第34話 手を空けるな
袋井戸の底に足がついた瞬間、古い麻の匂いが顔の高さまで上がってきた。
水はない。
灯りを下げると、底は思ったより広かった。古い荷袋が何層にも積もり、切れた縄、湿った木箱、破れた布が、その間に埋もれている。荷を一時的に下ろしていた場所というより、置いていかれたものだけが沈んで残った場所に見えた。
空の袋のはずなのに、踏むと沈まない。
軽いものが、重い顔をしていた。
ヨルがノラの足元で鼻を低くした。袋の山へ近づきかけた時、その奥で靴の踵が木を二度叩いた。
「犬じゃなく、こっちを見ろ」
掠れた声のあと、踵がまた木を二度打った。間隔は同じで、三度目だけ痛みで遅れる。ノラが灯りを向けると、崩れた木枠の下に男がいた。ヨルは袋の山へ鼻を向けかけ、男が歯を食いしばる音に耳を返す。袋の山とノラの間へ入って、低く喉を鳴らした。
ダナン。紙にあった荷運びの男だ。三十七、八に見える。膝から下が木枠と袋の山に噛まれ、片方の靴だけが変な角度で見えていた。額には汗が浮いている。だが、意識はあった。
「救助屋だ。足を見る」
男は返事をしようとして、喉で止めた。
上からの声を聞いて、もう分かっているのだろう。ここでは、はっきり返すほど危ない。
ノラは近づき、灯りを木箱のくぼみへ噛ませた。傾いた底でも倒れず、足を抜いた瞬間にはすぐ取れる。手を空けるために預けても、袋井戸へ置き去りにはしない位置だった。
腰の袋が、木枠に触れそうになる。
ノラは体の向きを少し変えた。奥には、布に包んだ煤釘の核がある。傷止めと針袋の下に沈めてあるのに、底へ降りてからずっと、その場所だけ冷えている気がした。
袋井戸が、その一拍を拾った。
「その袋を下ろせ」
声は底から聞こえた。
怒鳴りも脅しもせず、言葉だけを取れば間違っていないところが、かえって人の判断を鈍らせた。
袋を下ろせば動きやすく、両手が空けば処置も早い。その正しさに迷ったダナンまで、底からの言葉に引かれて言った。
「邪魔なら、置けばいい」
ノラは木枠の隙間へ指を入れた。動きは止めない。
「置けないものもある」
ダナンは笑おうとして顔を歪め、形にならない笑いが喉の奥で潰れた。
「俺も、昔そう言った」
ノラは聞き返さなかった。
出血は多くないものの、足の角度が悪く、このまま無理に引けば骨だけでは済まない。抜くには、先に木枠の重みをずらす必要があった。
ダナンが自由な方の踵で、木枠の左を叩いた。
「そこを持ち上げるな。右へ押せ。荷台と同じなら、左を起こすと俺の足が潰れる」
ノラはすぐには従わず、灯りの角度を変えて木の重なりを確かめた。言葉どおり、左の下には折れた横木が噛み、右には古い袋が何枚も絡まっている。中身はほとんどない。それでも湿気を吸って固まり、足と木枠の間に食い込んでいた。
ヨルは右側の袋へ鼻を寄せて顔を背けた。ダナンの判断に危険な匂いがないことだけは分かっても、どう動かすかまでは教えない。
ダナンが、痛みを押し殺しながら言った。
「昔、一度だけ荷を置いて逃げた。中に、人がいた」
ノラは顔を上げなかった。
今ここで目を合わせれば、続きを促されたダナンは語り、その声を袋井戸に拾われる。
「その話は上で聞く。今は足を抜く」
底の袋が、ざらりと鳴った。
「また置いていけ」
ダナンの指が、ノラの渡した縄から離れかけた。
古い袋の口が足元で開き、湿った麻の中から「まだ一つ」と昔の荷頭の声がした。ダナンの親指が縄から浮く。掌の古い裂け傷が開き、麻が二節ぶん滑った。
「また、俺に残せと言うのか」
誰へ向けた声か分からないまま、握り方が浅くなる。
ノラは怒鳴らなかった。
