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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第8章 空になった袋
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第36話 空になった袋

挿絵(By みてみん)

ラウルの消えた石垣を背に、ノラ・ヴェイルはダナンの運び方を見た。


男たちは、いったん地面に移した体を、布ごと支え直している。口元の布を噛んだダナンは目だけを大きく開き、痛みの汗を浮かべていた。足に巻いた布はまだ赤く広がっていないが、運び方を誤ればすぐに開く傷だった。


井戸の底で、古い袋が擦れた。


はっきりした声にはならない。もう言葉を作る力が弱まっているのか、それとも、誰も返さないから苛立っているのか。湿った麻袋を引きずる音だけが、石の縁から上がってくる。


近所の男の一人が、ラウルの消えた方へ顔を向けた。


「追わなくて、いいのか」


聞いた本人も、言ってからしまったという顔をした。奪われたものの重さを知らない者でも、ノラの腰袋が裂けたことは見ている。


ノラの右足は、もう石垣へ向いていた。


ダナンが布の奥で息を詰まらせた。その音で踵を戻した。


ノラは、男の方を見ずに答えた。


「今は運ぶ」


男はうなずいた。反論ではなく、自分の役目を思い出すためのうなずきだった。


「二人は肩を持って、傷のある足は地面から浮かせたまま。灯りは足元を照らして」


役目を渡されると男たちは互いの位置を見直し、灯口の使いの少年も広げていた布を抱え直して先へ回った。息はまだ荒いが、今度は急ぐことより、ダナンを揺らさない道を選ぶ足になっている。


「通りまで、石の段差があります」


「先に見て」


「はい」


少年は走らなかった。


男たちが、下ろしたばかりのダナンをもう一度支え直す。


ダナンの喉が動いた。


布を噛んでいる。返事はしない。それでも、痛みと後悔は口の奥で形を作ろうとしていた。


ノラはダナンの横へついた。


「布はまだ外さない」


目だけでうなずいたダナンが古い井戸から少しずつ離れる背後で、袋井戸は最後に低く鳴った。


「手を空けろ」


灯りを持つ男の指が、ほんの少しゆるんだ。


ノラは怒鳴らなかった。


「手元を見て。声じゃなく、持っているものを見る」


男は自分の指を見て、柄を握り直した。


ダナンの肩を支える男も、自分の腕を見る。何を持っているのかを確かめるように、腕へ力を戻した。


袋井戸の声は、それ以上は追ってこなかった。


通りへ出る少し手前で、運ぶ揺れにダナンの呼吸が追いつかず、浅くなった。ノラは一度下ろす合図をし、傷のある足を最後まで浮かせるよう念を押す。男たちが呼吸を合わせて膝を折り、体を布へ移すあいだに、ノラは添え木と結び目、血のにじみを確かめた。どれも運び直せる状態を保っている。


