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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第8章 空になった袋
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第34話 手を空けるな

挿絵(By みてみん)

袋井戸の底に足がついた瞬間、古い麻の匂いが顔の高さまで上がってきた。


水はない。


灯りを下げると、底は思ったより広かった。古い荷袋が何層にも積もり、切れた縄、湿った木箱、破れた布が、その間に埋もれている。荷を一時的に下ろしていた場所というより、置いていかれたものだけが沈んで残った場所に見えた。


空の袋のはずなのに、踏むと沈まない。


軽いものが、重い顔をしていた。


ヨルがノラの足元で鼻を低くした。袋の山へ近づきかけた時、その奥で靴の踵が木を二度叩いた。


「犬じゃなく、こっちを見ろ」


掠れた声のあと、踵がまた木を二度打った。間隔は同じで、三度目だけ痛みで遅れる。ノラが灯りを向けると、崩れた木枠の下に男がいた。ヨルは袋の山へ鼻を向けかけ、男が歯を食いしばる音に耳を返す。袋の山とノラの間へ入って、低く喉を鳴らした。


ダナン。紙にあった荷運びの男だ。三十七、八に見える。膝から下が木枠と袋の山に噛まれ、片方の靴だけが変な角度で見えていた。額には汗が浮いている。だが、意識はあった。


「救助屋だ。足を見る」


男は返事をしようとして、喉で止めた。


上からの声を聞いて、もう分かっているのだろう。ここでは、はっきり返すほど危ない。


ノラは近づき、灯りを木箱のくぼみへ噛ませた。傾いた底でも倒れず、足を抜いた瞬間にはすぐ取れる。手を空けるために預けても、袋井戸へ置き去りにはしない位置だった。


腰の袋が、木枠に触れそうになる。


ノラは体の向きを少し変えた。奥には、布に包んだ煤釘の核がある。傷止めと針袋の下に沈めてあるのに、底へ降りてからずっと、その場所だけ冷えている気がした。


袋井戸が、その一拍を拾った。


「その袋を下ろせ」


声は底から聞こえた。


怒鳴りも脅しもせず、言葉だけを取れば間違っていないところが、かえって人の判断を鈍らせた。


袋を下ろせば動きやすく、両手が空けば処置も早い。その正しさに迷ったダナンまで、底からの言葉に引かれて言った。


「邪魔なら、置けばいい」


ノラは木枠の隙間へ指を入れた。動きは止めない。


「置けないものもある」


ダナンは笑おうとして顔を歪め、形にならない笑いが喉の奥で潰れた。


「俺も、昔そう言った」


ノラは聞き返さなかった。


出血は多くないものの、足の角度が悪く、このまま無理に引けば骨だけでは済まない。抜くには、先に木枠の重みをずらす必要があった。


ダナンが自由な方の踵で、木枠の左を叩いた。


「そこを持ち上げるな。右へ押せ。荷台と同じなら、左を起こすと俺の足が潰れる」


ノラはすぐには従わず、灯りの角度を変えて木の重なりを確かめた。言葉どおり、左の下には折れた横木が噛み、右には古い袋が何枚も絡まっている。中身はほとんどない。それでも湿気を吸って固まり、足と木枠の間に食い込んでいた。