怒鳴れば、声が増える。
「穴に言われて縄を放すな」
ダナンの目が、ゆっくりノラへ向いた。
ノラは木枠の下に絡んだ袋を指した。
「助かるために、その袋を裂いて」
ダナンの顔が苦く歪む。
「袋を捨てて逃げたら、また同じだろ」
「同じにするかどうかは、声じゃなくてあんたが決める」
袋井戸が低く鳴った。
「置けば助かる」
ノラは声の方を見なかった。
「それは運ぶ荷じゃない。あんたの足を挟んでいる袋だ。縫い目を裂けば、木枠を動かせる」
ダナンは縄を握り直した。
すぐには動けない。
痛みではない。過去の形が、手首に絡んでいる。
ダナンは木枠の軋みを二度聞き、ノラの手の位置を見た。
「次に右が沈む。俺が袋を裂く。あんたは押し返せ」
ノラの手が足元へ下がると、ダナンは舌打ちした。
「そこじゃない、右枠だ。右が沈むと言っただろ。荷場なら樽を一つ割ってるぞ」
痛みで声の端が裏返っても、叱り方だけは荷役場のままだった。ノラが右肩を木枠へ当て直すと、ダナンは絡んでいた古い袋をつかむ。
指が震え、湿った袋の口は簡単には外れない。ダナンは縫い目へ親指をねじ込み、古い糸を一本ずつ切るように引いた。木が沈み始める直前、自分で「今だ」と言い、ノラはその声に合わせて木枠を押し返した。
袋の山が沈んだ。
木枠の重みが、ほんの少しだけ変わる。足を噛んでいた角度が緩み、隙間ができた。
「また置いた」
袋井戸の声が強くなった。
ダナンの喉が動いた。返事をすれば、その声を取られる。言い訳をすれば、その言い訳を取られる。後悔を口にすれば、次からこの穴は、その後悔で誰かを呼ぶ。
「あの時は、中を確かめなかった」
それでもダナンは穴から目をそらし、ノラの袖の裂け目へ視線を止めてから、一言だけ押し出した。
「荷だと思えば、置けた。今は、自分の足が入ってると知ってる」
袋井戸が続きを欲しがるように湿った音を立てたところで、ダナンは口を閉じる。ノラが清潔布を差し出すと、彼は木枠が動く瞬間だけそれを噛んだ。痛みが抜けるのを待たず、すぐ自分で布を外し、袋の縫い目をつかむ掌へ巻きつける。
「喋らないのは俺がやる。あんたは足を頼む」
布の端が麻の裂け目へ食い込み、一度目の引きで縫い糸ごとめくれた。ダナンは血の浮いた掌で巻き直し、歯を食いしばる。口は開いたままでも、漏れたのは声にならない息だけだった。
ノラは白魔法だけを指先へ集め、黒い熱は使わなかった。力任せに木枠を割れば早くても、反動で手が鈍れば、抜けた足を支え損なう。必要なのは骨を壊さない角度と、抜けた直後の血を受ける手だった。
木片が刺さるのにも構わず隙間へ手を入れ、足首の向きを指で確かめる。白魔法で痛みと血の流れを細く抑えるあいだ、ダナンは掌へ巻いた布で袋を引き、木枠を動かせる角度を保った。ノラがそこへ肩を入れ、足を斜めに抜く。ダナンの体が跳ね、喉から息が噴いたが、言葉にはならなかった。
声を漏らさず耐えたダナンの足が抜けた瞬間、止められていた血が傷口へ広がる。ノラは手元に置いた布を当て、白魔法を重ねた。完全に止めれば後の腫れを悪くする。地上へ運ぶまで悪化しない流れに抑え、ダナンの呼吸が戻るのを確かめた。
袋井戸が囁いた。
「痛いと言え」
ダナンは掌へ巻いた布の端を歯で引いた。一度目は血で滑り、結び目が掌の中央へ戻る。麻袋の縫い糸を一本ちぎって布端へ通し、歯でさらに締める。指が曲がるのを確かめてから縄を取り、荷上げの結びを自分の腰へ回した。
「上のやつらは、三つなら分かる」
「自分で引ける?」
ダナンは答える代わりに、縄を三度引いた。一度目は弱く、二度目で呼吸を整え、三度目には上の手が同じ張りを返した。
