第35話 出口で待つ男
地上では、ヨルが待っていた。
石の縁に擦れた腰袋の奥で、布包みだけが冷たい。煤釘の核は、まだ布と傷止めと針袋の下にある。
小さな黒い魔物は、ダナンの方を見ていない。井戸の縁でもない。古い倉の裏、石垣の陰へ鼻先を向けている。
鳴かない。
いつもなら、見つけたものを短く知らせる。危険なら低く喉を鳴らす。けれど今、ヨルはただ耳を伏せ、尾を低くしていた。
ノラはダナンの横へ膝をついた。足の固定を確かめる。添え木代わりの板はずれていない。血はにじむが、噴くほどではない。
「水を少し。布はまだ外さないで」
灯口の使いの少年が水袋を差し出すと、ダナンは布を片手で押さえたまま少しだけ水を飲んだ。こぼした分が顎を伝い、土へ落ちる。土は水を吸ったが、井戸の方へは流れなかった。
「生きてる?」
ノラが聞くと、ダナンは目を閉じかけて、すぐ開けた。
声は出さない。
代わりに、汚れた親指を少しだけ上げた。
近所の男が、そこでやっと息を吐いた。
「助かった、のか」
「まだ。足を運ぶまで気を抜かないで」
ノラは男たちを見た。
「二人で肩。ひとりは足元を見る。灯りは落とさない。井戸から声がしても、誰も返事をしない」
男たちはうなずいた。
その時、石垣の陰から声がした。
「呼び石の検分役は、どこへ運んだ」
空気が止まった。
ノラは振り返らなかった。先に、ダナンの足へ巻いた布をもう一度締める。結び目がずれていないことを確かめ、少年へ渡した水袋の栓を閉めさせた。
それから立った。
石垣の陰に、男がいた。
呼び石で見た男だった。
暗い外套。汚れの少ない靴。救助に駆けつけた者の立ち方ではない。井戸を覗き込むでもなく、ダナンを見るでもなく、男は最初からノラだけを見ていた。
レドが言いかけた名が、ノラの中で重なる。
ラウル。
男は影から出た。
「神殿へ返したのか。灰鷹が囲っているのか」
ノラはダナンの前へ立った。
「怪我人の前でやる話じゃない」
「そいつは用がない」
「なら、退いて」
「退く理由がない」
声は大きくない。怒鳴りもしない。だが、近所の男たちは後ろへ退いた。袋井戸の声とは違う。これは人間の声だ。それなのに、場の手元を固くさせる。
ラウルはダナンを一瞥した。
「呼び石の男は、核を見に来ていた。お前は聞いたはずだ」
ノラは答えなかった。
ラウルは少しだけ目を細め、物の位置を測るように視線を動かした。
「呼び石の後、お前の動きは見ていた。灯口の使いが夜明け前に走れば、行き先は限られる」
灯口の使いの少年が肩を強張らせたが、ノラは見なかった。責められることは何もない。走らなければ、ダナンはもっと危なかった。
ラウルは続けた。
「知らない顔で通れると思うな」
ノラは短剣へ手を伸ばさない。先に動けば、後ろの男たちが揺れる。井戸はまだ口を開けている。ダナンはまだ運べない。
ラウルの視線が、ノラの手から腰へ移った。
ノラは動かない。
動かないことで隠せるものもある。けれど、動かないことが見せるものもある。
袋井戸の底で、袋が擦れた。
「手を空けろ」
男たちの肩が跳ねる。
灯りを持っていた男の腕が下がった。ダナンの肩を支えていた男の指が、ほんの少し緩む。
ノラはラウルから目を切らないまま言った。
「手を離すな」
男たちは息を飲み、力を入れ直した。
井戸が、低く笑うように鳴った。
「重いだろ」
「置け」
「空けろ」
ラウルが動いた。
袋井戸が男たちの手を揺らす瞬間を待っていたような動きだった。
速い。
ノラは短剣を抜いた。ダナンの前から大きく離れず、斜めに踏み込む。ラウルの進路を刃で切る。男はそれを避けた。避けながら、ノラではなく腰袋へ目を向ける。
見ている。
人をかばう位置。井戸の縁から遠ざける足運び。ヨルの場所へ一瞬向く目。腰袋へ近づかせない角度。
全部、見ている。
「そこか」
ラウルが低く言った。
ノラは返さず、短剣を返した。刃先が外套の袖を裂く。血が細く飛ぶ。浅い。止めるには足りない。
井戸の底から、湿ったものが伸びた。
古い吊り縄の端に見えた。だが、縄だけではない。井戸の底に積もった袋の繊維がほどけ、何本も撚り合わされている。水を吸った麻のような色をして、ノラの腰へ向かっていた。
「その袋を下ろせ」
