第33話 袋井戸の声
縄を握っていた男が、駆け込んできたノラ・ヴェイルを見上げた。
「灯口の人か」
「救助屋」
男はそれで十分だと思ったのか、すぐに井戸へ目を戻した。手の甲は白くなっている。縄を握りしめすぎているのだ。
底から、袋の擦れる音がした。
乾いた麻袋を床に引きずるような音。水音はない。風が抜ける音もない。なのに、穴の中だけが湿っている。
声がした。
「置いていけ」
男たちの肩が一斉に動いた。
続いて、同じ底から別の声。
「重いだろ」
灯りを持つ男の手が下がった。
ノラが手元を見ると、男本人も気づかぬうちに灯りの先が井戸の縁へ寄っていた。このまま落とせば、底の人間は暗闇に残される。
「持って」
ノラが言うと、男ははっとして灯りを上げた。
「すまない」
「謝る前に持って」
男はうなずいた。灯りの柄を両手で握り直す。
また声がした。
「手を空けろ」
今度は、井戸の底からだけではなかった。割れた石蓋の隙間、倉の壁、縄の擦れる横木、その全部から同じ言葉が薄く重なった。
ヨルが井戸の縁へ鼻を近づけ、低く喉を鳴らす。
「クル……」
嫌がっている。けれど、逃げる声ではない。見つけた時の声だった。
ノラは井戸の縁に膝をついたが、灯りを向けても古い袋の影が重なり、底までは見通せない。その影の奥で、人の体だけがわずかに動いた。
「聞こえるなら、手を動かして」
すぐに返事はなく、その代わりに底の古い袋が一枚だけずれたあと、遅れてかすれた声がした。
「……いる」
短い。弱い。言葉の前に痛みが挟まっていた。
ノラは上にいる男たちへ向いた。
「痛い声は遅れる。はっきりした方を信じるな」
縄を握る男は強くうなずいた。四十手前ほどに見える太い手首と荷を扱う腕つきから、ノラはダナンの仲間かもしれないと見た。
底から、声が上がった。
「腕が痛いだろ」
男の指が揺れた。
「離せ」
縄が、ほんの少し滑った。
底で、ダナンが短く呻いた。
穴の中の袋が崩れる。石に体が当たった音がした。縄を握る男の顔から色が抜ける。
ノラは男の手首を押さえた。
「離すな」
「でも、下から」
「本人なら、まだ縄にすがる。離せと言う余裕はない。上の手を揺らすための声だ」
男の喉が動いた。
縄はまだ男の手にあり、完全に離したわけではない。それでも、ほんの少し緩んだだけで底の人間は動き、挟まれた足の傷が開くには十分だった。
男は自分の手を見た。
「分かった」
男は縄を巻き直した。青ざめたまま、もう一度握る。
「もう離さない。今、落としかけたのは俺だ」
決意とは裏腹に男の声は震えていた。ノラが手を放しても男は縄を離さず、それを試すように底からすぐ声がした。
「置いていけ」
男は歯を食いしばった。
「言わせておけ。俺は離さない」
周りの男たちの空気が少し変わった。怖さが消えたわけではない。けれど、今の縄だけは誰も見捨てていない。
ノラは短く言った。
「それでいい」
灯口の使いの少年が、井戸の縁から少し離れて立っている。膝の土が乾き始めていた。彼も声を聞いている。けれど、泥のついた両手を握り合わせ、口を閉じていた。
ノラが井戸の周りを見回すと、古い横木から擦り切れた縄が垂れ、割れた板蓋と麻袋の屑が石の縁へ残っていた。荷を下ろすための造りは、人の体を支えることなど考えていない。その場所へいまダナンが落ちたからこそ、上の手が一度でも迷えば傷へ直結する。
袋井戸は、荷を欲しがっているのではない。
助ける手を空けさせようとしている。
