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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第8章 空になった袋
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第33話 袋井戸の声

挿絵(By みてみん)

縄を握っていた男が、駆け込んできたノラ・ヴェイルを見上げた。


「灯口の人か」


「救助屋」


男はそれで十分だと思ったのか、すぐに井戸へ目を戻した。手の甲は白くなっている。縄を握りしめすぎているのだ。


底から、袋の擦れる音がした。


乾いた麻袋を床に引きずるような音。水音はない。風が抜ける音もない。なのに、穴の中だけが湿っている。


声がした。


「置いていけ」


男たちの肩が一斉に動いた。


続いて、同じ底から別の声。


「重いだろ」


灯りを持つ男の手が下がった。


ノラが手元を見ると、男本人も気づかぬうちに灯りの先が井戸の縁へ寄っていた。このまま落とせば、底の人間は暗闇に残される。


「持って」


ノラが言うと、男ははっとして灯りを上げた。


「すまない」


「謝る前に持って」


男はうなずいた。灯りの柄を両手で握り直す。


また声がした。


「手を空けろ」


今度は、井戸の底からだけではなかった。割れた石蓋の隙間、倉の壁、縄の擦れる横木、その全部から同じ言葉が薄く重なった。


ヨルが井戸の縁へ鼻を近づけ、低く喉を鳴らす。


「クル……」


嫌がっている。けれど、逃げる声ではない。見つけた時の声だった。


ノラは井戸の縁に膝をついたが、灯りを向けても古い袋の影が重なり、底までは見通せない。その影の奥で、人の体だけがわずかに動いた。


「聞こえるなら、手を動かして」


すぐに返事はなく、その代わりに底の古い袋が一枚だけずれたあと、遅れてかすれた声がした。


「……いる」


短い。弱い。言葉の前に痛みが挟まっていた。


ノラは上にいる男たちへ向いた。


「痛い声は遅れる。はっきりした方を信じるな」


縄を握る男は強くうなずいた。四十手前ほどに見える太い手首と荷を扱う腕つきから、ノラはダナンの仲間かもしれないと見た。


底から、声が上がった。


「腕が痛いだろ」


男の指が揺れた。


「離せ」


縄が、ほんの少し滑った。


底で、ダナンが短く呻いた。


穴の中の袋が崩れる。石に体が当たった音がした。縄を握る男の顔から色が抜ける。


ノラは男の手首を押さえた。


「離すな」


「でも、下から」


「本人なら、まだ縄にすがる。離せと言う余裕はない。上の手を揺らすための声だ」


男の喉が動いた。


縄はまだ男の手にあり、完全に離したわけではない。それでも、ほんの少し緩んだだけで底の人間は動き、挟まれた足の傷が開くには十分だった。


男は自分の手を見た。


「分かった」


男は縄を巻き直した。青ざめたまま、もう一度握る。


「もう離さない。今、落としかけたのは俺だ」


隣で灯りを持っていた男が、片手を縄へ移した。


「一人で持つな。あいつに怒られるぞ」


「上がってきたら、怒らせる」


二人は笑えなかった。それでも、底にいるダナンを荷の重さだけで呼ばず、怒る顔まで知っている仲間の言葉が、縄を握る手の間へ戻った。


決意とは裏腹に男の声は震えていた。ノラが手を放しても男は縄を離さず、それを試すように底からすぐ声がした。


「置いていけ」


男は歯を食いしばった。


「言わせておけ。俺は離さない」


周りの男たちの空気が少し変わった。怖さが消えたわけではない。けれど、今の縄だけは誰も見捨てていない。


ノラは縄を握る男たちに聞こえる低さで言った。


「それでいい」


灯口の使いの少年が、井戸の縁から少し離れて立っている。膝の土が乾き始めていた。彼も声を聞いている。けれど、泥のついた両手を握り合わせ、口を閉じていた。


ノラが井戸の周りを見回すと、古い横木から擦り切れた縄が垂れ、割れた板蓋と麻袋の屑が石の縁へ残っていた。荷を下ろすための造りは、人の体を支えることなど考えていない。その場所へいまダナンが落ちたからこそ、上の手が一度でも迷えば傷へ直結する。