ヨルは右側の袋へ鼻を寄せて顔を背けた。ダナンの判断に危険な匂いがないことだけは分かっても、どう動かすかまでは教えない。


ダナンが、痛みを押し殺しながら言った。


「昔、一度だけ荷を置いて逃げた。中に、人がいた」


ノラは顔を上げなかった。


今ここで目を合わせれば、続きを促されたダナンは語り、その声を袋井戸に拾われる。


「その話は上で聞く。今は足を抜く」


底の袋が、ざらりと鳴った。


「また置いていけ」


ダナンの指が、ノラの渡した縄から離れかけた。


古い袋の口が足元で開き、湿った麻の中から「まだ一つ」と昔の荷頭の声がした。ダナンの親指が縄から浮く。掌の古い裂け傷が開き、麻が二節ぶん滑った。


「また、俺に残せと言うのか」


誰へ向けた声か分からないまま、握り方が浅くなる。


ノラは怒鳴らなかった。


怒鳴れば、声が増える。


「穴に言われて縄を放すな」


ダナンの目が、ゆっくりノラへ向いた。


ノラは木枠の下に絡んだ袋を指した。


「助かるために、その袋を裂いて」


ダナンの顔が苦く歪む。


「袋を捨てて逃げたら、また同じだろ」


「同じにするかどうかは、声じゃなくてあんたが決める」


袋井戸が低く鳴った。


「置けば助かる」


ノラは声の方を見なかった。


「それは運ぶ荷じゃない。あんたの足を挟んでいる袋だ。縫い目を裂けば、木枠を動かせる」


ダナンは縄を握り直した。


すぐには動けない。


痛みではない。過去の形が、手首に絡んでいる。


ダナンは木枠の軋みを二度聞き、ノラの手の位置を見た。


「次に右が沈む。俺が袋を裂く。あんたは押し返せ」


ノラの手が足元へ下がると、ダナンは舌打ちした。


「そこじゃない、右枠だ。右が沈むと言っただろ。荷場なら樽を一つ割ってるぞ」


痛みで声の端が裏返っても、叱り方だけは荷役場のままだった。ノラが右肩を木枠へ当て直すと、ダナンは絡んでいた古い袋をつかむ。


指が震え、湿った袋の口は簡単には外れない。ダナンは縫い目へ親指をねじ込み、古い糸を一本ずつ切るように引いた。木が沈み始める直前、自分で「今だ」と言い、ノラはその声に合わせて木枠を押し返した。


袋の山が沈んだ。


木枠の重みが、ほんの少しだけ変わる。足を噛んでいた角度が緩み、隙間ができた。


「また置いた」


袋井戸の声が強くなった。


ダナンの喉が動いた。返事をすれば、その声を取られる。言い訳をすれば、その言い訳を取られる。後悔を口にすれば、次からこの穴は、その後悔で誰かを呼ぶ。


「あの時は、中を確かめなかった」


それでもダナンは穴から目をそらし、ノラの袖の裂け目へ視線を止めてから、一言だけ押し出した。


「荷だと思えば、置けた。今は、自分の足が入ってると知ってる」


袋井戸が続きを欲しがるように湿った音を立てたところで、ダナンは口を閉じる。ノラが清潔布を差し出すと、彼は木枠が動く瞬間だけそれを噛んだ。痛みが抜けるのを待たず、すぐ自分で布を外し、袋の縫い目をつかむ掌へ巻きつける。


「喋らないのは俺がやる。あんたは足を頼む」


布の端が麻の裂け目へ食い込み、一度目の引きで縫い糸ごとめくれた。ダナンは血の浮いた掌で巻き直し、歯を食いしばる。口は開いたままでも、漏れたのは声にならない息だけだった。


ノラは白魔法だけを指先へ集め、黒い熱は使わなかった。力任せに木枠を割れば早くても、反動で手が鈍れば、抜けた足を支え損なう。必要なのは骨を壊さない角度と、抜けた直後の血を受ける手だった。


木片が刺さるのにも構わず隙間へ手を入れ、足首の向きを指で確かめる。白魔法で痛みと血の流れを細く抑えるあいだ、ダナンは掌へ巻いた布で袋を引き、木枠を動かせる角度を保った。ノラがそこへ肩を入れ、足を斜めに抜く。ダナンの体が跳ね、喉から息が噴いたが、言葉にはならなかった。


声を漏らさず耐えたダナンの足が抜けた瞬間、止められていた血が傷口へ広がる。ノラは手元に置いた布を当て、白魔法を重ねた。完全に止めれば後の腫れを悪くする。地上へ運ぶまで悪化しない流れに抑え、ダナンの呼吸が戻るのを確かめた。


袋井戸が囁いた。


「痛いと言え」


ダナンは掌へ巻いた布の端を歯で引いた。一度目は血で滑り、結び目が掌の中央へ戻る。麻袋の縫い糸を一本ちぎって布端へ通し、歯でさらに締める。指が曲がるのを確かめてから縄を取り、荷上げの結びを自分の腰へ回した。


