第32話 置いていけないもの
小屋の戸を閉めても外の気配はすぐには消えず、ヨルはまた戸口へ寄った。
黒い鼻先を隙間へ向け、耳を伏せている。唸りはしない。噛みつきに行く構えでもない。ただ、そこにいたものを、生きている客として扱えずにいる。
ミミは机の横で、畳みかけていた布を両手に持ったまま立っていた。
「さっきの人、帰ったんですか」
ノラ・ヴェイルは答える前に戸の外を見たが、もう姿はない。「見えない」が、今言える一番近い答えだった。
「見えなくなった」
ミミは眉を寄せた。
「帰った、じゃないんですね」
「そう言える相手か、まだ分からない」
ミミは怖さをこらえるように布を抱え直したが、ただ怯えて戸から離れる顔ではない。何をすればノラを助けられるのか、その手順を探す顔だった。
ノラは戸の掛け金を見た。
何度も直した古い金具でも、内側から落とせば外から簡単には開かない。ただし戸を塞いでも声までは防げず、窓の隙間や煙出しの穴から、人の声なら入り込む。
迷宮は、そこから人を動かす。
「さっきの続き。夜は、声だけで開けない」
ミミは窓際に置く布を見た。
「ヨルがいないなら、ノラさんの声でも開けません」
「そう」
「ノラさんが怪我をして、ヨルも動けなくなったら、何を見て確かめるんですか」
「その時は開けて」と言いかけ、ノラは口を閉じた。さっきは自分の声でも開けるなと言ったばかりだ。
「どっちですか」
ミミは責める声で聞いた。戸の外が危険でも、怪我をしたノラを閉め出せば死なせる。その二つを子ども一人に見分けさせようとしていることだけが、答えより先に露わになった。
ミミは、ノラの沈黙を見て、自分の方が言いすぎたと思ったのか、布を握り直した。
「困らせたいんじゃないです。でも、間違えたら、たぶんそこを使われます」
「そうだね」
ノラは棚の横へ行き、細く裂いた清潔布を一つ取った。
「窓から布を落として。私なら、そこへ血止めを結ぶ」
「血止め」
「私が本当に外にいるなら、持ってる」
ミミは最初、寝台脇の白い包帯を取りかけた。ノラが首を振り、端に薄い青糸の入った布を渡す。窓台へ置くと薬瓶の陰へ隠れ、今度は瓶を机へ移した。空いた場所へ青糸を上にして置き、窓を閉めたまま指が届くか二度試した。
「声じゃなくて、布ですね」
「そう」
「ノラさんの声で、早く開けてって言われても?」
「開けない」
ミミは唇を引き結んだ。
その顔には、嫌だ、という気持ちが出ていた。ノラが外で困っているかもしれないのに、戸を開けない。その手順を覚えるのは、子どもに任せるには重い。
それでも、ミミは布を窓枠の内側に挟んだ。
「分かりました。声だけなら、ノラさんでも開けません。ヨルがいなくても、布に血止めが結んであったら、そこから考えます」
「考えるんだ」
「すぐ開けたら、今の話をした意味がありません」
その言い方がいかにもミミらしくて、ノラは息を吐いた。笑ったわけではないが、戸の外から持ち帰った冷たいものが一息ぶん体から離れた。
「助かる」
ミミは顔を上げた。
「助手ですから」
ヨルが短く鼻を鳴らした。
「契約じゃありません。私がそうしたいんです」
ミミはヨルへ言い返したつもりらしかったが、最後の方はノラへ向いていた。
そう言ってから、すぐに視線を落とした。得意げにしたいのに、今はそういう場面ではないと自分で分かったらしい。
ヨルが戸口で短く鳴いた。
「クル」
まだ離れない。外の気配が消えたかどうかではなく、この小屋そのものを嗅ぎ直しているようだった。
ノラは棚の下へ膝をついた。
