第37話 早すぎる通報
ノラ・ヴェイルがダナンを通りへ送り出した時、灰鷹の靴音はもう角を曲がっていた。
早すぎる。
灯口の使いが正式な通報先へ着くより先に、隊列が組まれている。裂けた腰袋から煤釘を奪ったラウルは消えたばかりで、土の焦げた匂いさえまだ薄れていない。
誰かが、救助が始まる前から灰鷹をここへ向けていた。
先頭の隊員が一人、周囲を見てすぐに井戸から距離を取った。もう一人が担架の形を確認しながら近づく。その後ろに、エリオ・カーンがいた。
エリオはノラより先にダナンを見た。
「生きていますか」
「生きてる。足は悪い。井戸には返事してない」
エリオの眉がわずかに寄る。
意味を聞き返す顔ではあった。けれど、口には出さない。今は分からない言葉より、目の前の足の方が先だった。
「担架を。足は持たないでください。肩と腰を支えて、通りへ出します」
近くの隊員が何かを聞きかけた。井戸の件か、追跡の件か、ノラには分からなかった。
エリオは短く首を振る。
「聞き取りは通りに出てからです。紙は待てます。足の血は待ちません」
灰鷹の隊員が動く。
近所の男たちは、その声でようやく息を合わせた。さっきまで袋井戸の声に手元を乱されていた者たちが、今度は灰鷹の指示で腕の位置を戻していく。
エリオはダナンの口元の布を見て、声を落とした。
「まだ外さない方がいいですか」
「井戸から離れるまで」
「分かりました」
分からないまま、分かった分だけ受ける返事だった。ここで全部を聞こうとしない。その判断だけで、ダナンの足は少し助かる方へ寄った。
エリオは近くの隊員へ目を向けた。
「この人が布を外すまで、周りで名前を呼ばないでください。聞き取りも通りへ出てからです」
隊員は一瞬だけ戸惑ったが、すぐにうなずいた。理由を聞くより先に、現場の手順へ落とす。灰鷹の動きは遅くなかった。
ノラは立ち上がった。裂けた腰袋の端が、指に引っかかる。布地の切れ目から、針袋の角が見えていた。
エリオの視線が、そこへ一瞬だけ落ち、すぐに戻った。
「少しいいですか」
「何」
「袋井戸とは別に、通報が入っています。早すぎる紙です」
ヨルが低く喉を鳴らした。
エリオは周囲を見た。近所の男たち、灯口の使い、担架を運ぶ隊員。誰もこちらの話を細かく聞く余裕はない。それでも、エリオは声を落とした。
「袋井戸の知らせより先に、別の紙が灰鷹へ入っていました。こちらが井戸で動く前から、灰鷹を走らせる準備がされていたことになります」
「別の紙」
「呼び石で神殿関係者を襲った男が、黒い布に包まれた古い小物を狙っている、と」
ノラは答えなかった。
エリオは続ける。
「盗まれた遺品かもしれない。男は危険。手元に黒い火のようなものを見せた。そう書かれていました」
黒い火。
正確ではない。
けれど、遠くから見た者なら、そう言うかもしれない。
ラウルの手に宿った黒い熱。石を焦がし、ノラの間合いを一拍崩したもの。煤釘の耳飾りを奪った後、指先の動きを鈍らせていたもの。
エリオはノラをまっすぐ見る。
「その男、見ましたか」
言えることは少なかった。
遺品ではない。煤釘の核だ。元はノラが持っていた。ラウルが奪った。そう言えば、次に問われるのは、なぜノラが持っていたのかだ。
煤釘を閉じたこと。
核を灰鷹へ渡さず、箱に隠していたこと。
そこまで、紙の上に引きずり出される。
「男は見た」
ノラは言った。
「危険なのも本当。包みを開けたら、もっと悪くなる」
エリオはすぐにはうなずかなかった。
納得できず、まだ足りないと目が言っていた。けれど、今ここで問い詰めれば、危険人物の追跡が遅れることも分かっている。
「分かりました。危険人物として追います。包みは開けさせません」
エリオは振り返り、隊員へ指示を飛ばした。
「北門へ一人。石橋にも回して。表通りは広げて塞がないでください。通行人を押し込めると危ない。倉庫街の口にも知らせを。包みを見た者は、拾わず位置だけ押さえるように」
若い隊員が筆記板を出しかけた。
「報告は」
「走りながら覚えてください。今、きれいに書く相手ではありません」
灰鷹の足音が分かれた。
一人は北へ走る。もう一人は石橋へ向かう。別の隊員が担架の横につき、ダナンの搬送を手伝う。
救助と追跡が、同じ朝の空気の中で別々に動き始めた。
ダナンを見れば、足の固定が気にかかる。ラウルの消えた方を見れば、煤釘の耳飾りが遠ざかる。灰鷹が動けば、追跡は早まる。けれど、灰鷹が近づくほど、ノラは核の正体を言えなくなる。
エリオがもう一度、声を落とした。
「紙は正面ではなく、裏口へ回されていました」
ノラは彼を見る。
