してない」
ノラが答える間にも、ダナンは掌へ巻いた布で仲間の袖を三度引いた。肩を持つ二人は合図を読み、傷のある足を地面へ触れさせないまま立ち位置を変える。
エリオは彼らの動きを止めず、担架を開いた隊員へ言った。
「その高さへ合わせて。こちらの形へ移させないでください」
若い隊員は聞き取り用の板を脇へ投げ、担架の脚を縮めた。
「それ以上上げるな。こっちの担架へ合わせたら足首が返る」
足を持つ男が念を押し、若い隊員は金具を一段戻した。石垣から戻った隊員は反対側へ回ったものの、鞘が邪魔になって一度しゃがみ直す。男が鞘を背中へ押しやってから、ようやく四本の腕が同じ高さにそろった。
「名前は呼ばないでくれ」
肩を支える男が先に言った。
「穴が真似する。通りへ出るまでは、こいつの顔を見て運べ」
エリオが自分の隊員を一人ずつ指すと、肩を支える男は担架の横で足を踏ん張った。
「ここまで運んだんだ。灰鷹が来たからって、俺を追い払うな」
エリオは言い返す代わりに、男の後ろへ回ろうとする隊員を止めた。二本の指を口元へ当て、男にも通りの方を示す。ダナンは男の袖をつかんだままだった。男はダナンの手を見下ろし、灰鷹へ向けていた肩を担架へ戻した。
ノラは立ち上がった。裂けた腰袋の端が、指に引っかかる。布地の切れ目から、針袋の角が見えていた。
エリオの手が裂け目へ伸びかけ、ノラが半歩引くと止まった。問い詰める代わりに、彼は自分の外套から細い留め紐を外して差し出す。ノラは礼を言わずに受け取り、エリオも答えを受け取った顔はしなかった。
エリオの視線が、そこへ一瞬だけ落ち、すぐに戻った。
「少しいいですか」
「何」
「袋井戸とは別に、通報が入っています。早すぎる紙です」
ヨルが低く喉を鳴らした。
エリオは近所の男たち、灯口の使い、担架を運ぶ隊員へ順に目をやり、誰にもこちらの話を細かく聞く余裕がないと確かめた。それでも念を入れて、声を落とした。
「袋井戸の知らせより先に、別の紙が灰鷹へ入っていました。こちらが井戸で動く前から、灰鷹を走らせる準備がされていたことになります」
「別の紙」
「呼び石で神殿関係者を襲った男が、黒い布に包まれた古い小物を狙っている、と」
ノラの手が、裂けた腰袋の口を一度だけ握った。エリオには、その動きも見えていた。
エリオは続ける。
「盗まれた遺品かもしれない。男は危険。手元に黒い火のようなものを見せた。そう書かれていました」
「黒い火」は正確な表現ではないが、遠くから見た者なら、そう呼んでもおかしくなかった。
ラウルの手に宿った黒い熱。石を焦がし、ノラの間合いを一拍崩したもの。煤釘の耳飾りを奪った後、指先の動きを鈍らせていたもの。
エリオはノラをまっすぐ見る。
「その男、見ましたか」
言えることは少なかった。
遺品ではない。煤釘の核だ。元はノラが持っていた。ラウルが奪った。そう言えば、次に問われるのは、なぜノラが持っていたのかだ。
煤釘を閉じたことも、核を灰鷹へ渡さず箱に隠していたことも、そこまで話せば紙の上へ引きずり出される。
「男は見た」
ノラは言った。
「危険なのも本当。包みを開けたら、もっと悪くなる」
エリオはすぐにはうなずかなかった。
納得できず、まだ足りないと目が言っていた。けれど、今ここで問い詰めれば、危険人物の追跡が遅れることも分かっている。
「危険人物として追います。包みは開けさせません」
エリオは振り返り、北門、石橋、倉庫街の口へ次々に指を向けた。
「一人は北門、もう一人は石橋へ。倉庫街にも――」
「散らしすぎ」とノラが遮った。「早すぎる通報を信じて、言われた場所を全部塞ぐ気?」
エリオの指が止まった。北門を示した指だけが下りきらず、若い隊員へ向く。
「呼び石では、入口で待った結果、あなたの名まで口にしました。今度は遅れてから後悔したくない」
「全部に間に合おうとしたら、目の前が遅れる」