小さな木箱がある。
外から薬箱に見せるため、上には古い薬包みと使わない小瓶を乗せてある。けれど底をずらせば、隠していた薄い箱がもう一つ現れる。
ノラはそれを机へ置いた。
ミミは見なかった。
ミミは別の布へ手を移し、端を揃えようとして肘で薬包みを落とした。拾おうと屈んだ目の先に、机へ出された薄い箱の側面が入る。すぐ顔をそむけたが、今度は布の角が合わない。何度畳み直しても一方がはみ出し、とうとう「ここで見ないふりをする方が難しいです」と小さく言った。
ノラは蓋に並んだ煤釘、灰喉、赤錆の文字を追った。そこに呼び石と浅縁の名はない。どちらも救助を優先し、核には触れずに戻った場所だ。閉じた証として残った名と、人を助けただけで危険を残した名を、同じ箱へ書き込むことはできなかった。
それでも呼び石では、ラウルという男にノラの方が見られていた。レドがそう呼んだ相手だ。
テオは、その男が手を見ると言った。人を守る手も、物を隠す手も、見分けると。
ノラは蓋を開けた。
布に包まれた核が並んでいる。
どれも宝には見えず、売って金になる品でもない。けれど、どれも迷宮が人の声や未練を食って育てたものだ。棚へ置くだけで済ませるには危険すぎた。
割ってしまうか。火にくべれば、持ち歩く形はなくなるか。ノラは包みの上へ指を置いた。煤釘の小石は初めから割れていたし、灰喉の飾り石にもひびがあった。それでも、あの壁は人の声で呼んでいた。今は布の外へ声が出ていない。壊した後も同じように黙らせておけるのか、残ったものを捨てていいのかは、まだ分からなかった。
箱を渡さず、扱い方だけマルヤに相談する手もある。そこまで考えて、ノラは蓋の文字へ目を戻した。何を持っているのか伏せたままでは、相手も考えようがない。煤釘、灰喉、赤錆。三つの名と、それをここへ運んだ自分の手を話す言葉が続かず、ノラは唇を閉じた。
灰鷹へ渡せば箱はノラを縛る証拠になり、灯口へ預ければマルヤの机が狙われる。だからと小屋へ残せばミミが戸の前に立たされ、全部を持てば歩くたびに守る場所を読まれる。
ノラは箱を棚の奥へ戻そうとした。だが、さっきミミが動かした薬箱が邪魔をし、薄い蓋の角が木へ当たる。床下へ入れれば湿り、腰へ全部つければ傷止めが取れない。マルヤの机と灰鷹の保管庫を思い浮かべるたび、そこへ人の顔まで浮かんだ。箱は行き先を失ったまま机の中央に残った。
今は、それすら見られる。
ノラの指が一つの包みで止まった。煤を吸った布には、片方だけの耳飾りの輪が薄く浮いている。トマはその形を見た。サイラス側も片耳の古い飾りまで言葉で追ってきた。残りの包みは布越しには形が出ない。煤釘の輪郭だけは、蓋を閉めたところでノラの頭から消えそうになかった。
ノラは煤釘の包みだけを持ち上げた。
布包みは軽いのに、持ち上げた指へ残った。ノラはそれを腰袋の奥へ沈め、傷止めの包みを重ねた上に、替え芯と針袋を戻す。完全に隠せるとは思わない。それでも、救助具を取り出す普段の手つきを変えず、核へ触れようとする手だけを一拍遅らせる並びにした。
ミミが、畳んだ布を棚へ置いた。
「見てません」
「うん」
「でも、重いものを持った顔をしてます」
ノラは蓋を閉めた。
「顔に出てた?」
「少し。ヨルも見てます」
ヨルは戸口から離れ、机の足元まで来ていた。煤釘の包みが入った腰袋へ鼻を向け、嫌そうに小さく喉を鳴らす。
「これは小屋に置かない」
ノラが言うと、ミミは理由を聞かなかった。
「他のは」
「今日は動かさない。全部動かせば、動かした跡も残る」
