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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第8章 空になった袋
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第35話 出口で待つ男

挿絵(By みてみん)

地上では、ヨルが待っていた。


石の縁に擦れた腰袋の奥で、布包みだけが冷たい。煤釘の核は、まだ布と傷止めと針袋の下にある。


小さな黒い魔物は、ダナンの方を見ていない。井戸の縁でもない。古い倉の裏、石垣の陰へ鼻先を向けている。


鳴かない。


いつもなら、見つけたものを短く知らせる。危険なら低く喉を鳴らす。けれど今、ヨルはただ耳を伏せ、尾を低くしていた。


ノラはダナンの横へ膝をついた。足の固定を確かめる。添え木代わりの板はずれていない。血はにじむが、噴くほどではない。


「水を少し。布はまだ外さないで」


灯口の使いの少年が水袋を差し出すと、ダナンは布を片手で押さえたまま少しだけ水を飲んだ。こぼした分が顎を伝い、土へ落ちる。土は水を吸ったが、井戸の方へは流れなかった。


「生きてる?」


ノラが聞くと、ダナンは目を閉じかけて、すぐ開けた。


声は出さない。


代わりに、汚れた親指を少しだけ上げた。


近所の男が、そこでやっと息を吐いた。


「助かった、のか」


「まだ。足を運ぶまで気を抜かないで」


ノラは男たちを見た。


「二人で肩。ひとりは足元を見る。灯りは落とさない。井戸から声がしても、誰も返事をしない」


男たちはうなずいた。


その時、石垣の陰から声がした。


「呼び石の検分役は、どこへ運んだ」


空気が止まった。


ノラは振り返らなかった。先に、ダナンの足へ巻いた布をもう一度締める。結び目がずれていないことを確かめ、少年へ渡した水袋の栓を閉めさせた。


それから立った。


石垣の陰に、男がいた。


呼び石で見た男だった。


暗い外套。汚れの少ない靴。救助に駆けつけた者の立ち方ではない。井戸を覗き込むでもなく、ダナンを見るでもなく、男は最初からノラだけを見ていた。


レドが言いかけた名が、ノラの中で重なる。


ラウル。


男は影から出た。


「神殿へ返したのか。灰鷹が囲っているのか」


ノラはダナンの前へ立った。


「怪我人の前でやる話じゃない」


「そいつは用がない」


「なら、退いて」


「退く理由がない」


声は大きくない。怒鳴りもしない。だが、近所の男たちは後ろへ退いた。袋井戸の声とは違う。これは人間の声だ。それなのに、場の手元を固くさせる。


ラウルはダナンを一瞥した。


「呼び石の男は、核を見に来ていた。お前は聞いたはずだ」


ノラは答えなかった。


ラウルは少しだけ目を細め、物の位置を測るように視線を動かした。


「呼び石の後、お前の動きは見ていた。灯口の使いが夜明け前に走れば、行き先は限られる」


灯口の使いの少年が肩を強張らせたが、ノラは見なかった。責められることは何もない。走らなければ、ダナンはもっと危なかった。


ラウルは続けた。


「知らない顔で通れると思うな」


ノラは短剣へ手を伸ばさない。先に動けば、後ろの男たちが揺れる。井戸はまだ口を開けている。ダナンはまだ運べない。


ラウルの視線が、ノラの手から腰へ移った。


ノラは動かない。


動かないことで隠せるものもある。けれど、動かないことが見せるものもある。


袋井戸の底で、袋が擦れた。


「手を空けろ」


男たちの肩が跳ねる。


灯りを持っていた男の腕が下がった。ダナンの肩を支えていた男の指が、ほんの少し緩む。


ノラはラウルから目を切らないまま言った。


「手を離すな」


男たちは息を飲み、力を入れ直した。


井戸が、低く笑うように鳴った。


「重いだろ」

「置け」

「空けろ」


ラウルが動いた。


袋井戸が男たちの手を揺らす瞬間を待っていたような動きだった。


速い。


ノラは短剣を抜いた。ダナンの前から大きく離れず、斜めに踏み込む。ラウルの進路を刃で切る。男はそれを避けた。避けながら、ノラではなく腰袋へ目を向ける。


見ている。


人をかばう位置。井戸の縁から遠ざける足運び。ヨルの場所へ一瞬向く目。腰袋へ近づかせない角度。


全部、見ている。


「そこか」


ラウルが低く言った。


ノラは返さず、短剣を返した。刃先が外套の袖を裂く。血が細く飛ぶ。浅い。止めるには足りない。


井戸の底から、湿ったものが伸びた。


古い吊り縄の端に見えた。だが、縄だけではない。井戸の底に積もった袋の繊維がほどけ、何本も撚り合わされている。水を吸った麻のような色をして、ノラの腰へ向かっていた。


