第36話 空になった袋
ラウルの消えた石垣を背に、ノラ・ヴェイルはダナンの運び方を見た。
男たちは、いったん地面に移した体を、布ごと支え直している。口元の布を噛んだダナンは目だけを大きく開き、痛みの汗を浮かべていた。足に巻いた布はまだ赤く広がっていないが、運び方を誤ればすぐに開く傷だった。
井戸の底で、古い袋が擦れた。
はっきりした声にはならない。もう言葉を作る力が弱まっているのか、それとも、誰も返さないから苛立っているのか。湿った麻袋を引きずる音だけが、石の縁から上がってくる。
近所の男の一人が、ラウルの消えた方へ顔を向けた。
「追わなくて、いいのか」
聞いた本人も、言ってからしまったという顔をした。奪われたものの重さを知らない者でも、ノラの腰袋が裂けたことは見ている。
ノラの右足は、もう石垣へ向いていた。
ダナンが布の奥で息を詰まらせた。その音で踵を戻した。
ノラは、男の方を見ずに答えた。
「今は運ぶ」
男はうなずいた。反論ではなく、自分の役目を思い出すためのうなずきだった。
「二人は肩を持って、傷のある足は地面から浮かせたまま。灯りは足元を照らして」
役目を渡されると男たちは互いの位置を見直し、灯口の使いの少年も広げていた布を抱え直して先へ回った。息はまだ荒いが、今度は急ぐことより、ダナンを揺らさない道を選ぶ足になっている。
「通りまで、石の段差があります」
「先に見て」
「はい」
少年は走らなかった。
男たちが、下ろしたばかりのダナンをもう一度支え直す。
ダナンの喉が動いた。
布を噛んでいる。返事はしない。それでも、痛みと後悔は口の奥で形を作ろうとしていた。
ノラはダナンの横へついた。
「布はまだ外さない」
目だけでうなずいたダナンが古い井戸から少しずつ離れる背後で、袋井戸は最後に低く鳴った。
「手を空けろ」
灯りを持つ男の指が、ほんの少しゆるんだ。
ノラは怒鳴らなかった。
「手元を見て。声じゃなく、持っているものを見る」
男は自分の指を見て、柄を握り直した。
ダナンの肩を支える男も、自分の腕を見る。何を持っているのかを確かめるように、腕へ力を戻した。
袋井戸の声は、それ以上は追ってこなかった。
通りへ出る少し手前で、運ぶ揺れにダナンの呼吸が追いつかず、浅くなった。ノラは一度下ろす合図をし、傷のある足を最後まで浮かせるよう念を押す。男たちが呼吸を合わせて膝を折り、体を布へ移すあいだに、ノラは添え木と結び目、血のにじみを確かめた。どれも運び直せる状態を保っている。
ダナンの指が口元の布へかかった。もう袋井戸へ声を落とす距離ではなく、自分で沈黙を終えられる場所まで来ている。ノラが止めずに見守ると、ダナンはゆっくり布を外した。
ダナンはしばらく、ただ空気を吸った。吸うたびに顔が歪む。痛みのせいだけではなかった。地上の空気を吸っていることを、まだ自分の体が信じていない顔だった。
最初に出た声は、礼ではなかった。
「俺は、今度は離せたのか」
灯口の使いが、何のことか分からずにダナンを見た。
近所の男たちは黙っている。さっき井戸の底で、ダナンが古い袋を放したところを見ていた者も、見ていなかった者もいた。けれど、その声に割り込む者はいなかった。
ノラは、ダナンの足元を確認しながら答えた。
「離せた」
ダナンの目がゆっくりノラへ向くと、ノラは続けた。
「あんたが決めて放した。穴に言われたんじゃない」
ダナンは口を開きかけた。
何かを言えば、置いて逃げた荷と、その中にいた人間の記憶が、また昔の話となって喉の奥から出てくる。
けれど、ここは袋井戸の底ではない。
通りへ出る前の、朝の冷えた空気の中だった。灯りはまだ人の手にあり、足元には布が敷かれ、傷のある足は地面から浮かされている。
ダナンは、短く息を吐いた。