「じゃあ、私は箱を見ないで、戸を見る方ですね」
「お願い」
ミミは箱へ背を向け、戸の方へ向き直った。
その時、戸が叩かれた。
一度。
間を置いて、二度。
ミミの体が反射で動きかけた。だが、すぐに止まる。自分の手を胸の前で押さえ、ノラを見る。
ヨルが先に戸口へ戻った。
鼻を隙間へ近づける。耳は伏せていない。低く鳴ったが、さっきのテオへ向けた声とは違っていた。
ノラは戸へ近づいた。
「誰」
外から、若い声がした。
「灯口です。マルヤさんの使いで来ました」
ノラが掛け金へ手を出すと、ミミの腕が先に戸との間へ入った。ミミは窓際の青糸布を指し、ノラの手を戸から退かせる。さっき合図を曖昧にした本人へ、今度は間違わせないという顔だった。
ノラは窓から灯口の使いの少年の姿を確かめてから、戸を少しだけ開けた。少年は肩で息をし、片手に紙を握り、もう片方の袖には泥がついている。転んだのか、走ってきたのか、膝にも土が跳ねていた。
「袋井戸跡で、人が落ちました」
ノラは紙を受け取らず、まず少年の顔を見た。
「いつ」
「少し前です。荷を運んでいた男が、古い石蓋を踏み抜いて。仲間が縄を下ろしたけど、底から声がして、誰も近づけなくなりました」
「声」
少年は唾を飲んだ。
「落ちた人の名前を呼んでるそうです。本人の声じゃありません。でも、下から、返事をしろって」
ヨルが低く鳴いても、ミミの手は窓枠の布から離れなかった。その緊張を前に、少年は急かす代わりに紙を差し出した。
「マルヤさんが、ノラさんを呼べと。灰鷹へも走らせています。でも、待っていたら、落ちた人が返事をするかもしれないからって」
ノラは紙を受け取った。
袋井戸跡。
荷運び、ダナン一名落下。
底より呼び声あり。
返答させるな。
マルヤの字ではない。急いで写されたものだ。けれど、最後の一文だけは、強く書かれていた。
返答させるな。
ノラは灯口の使いへ、紙の裏を向けた。
「マルヤに。引き上げる手を三人、担架を一つ。灰鷹が来るまで、穴へ名前を呼ばない人を外に置いて」
少年は復唱し、荒い息を一つ整えた。
「道の途中で、別の使いに伝えます。俺は袋井戸まで案内します」
煤釘のことは書かなかった。書けば、マルヤの手にも守るものを増やす。そう判断したのは、今夜もノラ一人だった。
ノラは紙を畳んだ。
ミミが聞いた。
「救助ですか」
ノラは腰の縄を取った。
「落ちた人がいるなら、救助」
ミミはそれ以上聞かなかった。
代わりに、戸の内側の掛け金へ手を伸ばす。ノラが出た後、すぐに落とせる位置へ立った。
「戸は開けません。声だけなら、ノラさんでも開けません」
「それでいい」
「帰ってくる時は、布です」
「血止めを結ぶ」
「忘れたら、開けません」
ノラが横目で見ると、ミミは冗談の顔をしていなかった。本気で言っている。だからこそ、ノラも軽く返さなかった。
「忘れない」
ミミはそこでようやく、窓枠の布から手を離した。指に残った青い糸の跡を親指でこすり、今度は寝台の脇へ布を置く。ノラが帰るまで、何度でもそこへ手を伸ばせる置き方だった。
灯口の使いは先に外へ出ると、来た道とは違う角を指した。
「こっちの方が石段が少ないです。さっきは近道をして転びました」
少年は戸口で近道のある方へ一度体を向け、乾いた膝が曲がったところで顔をしかめた。「そっちは?」とノラが聞くと、「転ぶ道です」と苛立った声で返し、石段の少ない道へ指を向け直す。ヨルは敷居を越えて少年の靴についた古井戸の泥と割れた石蓋の粉を嗅ぎ、ノラの横へ戻った。少年は戸枠へ片手をつき、走り出したい足をその場で踏み替えながら、支度を待った。