ダナンの指が口元の布へかかった。もう袋井戸へ声を落とす距離ではなく、自分で沈黙を終えられる場所まで来ている。ノラが止めずに見守ると、ダナンはゆっくり布を外した。


ダナンはしばらく、ただ空気を吸った。吸うたびに顔が歪む。痛みのせいだけではなかった。地上の空気を吸っていることを、まだ自分の体が信じていない顔だった。


最初に出た声は、礼ではなかった。


「俺は、今度は離せたのか」


灯口の使いが、何のことか分からずにダナンを見た。


近所の男たちは黙っている。さっき井戸の底で、ダナンが古い袋を放したところを見ていた者も、見ていなかった者もいた。けれど、その声に割り込む者はいなかった。


ノラは、ダナンの足元を確認しながら答えた。


「離せた」


ダナンの目がゆっくりノラへ向くと、ノラは続けた。


「あんたが決めて放した。穴に言われたんじゃない」


ダナンは口を開きかけた。


何かを言えば、置いて逃げた荷と、その中にいた人間の記憶が、また昔の話となって喉の奥から出てくる。


けれど、ここは袋井戸の底ではない。


通りへ出る前の、朝の冷えた空気の中だった。灯りはまだ人の手にあり、足元には布が敷かれ、傷のある足は地面から浮かされている。


ダナンは、短く息を吐いた。


「……続きは、あとで話す」


「そうして」


ノラがそれだけ返すと、ダナンは布を噛み直した。


男たちが再びダナンを運び始める。


灯口の使いは今度こそ先頭を歩き、ときどき後ろを振り返った。その目はもう怯えておらず、道の段差と、担架を運ぶ者たちの足の位置を確かめていた。


ノラは少し遅れて、石垣の方へ戻った。


ヨルが、そこにいた。


黒い小さな体は、さっきラウルが立っていた石の陰で鼻を低くしていた。踏みしめられた土は浅く削れ、石の角には外套から切れたらしい黒い糸が引っかかっている。痕跡はあるのに、ヨルは追う方角を選べずにいた。


ノラはしゃがんだ。


「切れてる?」


ヨルは顔を上げない。


石垣の根元から土の跡を辿って路地へ数歩出たところで、ヨルの鼻先が左右へ迷った。朝の荷車と古い倉の埃、近所の男たちの靴底、灯口の使いが運んだ泥、袋井戸の湿りが道を重ね、その隙間に黒い熱の焦げた匂いがかすかに残る。ラウルの匂いだけを一本の道へ結べるほど、強くはなかった。


「クル……」


前足が土を一度掻いた。


ノラはヨルの背に手を置き、強く撫でることも押さえつけることもせず、ただそこにいると伝わるだけの重さで触れた。


「遅い」


言葉が先に出た。


ヨルは手の下から身を引いた。ノラの指が追い、触れる前に止まった。


ノラは立ち上がった。


裂けた腰袋が歩くたびに太腿へ当たり、ノラはようやく中を見た。拾い戻した傷止めと針袋、土を吸った清潔布の間には砂まで入り、救助具はすべて洗い直さなければ使えない。けれど、手入れをすれば戻せる物のどこにも、煤を吸った布包みと片方だけの耳飾りはなかった。


指を入れると、底に空いた場所だけが分かった。物がなくなっただけではない。そこに置いていた迷宮の名ごと、抜き取られたような空きだった。


煤釘。その名に、灰色の顔とトマの重さ、岩を持ち上げた時の腕のきしみ、夜の小屋で箱の蓋へ炭筆を押しつけた感触まで戻ってくる。売らず、渡さず、誰にも使わせないためにしまっていたものが、いまラウルの手にある。


マルヤには、救助の人数と担架の手配を伝えた。ミミには、戸を開けない手順を残した。だが、煤釘を腰に入れたことは誰にも知らせなかった。


知らせれば、その人間の手も狙われる。だから言わない方が被害は少ない。そう決めた一拍まで、ラウルには読まれていた。


ノラは腰袋の裂け目を結んだが、布はきれいに合わなかった。内側で傾いた傷止めの瓶に針袋の角まで引っかかり、走れば不格好な結び目がまたほどけるかもしれない。


それでも今は結ぶしかなかった。見上げるヨルの視線を受け、ノラも石垣の向こうを確かめたが、ラウルはもういない。


あの耳飾りに残った声を、あの男が何に使うのか。誰へ渡すのか。どこへ持っていくのか。


何に使うのか分からないからこそ、追いつくには急がなければならない。ノラは急ぐ決意を短い言葉にした。


「使わせない」


ヨルはノラの脛へ肩を寄せ、そのまま横へ並んだ。


通りの方で、ダナンを運ぶ男たちの声がした。慎重に、ゆっくり、足を浮かせろと誰かが言っている。灯口の使いが、段差を知らせている。


救助は終わっていない。


ノラは一度だけ、袋井戸の方を見た。


古い石組みの縁は、朝の光の中でただの穴に戻りかけていた。だが、底にはまだ、置いていかれた袋が積もっている。誰かの後悔を待つように、湿った匂いを残している。


返す言葉はない。


ノラは裂けた腰袋を押さえ、ダナンを運ぶ声の方へ歩き出した。


傷止めと針袋と、土を吸った清潔布が、袋の底で揺れている。


ダナンは地上にいる。煤釘はラウルの手にある。その差を確かめるように、指が腰袋の底をもう一度探った。


布しかない。分かっているのに二度なぞり、三度目にノラは自分の手首をつかんで止めた。


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