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迷宮閉葬―救助屋ノラと声を喰う迷宮―  作者: Aramaki_mai
第7章 死んだはずの男
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第32話 置いていけないもの

挿絵(By みてみん)


小屋の戸を閉めても外の気配はすぐには消えず、ヨルも戸口から離れなかった。


黒い鼻先を隙間へ向け、耳を伏せている。唸りはしない。噛みつきに行く構えでもない。ただ、そこにいたものを、生きている客として扱えずにいる。


ミミは机の横で、畳みかけていた布を両手に持ったまま立っていた。


「さっきの人、帰ったんですか」


ノラ・ヴェイルは答える前に戸の外を見たが、もう姿はない。「見えない」が、今言える一番近い答えだった。


「見えなくなった」


ミミは眉を寄せた。


「帰った、じゃないんですね」


「そう言える相手か、まだ分からない」


ミミは怖さをこらえるように布を抱え直したが、ただ怯えて戸から離れる顔ではない。何をすればノラを助けられるのか、その手順を探す顔だった。


ノラは戸の掛け金を見た。


何度も直した古い金具でも、内側から落とせば外から簡単には開かない。ただし戸を塞いでも声までは防げず、窓の隙間や煙出しの穴から、人の声なら入り込む。


迷宮は、そこから人を動かす。


「さっきの続き。夜は、声だけで開けない」


ミミは窓際に置く布を見た。


「ヨルがいないなら、ノラさんの声でも開けません」


「そう」


「ノラさんが怪我をして、ヨルが外に出られない時の決まりも、今作りますか」


ノラは言葉を止めた。


答えを用意していたわけではない。戸を閉めろ、と言うことはできる。声に返事をするな、と教えることもできる。けれど、怪我をした自分が外で呼んだ時、ミミが開けられなければ、それも危ない。


ミミは、ノラの沈黙を見て、自分の方が言いすぎたと思ったのか、布を握り直した。


「困らせたいんじゃないです。でも、間違えたら、たぶんそこを使われます」


「そうだね」


ノラは棚の横へ行き、細く裂いた清潔布を一つ取った。


「窓から布を落として。私なら、そこへ血止めを結ぶ」


「血止め」


「私が本当に外にいるなら、持ってる」


ミミは布を受け取って窓の近くへ置いた。白い布ではなく、端に薄い青い糸が入っていて、包帯と間違えにくい。開けるためではなく、開けないまま外のノラを確かめるための決まりだった。


「声じゃなくて、布ですね」


「そう」


「ノラさんの声で、早く開けてって言われても?」


「開けない」


ミミは唇を引き結んだ。


その顔には、嫌だ、という気持ちが出ていた。ノラが外で困っているかもしれないのに、戸を開けない。その手順を覚えるのは、子どもに任せるには重い。


それでも、ミミは布を窓枠の内側に挟んだ。


「分かりました。声だけなら、ノラさんでも開けません。ヨルがいて、布に血止めが結んであったら、そこから考えます」


「考えるんだ」


「すぐ開けたら、今の話をした意味がありません」


その言い方がいかにもミミらしくて、ノラは息を吐いた。笑ったわけではないが、戸の外から持ち帰った冷たいものが一息ぶん体から離れた。


「助かる」


ミミは顔を上げた。


「助手ですから」


そう言ってから、すぐに視線を落とした。得意げにしたいのに、今はそういう場面ではないと自分で分かったらしい。


ヨルが戸口で短く鳴いた。


「クル」


まだ離れない。外の気配が消えたかどうかではなく、この小屋そのものを嗅ぎ直しているようだった。


ノラは棚の下へ膝をついた。


小さな木箱がある。


外から薬箱に見せるため、上には古い薬包みと使わない小瓶を乗せてある。けれど底をずらせば、隠していた薄い箱がもう一つ現れる。


ノラはそれを机へ置いた。


ミミは見なかった。


ミミはさっきまで畳んでいた手を別の布へ移し、必要もないのに端を揃え、皺を伸ばしていた。見ていないふりではなく、手を動かすことで、ノラが見せたくないものを見ないよう手伝っている。


ノラは蓋に並んだ煤釘、灰喉、赤錆の文字を追った。そこに呼び石と浅縁の名はない。どちらも救助を優先し、核には触れずに戻った場所だ。閉じた証として残った名と、人を助けただけで危険を残した名を、同じ箱へ書き込むことはできなかった。