縄を握る手。灯りを持つ手。怪我人を支える手。手がふさがっていれば、人は助けにくい。だから、声は正しい顔をして近づいてくる。
重いだろ。
置いていけ。
手を空けろ。
その言葉だけなら、救助の現場でも出る。邪魔な荷を下ろせ。灯りを渡せ。両手を使え。どれも間違いではない。
間違いではない言葉ほど、手を迷わせる。
ノラは腰の縄を外して自分の体へ回し、降下中の体重を受ける結び目へ締め直した。灯りは底のダナンを見失わない位置へ、短剣は縄に引っかからず抜ける位置へずらし、どちらの手も救助に使えるようにした。
その時、腰袋の奥が冷え、布と傷止めと針袋の下にある片方だけの煤釘の核を意識させた。ノラの指が一度だけ腰袋へ近づいた、その迷いへ底から声がした。
「軽い方がいい」
ノラの手が止まる。
袋井戸が核を知っているわけではない。そう考えるには早い。ただ、手が向いた場所を見ている。迷った瞬間に、そこへ言葉を当ててくる。
ヨルが低く鳴いた。
ノラは腰袋から手を離した。
「見てるね」
ヨルは井戸の縁を嗅ぎ、耳を伏せた。
上にいた男の一人が言った。
「灰鷹を待った方がいいんじゃないか。担架も、人手も、支えも要る」
「来るまで縄を持てる?」とノラが聞いても、男は返せなかった。
男たちの腕は強い。荷を扱ってきた手だ。だが、腕の強さと、声に耐える強さは別だった。
井戸の底で、ダナンが小さく呻いた。
その声は、さっきよりさらに奥へ沈んでいた。
ダナンの呻きがさらに奥へ沈む前に、ノラは待つ危険を選択肢から外した。
「私が降りる。上は縄を握ったまま、灯りを落とさない。声が何を言っても、手で返事をしない」
縄を握る男が顔を上げた。
「下で、あんたが離せって言ったら」
「私がそう言ったら、穴だと思って」
「本当にあんただったら?」
ノラはヨルを見て、声を奪われても残る合図を選んだ。
「ヨルの短い合図か、私が縄を二度引く合図以外で動かない。私の声だけなら動かない」
ヨルが井戸の縁に前足をかけ、短く鳴いた。
「クルッ」
男は、怖さに手を揺らされた時の目印として覚えるように、ヨルの口元を見た。
「今のだな」
「今の」
ノラが体重をかけて縄を確かめると、結び目は動かず、上の男たちも同じ張りを返した。声ではなく、互いの手でようやく一つの救助になった。
底から、また声が上がる。
「手を空けろ」
今度は、ダナンの声に似せていた。
優しくもない。怒ってもいない。ただ、そうすれば助かるとでも言うような、平らな声だった。
ノラは返さなかった。
井戸の縁へ足をかける。
湿った麻と黴びた穀物、長く閉じ込められていた息が、古い袋の匂いとなって井戸から上がってくる。その下にだけ、血の匂いがわずかに混じっていた。
ダナンは生きている。
まだ、井戸のものではない。
ノラは片手で縄に体重を預け、もう片方の灯りを先に底へ下げた。腰袋そのものは軽い。それでも核を意識した瞬間、そちらを庇うぶんだけ腰の向きが変わり、ダナンへ伸ばす手が遅れかける。
置いては来られなかった。だが、置けないものを抱えた事情など知らずに、人は落ちる。ノラは腰を井戸の中心へ戻し、まず底にいる命へ両手と体の正面を向けた。
ヨルが先に縁を越え、石の内側へ身を滑らせた。小さな爪が、井戸の壁を掴む。黒い尾が灯りの影を切った。
上で、縄を握る男がもう一度言った。
「離さない」
自分に言い聞かせる男の声へノラがうなずくと、底から袋の擦れる音がした。
「軽くなれ」
ノラはその声を聞き流した。
手を空けないまま、袋井戸の底へ降りた。