ノラは灯りを取り、水袋と縄、短剣、傷止め、清潔布、小さな火薬袋を身につけ、声を塞ぐ布も二枚入れた。救助のための重さを一つずつ確かめた手が、腰袋の奥の煤釘へ伸びかける。そこで止めた。触れて意識すれば、手つきが核を守る形になり、ラウルに読ませる目印になる。
「ノラさん」
ミミが呼んだ。
ノラは振り返らないまま答える。
「何」
「帰ってきてからでいいので、布の合図、もう一つ作りましょう。怪我してない時の分も」
「考えておいて」
「はい。助手なので」
ノラが戸を出ると、ミミは内側からすぐに掛け金を落とした。金具の音は小さい。それでも夜の小屋にはよく響いた。
守るために閉じた音だった。
その音を背中で聞き、ノラは小屋に残すものを思い浮かべた。ミミと箱、薬棚、ヨルの噛み跡がある椅子、洗って干した包帯、寝台脇の青糸の布。それらへ戻るために、ノラは縄と灯りと短剣、そして置き場所を失った煤釘の核を持っていく。道の先では、落ちた人間の名を呼ぶ声が、その帰路まで奪おうとしていた。
灯口の使いが走り出した。足がもつれかけている。ノラはその横へ並び、速度を落とさせる。
「転んだら、怪我人が増える」
少年は苦しそうに息を吐いた。
「でも、急がないと」
「急ぐ。倒れない速さで」
灯口の使いが前を行く。
少年は広場へ抜ける角へ入りかけた。そこへ荷車が二台並び、御者が「どけ」と鞭の柄を振る。避けようとしたノラの膝が石の溝へ落ち、少年は「こんな時に二台も」と怒鳴り返した。御者が荷台から降りてくるのを見ると、舌打ちしてノラの肘を引き、古い倉庫裏へ折れる。
「荷車を避けます。少し遠いけど、こっちは走れます」
ヨルの黒い背は少年とノラの間にいた。角だけが灯りを受けて少し光る。そこは昔、井戸と水路が多かった場所だ。使われなくなった穴は石で塞がれ、上に荷置き場を作ったと聞いたことがある。
塞いだはずの場所。
閉じたことにした場所。
そういう場所ほど、声は残る。
ノラは腰の重さを忘れようとした。
忘れられる重さではなかった。
煤釘の布包みは、傷止めと替え芯の奥で静かに沈んでいる。小さな耳飾り一つ。銅貨にもならないようなもの。そのために穴は人を呼び、そのために人は死に、そのためにノラは今、小屋へ置くこともできず、持って歩くことも危うい道を走っている。
守る場所を覚える――テオの警告が、腰の重さに重なった。
今あるのは、袋井戸跡で落ちた人間と、そこから上がる呼び声だけだ。
道の先で、人のざわめきが聞こえた。
「返事をするな!」
「縄を押さえろ、引くな!」
「下から何か言ってる!」
灯りが揺れている。
石蓋の割れた穴の周りに、人が集まっている。近づきたいのに近づけない者たちの輪だ。誰かが縄を持ち、誰かが耳を塞ぎ、誰かが穴へ向かって泣きそうに名を呼び返しかけている。
灯口の使いは集まった人の背へ何度も行く手を塞がれ、「救助屋を連れてきた」と声を張っても振り向いてもらえなかった。人の肘の下へ泥だらけの膝を入れ、最初につかんだ袖は縄を握る男ではなく、泣いて名を呼びかけていた女のものだった。「違う」と振り払われ、頬へ肘まで当たる。それでも輪の内側へ潜り、今度は自分の背で人を押し分け、ノラ一人が通れる隙間を作った。
その隙間をヨルが耳を伏せたまま抜け、ノラも足を止めなかった。腰袋の奥では煤釘の布包みが小さく重かったが、それを置ける場所も、今夜ここへ置いていける命もなかった。