それでも呼び石では、ラウルという男にノラの方が見られていた。レドがそう呼んだ相手だ。


テオは、その男が手を見ると言った。人を守る手も、物を隠す手も、見分けると。


ノラは蓋を開けた。


布に包まれた核が並んでいる。


どれも宝には見えず、売って金になる品でもない。けれど、どれも迷宮が人の声や未練を食って育てたものだ。棚へ置くだけで済ませるには危険すぎた。


灰鷹へ渡せば箱はノラを縛る証拠になり、灯口へ預ければマルヤの机が狙われる。だからと小屋へ残せばミミが戸の前に立たされ、全部を持てば歩くたびに守る場所を読まれる。


ノラは箱の中へ伸ばした手を一度止めた。正しい置き場所など最初から用意されていなかったから、自分で抱え、売らず、飾らず、名前を書いて箱へしまってきた。それで足りると思ったのではなく、他に預けられる手がなかっただけだ。


今は、それすら見られる。


ノラは一つだけ、煤釘の包みを選んだ。最初に閉じた穴の核であり、トマが見て、サイラス側も片方だけの耳飾りという形まで近づいている。箱ごと見つかった時、もっとも言い逃れのできない一つだった。


布包みは軽いのに、持ち上げた指へ残った。ノラはそれを腰袋の奥へ沈め、傷止めの包みを重ねた上に、替え芯と針袋を戻す。完全に隠せるとは思わない。それでも、救助具を取り出す普段の手つきを変えず、核へ触れようとする手だけを一拍遅らせる並びにした。


ミミが、畳んだ布を棚へ置いた。


「見てません」


「うん」


「でも、重いものを持った顔をしてます」


ノラは蓋を閉めた。


「顔に出てた?」


「少し。ヨルも見てます」


ヨルは戸口から離れ、机の足元まで来ていた。煤釘の包みが入った腰袋へ鼻を向け、嫌そうに小さく喉を鳴らす。


「これは小屋に置かない」


ノラが言うと、ミミは理由を聞かなかった。


「他のは」


「今日は動かさない。全部動かせば、動かした跡も残る」


「じゃあ、私は箱を見ないで、戸を見る方ですね」


「お願い」


ミミは箱へ背を向け、戸の方へ向き直った。


その時、戸が叩かれた。


一度。


間を置いて、二度。


ミミの体が反射で動きかけた。だが、すぐに止まる。自分の手を胸の前で押さえ、ノラを見る。


ヨルが先に戸口へ戻った。


鼻を隙間へ近づける。耳は伏せていない。低く鳴ったが、さっきのテオへ向けた声とは違っていた。


ノラは戸へ近づいた。


「誰」


外から、若い声がした。


「灯口です。マルヤさんの使いで来ました」


ノラがミミを見ると、ミミは掛け金には触らず、窓際の布を確認していた。自分の決めた役目を忘れていない。


ノラが戸を少しだけ開けると、外にいたのは灯口の使いの少年だった。肩で息をし、片手に紙を握り、もう片方の袖には泥がついている。転んだのか、走ってきたのか、膝にも土が跳ねていた。