「あなたは北門へ」
エリオが若い隊員へ命じた。
「行きません。あの人を通りへ出すまで残ります」
若い隊員は答えを待たず、担架の横へ片膝をついた。脇を締めていた剣帯を外し、剣ごと地面へ置く。横木を担ぐと、そこに巻かれた革が外套越しに肩へ食い込んだ。
「その剣を拾いなさい。北門へ行けと言った」
エリオの足が、置かれた剣帯の手前で止まった。若者はその足を見てから、横木を自分の肩へ引きつけた。剣は拾わず、汗の流れる顔を上げて睨み返す。
「命令違反で構いません。北門と石橋へ一人ずつ出したら、倉庫街は誰が見るんです」
「黒い包みを見つけても拾わない。近くの人を離してください」
別の隊員が筆記板を出し、「包みを先に確保して」と書きかけた。担架の横に残る若者が板を押し戻す。
「逆だ。人を先に離す。包みは触るな」
「二か所を一人で回れません」
石橋を任された隊員が不満を漏らした。エリオは北門へ一人を走らせ、残る一人には石橋で応援を拾って倉庫街へ回れと命じる。若い隊員が残ったぶん、ラウルを直接追える外套は一枚減った。
ダナンを運ぶ横木が鳴り、担ぎ手の踵に押された剣帯の金具が石を擦った。ラウルの消えた路地からは、もう足音が返らない。ノラは裂けた腰袋へ指を入れ、空いた核の場所を握った。
エリオがもう一度、声を落とした。
「紙は正面ではなく、裏口へ回されていました」
ノラは彼を見る。
「通報者は」
「名前は残っていません。使い走りは、倉庫街の口で紙を渡されただけだと。相手の顔は、荷車の陰でよく見えなかったそうです」
倉庫街。
ノラの裂けた腰袋の端が、風に小さく揺れた。
「灰鷹を走らせたい人間がいる」
「そう見えます」
エリオの声は固かった。
灰鷹が動くのは間違っていない。危険人物がいるなら止めるべきだ。呼び石で神殿関係者を襲った男なら、なおさら放ってはおけない。
北門へ走る外套を見て、荷車の男たちが道の中央へ荷を寄せた。空いたはずの通りが、別の場所でまた細くなる。
ノラは、石垣の陰へ鼻を向けているヨルを見た。
ヨルはまだ動かない。ラウルの匂いは薄くなっている。その上に、人の足跡と灰鷹の外套の匂いが重なり始めていた。
「私も行く」
ノラが言うと、エリオはすぐに首を振った。
「灰鷹の追跡です。あなたを入れれば、説明が要ります」
「説明している間に、包みを開けられる」
エリオの目が細くなる。
「開けられると困るものなんですね」
ノラは裂けた腰袋の口を折り込み、針袋が落ちないよう結んだ。
朝の通りで、担架の金具が鳴る。ダナンを乗せた灰鷹の隊員が、段差を避けてゆっくり進んでいる。灯口の使いの少年が、その先で足元を指していた。
通りへ出たダナンは、掌へ巻いた布を仲間に結び直してもらっていた。
「袋の中に、ソーマがいた」
声が掠れて二度咳き込み、足を持つ男に「今は名前だけにしろ」と止められる。ダナンは井戸を見ず、男の袖をつかんだまま、もう一人いたと指を一本立てた。ノラは担架の後脚が段差を越えるところまで見た。
それからエリオへ言った。
「黒い布包みには触らないで」
「理由は」
「遺品なら、なおさら乱暴に扱うな」
エリオは返事をせず、ノラの顔と裂けた腰袋を交互に見た。舌の先で頬を押してから、ようやく顎を一度引いた。
「隊には伝えます。触るなら布越しに。中身を広げない。押収より先に周囲を空ける、と」
「今は、それを守って」
「今だけで終わらせる気ですか」
エリオの声に、少しだけ苛立ちが混じった。ノラが黙ると、エリオは言い直すように息を整えた。
「あなたが何かを隠しているのは分かります。さっき俺は、分からないまま三方向へ人を散らしかけた。今聞けばまた足を止めるし、聞かずに従えば、次も誰かの通報どおりに動く」
「だから言わない」
「そういうところです」
ノラは返事をしなかった。
灰鷹の別の若い隊員が戻ってきた。