「その袋を下ろせ」


声と同時に、湿った紐が腰袋へ絡んだ。


ノラは短剣で切ろうとする。ラウルの手が、その手首へ伸びる。止めるためではない。少しだけ遅らせるための動きだった。


ヨルが飛んだ。


黒い体がラウルの腕へ向かう。牙が袖を裂き、腕に届く。


ラウルの指先に黒い熱が灯った。


ノラのものと似ている。


けれど、同じだと決めるには早い。


ラウルはヨルを蹴らなかった。腕を強く振り、石の上へ払っただけだった。ヨルの体が転がる。小さな呻きが、喉の奥で止まった。


ノラの視線が、動いた。


その一瞬を、ラウルは逃さなかった。


湿った紐が腰袋を引く。


布が裂けた。


傷止めが落ちる。針袋が石の上を跳ねる。清潔布がほどけ、土に広がる。


その奥から、小さな布包みがのぞいた。


煤を吸った布。


中で、片方だけの耳飾りが薄く鳴った。


ラウルの目が変わった。


疑いではなく、確信の目だった。


「やっぱりな」


ノラは腰袋を押さえた。


ラウルが踏み込む。


「お前は、拾う側じゃない」


黒い熱が、今度は手首から指へ集まった。火ではない。闇が熱を持ったような色だった。石畳の上を影が走り、ラウルの足音が一気に近づく。


「抜く側だ」


ノラは短剣を上げる。


背後で、袋井戸が声を張った。


「縄を離せ」


男たちの手が揺れた。


ダナンの体が傾く。


ノラはラウルへ踏み込めた。踏み込めば、布包みは守れたかもしれない。けれど、背後の手が離れれば、ダナンはまた井戸の方へずれる。足の固定も、声を噛み殺した時間も、全部が崩れる。


「離すな。手だけ見てろ」


ノラは背後へ声を飛ばした。


男たちが持ち直す。


その間に、ラウルの指が布包みへ届いた。


ノラの刃が走る。ラウルの袖口が裂け、今度は血がはっきり落ちた。ラウルの顔が歪む。痛みはある。無傷で抜けるほど、楽な相手ではない。


それでも、煤釘の核はラウルの手へ移った。


布包みの中で、耳飾りが鳴った。


ラウルは核を握ったまま、距離を取った。


その指先が、動かなかった。


黒い熱を使った手が固まり、握った形のまま震えている。ラウルは舌打ちもせず、耳飾りを反対の手へ持ち替えた。肩が上下する。息が少し荒い。


強い。


だが、長くは続かない。


ノラはそれを見た。


追える。


今なら追える。


ヨルは石の上で身を起こしている。足は引きずっていない。ダナンは男たちに支えられている。ラウルは反動で、一瞬だけ遅い。


けれど、井戸の底がまた鳴った。


「軽くなった」

「もう一つ置け」

「手を空けろ」


ダナンの喉が震えた。


布を噛んだまま、目が揺れている。助かったはずの男の体が、また井戸の方へ引かれかけている。男たちの腕にも限界が来ていた。灯りが石へぶつかり、火が揺れる。


ノラはラウルを追わなかった。


追えなかったのではない。


追う先には煤釘の核がある。戻る先には、井戸へ引かれかけたダナンの息がある。今ここで落とせないのは、後者だった。


ダナンの前へ戻った。


ラウルが、それを見る。


「助ける方を選ぶのか」


ノラはダナンの肩を支えている男の手を押さえ、位置を直した。


「選ばせる場所を作ったのは、あんただ」


ラウルは笑わず、煤釘の布包みを握ったまま石垣の陰へ下がった。黒い熱の残った手は、まだ少し開きにくそうだった。


「検分役の話は、また聞く」


ノラはダナンの肩を支える手から目を離さなかった。


ラウルは石垣の陰へ消えた。歩き方は乱れていない。だが、右手だけは握った形のまま固まっている。消える前に、一度だけノラを見た。


救助屋ではないものを見る目だった。


袋井戸の底で、最後に声がした。


「手を空けろ」


ノラはダナンの口元の布を押さえた。


「まだ返すな」


ダナンは目を閉じ、うなずいた。


ヨルが足元へ戻ってくる。小さく低く鳴いた。


「クル……」


ノラは裂けた腰袋に手をやった。


けれど、煤を吸った布包みはなかった。


石垣の陰へ消える直前まで、ラウルの手に煤釘の耳飾りがあった。


ノラは散らばった布を拾わなかった。


先に、ダナンの肩を支える男たちへ言う。


「井戸から離れる。足を落とさないで」


男たちはうなずき、誰もラウルの消えた方へ走らなかった。


袋井戸は、まだ口を開けている。


ノラは裂けた腰袋から手を離し、ダナンの横についた。


空になった袋が、腰で軽く揺れた。


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