声と同時に、湿った紐が腰袋へ絡んだ。
ノラは短剣で切ろうとする。ラウルの手が、その手首へ伸びる。止めるためではない。少しだけ遅らせるための動きだった。
ヨルが飛んだ。
黒い体がラウルの腕へ向かう。牙が袖を裂き、腕に届く。
ラウルの指先に黒い熱が灯った。
ノラのものと似ている。
けれど、同じだと決めるには早い。
ラウルはヨルを蹴らなかった。腕を強く振り、石の上へ払っただけだった。ヨルの体が転がる。小さな呻きが、喉の奥で止まった。
ノラの視線が、動いた。
その一瞬を、ラウルは逃さなかった。
湿った紐が腰袋を引く。
布が裂けた。
傷止めが落ちる。針袋が石の上を跳ねる。清潔布がほどけ、土に広がる。
その奥から、小さな布包みがのぞいた。
煤を吸った布。
中で、片方だけの耳飾りが薄く鳴った。
ラウルの目が変わった。
疑いではなく、確信の目だった。
「やっぱりな」
ノラは腰袋を押さえた。
ラウルが踏み込む。
「お前は、拾う側じゃない」
黒い熱が、今度は手首から指へ集まった。火ではない。闇が熱を持ったような色だった。石畳の上を影が走り、ラウルの足音が一気に近づく。
「抜く側だ」
ノラは短剣を上げる。
背後で、袋井戸が声を張った。
「縄を離せ」
男たちの手が揺れた。
ダナンの体が傾く。
ノラはラウルへ踏み込めた。踏み込めば、布包みは守れたかもしれない。けれど、背後の手が離れれば、ダナンはまた井戸の方へずれる。足の固定も、声を噛み殺した時間も、全部が崩れる。
「離すな。手だけ見てろ」
ノラは背後へ声を飛ばした。
男たちが持ち直す。
その間に、ラウルの指が布包みへ届いた。
ノラの刃が走る。ラウルの袖口が裂け、今度は血がはっきり落ちた。ラウルの顔が歪む。痛みはある。無傷で抜けるほど、楽な相手ではない。
それでも、煤釘の核はラウルの手へ移った。
布包みの中で、耳飾りが鳴った。
ラウルは核を握ったまま、距離を取った。
その指先が、動かなかった。
黒い熱を使った手が固まり、握った形のまま震えている。ラウルは舌打ちもせず、耳飾りを反対の手へ持ち替えた。肩が上下する。息が少し荒い。
強い。
だが、長くは続かない。
ノラはそれを見た。
追える。
今なら追える。
ヨルは石の上で身を起こしている。足は引きずっていない。ダナンは男たちに支えられている。ラウルは反動で、一瞬だけ遅い。
けれど、井戸の底がまた鳴った。
「軽くなった」
「もう一つ置け」
「手を空けろ」
ダナンの喉が震えた。
布を噛んだまま、目が揺れている。助かったはずの男の体が、また井戸の方へ引かれかけている。男たちの腕にも限界が来ていた。灯りが石へぶつかり、火が揺れる。
ノラはラウルを追わなかった。
追えなかったのではない。
追う先には煤釘の核がある。戻る先には、井戸へ引かれかけたダナンの息がある。今ここで落とせないのは、後者だった。
ダナンの前へ戻った。
ラウルが、それを見る。
「助ける方を選ぶのか」
ノラはダナンの肩を支えている男の手を押さえ、位置を直した。
「選ばせる場所を作ったのは、あんただ」
ラウルは笑わず、煤釘の布包みを握ったまま石垣の陰へ下がった。黒い熱の残った手は、まだ少し開きにくそうだった。
「検分役の話は、また聞く」
ノラはダナンの肩を支える手から目を離さなかった。
ラウルは石垣の陰へ消えた。歩き方は乱れていない。だが、右手だけは握った形のまま固まっている。消える前に、一度だけノラを見た。
救助屋ではないものを見る目だった。
袋井戸の底で、最後に声がした。
「手を空けろ」
ノラはダナンの口元の布を押さえた。
「まだ返すな」
ダナンは目を閉じ、うなずいた。
ヨルが足元へ戻ってくる。小さく低く鳴いた。
「クル……」
ノラは裂けた腰袋に手をやった。
けれど、煤を吸った布包みはなかった。
石垣の陰へ消える直前まで、ラウルの手に煤釘の耳飾りがあった。
ノラは散らばった布を拾わなかった。
先に、ダナンの肩を支える男たちへ言う。
「井戸から離れる。足を落とさないで」
男たちはうなずき、誰もラウルの消えた方へ走らなかった。
袋井戸は、まだ口を開けている。
ノラは裂けた腰袋から手を離し、ダナンの横についた。
空になった袋が、腰で軽く揺れた。