袋井戸は、荷を欲しがっているのではない。


助ける手を空けさせようとしている。


縄を握る手。灯りを持つ手。怪我人を支える手。手が塞がっていれば、人は助けにくい。だから、声は正しい顔をして近づいてくる。


重いだろ。


置いていけ。


手を空けろ。


その言葉だけなら、救助の現場でも出る。邪魔な荷を下ろせ。灯りを渡せ。両手を使え。どれも間違いではない。


間違いではない言葉ほど、手を迷わせる。


ノラは腰の縄を外して自分の体へ回し、降下中の体重を受ける結び目へ締め直した。灯りは底のダナンを見失わない位置へ、短剣は縄に引っかからず抜ける位置へずらし、どちらの手も救助に使えるようにした。


その時、腰袋の奥が冷え、布と傷止めと針袋の下にある片方だけの煤釘の核を意識させた。ノラの指が一度だけ腰袋へ近づいた、その迷いへ底から声がした。


「軽い方がいい」


腰袋へ近づいた指が、布一枚ぶん手前で止まった。


袋井戸が核を知っているわけではない。そう考えるには早い。ただ、手が向いた場所を見ている。迷った瞬間に、そこへ言葉を当ててくる。


ヨルが低く鳴いた。


ノラは腰袋から手を離した。


「見てるね」


ヨルは井戸の縁を嗅ぎ、耳を伏せた。


上にいた男の一人が言った。


「灰鷹を待った方がいいんじゃないか。担架も、人手も、支えも要る」


「来るまで縄を持てる?」とノラが聞いても、男は返せなかった。


男たちの腕は強い。荷を扱ってきた手だ。だが、腕の強さと、声に耐える強さは別だった。


井戸の底で、ダナンが小さく呻いた。


その声は、さっきよりさらに奥へ沈んでいた。


ダナンの呻きがさらに奥へ沈む前に、ノラは待つ危険を選択肢から外した。


「私が降りる。上は縄を握ったまま、灯りを落とさない。声が何を言っても、手で返事をしない」


縄を握る男が顔を上げた。


「下で、あんたが離せって言ったら」


「私がそう言ったら、穴だと思って」


「本当にあんただったら?」


ノラはヨルを見て、声を奪われても残る合図を選んだ。


「ヨルの短い合図か、私が縄を二度引く合図以外で動かない。私の声だけなら動かない」


ヨルが井戸の縁に前足をかけ、短く鳴いた。


「クルッ」


男はヨルの口元を見たあと、首を横へ振った。


「二度は駄目だ。荷を止める時の合図と同じだ」


男は縄から片手を離し、節の太い三本の指をノラの目の前へ出した。親指の付け根には、同じ太さの縄で何年も擦れた白い跡がある。


「引き上げる時は三度。下のダナンも知ってる。穴があんたの声を真似ても、俺たちの癖までは知らないはずだ」


ノラは縄を三度引いた。底からはまだ返らない。それでも上の男たちは同じ三度の張りを返す。三度目だけわずかに長い。その癖を聞いた男のこわばった口元が動き、今度は隣の仲間も同じ長さで縄を引き直した。


底から、また声が上がる。


「手を空けろ」


今度は、ダナンの声に似せていた。


優しくもない。怒ってもいない。ただ、そうすれば助かるとでも言うような、平らな声だった。


底からの声には応じず、ノラは井戸の縁へ足をかけた。


湿った麻と黴びた穀物、長く閉じ込められていた息が、古い袋の匂いとなって井戸から上がってくる。その下にだけ、血の匂いがわずかに混じっていた。


ダナンは生きている。


まだ、井戸のものではない。


ノラは片手で縄に体重を預け、もう片方の灯りを先に底へ下げた。腰袋そのものは軽い。それでも核を意識した瞬間、そちらを庇うぶんだけ腰の向きが変わり、ダナンへ伸ばす手が遅れかける。


置いては来られなかった。だが、置けないものを抱えた事情など知らずに、人は落ちる。ノラは腰を井戸の中心へ戻し、まず底にいる命へ両手と体の正面を向けた。


ヨルが先に縁を越え、石の内側へ身を滑らせた。小さな爪が、井戸の壁をつかむ。黒い尾が灯りの影を切った。


上で、縄を握る男がもう一度言った。


「離さない」


縄を握る男は、隣の男の擦りむけた指へ自分の手を重ねた。力任せに締めるのではなく、痛みで開きかける手を下から支える握り方だった。一人で怖さに勝てなくても、二人なら縄の張りを保てる。


自分に言い聞かせる男の声へノラがうなずくと、底から袋の擦れる音がした。


「軽くなれ」


ノラはその声を聞き流した。


手を空けないまま、袋井戸の底へ降りた。



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