「袋井戸跡で、人が落ちました」


ノラは紙を受け取らず、まず少年の顔を見た。


「いつ」


「少し前です。荷を運んでいた男が、古い石蓋を踏み抜いて。仲間が縄を下ろしたけど、底から声がして、誰も近づけなくなりました」


「声」


少年は唾を飲んだ。


「落ちた人の名前を呼んでるそうです。本人の声じゃありません。でも、下から、返事をしろって」


ヨルが低く鳴いても、ミミの手は窓枠の布から離れなかった。その緊張を前に、少年は急かす代わりに紙を差し出した。


「マルヤさんが、ノラさんを呼べと。灰鷹へも走らせています。でも、待っていたら、落ちた人が返事をするかもしれないからって」


ノラは紙を受け取った。


袋井戸跡。

荷運び、ダナン一名落下。

底より呼び声あり。

返答させるな。


マルヤの字ではない。急いで写されたものだ。けれど、最後の一文だけは、強く書かれていた。


返答させるな。


ノラは灯口の使いへ、紙の裏を向けた。


「マルヤに。引き上げる手を三人、担架を一つ。灰鷹が来るまで、穴へ名前を呼ばない人を外に置いて」


少年は復唱し、荒い息を一つ整えた。


「道の途中で、別の使いに伝えます。俺は袋井戸まで案内します」


煤釘のことは書かなかった。書けば、マルヤの手にも守るものを増やす。そう判断したのは、今夜もノラ一人だった。


ノラは紙を畳んだ。


ミミが聞いた。


「救助ですか」


ノラは腰の縄を取った。


「落ちた人がいるなら、救助」


ミミはそれ以上聞かなかった。


代わりに、戸の内側の掛け金へ手を伸ばす。ノラが出た後、すぐに落とせる位置へ立った。


「戸は開けません。声だけなら、ノラさんでも開けません」


「それでいい」


「帰ってくる時は、布です」


「血止めを結ぶ」


「忘れたら、開けません」


ノラが横目で見ると、ミミは冗談の顔をしていなかった。本気で言っている。だからこそ、ノラも軽く返さなかった。


「忘れない」


ミミはそこでようやく、窓枠の布から手を離した。任された場所を、自分で決めた場所として守る顔だった。


ヨルが先に外へ出ると、道を示そうとした灯口の使いより早く、湿った石と古井戸の泥、割れた石蓋の粉へ鼻を向けた。その奥に、下から上がる呼び声の気配が混じっている。


ノラは灯りを取り、水袋と縄、短剣、傷止め、清潔布、小さな火薬袋を身につけ、声を塞ぐ布も二枚入れた。救助のための重さを一つずつ確かめた手が、腰袋の奥の煤釘へ伸びかける。そこで止めた。触れて意識すれば、手つきが核を守る形になり、ラウルに読ませる目印になる。


「ノラさん」


ミミが呼んだ。


ノラは振り返らないまま答える。


「何」


「帰ってきてからでいいので、布の合図、もう一つ作りましょう。怪我してない時の分も」


「考えておいて」


「はい。助手なので」


掛け金が鳴った。


ノラが戸を出ると、ミミは内側からすぐに落とした。金具の音は小さい。それでも夜の小屋にはよく響いた。


守るために閉じた音だった。


ノラはその音を背中で聞いた。


背中で掛け金を聞くと、小屋に残すものが一度に浮かんだ。ミミと箱、薬棚、ヨルの噛み跡がある椅子、洗って干した包帯、窓枠の青糸の布。それらへ戻るために、ノラは縄と灯りと短剣、そして置き場所を失った煤釘の核を持っていく。道の先では、落ちた人間の名を呼ぶ声が、その帰路まで奪おうとしていた。


灯口の使いが走り出した。足がもつれかけている。ノラはその横へ並び、速度を落とさせる。


「転んだら増える」


少年は苦しそうに息を吐いた。


「でも、急がないと」


「急ぐ。倒れない速さで」


ヨルが前を行く。


黒い背中が夜の道に沈み、角だけが灯りを受けて少し光る。広場の方ではなく、古い倉庫裏へ続く道へ曲がった。そこは昔、井戸と水路が多かった場所だ。使われなくなった穴は石で塞がれ、上に荷置き場を作ったと聞いたことがある。


塞いだはずの場所。


閉じたことにした場所。


そういう場所ほど、声は残る。


ノラは腰の重さを忘れようとした。


忘れられる重さではなかった。


煤釘の布包みは、傷止めと替え芯の奥で静かに沈んでいる。小さな耳飾り一つ。銅貨にもならないようなもの。そのために穴は人を呼び、そのために人は死に、そのためにノラは今、小屋へ置くこともできず、持って歩くことも危うい道を走っている。


守る場所を覚える――テオの警告が、腰の重さに重なった。


今あるのは、袋井戸跡で落ちた人間と、そこから上がる呼び声だけだ。


道の先で、人のざわめきが聞こえた。


「返事をするな!」


「縄を押さえろ、引くな!」


「下から何か言ってる!」


灯りが揺れている。


石蓋の割れた穴の周りに、人が集まっている。近づきたいのに近づけない者たちの輪だ。誰かが縄を持ち、誰かが耳を塞ぎ、誰かが穴へ向かって泣きそうに名を呼び返しかけている。


ヨルが耳を伏せたまま人の輪の外側へ回るのを追い、ノラも足を止めなかった。腰袋の奥では煤釘の布包みが小さく重かったが、それを置ける場所も、今夜ここへ置いていける命もなかった。


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