「通報者は」
「名前は残っていません。使い走りは、倉庫街の口で紙を渡されただけだと。相手の顔は、荷車の陰でよく見えなかったそうです」
倉庫街。
ノラの裂けた腰袋の端が、風に小さく揺れた。
「灰鷹を走らせたい人間がいる」
「そう見えます」
エリオの声は固かった。
灰鷹が動くのは間違っていない。危険人物がいるなら止めるべきだ。呼び石で神殿関係者を襲った男なら、なおさら放ってはおけない。
だからこそ、利用される。
ノラは、石垣の陰へ鼻を向けているヨルを見た。
ヨルはまだ動かない。ラウルの匂いは薄くなっている。その上に、人の足跡と灰鷹の外套の匂いが重なり始めていた。
「私も行く」
ノラが言うと、エリオはすぐに首を振った。
「灰鷹の追跡です。あなたを入れれば、説明が要ります」
「説明している間に、包みを開けられる」
エリオの目が細くなる。
「開けられると困るものなんですね」
ノラは裂けた腰袋の口を折り込み、針袋が落ちないよう結んだ。
朝の通りで、担架の金具が鳴る。ダナンを乗せた灰鷹の隊員が、段差を避けてゆっくり進んでいる。灯口の使いの少年が、その先で足元を指していた。
ノラがそちらを一度だけ確かめると、通りへ出たダナンは、ようやく口布を外していた。礼は言わず、かわりに自分の足の布を片手で押さえ、井戸の方を見ないように顔を背けている。
まだ助かりきったわけではない。
それでも、声を井戸へ落とさずに外へ出た。
ノラは、その事実だけを確かめるようにダナンを見た。
それからエリオへ言った。
「黒い布包みには触らないで」
「理由は」
「遺品なら、なおさら乱暴に扱うな」
エリオは、そこに理由が全部入っていないことを分かっていたが、それでもうなずいた。
「隊には伝えます。触るなら布越しに。中身を広げない。押収より先に周囲を空ける、と」
「それでいい」
「いい、ではないでしょう」
エリオの声に、少しだけ苛立ちが混じった。ノラが黙ると、エリオは言い直すように息を整えた。
「あなたが何かを隠しているのは分かります。でも、今聞けば、俺も足を止めることになる」
「だから言わない」
「そういうところです」
ノラは返事をしなかった。
灰鷹の若い隊員が戻ってきた。
「エリオさん、倉庫街の口は荷車が詰まっています。車輪が外れたとかで、道が狭くなっているそうです」
エリオの顔が変わった。
「誰の荷車ですか」
「まだ確認中です。通りの者は、朝の荷出しだと言っています」
早すぎる。
通報も、荷車も、道の詰まりも。
すべてが綺麗にそろっているわけではない。むしろ、雑だ。使い走りは顔を見ていない。荷車は本当に車輪が外れているのだろう。倉庫街なら、朝に荷が詰まることもある。
けれど、その雑さが嫌だった。
一点を狙い撃つ罠ではない。
灰鷹が間違えれば足が止まる。正しく動けば人が流れる。そのどこかに、横取りの手を入れる網。
ヨルが動いた。
灰鷹が走った表通りではない。ラウルの足跡が濃い石垣沿いでもない。倉庫街へ抜ける細い荷道の方へ、鼻を低くして進む。
ノラはその背を追いかける前に、ダナンの担架を見た。
通りへ出ている。井戸からは十分に離れた。口元の布を外したダナンが、灰鷹の隊員に何かを言っている。礼ではない。きっと、足の痛みか、袋の話だ。声はもう、井戸には届かない。
担架の脚が角を越えるまで、ノラは見た。
空になった腰袋が、太腿を一度打った。
ノラは裂けた腰袋を押さえた。
エリオが言う。
「こちらは通りへ出しました。そちらは、まだ塞げていません」
「塞がれていない道に、先に誰かがいる」
「待ってください。単独で行けば、また説明が増えます」
「後で聞く」
「俺が聞かれる側なんですけどね。先に言っておきます。後で、かなり怒ります」
「今は?」
エリオの返事が遅れた。ノラを置くか、命令違反へ自分から入るか、その間だった。
「走ります」
声は硬いままだった。怒りを後へ送っただけだった。
エリオは近くの隊員を呼んだ。
「倉庫街へ回る。荷車の確認を優先。人を押しのけないでください。怪我人を増やしたら、向こうの思うつぼです」
隊員が走る。
ノラはもう待たなかった。
ヨルは荷道の入口で一度だけ振り返った。
「クル」
迷うな、に近い声だった。
ノラは短剣の位置を確かめ、裂けた腰袋を結び直した。中身は軽い。軽すぎる。
荷道へ入ると、匂いが変わった。
石畳の湿り。荷車の油。古い布。朝に積まれた木箱の乾いた匂い。
その奥に、かすかな甘さが混じっていた。
薬屋の棚に残るような、柔らかい甘さ。
どこかで嗅いだ匂いだった。
ヨルは灰鷹の足音ではなく、その甘い匂いを追って走り出した。