「エリオさん、倉庫街の口は荷車が詰まっています。車輪が外れたとかで、道が狭くなっているそうです」
エリオの顔が変わった。
「誰の荷車ですか」
「まだ確認中です。通りの者は朝の荷出しだと言っています。でも、持ち主らしい男は車輪を直さず、灰鷹が何人来たかばかり聞いていました」
若い隊員は袖に引っかかった薄い麻布をつまんで見せた。荷車の横を抜けた時についたらしい。油の匂いに混じり、薬包のような甘さが残っている。
「俺を見て、細い荷道へ逃げました。追わなかった。荷車の向こうにもう一人の靴が見えて、一人で入るのがまずいと思って、先に戻りました」
「見失ったのか」
石橋へ回るはずの隊員が責めると、若い隊員は袖の麻布を握った。
「逃がした。だから、見た物を先に持ってきた」
北門の方で灰鷹の笛が鳴った。閉じる合図だと思った荷車の男たちが一斉に脇道へ入り、車軸の外れた荷車へ別の荷車をぶつける。木箱が一つ割れ、豆が石畳へ散った。追跡路を空けるために動いた人々が、細い荷道の入口をさらに塞いだ。
「綺麗な罠じゃない」
ノラは散った豆を踏んで滑り、荷車の縁をつかんだ。疑って止まっても、笛に従って動いても、別の隙間が開く。若い隊員の袖に残った麻布だけが、その雑な流れの中で手に取れる線だった。
ノラは若い隊員の袖から麻布を取り、甘い匂いを確かめた。
「その男が入った荷道へ行く」
「ラウルとは限りません」とエリオが言う。
「だから行く。ラウルだけを追わせたい人間が、別にいる」
ノラは散った豆を蹴分け、若い隊員が示した細い荷道へ先に五歩入った。そこでヨルへ麻布を嗅がせる。ヨルは鼻を鳴らし、まず油のついた灰鷹の靴を二歩追ってから止まった。麻布へ戻って薬包の甘さを嗅ぎ直し、ノラの脛を押しのけて荷道の奥へ入る。
ノラはその背を追いかける前に、ダナンの担架を見た。
通りへ出ている。井戸からは十分に離れた。ダナンが灰鷹の隊員に何かを言っている。礼ではない。昔の袋にいた人間の名を思い出しながら、仲間へ話そうとしている声だった。もう井戸には届かない。
ノラは担架の脚が角を越えるまで見送り、その間に空になった腰袋が太腿を一度打った。裂け目を押さえたところで、エリオが言った。
「こちらは通りへ出しました。そちらは、まだ塞げていません」
「塞がれていない道に、先に誰かがいる」
「待ってください。単独で行けば、また説明が増えます」
「後で聞く」
「俺が聞かれる側なんですけどね。先に言っておきます。後で、かなり怒ります」
「今は?」
「走ります」
エリオはノラの横へ並んだが、担架の方から金具の落ちる音がして振り返った。残った若い隊員の肩では、横木の革が外套を裂き、血が一筋にじんでいる。それでも彼は片手を離せず、足を支える男に「見るな、前を持て」と怒鳴られていた。
エリオは、麻布を持ち帰った若い隊員へ顔を向けた。
「この人を案内して。倉庫口は俺が押さえます」
若い隊員が走り出すと、ノラももう待たなかった。担架の横の若者は追跡へ加われず、荷道へ入る灰鷹は案内の一人だけだった。石橋へ向かった隊員からも返答の笛はまだない。ダナンを支える男がこちらを見て、早く行けと顎を振る。
エリオは近くの隊員を呼び、表通りへ向き直る。
「倉庫街へ回る。荷車の確認を優先。人を押しのけないでください。怪我人を増やしたら、向こうの思うつぼです」
ノラは短剣がすぐ抜ける位置を確かめ、裂けた腰袋を走っても開かないよう結び直した。中身は、核を失ったぶんだけ不自然に軽い。
荷道の奥へ進むと、石畳の湿りと荷車の油、古い布、朝積みの木箱が重なる匂いの奥に、薬屋の棚へ残るような柔らかな甘さが混じった。どこかで嗅いだ記憶に触れながら、まだ名を出せない匂いだった。
甘い匂いが強くなると、ヨルがノラたちを追い越した。案内の若者も足を速め、最初の角へ向かう。ノラがその背を追うあいだ、表通りへ回ったエリオの声は、荷車の軋みに紛れて聞こえなくなった。