「……続きは、あとで話す」
「そうして」
ノラがそれだけ返すと、ダナンは布を噛み直した。
男たちが再びダナンを運び始める。
灯口の使いは今度こそ先頭を歩き、ときどき後ろを振り返った。その目はもう怯えておらず、道の段差と、担架を運ぶ者たちの足の位置を確かめていた。
ノラは少し遅れて、石垣の方へ戻った。
ヨルが、そこにいた。
黒い小さな体は、さっきラウルが立っていた石の陰で鼻を低くしていた。踏みしめられた土は浅く削れ、石の角には外套から切れたらしい黒い糸が引っかかっている。痕跡はあるのに、ヨルは追う方角を選べずにいた。
ノラはしゃがんだ。
「切れてる?」
ヨルは顔を上げない。
石垣の根元から土の跡を辿って路地へ数歩出たところで、ヨルの鼻先が左右へ迷った。朝の荷車と古い倉の埃、近所の男たちの靴底、灯口の使いが運んだ泥、袋井戸の湿りが道を重ね、その隙間に黒い熱の焦げた匂いがかすかに残る。ラウルの匂いだけを一本の道へ結べるほど、強くはなかった。
「クル……」
前足が土を一度掻いた。
ノラはヨルの背に手を置き、強く撫でることも押さえつけることもせず、ただそこにいると伝わるだけの重さで触れた。
「遅い」
言葉が先に出た。
ヨルは手の下から身を引いた。ノラの指が追い、触れる前に止まった。
ノラは立ち上がった。
裂けた腰袋が歩くたびに太腿へ当たり、ノラはようやく中を見た。拾い戻した傷止めと針袋、土を吸った清潔布の間には砂まで入り、救助具はすべて洗い直さなければ使えない。けれど、手入れをすれば戻せる物のどこにも、煤を吸った布包みと片方だけの耳飾りはなかった。
指を入れると、底に空いた場所だけが分かった。物がなくなっただけではない。そこに置いていた迷宮の名ごと、抜き取られたような空きだった。
煤釘。その名に、灰色の顔とトマの重さ、岩を持ち上げた時の腕のきしみ、夜の小屋で箱の蓋へ炭筆を押しつけた感触まで戻ってくる。売らず、渡さず、誰にも使わせないためにしまっていたものが、いまラウルの手にある。
マルヤには、救助の人数と担架の手配を伝えた。ミミには、戸を開けない手順を残した。だが、煤釘を腰に入れたことは誰にも知らせなかった。
知らせれば、その人間の手も狙われる。だから言わない方が被害は少ない。そう決めた一拍まで、ラウルには読まれていた。
ノラは腰袋の裂け目を結んだが、布はきれいに合わなかった。内側で傾いた傷止めの瓶に針袋の角まで引っかかり、走れば不格好な結び目がまたほどけるかもしれない。
それでも今は結ぶしかなかった。見上げるヨルの視線を受け、ノラも石垣の向こうを確かめたが、ラウルはもういない。
あの耳飾りに残った声を、あの男が何に使うのか。誰へ渡すのか。どこへ持っていくのか。
何に使うのか分からないからこそ、追いつくには急がなければならない。ノラは急ぐ決意を短い言葉にした。
「使わせない」
ヨルはノラの脛へ肩を寄せ、そのまま横へ並んだ。
通りの方で、ダナンを運ぶ男たちの声がした。慎重に、ゆっくり、足を浮かせろと誰かが言っている。灯口の使いが、段差を知らせている。
救助は終わっていない。
ノラは一度だけ、袋井戸の方を見た。
古い石組みの縁は、朝の光の中でただの穴に戻りかけていた。だが、底にはまだ、置いていかれた袋が積もっている。誰かの後悔を待つように、湿った匂いを残している。
返す言葉はない。
ノラは裂けた腰袋を押さえ、ダナンを運ぶ声の方へ歩き出した。
傷止めと針袋と、土を吸った清潔布が、袋の底で揺れている。
ダナンは地上にいる。煤釘はラウルの手にある。その差を確かめるように、指が腰袋の底をもう一度探った。
布しかない。分かっているのに二度なぞり、三度目にノラは自分の手首をつかんで止めた。