袋井戸は、その間、ダナンの声で鳴らなかった。
ノラは割れた板と切れた縄、湿った箱を見比べ、箱の側板だけを外した。ダナンの足へ添えて布を回し、結び目は井戸壁に擦られても緩みにくい外側へ置く。捨てられた荷を、今度は人を地上へ戻す支えに変えた。
上で縄を握る男たちは、ダナンの三度を間違えなかった。二本目の縄が慎重な速さで降りてくる。穴へ返事をする代わりに、一人が自分の胴へ縄を巻き、もう一人が擦りむけた手をその上から添えた影が、灯りの揺れに映った。
ダナンを縛る時、袋井戸が上へ声を投げた。
「縄を離せ」
縄が一度、わずかに緩んだ。だが上にいる男の一人が、隣の手へ自分の手首を押しつけた。
「俺の腕ごと持て」
「さっき緩めた腕だぞ」
隣の男が噛みつくように返した。
「だから持て。二度もやらせるな」
押しつけた手首の縄擦れが開き、赤い筋が麻へにじんだ。隣はまだ何か言いたげに顎を動かしたが、その腕ごと抱え込む。二人の体重が同じ縄へ乗り、揺れが止まった。
ダナンはそれを聞いて、痛みで歪んだ口元をわずかに上げた。ノラを見て許可を待たず、自分で口を閉じると、もう一度、縄を三度引いた。
ノラが上へ合図すると、ダナンの体が少しずつ浮いた。傷ついた足が壁に触れないよう下から支え、腰袋が木枠へ引っかかるたびに自分の体を先にずらす。そのたび核のある側を壁へ向けることになり、袋の奥の冷たさはいっそうはっきりした。
見られるな。
置くな。
手を空けるな。
どの言葉も、正しい。正しい言葉ほど、体を遅らせる。
袋井戸が、ダナンの声に似せて言った。
「もういい」
ダナンは掌に巻いた布で縄をつかんだ。一つ、二つ。三つ目は掌の傷へ麻が食い込んで、途中で引きが鈍る。上の一人が早まって腰を上げ、隣の男に手首を叩かれた。
「まだ三つ目だ。勝手に上げるな」
ダナンが歯を剥き、最後まで引き切る。今度こそ二人の腰が同時に落ち、体が井戸の口へ向かって動き出した。
ダナンの体が井戸の口へ消えた。
上で人の動く音が重なった。最初に縄を緩めた男が傷ついた足を受け、隣の男が縄をほどいて肩を支える。灯口の少年はダナンの肘へ灯りを寄せ、すぐ怒鳴られた。
「足だ! そっちは俺の肘だ!」
少年が慌てて灯りを振ると、今度は炎がダナンの頬へ近づきすぎた。足を受けた男が手の甲で灯具を押し戻しながら、傷のある踵を自分の腿へ載せる。
水袋を口元へ出されても、ダナンは顔を背けた。掌の布でその男の袖をつかむ。
「俺が一度、縄を緩めた」
男が先に吐いた。
「あとで聞く。今は足を落とすな」
ダナンの指が袖の布をさらにたぐった。男は返事の代わりに、腿の上の踵を両手で包み直した。
袋井戸の底は静かになったが、それを安全のしるしとは受け取らず、ノラは残った縄をつかんで上へ合図した。
ヨルが先に壁を蹴り、縁へ上がった。すぐあと、灯口の使いの少年が石垣の方を見て声を詰まらせる。
「あの人、仲間ですか」
縄を握っていた男たちが一斉に振り向いた。古い倉の外、石垣の陰に、救助を手伝いもせず立っている人影がある。ノラが振り返る前に、少年は水袋を抱えたままダナンと影の間へ膝をずらした。小さな背中では隠しきれず、それでも怪我人の顔だけは影から見えなくなった。
その時になってヨルも耳を伏せ、影へ鼻を向けた。ノラは井戸の壁に足をかけたまま、少年の背中と、低くなったヨルの尾を続けて見た。
上ではダナンが低く呻き、掌に巻いた布で仲間の袖をつかんでいた。今、石垣の陰へ誰かが走れば救助の手が空き、袋井戸はそれを待っている。ノラは最後まで上がって井戸の縁を越え、腰袋を押さえた。煤釘の核は、まだある。