「上のやつらは、三つなら分かる」


「自分で引ける?」


ダナンは答える代わりに、縄を三度引いた。一度目は弱く、二度目で呼吸を整え、三度目には上の手が同じ張りを返した。


袋井戸は、その間、ダナンの声で鳴らなかった。


ノラは割れた板と切れた縄、湿った箱を見比べ、箱の側板だけを外した。ダナンの足へ添えて布を回し、結び目は井戸壁に擦られても緩みにくい外側へ置く。捨てられた荷を、今度は人を地上へ戻す支えに変えた。


上で縄を握る男たちは、ダナンの三度を間違えなかった。二本目の縄が慎重な速さで降りてくる。穴へ返事をする代わりに、一人が自分の胴へ縄を巻き、もう一人が擦りむけた手をその上から添えた影が、灯りの揺れに映った。


ダナンを縛る時、袋井戸が上へ声を投げた。


「縄を離せ」


縄が一度、わずかに緩んだ。だが上にいる男の一人が、隣の手へ自分の手首を押しつけた。


「俺の腕ごと持て」


「さっき緩めた腕だぞ」


隣の男が噛みつくように返した。


「だから持て。二度もやらせるな」


押しつけた手首の縄擦れが開き、赤い筋が麻へにじんだ。隣はまだ何か言いたげに顎を動かしたが、その腕ごと抱え込む。二人の体重が同じ縄へ乗り、揺れが止まった。


ダナンはそれを聞いて、痛みで歪んだ口元をわずかに上げた。ノラを見て許可を待たず、自分で口を閉じると、もう一度、縄を三度引いた。


ノラが上へ合図すると、ダナンの体が少しずつ浮いた。傷ついた足が壁に触れないよう下から支え、腰袋が木枠へ引っかかるたびに自分の体を先にずらす。そのたび核のある側を壁へ向けることになり、袋の奥の冷たさはいっそうはっきりした。


見られるな。


置くな。


手を空けるな。


どの言葉も、正しい。正しい言葉ほど、体を遅らせる。


袋井戸が、ダナンの声に似せて言った。


「もういい」


ダナンは掌に巻いた布で縄をつかんだ。一つ、二つ。三つ目は掌の傷へ麻が食い込んで、途中で引きが鈍る。上の一人が早まって腰を上げ、隣の男に手首を叩かれた。


「まだ三つ目だ。勝手に上げるな」


ダナンが歯を剥き、最後まで引き切る。今度こそ二人の腰が同時に落ち、体が井戸の口へ向かって動き出した。


ダナンの体が井戸の口へ消えた。


上で人の動く音が重なった。最初に縄を緩めた男が傷ついた足を受け、隣の男が縄をほどいて肩を支える。灯口の少年はダナンの肘へ灯りを寄せ、すぐ怒鳴られた。


「足だ! そっちは俺の肘だ!」


少年が慌てて灯りを振ると、今度は炎がダナンの頬へ近づきすぎた。足を受けた男が手の甲で灯具を押し戻しながら、傷のある踵を自分の腿へ載せる。


水袋を口元へ出されても、ダナンは顔を背けた。掌の布でその男の袖をつかむ。


「俺が一度、縄を緩めた」


男が先に吐いた。


「あとで聞く。今は足を落とすな」


ダナンの指が袖の布をさらにたぐった。男は返事の代わりに、腿の上の踵を両手で包み直した。


袋井戸の底は静かになったが、それを安全のしるしとは受け取らず、ノラは残った縄をつかんで上へ合図した。


ヨルが先に壁を蹴り、縁へ上がった。すぐあと、灯口の使いの少年が石垣の方を見て声を詰まらせる。


「あの人、仲間ですか」


縄を握っていた男たちが一斉に振り向いた。古い倉の外、石垣の陰に、救助を手伝いもせず立っている人影がある。ノラが振り返る前に、少年は水袋を抱えたままダナンと影の間へ膝をずらした。小さな背中では隠しきれず、それでも怪我人の顔だけは影から見えなくなった。


その時になってヨルも耳を伏せ、影へ鼻を向けた。ノラは井戸の壁に足をかけたまま、少年の背中と、低くなったヨルの尾を続けて見た。


上ではダナンが低く呻き、掌に巻いた布で仲間の袖をつかんでいた。今、石垣の陰へ誰かが走れば救助の手が空き、袋井戸はそれを待っている。ノラは最後まで上がって井戸の縁を越え、腰袋を押さえた。煤釘の核は、まだある。

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